高秀美『踊りの場』三一書房
個人史を超えたひとりの声
もう数十年まえだが、朝鮮語の勉強を始めてほどなく知った在日韓国人の友人がいて、結構親しくなった。韓国釜山から、関釜連絡船で下関に降りた帰りの道中に彼の実家を訪ねた。普段は母親一人で住んでいるようだが、夏休みで息子が帰っているはずだった。
その晩、二階の部屋で布団を並べて寝ていると、
「ミツオ!! なんやこれ」という叫び声が階下から聞こえた。友人は「おかん地震だ、たいしたことない」と、うっとうしそうに叫び返した。
食事のときなども「ミツオ」と呼んでいたのだけれど、とっさの場合もミツオなのだった。
『踊りの場』を読んで、そんなことを思い出した。
母の妹であるマサコ叔母さんがアパートの七階から、
「ヒデミのおかあーさーん!」と、この本の著者高秀美の母に向かって叫ぶ声が聞こえた。マサコ叔母さんは高秀美が「スミ」と名乗るようになってからも「ヒデミ」と呼んでいた。
高秀美は大学に進学してから「コウスミ」を名乗るようになった。その前は日本名の「高本秀美」であり、朝鮮語では「コウヒデミ」だと思っていた。
在日二世の両親は「本当の名前」について無関心だったと、高秀美は少し慨嘆気味に回想する。そして高校生の彼女に自身の名前の朝鮮語読みを教えてくれたのは、日本人の同級生だった。
コウスミと名乗ることによって「ほんとうの自分」を取り戻す端緒についたけれども、母語が日本語で朝鮮語の読み書きができない自分には「取り戻した」ものがないことに気づく。日本語日本名が強制された一世たちとは違った。
〈「高本秀美」という日本人を装ってきた私が、今度は「高秀美」という朝鮮人を装っている。〉
留学同(在日本朝鮮人留学生同盟)の九州での一ヶ月間講習に参加した高秀美は、朝鮮人の遺骨を納めた納骨堂のある寺で、強制連行の歴史を知り故郷に帰れない朝鮮人の遺骨を見たとき、「帰りたい」という声を聞いた。その場が原点となった。
『踊りの場』は、朝鮮問題研究会発行の同人誌『海峡』に連載されたエッセイを編集したものだ。1985年の13号から2024年の31号掲載のものまで長きに渡っている。最初の章に登場した2歳になる息子も、あとがきでは40歳を超えたと書かれた。40年たてば社会の状況や空気も変わるし、著者の立ち位置も変化する。その変化をそのまま受け入れて表出している。著者の言葉を借りれば、痛みを覚える記憶への思いが綴られた。
「朝鮮人が何かしでかさないか」という視線にさらされた絶望。我が子にヨンチョルという本名を名乗らせる決意。北朝鮮に「帰国」した従姉妹のヒサコのこと。意地悪な上級生と思っていたH君が同胞だったこと。
高秀美の二人の祖母は済州島出身だった。1948年のいわゆる四・三事件より以前に渡日している。義母は「従軍慰安婦」にされる直前に逃げてきたと語った。
一世、二世たちの声は記録されなければならない。高秀美は編集者だ。三一書房での仕事のほかに、在日一世、二世の声を集めた集英社新書の『在日一世の記憶』『在日二世の記憶』の出版に携わっている。 けれども、記録できたものは一面であり一部でしかないと知っている。〈父には聞き書きということで以前何度か聞いてもきたが、本人は私がまとめた文章とは異なる「風景」を見ていたのかもしれないと思うことがある。〉と書いている。
『踊りの場』は個人の声だが、多様で複雑な個性の集合体としての在日朝鮮人の声と捉えることもできる。
SNSではアジア人憎悪を煽って広告収入を増やす新手の商売が流行している。選挙活動を騙った金儲けも排外主義を利用している。短小軽薄なポピュリズム言説の対極にある地味な出版だが、意味ある出版だ。
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