フォト
無料ブログはココログ
2026年2月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

『在日朝鮮人文学 反定立の文学を越えて』(新幹社) 

Hyo01『在日朝鮮人文学
 反定立の文学を越えて

                                    新幹社 1500円+税
 
 *お近くの書店の他、Yahoo!ショッピング、 amazon、楽天など
  でも取り扱っていますが、
    お急ぎのご注文は、新幹社:TEL03-6256-9255へ
  

 


『在日朝鮮人文学 反定立の文学を越えて』所収論考 初出一覧 

錆びた洗面器から文学は生まれた 『ほるもん文化』7号(1997年2月)
「在日朝鮮人文学」の変容とは何か 『國文學』2009年2月号(第54巻2号)
「民族エゴイズムのしっぽ」を断ちきって 『新日本文学』2001年5月号
在日朝鮮人文学史を根本から見直す、脱植民化の実践  「愚銀のブログ」2016年1月
転換期の作家・李良枝  『神奈川大学評論』47号 2004年3月
金重明『幻の大国手』再読  「愚銀のブログ」2016年8月
国家主義史観を打破する──金重明『小説日清戦争』 『図書新聞』2019年2月23日号
「蔭の棲みか」は何を描いたか  『朝鮮新報』13443号 2000年4月19日
「在日」の記憶を葬ってはならない  『民族時報』第1118号 2007年7月24日
父親は死刑囚 黄英治『あの壁まで』 「愚銀のブログ」2016年8月
黄英治『前夜』──絶望的状況下、在日朝鮮人は実存する 『神奈川大学評論』82号 2015年11月
忘却に対抗する記憶──黄英治『こわい、こわい』  『図書新聞』2019年6月1日
我が内なる憎悪と対決せよ──深沢潮『ひとかどの父へ』  「愚銀のブログ」2015年5月
繊細で壮絶な抵抗──崔実「ジニのパズル」  「愚銀のブログ」2016年5月
ヤン ヨンヒ『朝鮮大学校物語』 「愚銀のブログ」2018年5月
目は海の青に染まり、胃はサザエで満ちる──『済州島で暮らせば』 「愚銀のブログ」2018年5月
〈私〉の物語から始まる同時代への批判 『オルタ』2000年12月号
人民の自由は地上にあるのか?──JR上野駅公園口 「愚銀のブログ」2014年6月
『貧乏の神様』を読んで『仮面の国』を再読する 「愚銀のブログ」2015年4月
柳美里文学の旋回─孤独から連帯へ『人生にはやらなくていいことがある』 「愚銀のブログ」2017年1月
金泰生と在日朝鮮人文学の戦後 『さまざまな戦後』[第一集] 1995年6月
鄭承博と金泰生 『〈在日〉文学全集』第8巻 解説 2006年6月
虚無と対峙して書く──金石範論序説 『社会文学』第26号 2007年6月
在日の実存を済州島に結ぶ  『神奈川大学評論』83号 2016年4月
「泥酔の四十二階段」の問題 『同行者大勢』11号 2015年6月
戦い続けなければ「民主主義」は奪われる──金石範『過去からの行進』  「愚銀のブログ」2012年4月
畏怖する文学──金石範「地の底から」 「愚銀のブログ」2014年1月
闘う老作家の生きる意欲を見た──金石範「終わっていなかった生」 「愚銀のブログ」2015年12月
作家精神の習作期を問う──金石範「消された孤独」 「愚銀のブログ」2017年9月
痛哭して壇君の後裔に祈る──尹在賢『凍土の青春』 「愚銀のブログ」2015年8月
朝鮮学徒志願兵の抗日闘争──尹在賢『ある独立運動家の祖国』 「愚銀のブログ」2015年8月
「学徒兵世代」の描いた朝鮮民族の傷痕──麗羅『山河哀号」 「愚銀のブログ」2017年2月
日本プロレタリアートは連帯していたか  『新日本文学』2001年9月



佐川亜紀さんのHPでご紹介頂いています。


2026年2月 8日 (日)

金泰生生誕100年記念の集い

作家金泰生生誕100年記念の集い―自主講座・埼玉文学学校開校40周年

2026年3月27日午後1時30より
浦和コミュニティーセンター 第15集会室 (浦和パルコ9F)

ダウンロード - e98791e6b3b0e7949fe7949fe8aa95100e5b9b4.pdf

 

2025年12月16日 (火)

チョン・ジア『資本主義の敵』/橋本智保訳

チョン・ジア/橋本智保訳『資本主義の敵』 新泉社

正しさを押しつけないで、むしろ助けられる

Photo_20251216104901
 チョン・ジアの『資本主義の敵』を読んで、短い秋に久々に会った学生時代の友人を連想した。

 65歳の定年まで一生懸命に働いたので今後一切働かないし社会貢献しない宣言をして、好きだった車の運転も妻さんの送り迎えとお使い以外はせず、ウヰスキー1本を2日で空ける生活が続いているそうだ。酒は飲み過ぎだろうと思う。
『資本主義の敵』は、『歳月』『父の革命日誌』に続くチョン・ジアの邦訳3作目で、いずれも橋本智保の翻訳による短編集だ。チョン・ジアはパルチザンの娘だ。両親は南朝鮮労働党の活動家で祖国統一と社会主義社会を建設を夢見て、山岳地帯を根城に武装闘争をしたパルチザンだった。
 しかし、表題作「資本主義の敵」は社会主義革命家を描いたものではない。資本主義的価値観に翻弄されない、作者の友人と家族を描いたものだ。作者チョン・ジア自身が登場するのでエッセイのようでもあり、私小説的でもある。
 作家の友人ヒョンナムは〈死ぬほどやりたいことも、死んでもやりたくないことも〉ない。ヒョンナムの夫は有名大学を卒業したのに低賃金の労働者で、へとへとになって帰ってくる。そして毎晩『資本論』を読んでいる。長男の将来の夢は「ヤクルトおばさん」になることだと言う(次男もいて4人家族だ)。この家族には欲望がない。チョン・ジアは彼女とその家族を「自閉家族」と呼ぶ。
 食べない、買わない、かかわりたくない、邪魔されたくない、学校に行くとストレスがたまるので不登校になる。のほほんと生きているから自殺願望もない。作者は読者に説く。〈自殺も欲望なのだと。挫折した欲望が自殺衝動を呼び起こすのだと。〉欲望がなければ自殺の衝動も起こらない。
 自閉家族は学ぼうとしないし努力しない。欲望がない分、慣れ親しんだものに対して愛着が強い。それに対してパルチザンの娘チョン・ジアは〈なりたいものや買いたいものや、やりたいことがいっぱいある、欲望まみれの資本主義的な人間〉なのだった。
 チョン・ジアは心のどこかでヒョンナムをバカにしながら、なぜか一家に代わって車の運転をしたり、肉を買って行ってバーベキューをやったりする。ヒョンナムの夫はろくに火も熾せない。しかしチョン・ジアの方が「自閉家族」に精神的に依存しているように感じさせられる。エンパワーメントされているようなものだ。相互依存だ。
 この傾向は「文学博士チョン・ジアの家」におけるチョン・ジアと近隣の農家などの隣人との関係においても見られる。困ったことがあると日ごろ下に見ている近隣の住民たちに助けを求めるのだ。村人たちから見れば文学博士が居るおかげで村に取材チームが来たりして胸を張れる。文学博士は農産物を貰ったり、自宅の畑の草むしりをしてもらえる。
「文学博士チョン・ジアの家」では、老いた母の住む田舎に居を移して非常勤講師をして生きる自身を自虐的に描いて笑わせるが、実際の作家も、智異山麓の求礼に住み、半農反作家の生活を送っているようだ。智異山は作家の両親が立て籠もってパルチザン活動展開したところだ。
 こんな小説ばかりではない。収録された短編は多様で、滑稽で笑えたり沈痛で厭世的だったりする。諧謔は作家自身が自分を卑下しているようにも読めるし、ものすごく社会を風刺しているようにも見える。
 他に、かつてパルチザンだった老女の記憶を辿った「黒い部屋」は理想に生きた人間の不条理を臆面も無く表している。
 記憶を失った人の一日を描いた「存在の証明」や、拾われた雌犬の視線を描いた「アハ、月」などは、これまでのチョン・ジア作品のなかでは異色に感じだ。
 一貫性のない文体は迷走なのか、実験なのか判断できない。ただ諧謔の内に厭世観がいくらか漂っているように見受けられる。正しさを追求しない自己のまま考え続けていく境地に至ったと考えるのはうがち過ぎだろか。小川公代風にたとえるとネガティブ・ケイパビリティの実践なんじゃなかろうか? あるいは、作家は自身を育んだものを達観できずに拘泥し続けることに疲れている時期の執筆だったのかも知れない。
 『資本主義の敵』は、「訳者あとがき」によると時期的には先行翻訳2冊の中間に位置するとのことだ。チョン・ジアは揺れていて揺れたままでいることを選んでいるのだろうか。ひょっとすると、この小説を書いた時点でチョン・ジアは既に「正義の倫理」から脱出して「ケアの倫理」に辿り着いていたんじゃないかと思う。
 それにしても「作者あとがき」がねえ、そりゃそうだけど.....
 さて冒頭の友人だが、ボケるのが気にかかるのか、中学受験程度の算数問題を解いていてこっちにも出してくる。ちんぷんかんぷんだ。過飲酒が算数を考える程度で相殺されるとは思わないが、鴉の勝手でしょうか。

2025年11月26日 (水)

玩月洞の女たち

図書新聞 2025年7月12日

チョン・キョンスク『玩月洞(ワノルドン)の女たち―韓国の性売買サバイバーとともに歩んだ女性連帯の記録』中野宣子訳 金富子監修 現代人文社

性売買女性たちと支援運動運動の事実

20250712  韓国で性売買防止法が施行されたあと、テレビ画面にマスクに帽子で顔を隠した女性たちが座り込んだ抗議行動の様子が映ったのを覚えている。「売春婦」の示威に違和感を持った視聴者も少なくなかったろう。なかには彼女たちは自分の好きで性を売っているんだと曲解する者もいたに違いない。
 性売買防止法は、性売買を女性に対する暴力と位置づけ、被害者女性の人権を保護、性売買斡旋の負の連鎖、需要を断つことを目的とした立法だったが、性暴力被害女性たちの生活保障は不十分で、加害者である業者の取り締まりは緩かった。
 性売買防止法施行によって警察が取り締まりを強化した結果、収入の無くなったオンニ(ここでは性売買女性の呼称)たちは生存権を保障するように要求する集会を続けた。彼女たちは自らを「集結地女性」と呼び、前払金放棄、債務の無効と性労働者たちの福祉と転業自立を求めた。
 性売買被害女性たちの声は歪んで報道されたのだった。そんな基本的な事実さえ、この本を読むまで知らなかった。
 チョン・キョンスクは大学院で女性学について学び、性売買の問題を考えるようになり、「女性文化人権センター」創立メンバーとして活動。性売買女性の相談を受けるようになり、法執行者たちの無知と偏見、低い人権意識と闘わなければならなくなる。
 二〇〇二年当時、釜山には性売買女性支援団体がなかった。そこでチョン・キョンスクら活動家たちが集まって、性売買女性を性産業の暴力から救い、社会の構成員として生きられるように行動しようと、「活かす/助ける」「生活する」という意味を含む「サルリム」という名称をつけて性売買被害者相談所を作って玩月洞(ワノルドン)で活動した。
 玩月洞という地名は正式なものではない。「玩」は弄ぶ、「月」は女性を象徴するところから来た通称だ。玩月洞は、朝鮮半島で最初の日本式遊郭があったところで、植民地時代には「緑町遊郭」と呼ばれていた。植民地解放後に玩月洞と名前を変え、性売買業態が引き継がれた。一九八〇年前後には「東洋最大の私娼街」と言われ、日本人男性による「キーセン買春」が問題になった。
 二〇〇〇年代には八十余りの店に九百人以上の女性がいた。多くが二十代で前払金という借金で売られてきた女性たちだ。
 性売買女性たちは、一つの店で短くて一日か二日、長くても数カ月で全国津々浦々に売買されて行く。一年で数十カ所を経験することになり、家族とは連絡を絶ったままになっていることが多い。
 オンニたちに支払われる給与からは、前払金、遅刻費、欠勤費、クリーニング費、掃除費等々が差し引かれ、借金はむしろ増大し「前借」をしなければならない構造になっていた。
 前払金は法律上無効と決められているが、性売買を前提とした前払金と立証するの困難だった。警官は不平等が当たり前の環境で、それを自覚できないまま既存の社会秩序の維持に躍起になった。そのため、人権活動家たちは時には警察の協力を仰ぎながら、別の時には警察と対峙して闘った。
 サルリムはあらゆる手段でオンニたちと繋がりを求め、呼ばれれば夜中でも出かけた。オンニの話には朝まで耳を貸し、時には喧嘩したり酒を飲んで酔っ払いながら関係を結んでいった。
 サルリムと関係を持ったオンニたちが店から脱出していくと、店主たちの暴力的な妨害が酷くなった。活動家たちは疲弊しながらも闘い続けた。
 サルリムは二〇〇四年一月、釜山でシェルターであるシムトを開院した。九月には性売買防止法が施行された。
 しかし性売買女性は行為者として処罰されるのを恐れ、店主や買春男性を訴えることを躊躇った。またオンニたちは性売買店から脱出できても、若い年齢で売られてきてこの社会だけで生きてきたため行く当てがない。オンニたちはバスの乗り方ひとつ分からなかったのだ。
 二〇〇六年、オンニたちの生きてきた生を文章にした『あんたたちは春を買っているけど、私たちは冬を売っている』を出版。二〇〇七年にはドキュメンタリー『オンニ』を制作、釜山国際映画祭でANDファンド賞を受賞した。
 女性運動は二〇二二年三月に性売買処罰法改正連帯を結成、すべての性売買女性の非犯罪化を求め、性売買女性処罰条項の削除と性売買の需要を断つための処罰法改正運動を行っている。
 振り返れば日本における性売買の実態も変わらない。ミソジニーを煽りながら女性を売り物にして収益を得る構造は確固として存在し、支援団体の闘いは絶え間ない。虐待や性搾取の被害少女らを支援する一般社団法人「Colabo(コラボ)」は常時攻撃されている。根強いミソジニー(女性嫌悪)を背景にした攻撃が利益を生み、その儲けで女性支援団体を攻撃している。
 性売買被害者を犯罪者として取り締まる方法では、買春やミソジニー犯罪は解決されない、と知るべきだ。

 

2025年9月26日 (金)

鄭承博さん『松葉売り』出版記念会へのメッセージ

1920年代、朝鮮の記憶を韓国に帰す

――9月27日 鄭承博さん『松葉売り』出版記念会へのメッセージ

Photo_20250926204001  鄭承博さんの小説『松葉売り』が韓国で発売されたと聞き嬉しいと同時に意外にも思いました。なぜなら『松葉売り』がよく売れたという話は聞かないからです。しかし『松葉売り』は重要な作品です。

 鄭承博さんは9歳で単身日本に渡航し、叔父を頼って1933年8月に和歌山県田辺市に到着しました。

 渡日前、朝鮮で過ごした少年期を描いた小説集が『松葉売り』です。朝鮮での少年期を描いた在日朝鮮人文学はあまりありません。金泰生の『旅人伝説』などに書いた短編があるくらいでしょうか。『松葉売り』を読むと、1919年の三・一運動後の朝鮮の田舎の暮らしが見えてきます。歴史家の書く論文では見えにくい一人ひとりの顔が見えてきます。

 鄭承博さんが生まれたのは、韓国慶尚北道安東郡臥龍面、朝鮮半島を南北に流れる洛東江上流の村です。家族は自給自足に近い山村生活を送っていたそうです。

 鄭承博さんが生まれた頃はそんな山奥までも日本官憲の強い支配下にありました。臥龍面に移る前の先祖伝来の田地田畑は没収されていました。

 鄭承博さんは1923年9月生まれです。ちなみに金泰生さんは1924年、金石範さんは1925年です。ほぼ同世代といっても三人三様です。

 少年鄭承博はと呼ばれる塾で千字文と漢字などを習っていましたが、朝鮮では日本語の公用語化や、朝鮮民族の白衣を禁止する色衣運動などの日韓同化政策が進みます。

 『松葉売り』にはこの時期の生活が描かれています。

 農作業や母親が綿を打ち布を織って家族の布団や衣類を自家生産するような生活のようす、蚕を飼って絹を織り木綿も紡ぐから村に機織機のない家はなかったと描いています。屑米や粟、高梁、芋などなんでも発酵させてどぶろくを造ったり、おじいさんは煙草を畑の隅に植えて自分の嗜む分をまかなっていて、逞しく裕福な生活でした。渡日後の鄭承博さんの生活強さは幼児期の体験から来ているのだなあと思います。

 こうした自給自足に近い田舎の生活も、日本という資本主義支配によって破壊されていきます。

 酒は密造酒と言われて摘発され、家族の着物用の布を織る機織機は壊され、布団に入れるために栽培した綿は軍用に徴収されました。

 鄭承博さんは山に入って松葉や枯れ枝を拾ってきて町に売り歩いて現金収入を得てきたので日本語は必須でした。日本資本主義によって貧しくなった朝鮮の少年は日本語を学び、豊かさを求め日本へ旅立ちました。

 『松葉売り』の韓国語訳発行は鄭承博さん幼少期の記憶を韓国に帰す運動です。日本より一歩先を行くデジタル社会韓国の人々がこの小説をどう読んでくれるのか。郷愁だけではなく、あるべき暮らしが見えてくると良いのですが。韓国読者の反応が楽しみです。

 10月には金泰生さんの本が2冊復刊します。金石範さんは「最後の小説」を書いているそうです。この機会に鄭承博文学が読まれるようになると嬉しいです。

林浩治「在日朝鮮人作家列伝」04   鄭承博(チョン・スンバク)(その1)|編集工房けいこう舎マガジン


2025年9月 2日 (火)

金泰生『私の日本地図』『旅人伝説』復刊

Photo_20250902195802 金泰生の『私の日本地図』と『旅人伝説』が復刊されます。
 「日本人ファースト」が叫ばれ、外国人差別が叫ばれるおぞましい今日の日本に、紛れもない在日一世朝鮮人作家金泰生の文学には存在意義
があります。
 金泰生は一九三〇年五歳の夏、母と別れ済州島から大阪に渡って来た日本国籍の朝鮮人少年でした。
 戦後、金泰生は肺結核のため八年にわたる療養生活を続け、右肺葉切除、肋骨八本を失いました。この経験は後の小説「爬虫類のいる風景」などに反映されました。死に直面した金泰生にとって人間の生死は民族を越えています。
 金泰生を世に知らしめたのは、一九七二年『人間として』一〇号に発表した「骨片」でした。憎むべき父の足跡を追い父の死を確認して自己凝視に至ったのです。
 死を見つめることによって、時代を見つめてきた作家にとって、自己とは父の骨片のように小さく軽いものであり、また日本社会は在日朝鮮人を閉じ込める「湯呑茶碗ほどの粗末な木箱」程の骨箱にすぎませんでした。
 死者の息づきは「心臓の鼓動にあわせて微かに動」く。金泰生文学は作家の生によって動く死者への追悼になっていきました。
 金泰生は大鉈を振りかぶらず、正義を語らず、出会った人々を忘れないために淡淡と描いていきました。金泰生文学は敵を叩くのではなく、優しく受け入れるケアに似ています。
Photo_20250902195801  生前金泰生は、飲み屋へと繋がる階段を上がるさいに「背中を押してくれ」と言ったものです。片肺の作家はゆっくりと歩き、正義を振りかざさないケア小説家でした。

予約注文お願いします。


 私の日本地図 

 旅人(ナグネ)伝説 







 

2025年6月22日 (日)

キム・ユギョン『青い落ち葉』

「脱北女性」という特殊な立場の描写に普遍的な価値が窺える

キム・ユギョン『青い落ち葉』松田由紀・芳賀恵訳 北海道新聞社

Photo_20250622221101  作者はいわゆる「脱北者」で北朝鮮でも「朝鮮作家同盟」に所属するプロの作家だったが、脱北して匿名で小説を書いている。
 脱北作家の作品と言えば、政治的メッセージ小説と思われがちだが、『青い落ち葉』所収の作品群は人と人の営む生活、感情のユレを描いていて好ましい。メッセージでもスローガンでもなく紛れもなく文学作品だ。
 集録された短編の多くは、脱北女性たちが韓国社会で味わう悲哀を巧妙なタッチで描いたものだが、北朝鮮社会と無関係に描かれたわけではない。
 「自由人」「チョン先生、ソーリー」「青い落ち葉」「チャン・チェンの妻」「あの日々」「ご飯」は韓国が舞台で、「平壌からの客」や「将軍を愛した男」は北朝鮮を舞台としている。「赤い烙印」の舞台は中国だ。
 冒頭の「平壌からの客」は、平壌から400キロ以上離れた山間の農場で働く農夫であるホ・スヒョクのもとに、スヒョクの学生時代の同級生が訪ねてくる。
 スヒョクは母親と二人「追放家族」として村にやって来た。物理学を学ぶ学生として留学もしてエリートの道を歩いていたが、元地主の家族だったことが露見して「出身成分」が悪いからと農村に追放されたのだった。
 この小説の語りであるスヒョクの妻は生まれながらの農村育ちで、都会から来た知性あふれるスヒョクに恋し、周囲の反対を押し切って結婚する。ところがスヒョクは徐々に都会的雰囲気を無くして農夫らしくなっていく。
 平壌から訪ねてきた男はある目的のためにスヒョクを中央の科学院に戻すために来たのだが、みすぼらしいスヒョクを見て置き手紙を残して帰った。スヒョクも都会に戻るつもりはなかった。
 北朝鮮僻地の農場と言えば詩人白石(ペクソク)を描いたアン・ドヒョン『詩人白石 寄る辺なく気高くさみしく』や、キム・ヨンス『七年の最後』を想起する。厳しい環境での労働生活は都会での文化的生活とはほど遠い。しかし、エリートの道をはずれて遠地の農場で肉体労働に身をやつしても生きることには意味がある。
 「チャン・チェンの妻」の主人公チャン・チェンは、脱北して中国に逃げた18歳の女性ソヨンを妻として買った男だ。しかしチャン・チェンは妻に逃げられる。ソヨンは実に忍耐強く従順に従い、計画を内に秘めて、その日を待って韓国に逃亡した。
 若い妻に執着していたチャン・チェンはソヨンを探すために韓国に来て10年がたった。中国料理店で働き今では立派な料理長だ。それでも「妻を見つけなければいけない」という妄執に囚われ続けている。
 脱北女性を金で妻にした男と言えば、一面的に人身売買の加害者として、すがめで見られがちだが、心の内まで踏み込んで男の事情を立体的に表現している。
 「チャン・チェンの妻」のソヨンもそうだが、この作品集に登場する脱北女性たちはそれぞれ実に賢明で優秀だ。人身売買という迫害にあっても、諦めず逃亡する機会を待ち続け、強靱な意志で生き延びて韓国に辿り着く。辿り着いたからには一生懸命に学び働く、そういう女性たちだ。
 「青い落ち葉」のミソンは、北朝鮮から逃げたが中国で売られて売春させられていた。客として出会った韓国人男性の「私」を頼んで、ヤクザが見張るホテルの3階の窓から逃げる。先に帰国した私の手配で脱北者として韓国に入国することにも成功し、私と同居しながら、看護大学で学び、その後の病院勤務でも優秀だ。
 ミソンが韓国社会に慣れていくのに反比例して、私は若いミソンとの年齢ギャップを感じるようになり、嫉妬深くもなる。
 描かれた脱北女性は知的で逞しく優しい。「青い落ち葉」の私も、「チャン・チェンの妻」のチャン・チェンと同じように愚かな自分を後悔している。彼らは愚かだが純心な面を持ち、自らを振り返る心がある。たんに脱北女性を買った乱暴な犯罪者として醜く描かれることは無い。
 また脱北した作家だからと言って、全面的に北朝鮮での生活すべてを否定するものでもない。「赤い烙印」の妹は、孤児院の前に棄てられて凍え死ぬところを党書記に助けられて孤児院で育てられ、歌がうまいと芸術団に推薦され声楽俳優になっていた。この妹を韓国に連れて行こうとする姉と気持がすれ違う。どこまでも自由を求めた姉との価値観の相違は如何ともしがたい。しかし、どんな状況下であっても生きていれば生活があり夢がある。
 朝鮮半島の南北分断という歴史を背景にした脱北女性をモチーフにしているという特殊性に眼を惹かれがちだが、ここに描かれたのは人間の心の襞だ。この普遍的な価値の見せ方に心引かれる。
 もうひとつ、脇役だが脱北を助けるブローカーも度々登場する。彼らにも生活がある。小説に描かれて当然だが、細かく描かれることは当分はなさそうだ。
 朝鮮民主主義人民共和国の社会を描いた朝鮮の作家の作品としては、ペク・ナムリョン『友 벗』がある。

2025年5月 7日 (水)

斎藤真理子『在日コリアン翻訳者の群像』

斎藤真理子『在日コリアン翻訳者の群像』(編集グループSURE)
在日コリアンの翻訳に見えない傷を見つめ

 斎藤真理子は韓国文学の翻訳者だ。昨年ノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの『別れを告げない』の翻訳で、今年第七六回読売文学賞の研究・翻訳賞を受賞した。韓国文学に異彩を放つパク・ソルメやチョン・ミョングァン、70年代軍事政権下のソウルを描いてロングセラーを続けるチョ・セヒの『こびとが打ち上げた小さなボール』、現代韓国の人気作家チョン・セランや、日本でもベストセラーとなったチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』も斎藤真理子が翻訳した。十年で四十冊以上を翻訳して現在韓国文学翻訳の第一人者と言える。
 斎藤は翻訳のほかにも『韓国文学の中心にあるもの』や『本の栞にぶら下がる』『隣の国の人々と出会う』などを出版し、幾つかの連載をこなし、講演も頻繁だ。読者は斎藤の新しい本を読むたびに凄さを感じさせられる。韓国文学に限らない膨大な読書量と、近現代の東アジア史考察の根を縦横に張り巡らしているからだ。
 こう語ると学究肌に思われるかも知れないが、斎藤真理子は詩人だ。あっと思った、胸がいっぱいになった、面白かった詩や小説との出会いを追求する人で、まったく無名な在日の詩人李明淑(イミョンスク)については「初めて読んだときから好きだった」というし、詩集を持たない沖縄の無名詩人中村渠(かれ)については雑誌『近代風景』に投稿された詩などをコピーして保存している。
 『在日コリアン翻訳者の群像』で語られた黄寅秀(ファンインス)はアメリカ文学者で翻訳の仕事を多くしていたが、詩も書いている。斎藤真理子は震えるような鬱屈を感じて胸がいっぱいになったと語る。詩人で翻訳者である斎藤として共鳴したのだ。
 京都の記録・編集グループSUREが斎藤真理子を招いた講義ないし会話の記録が『在日コリアン翻訳者の群像』として編集された。 在日コリアン翻訳者が語られたことはこれまでほとんどなかった。宋恵媛(ソンヘウォン)『「在日朝鮮人文学史」のために』で8頁を割いているが、他には見当たらない。
 斎藤は戦前戦後にわたる朝鮮人による日本語文学にも詳しく、多くの翻訳書も読んでいる。
 この本は語りなので、網羅的に「翻訳者群像」を並べたものではないが、朝鮮が日本の植民地であった一九四〇年に出版された申建(シンゴン)訳『朝鮮小説代表作集』や秋田雨雀・張赫宙(チャンヒョクジユ)らが編集した『朝鮮文学選集』全三巻から語り始めた。続いて朝鮮戦争の時代に、朝鮮民主主義人民共和国を支持する立場からの翻訳について紹介している。
 自らも詩人である許南麒(ホナムギ)は、解放後北朝鮮を支持する立場の詩人、趙基天(チョウギチヨン)、林和(イムファ)などの詩を翻訳した。
 1960年代に入ると安宇植(アヌシク)が活躍し、朝鮮民主主義人民共和国の作家黄健(ファンゴン)の『ケマ高原』などを翻訳した。
 安宇植は在日二世で金史良の研究でも知られた。一九八七年の韓国民主化以後も安宇植は翻訳を続け大量の翻訳を出版していて、韓国朝鮮文学翻訳の第一人者だった。
 民主化以前の韓国文学の翻訳は主に、在日本朝鮮人総聯合会(総連)から脱退した知識人らによることが多かった。安宇植のほかに李丞玉(リスンオク)も『現代韓国小説選』(全三巻)などの翻訳を手がけている。
 金芝河をはじめとする韓国の抵抗文学の翻訳も、多くは在日コリアン翻訳者が務めた。小説家である李恢成や金石範も翻訳を手がけている。
 辛英尚(シンヨンサン)などは総連系の立場のまま韓国文学を翻訳した。彼らはそれぞれ政治的には微妙に異なる立場だった。
 在日コリアンの翻訳には政治が絡んでくるが、分断を乗り越えて価値を求める動きをもあったようだ。
 日韓を行ったり来たりした文筆家金素雲(キムソウン)は岩波文庫『朝鮮詩集』を一九五四年に発行したほか、一九七〇年代には『現代韓国文学選S_20250507194801 集』(冬樹社)をも個人訳している。金素雲は自らの翻訳以外に若い翻訳家を育てることにも気を遣い、自らは反共的立場をとったが、総連系と思われる詩人たち、姜舜(カンスン)、金時鐘(キムシジョン)、呉林俊(オイムジュン)らの同人誌『プルシ』の命名者だった。
 朝鮮近代詩は金素雲が翻訳したものが有名だが、許南麒もほぼ同時期に翻訳し、後に金時鐘による再訳もあって、訳者によってだいぶ違った詩になっている。『在日コリアン翻訳者の群像』では簡単にだがそれらの比較も提示している。
 また1970年代後半から80年代に韓国文学を紹介するために発行されていた『韓國文藝』にも触れている。鴻農映二らの日本人名と李銀沢(イウンテク)、林鍾國(イムジョング)ら韓国人名が明記されている。ちなみに『韓國文藝』は韓国の文学のほか、中上健次や柄谷行人も登場していて興味深い。
 斎藤真理子は、在日コリアンの翻訳に触れながら翻訳という作業の意味を考えている。
 自身は韓国語と日本語の表層を単純に置き換えることの疑問を埋めるための努力を惜しまない。斎藤真理子の翻訳は「揺れ」を意識している。言葉と言葉のあいだの揺れだけではなく、時間も歴史にも揺れはある。だから斎藤は東アジアの近現代史にも切り込んできた。
 斎藤真理子の文学思想には、グローバリズムを横目に差異化された政治的空間を超えた惑星思考(プラネタリティ)な運動としての翻訳意識がある。二つの言語の「あいだ=サイ」には擦り傷だらけのソリ(声)が満ちていると言う。翻訳しきれないソリに思いを致す翻訳だ。
 斎藤は煌々とした蛍光灯では照らせない声に耳を傾け、在日コリアンの翻訳に見えない傷を見つめているに違いない。
 斎藤真理子が翻訳出版したパク・ミンギュ『カステラ』が第一回日本翻訳大賞を受賞したのが二〇一五年で、これ以後韓国文学の需要が徐々に増えていった。『82年生まれ、キム・ジヨン』がフェミニズム運動の広がりに伴ってヒットすると、日本における韓国文学はもはやマイナーな読み物ではなくなった。ここ最近十年に、日本人翻訳者は相当増えたが、新しい在日コリアン翻訳者も活躍している。
 かつて在日コリアンが文芸翻訳をするという行為には、政治的な意味があった。また朝鮮語と日本語のどちらが自分の表現なのかという葛藤もあった。新しい世代の翻訳者たちにも葛藤はあるだろうが、もはやそれは南北の政府や組織に囚われるものではないかも知れない。

*上文は、『神奈川大学評論』108号に掲載したものです。

2025年3月 3日 (月)

高秀美『踊りの場』三一書房

個人史を超えたひとりの声

S_20250303202801 もう数十年まえだが、朝鮮語の勉強を始めてほどなく知った在日韓国人の友人がいて、結構親しくなった。韓国釜山から、関釜連絡船で下関に降りた帰りの道中に彼の実家を訪ねた。普段は母親一人で住んでいるようだが、夏休みで息子が帰っているはずだった。
 その晩、二階の部屋で布団を並べて寝ていると、
「ミツオ!! なんやこれ」という叫び声が階下から聞こえた。友人は「おかん地震だ、たいしたことない」と、うっとうしそうに叫び返した。
 食事のときなども「ミツオ」と呼んでいたのだけれど、とっさの場合もミツオなのだった。
 『踊りの場』を読んで、そんなことを思い出した。
 母の妹であるマサコ叔母さんがアパートの七階から、
 「ヒデミのおかあーさーん!」と、この本の著者高秀美の母に向かって叫ぶ声が聞こえた。マサコ叔母さんは高秀美が「スミ」と名乗るようになってからも「ヒデミ」と呼んでいた。
 高秀美は大学に進学してから「コウスミ」を名乗るようになった。その前は日本名の「高本秀美」であり、朝鮮語では「コウヒデミ」だと思っていた。
 在日二世の両親は「本当の名前」について無関心だったと、高秀美は少し慨嘆気味に回想する。そして高校生の彼女に自身の名前の朝鮮語読みを教えてくれたのは、日本人の同級生だった。
 コウスミと名乗ることによって「ほんとうの自分」を取り戻す端緒についたけれども、母語が日本語で朝鮮語の読み書きができない自分には「取り戻した」ものがないことに気づく。日本語日本名が強制された一世たちとは違った。
〈「高本秀美」という日本人を装ってきた私が、今度は「高秀美」という朝鮮人を装っている。〉
 留学同(在日本朝鮮人留学生同盟)の九州での一ヶ月間講習に参加した高秀美は、朝鮮人の遺骨を納めた納骨堂のある寺で、強制連行の歴史を知り故郷に帰れない朝鮮人の遺骨を見たとき、「帰りたい」という声を聞いた。その場が原点となった。
Photo_20250303202901  『踊りの場』は、朝鮮問題研究会発行の同人誌『海峡』に連載されたエッセイを編集したものだ。1985年の13号から2024年の31号掲載のものまで長きに渡っている。最初の章に登場した2歳になる息子も、あとがきでは40歳を超えたと書かれた。40年たてば社会の状況や空気も変わるし、著者の立ち位置も変化する。その変化をそのまま受け入れて表出している。著者の言葉を借りれば、痛みを覚える記憶への思いが綴られた。
 「朝鮮人が何かしでかさないか」という視線にさらされた絶望。我が子にヨンチョルという本名を名乗らせる決意。北朝鮮に「帰国」した従姉妹のヒサコのこと。意地悪な上級生と思っていたH君が同胞だったこと。
 高秀美の二人の祖母は済州島出身だった。1948年のいわゆる四・三事件より以前に渡日している。義母は「従軍慰安婦」にされる直前に逃げてきたと語った。
 一世、二世たちの声は記録されなければならない。高秀美は編集者だ。三一書房での仕事のほかに、在日一世、二世の声を集めた集英社新書の『在日一世の記憶』『在日二世の記憶』の出版に携わっている。 けれども、記録できたものは一面であり一部でしかないと知っている。〈父には聞き書きということで以前何度か聞いてもきたが、本人は私がまとめた文章とは異なる「風景」を見ていたのかもしれないと思うことがある。〉と書いている。
 『踊りの場』は個人の声だが、多様で複雑な個性の集合体としての在日朝鮮人の声と捉えることもできる。
 SNSではアジア人憎悪を煽って広告収入を増やす新手の商売が流行している。選挙活動を騙った金儲けも排外主義を利用している。短小軽薄なポピュリズム言説の対極にある地味な出版だが、意味ある出版だ。

2025年2月22日 (土)

在日朝鮮人文学における「犬殺し」

犬殺し―鄭承博、李恢成、金鶴泳の場合

 タレントのデヴィ・スカルノが「12(わんにゃん)平和党」なるワンイシュー政党を設立したという奇っ怪な情報が、テレビやインターネットにささやかな波風を立てた。SNSでは動物の毛皮をまとうデヴィを揶揄する投稿が飛び交った。
 犬猫食の習慣のない日本に、「犬猫食禁止法」成立を謳う政党が必要だとは思わないが、動物愛護には大賛成。
 犬食は現在はどの国でも批判されることが多く、補身湯(ポシンタン)などの犬料理が有名な韓国でも、昨2024年犬食禁止法が成立し2027年に施行される。
 犬食の習慣は中国や東南アジア諸国で最近まであったようで一部では現在も続いている。中国でも北方など犬を狩猟や遊牧用に飼育していた地域では無かったらしい。
 日本でも古くは犬が食べられることがあったが、675年天武天皇の「肉食禁止令」発布によって、牛馬犬猿鶏の肉食が禁止された。最初は稲作時期などの期間限定だったらしいが、次第に肉食自体が穢れとされるようになった。いよいよ肉食が排除されたのは徳川綱吉の「生類憐れみの令」による。魚介豊富な島国で、仏教国家だった日本の特性かもしれません。

 さて犬食と言って文学作品で思い出されるのは、まず鄭承博(チョンスンバク)が自己の体験を描いた農民文学賞受賞作「裸の捕虜」だ。
 徴用逃れの脱走犯として逮捕された承徳(スンドク)は、長野の山奥の発電ダム建設現場で、ツルハシやスコップを直す鍛冶職として働かされることになった。そこは中国八路軍の捕虜たちが強制労働に従事させられていた。
 ある朝、承徳の助手になった捕虜四六号から包丁を作ってくれと頼まれる。迷い込んだ犬を殺したので料理したいと言う。
「承徳が思っていた料理法とはまるっきり変わっていた。」と書いているので、鄭承博自身も犬料理の経験があったのだろうか。
 皮も剥かず骨付きのままで炊いた肉が指でちぎれるほど柔らかく、いやな匂いもなかった。それから捕虜たちは蛙を餌に罠をしかけては犬を捕まえてスープにして食うようになった。
 そしてついには仔牛を盗んできた。草刈りの日に見張り兵の目を盗んで、山裾に繋いであった牛を藪のなかに連れ込んで殺し、草と一緒に運び込んでしまった。牛を料理している最中に日本人の兵隊たちが廻ってきても、犬だと思っているから寄りつかない。
 貧しい食事で重労働させられる中国人捕虜にとって犬は馳走だったに違いないし、責められない。だから歴史的条件を前提にすれば、犬食に反対はしない。

 李恢成は「人面の大岩」で父親が愛犬を殺す場面を描いている。
 「人面の大岩」は〈少年の頃、父ほどおそろしい人はいなかった。〉で始まる。
 ぼくは三歳の牡犬アカを可愛がっていた。丈夫な兄たちに較べて病弱な小学生のぼくにとって友人であり、軀を鍛えてくれる家庭教師だった。
 ところがある日ぼくが帰ってくるとアカの悲しそうな哭き声が裏の方から聞こえてきた。絶望的な声だった。アカは四肢を荒縄でくくられ三股に組んだ丸太の横棒に逆さに宙吊りにされていた。
 父が丸太ん棒を握りしめアカに近づこうとしていた。ぼくは悲鳴をあげた。ぼくの友だちは客人たちのたっての所望で屠られてしまったのだ。どぶろくを飲み、狗醤汁(ケジャンクッ)に舌鼓を打つ大人たちの楽しそうな宴も、ぼくには鬼どもの酒盛りにしか見えなかった。

 金鶴泳も父の犬殺しを描いている。
 「冬の光」で、小学生の顕吉は家に迷い込んできた、黒っぽいねずみ色だが脚の白い雑種犬に、白い脚という意のヒンバルと名付けて可愛がっていた。顕吉は犬小屋も自分で作ってやった。ヒンバルは顕吉に似て滅多に吠えなかった。
 ある日、父は自転車のチェーンがはずれているのを直しながら、チェーンがはずれたら直しておかなくちゃだめじぇねえか、と怒りだし「ろくでもねえ犬ばかりかかずらいやがって!」というなり、庭の片隅に積んであった薪を摑んでヒンバルの頭に打ち下ろした。
 ヒンバルの屍体は翌朝父にによって町はずれの河原に棄てられた。顕吉は薪が振り下ろされたときの骨がめり込むような恐ろしい音が耳について離れなかった。
 こういう場面を読むと、食う目的もなしに犬を殺すとはなんとも情けない。しかも葬ることさえ赦さずに棄ててしまうなんて。
 李恢成文学は乱暴な父を描いても、恐怖や憎悪の隙間にどこかあっけらかんとした明るさを見せるのに、金鶴泳の父はどこまでも立ちはだかる冷酷な傲慢だ。
 犬を食べるのは仕方ない場合もあるが、ただ怒りにまかせて殺すのは違うだろう。
(一応言わずもがななことを書いておくが、あくまで描かれた「父」、あるいは作家から見た「父」像であって、他の人から見た父がどんな人かは分かりません。)
 動物愛護をとなえるなら、「犬猫食禁止」ではなく、犬猫の販売と販売を目的とした飼育を禁止すべきでしょう。少なくとも、商売のために犬に妊娠を強要して産ませ続けるブリーダーを取り締まって欲しいものだ。金儲けに命を利用するなと言いたい。
 一時的な感情の発露に犬をつかったりせず、飼うなら健康に気を遣って世話して欲しい。

【関連】
編集工房けいこう社Webマガジン「在日朝鮮人作家列伝 07李恢成」

編集工房けいこう社Webマガジン「在日朝鮮人作家列伝 08金鶴泳」

鄭承博さんの記憶

2024年12月18日 (水)

小沢信男が『俳句世がたり』(岩波新書)

俳句をひねって小沢信男を思い出す

Photo_20241218142501   小沢信男が『俳句世がたり』(岩波新書 2016年12月)で、江國滋と井上ひさしの対談を引いている。
〈みんな年をとるとふしぎに俳句をひねりだすのは、さては「日本人の逃げ道じゃないか。カトリックに告解という儀式があるとすれば、日本人には俳句という告白があるんじゃないか」〉。
『俳句世がたり』は古今の名句の鑑賞を世相をまじえて語るという体で、上の引用は、鈴木真砂女の「生身魂(いきみだま)生涯言はぬこと一つ」にかこつけてのことばだ。名句と言っても小沢信男流です。
 小沢信男は、「俳句を楽しむ」講座の講師を引き受けたのを機に泥縄で俳句を勉強したというからびっくりだ。昔の文学士は素養があったんだなあ。50代で句作を始めたというのだから俳人としては遅きに失するか。プロの俳人はたいてい10代で始めている。凡人はだいたい老人になると俳句をひねりだすというのがお決まりだ。
 まさにぼくも、なんでも書いてみてどれも凡作ですが、俳句もやってみたくらいのことはあった。それで『世界』に俳句投稿欄があると気づいたのが去年の秋頃でした。暇でもないのに一つひねる気になったのは、やはり逃げ道だったのかと思う。
 『世界』掲載の岩波俳句に投句始めて、1月号にはやくも「水羊羹すくって母の口に入れる」を佳作に選んでいただき、12月号までに5句を取ってもらった。池田澄子先生ありがとうございます。
 しかしこの恩人をよく知らなかったので、『池田澄子百句』(創風社 2014年8月)を購入。読むには面白い俳人でした。真似はできない。
 池田澄子は「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」や「ピーマン切って中を明るくしてあげた」のような意表を突いた句が注目されがちです。『俳句世がたり』には「風船爆弾放流地跡苦蓬(にがよもぎ)」があげられている。直径10メートルの大風船をせっせとこしらえて爆弾乗せて、北茨城の浜辺からアメリカ目指して飛ばした、敗戦間近の足掻きを詠んだ句だ。小沢さんは池田澄子句集を複数読んで、何回も引用している。なんでも良く読んでるなあ。
Photo_20241218142602  小沢さん没後に編まれた『暗き世に爆ぜ』(みすず書房)でも引用が多く、だいぶ好きだったようです。
 遺稿となった「花吹雪」は、池田澄子の句「あっ彼はこの世に居ないんだった葉ざくら」と「花吹雪あのひと生きていたっけが」のあいだに挟んだ短文で、池内紀や坪内祐三などすでにいなくなった人たちのことを少し書いたエッセイです。この二句が効いている。
 『暗き世に爆ぜ』には櫂未知子句も紹介されている。ほんとに良く読んでるな。「一瞬にしてみな遺品雲の峰」「葉桜やわが裡に棲む蝦夷と江戸」。
 櫂未知子は『週刊金曜日』に「櫂未知子の金曜俳句」を連載していて毎月兼題を出して投句を募っている。調子にのってそっちにも上限の10句を投句した次第です。そして届いた同誌11月29日号を、まあ出てはいないだろうと思いながら開いて見ると特選をいただいていて興奮しました。
 櫂未知子先生からの評は以下です。

「さにつらふ千両三粒掌に」
この句を特選にしたのは、「万両」との違いが見えたからでした。千両は、とにかく実がこぼれやすいのです。そのあたりをよく踏まえているからこそ、特選に決めました。

 よく考えてみると、季語が動くようでは良い句にはならないというのは初歩の知識ですから、そんなに「褒められた」わけでもありません。振り返れば送った10句のほとんどが冷や汗ものの厚顔でした。
 そういう訳で趣味の域を出ない凡人ながら、俳句の本読んでおこうかと、かねてより知りおりの故人ですが、土方鐵の『句集漂流』『小説石田波郷』を棚の後ろから引っ張り出しました。小沢信男の『俳句世がたり』と『暗き世に爆ぜ』も山の下のほうにありました。『句集 んの字』は茶箪笥の上の有象無象のあいだに挟まっていた。これは小沢さんから母宛のサイン入りです。ちなみに土方鐵『句集漂流』は私宛のサイン付きです。
Photo_20241218142601  土方鐵が『句集漂流』を上梓したのは晩年に近い1996年ですが、土方の文学は若き日の療養俳句から始まっていました。
 在日朝鮮人作家金泰生も結核を煩って療養中に、石塚友二を師として俳句を勉強したといいます。先頃、療養所のあった静岡まで出かけて、当時の金泰生の俳句と思われる作品を探し出した人がいます。素晴らしい。
 昭和の戦後には肺結核の文人が多かったようです。小沢信男は〈患者はそこらにごろごろいました。いきおい文学も結核と相性がよかったようで、正岡子規、樋口一葉、石川啄木、堀辰雄、立原道造、石田波郷……日本文壇史から結核患者を消毒消去したら、片身を削がれた魚のようになるのでは。〉と少しひどい書き方をしている。
 療養中に俳句を始めた人は少なくない。結核患者である俳人の句を「療養俳句」と呼び石田波郷が代表的だが、小沢信男の本に出てるだけでも正岡子規、石田波郷、富田木歩、成田櫻桃子、木村蕪城、それに小沢信男さんご自身も若き日に結核を病んでいた。藤沢周平も若き日の結核療養中に俳句に熱心だったと書いている。土方鐵も金泰生もそうだ。
 しかし小沢信男も書いているけど、芭蕉も一茶も近世の俳人はよく歩いた。較べて近代の俳人は療養中にて引き籠もりがちだった。現代は吟行と洒落て少しは歩くようだ。小沢さんは散歩の達人とか言われたこともあった。
 小沢さんが亡くなったのは2021年3月3日、2025年で4年が過ぎる。生前、黄英治さんの企画で小沢信男の会を催し、韓国料理食べて谷中界隈をぞろぞろ散歩したっけ。もういちど酒飲んで、今度は一句ひねる散歩したかったなあ。

 言の葉をひねって歩いて去年今年

                                          おそまつ

 

―――― ―― ―― ―― ―― ――

小沢信男『私のつづりかた』

小沢信男『捨て身な人』

 

2024年12月 3日 (火)

イ・ソス『ヘルプ・ミー・シスター』古川綾子訳

プラットフォーム労働者家庭のたたかい
イ・ソス『ヘルプ・ミー・シスター』古川綾子訳 アストラハウス

Photo_20241205203601  昨今はコンビニでも宅配アプリなるものが表れてTVでコマーシャルが流れてる。使ったことはないが、金さえあれば便利な世の中だ。アマゾンや楽天で欲しいものをポチッとすればすぐ届く。買いに行って探さなくても良い。発行部数の多くない書籍などなおさらだ。電子書籍は普及して読みたいときにダウンロードすればすぐ読める。紙の本は駆逐され書店の数は激減している。
 11月29日「ブラックフライデー」と命名される割引セールキャンペーン当日、アマゾンジャパン本社前で、フリーランスの配達員たちが労働環境の改善を求める抗議の声を上げた。彼らはアマゾンが管理するアプリで指令を受けて配達する労働者だが、過重な荷物を渡されて危険な配達も引き受けざるを得ない。個人事業主扱いされるため、ケガをしても労災認定されず自己責任だ。
 こういった非正規雇用の労働者は少なくない。配達ならばウーバーイーツなども同じだ。またコンビニ店主なども下請けながら個人事業主で、潰れても保証されないどころか、会社の拡大再生産に必要なら潰される。
 スマホなどの端末でアマゾンやウーバーなどの仲介会社からの指示を待って仕事に行く人びとを、デジタルプロレタリアートと呼ぶこともあるようだ。
 個人事業主と規定されているため、デジタルプロレタリアートは労働者としての権利を著しく奪われている。インターネット上のプラットフォームに実質的には労働者(ギグワーカー)である「個人事業主」を募る仲介的事業者を「プラットフォーマー」と呼ぶらしい。プラットフォーマーは、労務提供者にたいして使用者責任を負わない。雇用者と被雇用者との関係を結ばないから労使協定は存在せず労働者に権利はない。
 経済界は「労働力の流動化」によって、労働者が会社を移りやすくし、産業の発展と成長を促し、雇用市場が活性化するというのだが、結局のところ非正規雇用を増やし、労働組合を弱体化し、労働者の団結権を破壊するものだ。非正規雇用者を踏み台にする大企業の御用労働組合が労働貴族化する。
 韓国の作家イ・ソスの『ヘルプ・ミー・シスター』で描かれた社会は韓国で、日本とは微妙な違いはあるけれど本質は変わらない。背景にはプラットフォーム労働がある。小説のなかでも労働者は事業主とよばれ、仲介者と呼ばれる雇用者がアプリのプラットフォームで仕事をさせる。登場人物のひとりは、このような労働者をサイバープロレタリアと言っている。
 配達員たちはお互いを社長と呼び合っている。個人事業主だからだ。労働者としての階級的団結は彼らの思想にはなく、歪んだ自尊心が発揮される。だからか、女性の配達員は社長ではなく〈お嬢さん〉とか呼ばれたりする。
 労働がロボット化しても、低賃金で保証の無い非正規労働はなくならないと登場人物のひとりは語る。ドローンや無人配達トラックが出現してもプラットフォーム労働をするギグワーカーはいなくならない。ドローンが事故を起こしたら会社が責任をとらなければならないけれど、非正規のプラットフォーム労働者は使い捨てできるから安上がりだ。
 主人公のスギョンはセクハラ強姦未遂の被害にあって会社を辞めた。失業中の両親チョンシク氏とヨスクさん夫妻、儲からない投資家の夫ウジェ、ウジェの行方不明の兄の息子で高校生のジェヌと9歳の弟ジフ。ジェヌのガールフレンドで14歳のウンジらが、デジタル化に伴う社会の変化に戸惑ったり、古い価値観と対決したり壊したりしながら生きていく。
 ジェヌやウンジら若者たちはデジタル社会に慣れているからか、最初から労働に価値を求めていないようにみえる。適応しているだけに将来はダークだ。作家はあとがきで〈私はスマートフォンやSNSがなかった時代に青少年期を過ごした点に安堵している。〉と書いている。なるほど。
 スギョンは家族の生活のために配達を始める。母のヨスクも手伝い、投資を諦めた夫チョンシクも運転代行と掛け持ちでスギョンを手伝う。
 そのうちスギョンは女性だけのプラットフォーム労働「ヘルプ・ミー・シスター」に登録して働きはじめる。
 そこでの経験は新しい価値観や生き方を実践する人々だった。
 この小説はプラットフォーム労働者の生活実体を描いたが、ただ悲惨なだけではない。信頼や共感の表出であり、新しい環境への順応のあり方を問う物語でもある。
 ディストピア小説ではない、現在を語り、社会のありかた、人間の心を問い続ける小説を待っていた。作者にも翻訳者にも感謝したい。

2024年10月12日 (土)

アダニーヤ・シブリー『とるに足りない細部』

たったひとりの死にも尊厳がある
アダニーヤ・シブリー『とるに足りない細部』河出書房新社

S  1年前の10月7日、ハマースが主導するガザのパレスチナ人戦闘員による奇襲攻撃と、イスラエルのジェノサイトが始まった。死者だけで5万人を超え、手足や視力を失った無数のけが人と治療を受けられない病人、飢えによる栄養失調で瀕死の子どもたち、ガザに住む家はほとんど無くなり、230万の人口すべてが犠牲者となった。
 この一人ひとりに人生があったし、生き残った者には生活がある。悲劇は1年前が始まりではなかった。
 アダニーヤ・シブリーの小説『とるに足りない細部』は、2017年出版なので現在の民族浄化が激化する状況を反映してはいない。小説は2部構成になっていて、第一部では1949年のイスラエル軍将校の視点から細部にわたって描かれ、第二部では、現在(2010年代)のイスラエル支配下のガザに住むパレスチナ人女性の視点から描かれる。
 女性は事件の起きた日の半世紀後に生まれた。そんな小さな偶然を機に、1949年に起きた事件に駆り立てられる。それはイスラエル部隊によるアラブ人遊牧民ベトウィン少女にたいする集団レイプ事件だ。
 その事件の前年イスラエルは建国した。
 イギリスは委任統治という名目で植民地支配していたパレスチナの地を、シオニストにはユダヤ人国家の建設を支持してみせ、アラブ諸国にはアラブ人国家の独立支持を表明した。そしてアラブ民族主義とユダヤ人のシオニズムの対立を放置したままダブスタ撤退した。
 第一次中東戦争(1948年~1949年)を経て、70万人のパレスチナに住むアラブ系住民は居住地を追われ、 ガザ地区・ヨルダン川西岸地区の外、近隣諸国に逃れた。パレスチナ人の村は破壊され、ユダヤ人の入植が始まった。ナクバ(大災厄)だ。
「訳者あとがき」によると、アドニーヤ・シブリーはイスラエルのガザ侵攻にこじつけて評価される傾向を嫌っている。政治の文脈で文学作品が評価されることをよしとしない作家は少なくないが、シブリーの場合は政治的暴力の恐怖を感じてもいるに違いない。それでもこれは敢えて書いておきたい。
 小説のモチーフになった事件は1949年8月13日に起きた。
 かつてニリムという入植村があり、第一次中東戦争のさいにエジプト軍の攻撃をイスラエル軍が防御した場所だ。ニリム村は移転したが、その跡地に配備されたイスラエル軍部隊が、偵察中に出くわした非武装の遊牧民の人々を殺し、生き残った少女を集団強姦してから殺害した。
 この事件の舞台になった地域を含むガザ外縁部が、昨23年10月7日ハマースが主導するパレスチナ戦士たちによって襲撃された。12の軍事基地が占拠され、キブツと野外音楽堂も襲撃された。イスラエル軍は空爆などの強硬手段でハマース戦士を殲滅した。イスラエル軍の兵士や一般のイスラエル人も「巻き添え」になった。キブツで生き残ったユダヤ人女性は、人質たちはほとんどイスラエルの治安部隊の一斉射撃で殺されたと国営ラジオ番組のインタビューに答えた。(岡真理『ガザとは何か』P.78)
「私」であるパレスチナ人女性は、壁の外へ偽の証明書と他人名義で借りたレンタカーで移動する。
 恐怖だ。いくつもの検問を抜けて、いつ拘束されるか、いつ銃殺されるか分からない不安に苛まれながら進みまた立ち止まる。私はアラブ人であることを隠して博物館を訪ね、地域の歴史を研究していると嘘を言って話を聞き、初めて走る道をイスラエルの地図とかつての地図を較べながら事件の現場を探す。
 文体は精緻でゆっくりと進行する。私の視点は細部を描きながら歴史のパースペクティブを浮かび上がらせていく。作家は歴史的な事件を扱い過去を探し出し、現在について語ろうとしている。記憶を掘り返し、命の危険に怯えて進む。私が命をかけて探ろうとした事件自体が、パレスチナの75年に較べればとるに足りない細部であり、この小説も作者もとるに足りない存在だ。それでもとるに足りない一人ひとりの死には尊厳がある。
 この小説は「反ユダヤ主義」の烙印を捺された。イスラエルの政治的攻撃にドイツの文化団体が同調した。
 『とるに足りない細部』は政治的断罪の対象にされるべき小説ではない。人間の傲慢の犠牲となった者を記憶しようとする鎮魂を描いただけだ。

 作者アダニーヤ・シブリーは1974年パレスチナ生まれ。現在はエルサレムとベルリンを拠点にして活動する作家だ。本作はアラビア語で書かれて世界に紹介され、全米図書賞最終候補、国際ブッカー賞候補、ドイツのリベラトゥール賞受賞と高く評価されている。

2024年9月16日 (月)

いちむらみさこ『ホームレスでいること』創元社

Photo_20240916221401 否応なく地球環境破壊と対峙させられるホームレスという生き方
いちむらみさこ『ホームレスでいること』創元社

 この夏の暑さは尋常では無い。9月の半ばすぎても猛暑日が続く。しかし去年も数十年に一度の暑さだったし、来年が「平年並み」に戻る保証はない。自然破壊と巨大コンクリート建設が際限なく進められているからだ。
 地元住民の意志を無視した、大量の樹木伐採と巨大ビルの建設を伴う神宮外苑再開発問題が広く伝えられている。開発事業者が伐採樹木の数をほんの少しだけ減らす譲歩を提案したが、環境犠牲の構図は変わらない。
 神宮外苑の再開発のように、地域住民の憩いの場と自然環境が破壊され、巨大なビルが建てられる事業は、ここだけではなく東京中で進められてきた。
 渋谷では誰もが自由に入って憩える「公共の場」であった区立宮下公園を壊し、樹木を切り倒してホームレスを追い出し、観光客を招くためのMIYASITA PARKという商業施設を作った。「公共の場」を営利目的の私企業が商品や情報を消費する享楽の施設に変えてしまった。
 巨大なエネルギーを消費して、地球温暖化を更に進める高層ビルが、少子化日本にこれ以上必要だろうか。神宮外苑や渋谷の再開発を手がける三井不動産もSDGsに取り組んでいるはずだ。しかし実際にやっていることは自然破壊だ。金をかけて大量のソーラーパネルを設置するよりも、神宮外苑の樹木伐採計画を白紙に戻すところから始めれば良いが、資本主義はそれを許さない。
 東京の公園の多くは、市民が休み憩うベンチを、かまぼこ形の座りにくいものや、鉄の区切りを嵌めて一人ずつしか腰掛けられないように変えている。これは夫婦や恋人たちが寄り添えないようにもしたが、ホームレスが横たわらないようにするのが目的ではないかと想像される。
 しかし、いちむらみさこ『ホームレスでいること』が描いたのは、自然保護や資本主義批判ではない。個人が自由に生きる権利だ。儲け主義、生産性第一主義、肩書きや地位、年収、能力、成績で序列化される社会を拒否する人がいてもいいじゃないかと書いたのだ。
 『ホームレスでいること』は、自身がホームレスとして生きる著者がホームレスでいることの意味を書いた本だ。
 いちむらは、物々交換カフェや絵を描く会などのコミュニティをつくってホームレスが孤立しにくいように努力しながら生きる。そこでは極力商品経済が介在しないように注意が払われる。
 ホームレスに表象される非生産的存在は、差別され暴力を振るわれ、排除される。
 いちむらの指摘はときに体制文化に厳しい。主流の文化に対抗的に生み出された表現活動が換骨奪胎された例などもあげて、控えめにだが批判している。
 生活保護を受けることにしたホームレスが「貧困ビジネス」に取り込まれてベニヤ板1枚で仕切られた部屋でカップラーメンを与えられる代わりに、生活保護費を業者に奪われる実態も指摘される。
 それでも、いちむらの文章は攻撃的ではなく批判的ですらない。自信なさげで迷いに満ちている。排除しないでほしいという懇願でもある。
 自由に生きるとはどんなことかを模索しながら生きている。
 病気になったらどうするのか。病気やケガは自由を奪い、医師や場合によっては役人の指導に従わなければ悪化して最悪死に至る。この問いは『ホームレスでいること』のなかにも出てくる。動けなくて公衆トイレに閉じ籠もった病院嫌いの女性に食事を運ぶのが正しいのか、救急車を呼ぶのが正しいのか。著者は迷ったに違いない。むろん、命を守る道が正しいのだが、著者は本人の意思を尊重してしまったことに悩んだ。
『ホームレスでいること』は生きる意味そのものを問うている。しかも実体験を紹介しながらだ。
 これまでもホームレスを書いた小説はあった。上野公園に住む一人の男性ホームレスを描いた柳美里の『JR上野駅公園口』はアメリカでも翻訳され全米図書賞を受賞した。 
 木村友祐の『野良ビトたちの燃え上がる肖像』は、高級住宅地の外側に多摩川河川敷を栖とするホームレスたちを描いた。
 韓国の作家キム・ヘジンの『中央駅』は、高度成長に取り込まれるホームレスを凄まじい文体で描いた。これらは社会や歴史の真実に迫った小説だ。
 いちむらみさこは自身がホームレスであるため、書けないことも書きたくないこともあったに違いない。俯瞰する視点も弱いかも知れない。それでも体験に基づく事実の表出という価値は、充分な説得力とエンパシーを感じさせる。

2024年9月 4日 (水)

斎藤真理子『隣の国の人々と出会う』創元社

_0001_20240904115501 あいだには傷ついたソリがある

 20年ほど前に「隣接文化との出会い」というタイトルの講義を担当したことがある。名目上の講義要項とは違い、金石範の『火山島』を読んだだけだったが、これが進まない。一行一行、一言一言の意味を考えながら読まねばならなかった。
 在日朝鮮人作家が、日本の敗戦後の朝鮮済州島を舞台にして日本語で書いた小説だ。現代史の知識が必要だ。出てくることばは日本語で書かれているが、登場人物たちは朝鮮語で喋る。あるいは済州島言葉で喋る。地名、人名、慣習、情景、風俗が、日本人の常識にすり込まれたものと違う。本来標準語とも異なる済州島言葉でこそ表現可能なことばたちを日本語で書き表したのだからいくら頑張っても理解したとは言い難いのだった。
 斎藤真理子は茨木のり子の言葉を引きながら、〈「隣」にも「国」にも、矛盾と、痛みと、ねじれがあった。〉と書いている。
 斎藤真理子は、現在最も多くの韓国文学を日本に紹介している翻訳者だ。その翻訳が優れているのは、斎藤が韓国語と日本語の表層を単純に置き換えることに疑問を持っているからだ。それを「揺れ」と読んでいる。

思う言葉と話す言葉、聞いた言葉と書かれた言葉、印刷された言葉のあいだにも揺れがある。各国で標準語とされている言葉のあり方にも、常に揺れがある。そもそも言葉は「揺れ」の集合体かもしれない。そして翻訳は、揺れているものどうしのあいだに揺れる吊り橋をかけるようなことだ。

 揺れは言葉のあいだだけではなく、歴史も大きく揺れている。だから斎藤は東アジアの近現代史にも切り込んで『韓国文学の中心にあるもの』なども書いた。
 斎藤の新著『隣の国の人々と出会う』では、日本語に置き換えがたいソリという「声」について考えている。

 ソリという言葉はとてもスペクトラムが広い。
「話」「言葉」という意味で日常的に使われ、その点で「말(マ)」と少し重なる。ここが、日本語の「音」や「声」と大きくちがう。

 斎藤真理子は、ハン・ガンの『ギリシャ語の時間』に言及しながらソリを解読する。

 マ(話されたこと)とク(書かれたこと)の核にソリ(思い)があるというイメージを持って、ソリに近づきたい。言えなかったマ、書けなかったクを含む、広大なソリの地層を想像して歩く。

と書いても〈マとクは根源的に、伝えられないものを膨大に抱えている〉ので、この本をいくら丁寧に読んでもソリを理解したとは言えない。それでも読者はソリに近づいていくことができる。読書とはそういうことではないだろうか。
 ソリには歴史の重層的な生命の傷が痕跡が残っている。
 韓国で文学を語ることは政治を語ることに繋がる。実は日本でも同じはずなのだが、戦後日本文学の脆弱はそれを排除しがちだ。朝鮮の詩人は歴史の激痛を代弁してきた。植民地時代の韓龍雲、解放後韓国で国民的人気を得た尹東柱(ユントンジュ)や李箱(イサン)たちを読者に示し、〈今の日本に生きる人々と地続き〉と感じる90年代韓国の詩人キ・ヒョンドやチェ・スンジャを紹介する。彼らは変化の激しい韓国社会でも愛され続けているという。
 斎藤の著書には自身の貌が垣間見られる。詩人斎藤真理子の習性かも知れない。そこは読者の読解に任せたい。ただ一つ差し支えなく言えるのは、朝鮮現代史の中に自分史を置いてみているということだ。
 斎藤真理子は、大日本帝国に支配された朝鮮時代、解放後の混乱、済州島四・三事件の虐殺を経て、朝鮮戦争で迎えた無数の死と向き合い、光州事件、セウォルゴ事件、梨泰院惨事と積み重なった無念の死たちへの思いを日本語のソリとして表出しようと努力している。
 斎藤真理子の文学思想には、グローバリズムを横目にプラネタリティーな運動としての翻訳意識がある。二つの言語の「あいだ=サイ」には擦り傷だらけのソリが満ちている。
 本書が収められた創元社のこのシリーズは「あいだで考える」だ。

2024年6月22日 (土)

『ガザ日記 ジェノサイドの記録』

ヒューマニティーの闘いとしての文学
アーティフ・アブー・サイフ『ガザ日記 ジェノサイドの記録』中野真紀子訳 地平社

Photo_20240622135901
 この本はイスラエルのガザにおける民族虐殺の記録として世界11の言語で緊急出版された。著者はパレスチナの作家でパレスチナ自治政府文化相を勤める。息子とともに父や親戚・友人の多いガザを訪問中に2023年10月7日を迎える。以後12月30日に出国可能者リストに親子の名前が含まれるまでの84日間の記録だ。
 この記録は読むのが辛く胸が塞がれる。著者サイフの家族親戚、友人知人たちや多くの人間が殺されていき、少し前まで言葉を交わしていた知人が、数時間後には死んだという消息が届くという日常。逃げ場のない人々が描かれ絶望が描かれたのだ。
 サイフは生まれ育ち、文学を知った家を村ごと失う。サイフの姪の一人は両足と片腕を失う。イスラエル軍はバタフライ・ブレッドという着弾すると銃弾の先が羽状に開き、人間の神経や血管をズタズタにする凄惨な兵器を使っている。
 ガザに囚われたまま、サイフは日記を書いては友人やイギリスの出版社に送り続ける。〈書くことを通して、場所を生かし続けることができる。瓦礫と化した街並みやペシャンコになった家々の、思い出を書き残すことができる。〉
 サイフはパレスチナ人のなかでは特権的立場にある。それでも毎日パン探しに時間を取られ、いつ殺されるか分からない立場には変わりない。
 イスラエルのミサイル攻撃で多くのパレスチナ人が殺され、瓦礫のしたからバラバラになった屍体が掘り出される日々に、子どもたちのなかには手足に自分の名前を書く者が出てきた。死後に身元を明らかにし、「安否不明」という煉獄から愛する人々を救い、自身も誰にも弔ってもらえない苦痛から逃れるためだ。彼らはハーマスだ、テロリストだという理由で殺される。

一つの民として、私たちは記憶されることを望み、自分の物語が語られることを望んでいる。……最低でも、墓には名前が刻まれなければならない。               p124

 墓が墓として祀られない限り、イスラエルがガザにアミューズメントパークを建設したときに、パレスチナ人の墓が下にあることになる。
『ガザ日記』は金石範の済州島四・三事件をモチーフとした小説を連想させる。例えば、『地の底から』は1948年の済州島四・三事件で犠牲になった人々の発掘をモチーフにしている。発掘現場は済州空港だ。今も飛行機が離着陸する滑走路の地下に幾多の遺体が埋まっているのかも知れない。小説では主人公の作家は手拭いに墨痕で名前を書いた女性の骨を探している。極初期の小説『看守朴書房』でも囚われた女性が、大事にとっておいた手拭いに「宋明順、二十二歳、涯月里」などと処刑された後でも身元が分かるように書いて太腿に縛りつける。ガザの少年たちと同じだ。
「四・三事件」とは1948年に韓国の済州島でおきた民衆蜂起と、これを大虐殺で鎮圧した歴史的事件だ。パレスチナのナクバと同じ年だった。
 済州島では「パルゲンイ(アカ)は殺せ」と言われ、3万人もの島民が惨殺された。
 ナクバとはなにか。
 第一次政界大戦(1914年7月~1918年11月)の後、オスマントルコ領であったパレスチナは委任統治という名目でイギリスの植民地となっていた。
 第二次世界大戦後は、欧米のキリスト教社会で差別され続け、ナチスによるジェノサイト、ホロコーストから逃れて難民となったユダヤ人難民の処遇が問題となった。1947年の国連総会でアラブ人の住むパレスチナの地を分割してユダヤ人の国家を作るという案が提案され、国連憲章違反であるにも関わらず米ソのロビー活動によって決議されてしまった。
 これに呼応したのが、パレスチナにユダヤ人国家を建設するというシオニストだった。イスラエルは1948年5月に建国されたが、1947年11月から49年年頭までの一年間にシオニストはパレスチナ人の民族浄化を実行した。集団虐殺を強行してそれを公表し、パレスチナ人を恐怖させて追い出した。これがナクバだ。
 パレスチナ人はガザとヨルダン川西岸地区に囲われた。西岸地区には今でも入植者が増えている。シオニストである入植者はイスラエルの軍警に守られながら、パレスチナ人を脅したり殺したりしながら浸食し続けている。
『ガザ日記』は2023年10月7日から12月30日までの記録だが、イスラエルによるパレスチナ人ジェノサイトは1948年から継続しており、現在までも続いて激しさを増している。決して10月7日のハマスによるイスラエル攻撃によって始まったのではない。
 では、イスラエルの指導者が「人の顔をしたケダモノ」と蔑視するハマースとは何か。
 1948年のナクバ=民族浄化で、75万人以上のパレスチナ人が難民となった。
 1967年の第三次中東戦争を経てパレスチナの全土がイスラエルの占領下に陥ってしまった。パレスチナの民はPFLPなどの武装解放組織を起ち上げる。国際社会はイスラエルの占領を違法としながらも何らの実行措置をとってこなかった。1987年に武装したイスラエル兵に石を投げるインティファーダが起きた。この頃イスラム主義を掲げる民族解放組織「イスラーム抵抗運動」ハマースがガザで誕生した。そして2006年のガザでの民主的な総選挙でハマースが勝利した。その後アメリカ・イスラエルの仕掛けた内戦にもハマースが勝利すると、ガザは完全封鎖されてしまう。
 ハマースはイスラエル占領軍に対する民族解放運動なのだ。これは国際法上認められた抵抗運動だ。今回のハマース主導の戦闘員による襲撃は、日本の報道ではパレスチナの宗教過激派による民間人攻撃という印象だ。しかし実際には主にガザ周辺のイスラエル軍の拠点12カ所を攻撃したもので、彼ら戦闘員は基地のイスラエル兵士もろとも空爆で殲滅されてしまった。
 戦闘員の一部がキブツを襲撃したのは戦争犯罪だが、そこでも戦闘員たちは人道的に対応したと、一時人質になったが生き残ったユダヤ人が証言している。むしろ家の外で涼をとっていたユダヤ人人質たちを一斉射撃でパレスチナ人戦闘員と一緒くたに殺したのはイスラエル治安部隊だった。
 ハマースを人面のケダモノ、バケモノとするイスラエルのプロパガンダは、蛮行を正当化するための欺瞞である。『ガザ日記』同様に、最近緊急発行された『ガザとは何か』の著者岡真理は同書のなかで、他者の人間性の否定はヒューマニティーの喪失であり、自らが人間であることを手放すことだと言っている。

ハマースと名付けた者たちを非人間化する言葉が氾濫する中で、パレスチナ人が人間であるということを私たちが理解するために、私たちは文学を、文学の言葉を必要としています。文学は、人間にヒューマニティを取り戻させます。
                                             (『ガザとは何か』P.145

 今回の新しい「ナクバ」から生き残ったアーティフ・アブー・サイフは、〈私の魂が宿っている場所〉はガザであり、運良く偶然に生き伸びた者として、〈この物語を語らねばならない〉義務がある、と書いた。ならば、人間として辛くとも『ガザ日記』は読まねばならない。
 マスコミが報道しないパレスチナの実際を知るためには、岡真理『ガザとは何か』は、一般人向けで分かりやすく、資料も豊富に示されている。必読だと思う。
 他に、1972年に36歳の若さで暗殺されたパレスチナの作家ガッサン・カナファーニーの『ハイファに戻って/太陽の男たち』が河出文庫に入っている。


*8月15日、ガザでの死者だけで4万人を超えた。
参考:岡真理『ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義』大和書房(23年12月)

2024年5月31日 (金)

安重根

谷譲次の安重根
「安重根―十四の場面」

 キム・フンの『ハルビン』(新潮社)を読んだ。『ハルビン』は安重根を描いた小説だ。安重根とは伊藤博文を射殺した独立運動家として韓国では周知されている。日本では知る人は少ないが、初代総理大臣伊藤博文を殺したテロリストとして語る知ったかぶりもいて、歌手のBoAや東方神起らが安重根義士記念事業会に5000万ウォンを寄付したさいには、反韓ネトウヨ界隈が騒いだこともある。反韓ネトウヨの反「韓流」の根拠にもなっている。
と書きながらも『ハルビン』についてはここには書かない。
Photo_20240531224802  ここで紹介したいのは谷譲次だ。谷譲次が「安重根―十四の場面」という戯曲を書いているからだ。谷譲次は知られるだけの資料は読んだ上で「安重根」を書いた。そして明治の元老にして初代総理大臣である伊藤博文を殺した朝鮮人を、たんにテロリスト「犯人」に仕立てた訳ではない。しかしやはり実際の安重根とは異なる像だったかも知れない。
 谷譲次の「安重根」はアナーキスト的だ。そして伊藤博文を殺害すべきかを悩む。〈上っ面な賞讃と激励で玩具にされているような気がして、〉同志たちから担がれることに自尊心が傷つく。
 谷譲次の安重根は、実在した安重根ではなく谷譲次の創造物だ。谷譲次の安重根は、谷譲次自身を反映した自由人だ。属することを嫌っている。反骨の精神で大日本帝国に抗しているが、民族を背負うことにも違和感を持っているし、伊藤博文を殺したところで独立運動は活性化しないだろう、と思っている。何故か。
 谷譲次は本名を長谷川海太郎という。1900年1月生まれ35歳の短い生涯だったが、3つの筆名を使い分けて書いた凝縮された作家人生だった。
 長谷川海太郎は、米国体験記「めりけんじゃっぷ」物で知られる作家谷譲次でありながら、「丹下左膳」を書いた時代小説家林不忘でもあり、犯罪実録小説や家庭小説を書き翻訳もやった牧逸馬でもあった。
 父親長谷川清は、1871年佐渡の相川に生まれ自由民権運動の強い影響を受けたという。佐渡中学の教師で寄宿舎の舎監も務めていた。このときの生徒に北一輝がいた。新潟新聞に和歌を寄稿するなど文化活動に熱心だった。母由起は儒学者葛西周禎の長女だった。
 長谷川清は1902年函館に移住し名を「淑夫」と改め、「世民」と号して『北海新聞』『函館新聞』などでジャーナリストとして働いた。長谷川世民として民本主義・普通選挙を論じ、トロツキーにも言及していた。そのペンは反骨で、1910年に不敬罪、1917年には選挙違反、1919年には新聞条例違反で逮捕されている。
 谷譲次である長谷川海太郎は、長谷川世民の第一子として新潟県佐渡郡赤泊村に生まれた。海太郎が1歳のとき、父に従って一家で函館に移住した。海太郎は幼児期から父に英語を教えられ、国際色豊かな港町函館で海外への憧れを胸に育ち、小学校の頃から文才が注目されていた。
 海太郎は、函館中学三年在学中の1917年、学内ストライキを首謀して落第して上京する。明治大学専門部に入学したが、大学の勉強に飽き足らずアナーキズム的社会主義者として著名だった大杉栄の家に出入りしていた。
 1920年、明治大学専門部を卒業。単身渡米しオベリン大学に入学するが、2ヶ月で退学してアメリカ各地を放浪した。食堂のボウイ、召使い、香具師、鉄道の下働き、ホットドック売りなどをして働き、IWW(世界産業労働者組合)に入っていたこともある。ピジンな英語を駆使する日本人「メリケンジャップ」として活躍したのだ。
 1923年、イギリス行きの貨物船に乗り込み、途中から乗り換えてオーストラリア行きの貨物船に石炭夫として乗り込んだ。そこは「人種混合国際社会」だった。

Photo_20240531224801 谷穣次は日本国家を背負って生きていなかったし、自分が日本国家の一部だという自覚を持っていなかった。ただ彼は自分が日本(にっぽん)に生まれたということ、そして自分は日本人だということの自覚を持ち始めていた。……
 そしてその自覚は、このアメリカでの四年間の間に彼の心の中に育ってきたものであった。繰り返せばそれは、日本国家への愛でもなければ、日本国家の一部であるというアイデンティティの自覚でもなかった。行政組織としての国家からはなれて日本と日本人への愛と自覚であり、アイデンティティであった。
                       (室謙二『踊る地平線 長谷川海太郎伝』p.156)


 海太郎はオセアニアから北上し大連で脱船し、朝鮮半島を経て1924年7月頃帰国した。この後、東京と函館を行き来して『函館新聞』などに執筆した。翌年から本格的に執筆活動を始め、谷譲次・牧逸馬・林不忘名を使い分けた。
 谷譲次は古い観念や体制の常識に囚われない創作の自由を生み出していった。
 1928年中央公論の特派員として訪欧の途上、哈爾賓駅に立ち寄る。
 哈爾浜駅に降り立った谷譲次は、そこで伊藤博文の死を連想し、映画の一場面を想像した。〈最初スクリンいっぱいに、失踪中の汽車の車輪を大きく見せて、つぎに字幕。〉
 このときの興奮が「安重根」を書かせる契機になったことは容易に想像できる。

ここはその朝、外套に運動帽子といういでたちでレスナヤ街二十八号の友人金成白の家を出た安重根が、近づく汽車の音に胸を押さえながら、ぽけっとのブロウニング式七連発を握りしめたという椅子である。殺した人も殺された人も、もうすっかり話しがついて、どこかしずかなところでこうして私達のようにお茶を喫んでいるような気がしてならない。
                                 (谷譲次『踊る地平線』)

 この文の初出は、1928年『中央公論』8月号、「安重根」の発表は、1931年同誌4月号だ。しかし「安重根」は単行本に収録されることも上演されることもなかった。
 日本文壇の日本語に徹底的に反対しバカにしていた谷譲次ならではのモチーフだったのだ。
Photo_20240531224901  長谷川海太郎は筆名林不忘で「釘抜藤吉捕物覚書」を書き、歴史的事実とは異なり時代考証を無視した時代小説を打ち出した。そして隻眼隻手の悪漢ヒーロー「丹下左膳」で大衆小説のみならず、歌舞伎、映画とヒットさせ大衆芸能界を席巻した。
 長谷川海太郎は、「谷穣次」名で実話・雑文、メリケンジャップもの。「林不忘」名で捕物帖などの時代小説、「牧逸馬」名でミステリーや家庭小説を執筆し、どの名でも流行作家だった。
 1935年6月29日午前10時鎌倉に建てたばかりの自宅で脳溢血のため急死した。
 室謙二は優れた評伝『踊る地平線 メリケンジャップ 長谷川海太郎伝』にこう書いている。


外国で使われる日常的日本語を、意識的に日本国内に逆流させることによって日本語に一つの可能性を吹き込もうとした。……日本語は変容させていいのである。変容させるべきなのである。そしてその日本語を変える力は日本国内であれ、日本国外であれ、日本人であれ外国人であれ、日本語を自分が生きるための大切な道具として考え、使っているすべてにあるはずだ。 p.201

 最後に海太郎のキョウダイたちについても簡単に触れておきたい。
 ちなみに、谷譲次の「安重根」を収録した黒川創編集の『〈外地〉の日本語文学選2 満州・内蒙古・樺太』に「家鴨(あひる)に乗った王」も収められているが、作者の長谷川濬は谷譲次(長谷川海太郎)の弟だ。濬は満州で役人になったり映画協会で働いたりしながら創作活動をした。
 「家鴨に乗った王」は、満州国という人造の社会で真実の自由を求める乞食の王が、町が建国祭で賑わう中静かに死んでいく、というものだ。(初出は、『満州浪漫』第二集 1939.3)
 他に『満州国各民族創作撰集1』(1942.6)に収録された「烏爾順(ウルシュン) 河」などがあり、バイコフの「偉大なる王」の翻訳も手がけた。濬は満州を拠点とした作家だった。
 海太郎のキョウダイはそれぞれ文化界において活躍した。長谷川世民の第1子が海太郎、第2子は画家で地味井平造として探偵小説も書いた長谷川潾二郎。第3子が上述の長谷川濬、第4子は小説家の長谷川四郎だ。四郎の下にキョウダイ唯一の女子玉枝がいた。
 長谷川四郎は知る人も多いと思う。満鉄調査部に就職、1944年に召集され翌年ソ連軍の捕虜となってシベリヤに抑留された。その経験は後に『シベリヤ物語』などの小説に結実している。
 1950年に帰還し「張徳義」、「鶴」などの小説を書き、また映画にもなったアルセーニエフの『デルスー・ウザーラ』の翻訳もした。
 長谷川キョウダイは昭和には珍しい越境性の強い越境志向の作家だった。ただし川村湊は『満州崩壊』において(長谷川濬についてではあるが)、満州国の「五族協和」という幻想への共鳴だった、と書いている。肯んじざるを得ない。時代の制約である。
 しかし、日本人の書いた創作として安重根を書いたものは、戦前戦後を通して他には見当たらない。日本の国家体制が犯罪者としか見ない安重根を芸術化するのは困難だ。そういう意味では谷譲次は時代の制約どころか、日本人の制約を遙かに超えている。
 メリケンジャップ谷譲次は、安重根という魅力的な素材を事実を超えて人間らしく描いた。さて韓国のベテラン作家キム・フンの描いた安重根は如何に。

【参考】
室謙二『踊る地平線 メリケンジャップ 長谷川海太郎伝』1985年 晶文社
松下竜一『ルイズ 父に貰いし名は』1985年 講談社文庫
黒川創編『〈外地〉の日本語文学選2 満州・内蒙古・樺太〉1996年 新宿書房
川村湊『満州崩壊』1997年 文藝春秋
川崎賢子 江口雄輔監修『谷譲次』1995年 博文館新社
谷譲次『踊る地平線』(上)(下)1997年 岩波文庫

2024年5月12日 (日)

金由汀『セーチャメ』『金由汀短編集』

辺境から辺境へ伝達される民俗
金由汀『セーチャメ』『金由汀短編集』社会評論社

 昨年(2023年)在日朝鮮人女性作家金由汀の小説が2冊上梓された。在日女性文学誌『地に舟をこげ』や、大阪文学学校出身者の同人誌『白鴉』などに発表された作品をまとめたものだ。作者は1950年生まれのベテラン作家だが、本になり不特定の読者を得る意味は小さくない。

Photo_20240512212701  『セーチャメ』は前近代を引きずる土俗的な因襲と、植民地化による近代への変化の過程を、ムーダン(巫女)という被差別者の娘として生まれた三姉妹のそれぞれの生涯を通して描いた力作。『セーチャメ』のタイトルは韓国語で「三姉妹」ほどの意味だ。
 三姉妹の母親ミンスッは済州島出身の放浪巫女で、1903年の晩春長女のウォルミを連れてウラジオストクから清津(チョンジン)に着き、巫堂(ムーダン)として祈祷しながら済州島に辿り着いた。済州島でミンスッが住み着いたのは兔山村(トサンマウル)という因襲に満ちた村だった。
 妊娠していたミンスッはそこでウォルゲを産み、3年後にはウォリが生まれた。セーチャメの父親はそれぞれ違った。この小説に出てくる女たちは、とにかく男に犯される。女たちもそれを当たり前のように受け入れる。ないしは諦めている。ミンスッの3人の娘たちもそれぞれほぼ強姦されて妊娠する。相手が誰かなどほとんど問題にならない。孕めば産むだけだ。
 長女であるウォルミの父親は王族の血をひく両班の息子を自称していたが遊び人で働かない。色白で背が高いウォルミも気位が高くすましている。自分では男を弄んでいると思い込んでいた。老人の妾になったが子供を産み落とすと逃げた。京城(ソウル)に辿り着くが都会ではウォルミの魅力もかすんで、売春しか生きるすべがなかった。
 次女のウォルゲは肌は白いが日に焼けて黒かった。ネズミや虫を平気で手で捕まえる逞しい少女だった。父はウラジオストクの男だったためか、瞳は薄茶色で時折青くなった。
 ウォルゲは済州島の女らしく力強かった。自分の意志で生きていこうと思い家を出て海女になった。済州島の女性は雨露さえしのげる場所と畑があれば、畑を耕しながら海に入った。ウォルゲは子供を産んでから後には日本に出稼ぎに行き海女をしたり商売をしたりして生きたが、北朝鮮に帰国して寂しく死んで行った。
 ウォリはおとなしい性格で霊感があり、母に従って巫女になった。
 物語は前近代の原始的民俗が残る20世紀初頭の済州島から、戦後の朝鮮、日本、朝鮮民主主義人民共和国の老人ホームまで広がる。大阪の朝鮮人部落の様相や在日朝鮮人の逞しい暮らしが描かれると同時に、北海道への徴用、たこ部屋の悲惨な様子などまで描かれる。
 ミン・ジン・リーの『パチンコ』よりずっと歴史的リアリズムに長けている。

Photo_20240512212702 『金由汀短編集』に収録された諸篇は、主に日本を舞台にして在日朝鮮人の像を描いている。ただ、その様相は一様ではなく単純化もされない。あるがままの複雑を描く努力が成されている。
 特徴的なのは、朝鮮民主主義人民共和国訪問団や北朝鮮が描かれたことだ。
 「イカ釣り」は祖国訪問団を乗せる万景峰号が舞台だ。同乗する李俊一は10歳で北朝鮮に「帰国」した「キーポ」だ。平壌音楽大学大学院で学んだエリートだが、日本のラジオ放送を聞いていたのを密告され査問された。自己批判を強要された俊一は不穏分子の摘出と日本での資金調達を指令された。万景峰号は日本で仕事をしての帰路だった。船縁では油にまみれたランニング姿の乗務員たちがイカ釣りに熱中している。李は共和国のエリートとしての矜持で底辺の彼らと違うのだと自分を納得させようとしていた。
「タンポポ」でも万景峰号は重要なモチーフだ。純子は祖国訪問団の一員として万景峰号に乗った。父李顕成は事業に失敗して33年前に朝鮮民主主義人民共和国の帰国事業で帰国している。顕成の兄家族は一家揃って帰国していたが、母や純子姉弟はついて行かなかった。
 純子は25年前、在日朝鮮人の歌劇団が祖国公演したさいにその一員として、痩せて白髪になっていた父と再会していた。顕成は朝鮮で再婚、妻玄末順とのあいだに息子光烈があり、光烈は妻と娘三人の暮らしだ。顕成の死後、墓を守っているのは光烈だ。
 今回の祖国訪問は父の骨を分骨して持ち帰るためだった。墓参にサムシンと呼ばれる神房(シンバン)が同行するなど、社会主義国だとは信じがたい迷信が北朝鮮にも生きている。
 純子は父の好物だったタンポポのナムルを、北朝鮮でも食べていたと知り懐かしさを感じた。
 「蛇の穴」の明子も万景峰号で北朝鮮を訪ねた。父の母である祖母が35年前の1971年に北朝鮮の養老院で亡くなっているのだ。祖母は叔母たちと住んでいた。
 明子は祖母の墓土を削って持ち帰るが、病室の父は表情を変えない。
「タンポポ」でも「蛇の穴」でも、北朝鮮の親族は日本の親戚に経済的援助を頼む。帰国した在日の親戚と日本に住む同胞との関係が垣間見える。
「むらさめ」の主人公明子は「蛇の穴」同様に親が済州島出身だ。明子は大阪で居酒屋を営んでいる。夫は働かないで妻が働くのが当たり前という済州島出身「在日」あるあるが語られる。
 ここでも、寺でムーダンが踊り転げ回る様子などの民俗が描かれ、古き在日朝鮮人の生活、風習、因襲が書き残されたとも言える。また、在日方言が多用される点も注目に値する。
 この小説は重層的な差別もモチーフの一つになっている。韓国のなかでも陸地(本土)に差別される済州島、その中でも明子の母の故郷である最南端の村は差別されていた。仕事嫌いでのんきな夫は明子を所有物思っているなど女性差別も背景にあって差別の構造は複雑だ。
 中国東北部朝鮮族自治区から日本に留学して来た青年の実体を描いた「翔べないガチョウ」では、借金までして日本に来たがアルバイトの生活に疲弊していく。
 主人公は〈これが、あの、皆が羨む輝かしい外国の留学生活か?〉と思い悩む。日本に来てから犯罪者になった者、逃げていく者、不法就労のまま金儲けに励む者を見ているからだ。
 外に、韓国に留学中にスパイとして逮捕されてしまう青年を描いた「一一三番」、朝鮮市場のキムチ屋で働く女性たちの事情を描いた「黒柿」など、在日朝鮮人を描いた佳作を集めていて好感が持てる。
 在日という辺境は北朝鮮や朝鮮族自治区という辺境、また歴史の狭間で見失われそうな時間軸の辺境に繋がっているのだと読まされた。
 残念なのはやや雑なところか。細部まで神経の行き届いた文章とまでは高望みはしないまでも、もう少し丁寧に作って欲しかった。罪は作者4割、編集者6割である。

2024年4月22日 (月)

ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳 白水社

霊魂との対話あるいは連続する惜別
ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳 白水社

 イスラエル軍のガザ侵攻で3万4千人を超える人々が殺され、パレスチナの民は今も餓死と病死に直面している。イスラエルはヨルダン川西岸地区でもパレスチナ人を迫害し、日常的に逮捕と殺害を繰り返している。人間がなんでこんなにも残忍なことができるのかと、自分の無力を嘆く声も聞こえてくる。
Photo_20240422144101  ロシアのウクライナ侵略戦争で、ウクライナ軍の戦死者は3万人を超え、民間人の死亡者数も甚大だ。ロシア側も含めた死傷者数は50万人を超えると推定されている。
 ロヒンギャ族を迫害したミャンマーでは、国軍と民主勢力や少数民族勢力との内戦が劇化している。
 スーダンでも1年前から軍と準軍事組織の武力衝突が始まり、すでに1万人以上が死亡したと伝えられる。
 チョン・ジアは『父の革命日誌』に、深刻さを跳ばした剽軽な文体で〈人間だから失敗し、人間だから騙し、人間だから人を殺し、人間だから赦す〉と恐ろしい真実を書いた。韓国の文学は歴史的事件を作家に引きつけるのに果敢だ。方法文体も多様だ。

 ハン・ガンの『別れを告げない』は、作家自身を投影したキョンハが友人の住む済州島を訪ねて体験した霊魂との対話を描いた小説だ。霊魂とはいえ、死霊とも生き霊とも判然としない。
 ソウルの病院にいるはずの友人インソンとの会話によって、四・三事件当時のインソンの母の経験を追体験していく。(四・三事件とは、米軍政庁下にあった李承晩政権下の済州島で、韓国軍、警察と西北青年団などの反共団体などが起こした一連の島民虐殺事件を言う。金石範の小説『鴉の死』や『火山島』等の小説で広く知られるようになった。)
 キョンハは、「あの都市で起きた虐殺に関する本を」を2014年に出版した。これは光州民衆抗争を素材としてハン・ガンが書いた『少年が来る』のことだと推定される。
 キョンハとインソンは若いときに仕事で知り合って以来の仲で同い年だった。
 インソンは20代後半からドキュメント映画に関心を持ち、ベトナムの密林の村を移動しながら韓国軍による性暴力のサバイバーたちにインタビューしたり、1940年代に満州の朝鮮独立軍で活動した認知症のおばあさんの日常を撮ったもので注目された。次に自分自身を撮ったものに、1948年の済州島のモノクロ映像を挿入した作品を作ったが評価は低かった。その後木工の学校に入学し、お母さんの介護のために済州島に帰って家具職人になってしまった。
 小説家のキョンハはインソン不在の済州島を訪ねなければならなくなった。インソンは済州島の自宅作業場でケガをしてソウルの病院にいた。キョンハは頼まれて、インコに水と餌を与えるために済州島でも交通不便な僻地にある家に向かった。
 大雪だった。キョンハは雪に阻まれて道を失い、道でない雪の塊の中へ転がりこんだ。枯れ川の底に落ちてしまったのだ。1948年の四・三事件の当時、この小川の向こうに40戸くらいの集落があったが、人々は皆殺しにされ廃村になっていた。
 かつて小川であった枯れ川は、生と死の境界であるに違いない。今は生も死も境界の川も雪に覆われている。
 雪に足を取られて凍えながら、やっとのことでインソンの家に辿り着いたキョンハは、鳥が死んでいる事実を見つける。死んだ鳥を埋めてやったキョンハの前にまず死んだ筈の鳥が現れる。やがてソウルの病院にいる筈のインソンが現れて語りかける。
 インソンは両親が40代のときに済州島に生まれた。成長してソウルでカメラマンとして働いていたが、済州島に帰り4年のあいだ母の介護をして看取った。母は四・三事件の生き残りだった。インソンは母の経験を聞き、資料を集め、枯れ川の向こうの村にカメラを持って行った。そこには父さんの家もあったはずだ。
 インソンは昼間は工房で家具を作り、夜は四・三事件の口述証言を読んだ。米軍の記録とマスコミの報道、裁判も受けずに収監された受刑者の名簿と保導連盟虐殺の資料が集まって事件の輪郭がはっきりしてきた時点で、自分が狂い始めていると感じた。
〈人間が人間に何をしようが、もう驚きそうにない状態〉に陥った。
 アカやアカの家族だという理由で殺された済州島の人々は3万人を超えた。証言者は「私は海の魚を食べません」と言う。裸で海に捨てられる「水葬」と呼ばれる処刑で殺される人々が大勢いたからだ。
 1950年に朝鮮戦争が始まると、予備検束されて殺された人の数は20万~30万人と推定される。
 ガザでも若い男は「ハマスかも知れない」という理由で殺されている。幼い子どもたちにも容赦ない。〈絶滅のために殺した子供たち。〉大人になったらハマスになるかも知れないし、女はハマスを産むから殺されるのだ。ヨルダン川西岸地区でもパレスチナ人は無限に逮捕され、殺され続けている。「赤狩り」「反共」と変わらない。
 壁に映った影をなぞって線を引く場面が出てくる。白い壁に映った影は霊魂の写しだ。霊魂が文学ならば、影を辿る作業は霊魂を形にする文学的行為なのだ。
 これは生き霊、死霊を越えた霊魂の物語だ。
〈彼女が霊魂であるなら、私をどこまで連れていこうとしているのか。〉とキョンハは思う。霊魂は文学の謂である。ハン・ガンは作者でありながら作品に導かれる者でもある。
 小説全体を覆うのは雪だ。墨を塗った99本の丸太で象徴される無限の死を、白い布のような雪が包んでいく過程を記録する映像のようだ。小説自体が惜別のために惜別を雪で覆っていくのだ。

2024年3月18日 (月)

酒井誠『酒井定吉とその時代 一共産主義者の星霜』

共産党史を個人史から読む
酒井誠『酒井定吉とその時代 一共産主義者の星霜』知道出版

Photo_20240318220501  高史明読んでいて、共産党の50年問題の不条理を考えさせられた。
「列伝06高史明」では、共産党に関する参考書として、中北浩爾『日本共産党 「革命」を夢見た100年』(中公新書 2022年)と日本共産党中央委員会『日本共産党の100年 1922―2022』(新日本出版社 2023年)の2点だけあげておいたが、その後、『酒井定吉とその時代』を知った。
 同書は1893年生まれで日本共産党の極初期からの党員だった酒井定吉(sadakiti)の生涯を、その息子で、言わば共産党員2世だったがその後除名された誠が追った記録だ。
 定吉は徳田球一の推薦で1925年初秋の日本を発ちクートヴェに留学した。クートヴェとは東洋勤労者共産大学のことだ。ソ連が東洋諸国の勤労者を教育するための機関だ。台湾からの留学生謝雪紅や、中国からの蒋経国に関する記述もあって興味深い。(蒋経国については周知だろうが、謝雪紅もたいへん興味深い。)
 定吉の入党は1927年8月、渡辺政之輔の審査を受け片山潜から入党確認の通知を受けたというのだから歴史的人物だ。
 しかし日本共産党は小林多喜二が小説に書いたように、1928年3月15日に1568人も検挙されて、主要幹部を失い大打撃を受けた。
 コミンテルンは直ちに、日本共産党再建のため定吉ら4名を帰国させた。
 定吉は、山代吉宗、山代巴、加藤四海、春日正一らと〈京浜グループ〉を組織して活動中1940年5月に逮捕され1945年9月に釈放されるまで獄中に囚われた。グループのなかで加藤四海は逮捕翌日の取調中に殺され、山代吉宗は1945年1月獄中死させられた。
 作家山代巴の『囚われの女たち』全10巻に京浜グループの人民戦線的思考と活動が描かれた。山代巴は自らの獄中経験を、人権と連帯の貴重な経験として生かそうとした。
 この時期は徹底的な暴力と特高スパイの二重戦術で共産党のみならず、日本の民主主義は瀕死の状態に置かれた。そのためか、戦後共産党では「非転向獄中何年」という称号が幅をきかせた。徳田球一や宮本顕治が英雄視される一方、転向を意思表示して獄外に出て獄中の同志の救援のために働いた山代巴や田中ウタは批判された。
 もう一点、この本で興味をひくのは日本共産党とソ連、中国との関係だ。中ソ両国と日本共産党との微妙な関係。日本共産党はスターリンの支持を受けて暴力革命路線を走ったわけだが、その路線は「中国の道」と呼ばれた。中国革命を模した農村から都市を包囲する暴力革命の道が選択されたのだ。一方、中国の知日指導者は、スターリンが日本に押しつけた武装闘争路線を成功の見込みがないと考えていたようだ。
 中国には、河北省に日本共産党の「党学校」が置かれ、日本革命の活動家を育成するための機関で総勢2000名に及ぶ規模だった。
 武装闘争という極左冒険主義の参加者の一部は中国に追放された。ちなみに定吉は武力路線時の犠牲者の救援と支援に5年間をかけてつくした。しかし高史明のような朝鮮人は救済されなかった。
 1955年7月の第六回全国協議会後共産党は議会主義の道を歩む。しかし、それまでの暴力路線を現在の共産党は分派がかってにやったこととして党史から抹殺している。著者は〈過去に目を背けるものが未来を語る言葉は虚ろに聞こえるだけだ。〉と厳しい。
Photo_20240318220502  朝鮮戦争に関する記述も興味深い。ソ連と中国がそれぞれどんな態度で臨んだのか? なぜソ連は参戦せず、中国は義勇軍を送ったのか。
 著者である酒井誠自身も面白い人だ。共産党員2世で中国に留学している。もちろん日本共産党の指示に基づいての留学だ。文化大革命にも参加する。しかし日中両共産党の微妙な対立を反映して誠たちは日本共産党指導部と対立していく。
 誠は除名され、帰国後は中国物産の販売会社に勤め、中国共産党支持のグループが作った「日本共産党(左派)」に加わった。当然、父とは断絶した。

しかし、レーニンと毛沢東の著作を金科玉条としていた当時の私には、日本の共産党は修正主義に堕落したとの確信は強くなる一方であり、それに加えて、文化大革命に沸き返っている北京の熱気も、十九歳の私に大きな影響を与えずにおかなかった。(中略)私が自分の頭で考えることを取り戻すまで、それから実に二十年余りの月日が経っていた。

 酒井定吉についての本であるから仕方ないが、誠の経験をもう少し読みたかった。文化大革命の経験や、帰国後の政治活動の経験や葛藤をも明らかにしてほしい。
 私が属した新日本文学会にも、共産党員2世で、多分親と断絶して「日本共産党(左派)」の活動をしばらくしていた人がいた。ベトナムに行ったと聞いているが消息は知らない。また、中国物産展を主催して会に経済的貢献をしていた会員もいた。
 1972年に日中国交回復してパンダが上野動物園に来てからしばらくのあいだは、日本人の好きな国第一位は中国だったと記憶している。私自身も学生時代に日中友好協会の会員だったし、中国物産展のアルバイトをけっこうやった。
 現在の日本共産党と中国共産党との関係を詳しくは知らない。中国共産党の現在を支持することはできない。日本共産党に政治的主張には同意する点が多いが、歴史清算はまだまだだと思っている。
 本書は基本的には酒井定吉という共産党員の生涯から描いた日本共産党史というところだが、いろいろと懐かしさを感じさせる本でもあった。

2024年3月12日 (火)

チョン・ジア『父の革命日誌』橋本智保訳 河出書房新社

愚直な人― チョン・ジア『父の革命日誌』を読んで考えたこと、連想したこと

Photo_20240312194401 『父の革命日誌』は、生涯社会主義を信奉し、最後は電柱に頭をぶつけて死んだ父コ・サンウクと、その葬儀に集まって来た人々の姿を、娘であるアリが語った小説だ。宗教二世ならぬ主義者二世のナラティブでもある。
 作者チョン・ジアの邦訳は『歳月』があるが、その静謐な文体とは一転、ユーモラスで回転速く語られる。
 アリは弱音を吐いたことがない。泣いたこともない。〈これがまさにパルチザンの娘の本質なのだ。〉と思っている。
 骨の髄までアカである父は自分で選んだから仕方ないとして、アリはアカの娘に生まれたかったわけではなく、生まれたときから貧しいアカの娘だった。オヤガチャにはずれたのだ。
 アカの子どもは普通の人間と親密にしてはいけない。アリは32歳になるまでメイクはおろか、スキンケアすらしたことがなかった。恋人ができて結婚直前まで進んだが、恋人の親にアカの娘だと知られてご破算になった。
 父がアカであるということで、家族や親戚中が被害を受けた。この国は反共軍事独裁国家「大韓民国」である。今は民主化したとはいえ、少女期をアカの娘として過ごしたアリの苦難は想像に難くない。「家族」の範囲が日本より広いせいか親戚も苦労させられた。甥は陸軍士官学校に合格していたのに身元調査で入学がかなわなかった。
 父がパルチザンになって多くの同僚を殺されながら闘った歴史的背景には、済州島四・三事件や麗水・順天事件などがある。麗水・順天事件を起こした反乱軍は、制圧されたあと残党が智異山に籠もって闘いを継続した。そのとき、父も山に入ってパルチザンとなった。母も同志だった。この韓国現代史については読者諸氏が各自調べて欲しい。
 〈労働者と農民が主となる世の中を夢見て戦った〉はずの父なのだったが、父は労働がまったく苦手で、草取りの2時間にも耐えきれずに帰ってきては焼酎をあおった。農作業は本で学んだ通りには行かなかった。
 妻にセックスを断られて朝までやけ酒を飲でいたという回想などは滑稽ですらある。そうした父をアリである私は「前職パルチザン」と称している。
 この小説、三日も続く韓国の葬式の実態を読むことにもなる。何しろ人が集まり飲み食いする。生き残ったパルチザンの同志たちが全国から来る。父はパルチザンの一員とは言え、有名な革命家ではなく、非転向を貫いた闘志でもなかった。実は組織再建のために「偽装転向」をしているのだが、それを知っているただ一人の同志は北朝鮮に行ってしまったので証言はできない。それでも民主化した韓国、国会議員や大学関係者、出版社などから二十基余りの花輪が並んだ。
 母のパルチザン時代の同僚の娘が何かと世話を焼いてくれる。従姉妹たちも親切だ。エホバの証人の信徒も来るし、右翼の老人も来る。アリの教え子たちも手伝う。
 社会主義者で唯物論者だった父は、生前自分も貧しいのに、私的所有を批判してきたためか、「大衆」に分け与えてしまう人だったし、村の人たちのためにお節介を焼く人だった。
 頭を金髪に染めた高校中退の少女は父のタバコ友だちだった。少女の母親は、〈アメリカに勝った世界で唯一の国〉ベトナムの出身だ。
 また父は、担当だった情報課の刑事と冗談を言い合い酒を酌み交わしたりもした。(ちなみに現代日本でも、担当の公安刑事が定年前の挨拶に来たなんて話を聞いたことがある。)
 アリは逮捕され拷問を受けた前職パルチザンの父ではなく、実直に村人と付き合ってきた父の実体を確認していく。
 失敗だらけの人間が嫌いで人と付き合いたくないアリに、父は答えた。人間だから失敗し、人間だから騙し、人間だから人を殺し、人間だから赦す。なんだか名言だ。
 父コ・サンウクは実直を越えて愚直な、お人好しな社会主義者だったに違いない。そういう人は確かにいる。騙されやすい人だ。
 そういう愚直をお人好しのバカと思うか、芯の強い意志の強い人間だと思うかは人によって違って良い。
 愚直と言えば、徐勝(ソ・スン)さんの『獄中19年』(1994年7月 岩波新書)に崔夏鍾(チェ・ハジョン)という人についての記述がある。
 徐勝さんはソウル拘置所から大邱の特舎に移送されると、すぐに激しい暴行を受けて萎縮していた。励ましてくれたのが崔夏鍾さんだった。
 崔夏鍾さんは朝鮮戦争を人民軍政治軍官として戦った。彼は1961年、38度線の北側「朝鮮民主主義人民共和国」から南派して「大韓民国」に潜入した。朴正煕配下の将軍だった叔父崔周鍾(チェ・スジョン)を訪ねて、南北統一のために力を合わせるように説得した。
 まったくお目出度いにもほどがある。もちろんすぐに逮捕された。以来1998年3月に釈放されるまで囚われの身の長期囚だった。
 2000年6月に朝鮮民主主義人民共和国へ送還され、当地で祖国統一賞を受賞した。存命かは知らないが祖国統一を否定する金正恩政権下では彼も彼の家族も心配だ。
 キム・ハギ『完全なる再会』にも崔夏鍾をモデルとした人物が登場する。
 こういう人を愚直と言うのだと思う。
 安保法制が騒がれた頃、2014、5年頃のことだが、家の前を3人の高齢女性がデモ行進していたことがある。彼女らが立ち止まってハンドマイクで安保法制反対を訴えるのをベランダから見ていたら、郵便受にチラシを入れていった。
(安保法制の強行採決は、国民主権の基本原理に違反し立憲主義を否定して、集団的自衛権の行使を容認する暴挙だ。戦時の後方支援拡大や武器使用拡大、自衛隊の海外における武力行使に道を開くものだった。安保法制以来、日本の平和主義はぐだぐだだ。)
 そのうち家を訪ねてくるようになり、しばらくして赤旗日曜版を購読することになった。いまでも集金にきているが、80代後半のお歳だ。娘さん等ご家族が車で送ってくることもある。共産党員て大変だよね。愚直でないとできないと思う。
 中野重治にこんな詩があったのを思い出した。

共産主義者の受けたのとは別な 共産主義者の親であるものとしての迫害に堪えたその人たち
そして息子たちに先き立たれさえし 白髪となり
いまは墓のなかへと行ったその人たち
ああ この登録されなかつた人たちのためどんな切子に今夜灯を入れようか
                         (「その人たち」部分)

 この詩は息子が共産主義者だった場合だから、パルチザンの娘であるチョン・ジアともアリとも逆の立場だけれど同じですね。
 以上『父の革命日誌』を読んで連想したことでした。

2024年3月 1日 (金)

高史明『夜がときの歩みを暗くするとき』「弥勒菩薩」「邂逅」

「在日朝鮮人文学」ないしは「パンチョッパリ」文学としての高史明初期小説

 昨年7月、作家高史明が死んだ。91歳だった。高史明は山口県下関市生まれの在日2世で、自らの少年期を描いた少年向けの読み物『生きることの意味―ある少年のおいたち』(1974年12月 筑摩書房)で多くの読者を得た。また『歎異抄』など親鸞のことばを媒体とした人生論作家として知られる。
 しかし、その作家としての出発は小説だった。
Photo_20240301222703
 高史明の最初の作品『夜がときの歩みを暗くするとき』(1971年6月 筑摩書房)の主人公境道夫は日本人だ。広島の被爆孤児で、共産党に救われ生きる意味を見いだしていたのだが、1950年代前半、分裂共産党時代の暴力革命指令に翻弄され、また「人妻」である泉子との恋愛関係を組織に糾弾されて苦悶する。

 一方で民族革命と日本共産党の活動との狭間で悩む朝鮮人の友人金一竜らも登場する。しかし作家自身の心情を写したのは、むしろ日本人である境のほうだ。その点を小田実や金時鐘は批判的に見ていた。
 高史明の視線は朝鮮民族に向かっていない。高史明にとっての「朝鮮」とは父であり、故郷下関の朝鮮人部落であった。朝鮮半島の南にも北にも実感を持てなかった。
 とはいえ高史明は法隆寺の仏像を観たり、朝鮮の文学に接したときには〈自分のなかにある特殊な感情、あるのめり込みの感情が起きる〉(『彼方に光を求めて』1973年 筑摩書房)。朝鮮を発見し、朝鮮を求めているのだ。しかし高史明の朝鮮は単純にナショナリズムとは結びつかない。
 高史明は1950年代前半の分裂共産党の不幸な時代に、自己の倫理観や愛や善悪を超越して組織から下された指示に依存し、組織との一体感に心酔していた。しかし結局は朝鮮人であることによって組織を放り出された。
 この体験を通して高史明は、属して依存することの危険性を実感している。高史明にとって「ナショナリズム」とはそういった意味をもった。ナショナリズムは高史明の拠り所とはならない。
 しかし作家デビューした高史明は、周囲から朝鮮人作家の一人として認識され、評価された。小田実らによって朝鮮人の登場人物の視点で書かれた方が良かったと指摘されると、高史明はそれはたんに作者の力不足だと応えている。(「書評 高史明著『夜がときの歩みを暗くするとき』」『人間として』7 1971年9月)
『夜がときの歩み~』は季刊文芸誌『人間として』創刊号(1970年3月)から4回に渡って連載され71年6月に出版された。『人間として』7号に、合評形式の上記書評が掲載され、小田実・金時鐘・高史明・柴田翔・真継伸彦による「〈討論〉ことばと現実」でも取り上げられた。
 同討論で金時鐘は高史明について〈彼は朝鮮語を深層心理の中にもっていないと言いながら、自分の言語の体質感として、すでに朝鮮語をもち続けているということではないかと思うのですよ。〉と、かなり穿った見方を披露した。ここで金時鐘は主人公が朝鮮人でなく日本人であることに不満を唱えた。〈私たち自身は私たちを書くということにもっと徹するべきではないだろうか? とりもなおさず在日朝鮮人の文学が自立し得るゆえんでもあるわけだが……。〉と言うのだ。
 こうした偏狭な民族主義的文学論に高史明は音を上げた。そもそも悪童だった高史明は小学校の苦手な勉強のなかでも作文が一番嫌いだったと言う。母のいない、日本語のうまくない頑固な父との貧しい暮らしで、自分を書くことに引け目を感じていたのだ。在日朝鮮人知識人とは付き合いがなかった。たんに朝鮮語を知らなかったし、日本語作文の訓練もできていなかった。
 高史明が『夜がときの歩み~』を書いたのは民族意識ではない。組織で査問されながら、その自分を組織原則で守るために、彼の理解者である別の党員を積極的に査問し、日和見主義者として猛烈に批判した過去への罪障感のためだ。この主題の大きさに主人公を朝鮮人に設定する必然性を、高史明は確立できなかった。
 それでもその後、朝鮮人を主人公とし在日朝鮮人の抱えたものを描いた作品を、高史明は2点発表している。『人間として』7号(1971年9月)に発表された「弥勒菩薩」と、『季刊三千里』3号(1975年夏)に発表された「邂逅」だ。

Photo_20240301222702
「弥勒菩薩」の主人公洪英泰は密航者だ。

 英泰は少年期に父に連れられて朝鮮に帰り、長閑な田舎で暖かく迎えられたが、朝鮮戦争が始まって徴兵された。英泰の部隊は〈共匪〉追討のために英泰の部落を襲った。英泰は引っ張り出された従兄を銃殺しなければならなかった。それから2ヵ月後、英泰は軍隊を脱走し、故郷を捨てて日本へと密航した。
 九州の貧しい朝鮮人家族が密航者の彼を匿ってくれた。女一人で六人の子どもを養っていた母親は、英泰が不安定な密航者だから固持しても、娘の徳子を嫁にくれたのだった。
 英泰は東京で小さな製本所に勤務していたが、依然として登録のない密航者のままだった。英泰は在日朝鮮人のどんな組織にも属しておらず、いつ逮捕されるか分からない無国籍の密航者としての不安を抱えていた。徳子が妊娠すると、無国籍者の立場では育てられないと、無理矢理堕胎させた。
 徳子は情緒不安に陥った。英泰の不安が徳子に反映したに違いない。徳子は精神錯乱を激化していき、刑事に追われる妄想に苛まれていた。
 英泰は徳子を慰めるために京都旅行に連れて行く。京都で訪れた寺の仏像の前で徳子は一心不乱になる。救いを求めて、弥勒菩薩が現世に現れるまでの年月「五十六億六千九百九十九万七千五百」を唱える姿はすさまじい。
 この仏像は、作中には明記されていないが広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像だと推定できる。
 また主人公が朝鮮人の組織と無関係である点は作者である高史明自身を反映している。
 密航者の悲哀が主題だが、追い詰められた精神描写の背景に、韓国のファシズムや戦後日本の不安定な雰囲気も窺える。

Photo_20240301222701  もうひとつの短篇「邂逅」は在日朝鮮人の主人公が、生まれ育った町を訪れた話だ。河求泰は大阪で小さな焼肉屋を営むが、16歳の時に離れた北九州の海辺の町を24年ぶりに訪ねた。彼ら朝鮮人部落の子どもたちが遊んだ風景はなくなっていたが、旧友石文植は暖かく迎えてくれた。
 石文植は日本人妻と二人の子どもとの暮らしで、韓国籍を取得していた。日本への帰化も図ったが拒否されていた。
 河求泰は、朝鮮人と言われながら朝鮮を外国のように感じていた。石文植は生まれ育った日本のこの町が自分の故郷だと言った。
 北朝鮮へ「帰国」した友もいた。しかし、河求泰にとって〈この土地が、この土地の風と空が、彼の故郷であった。たとえ、それが異国の地であっても、この土地をしっかりと両手に抱きしめるほかないのである。彼は、静かに首を横にふりつづけながら思う。おれは、この土地から、出発するほかないのだ……逃げることはできない、おれの悲哀は、この土地とともにある。〉
 こうした感傷は、済州島生まれの金泰生や、大阪生まれとは言え朝鮮と身体的繋がりの深い金石範、そもそも済州島から逃げてきた金時鐘とは異なる。李恢成のサハリン、梁石日の大阪猪飼野のように高史明の下関は故郷として存在した。
 小説「邂逅」は高史明の極初期の作品だが、「祖国」に向かうスタンスを象徴した作品と言える。

 高史明は言う〈わたしは、朝鮮人の一人である。わたしの社会的いとなみは、外国人登録証の登録番号第182877号と切れたところにはない。〉(「明日への断想」『季刊三千里』2号 1975年夏)
 この時点で高史明のアイデンティティーは外国人登録証にあった。
 高史明は、日本人ではないが朝鮮人とも言えない「半チョッパリ」つまり半分日本人野郎という悪罵に自己を見いだしていた。高史明は在日朝鮮人の組織にも縁遠く、同世代の李恢成のように祖国の統一や韓国の民主化に意識の多くを割くことはなかった。
 その上高史明は暴力に溺れた悪童であったし、自らが批判されたことば「日和見主義」で他人を貶める者であった。日本共産党の活動家であったが、朝鮮人であるが故に排除され、朝鮮人の組織からも敬遠されていた。そして12歳の息子に自殺されるまで、息子の苦悩に気づかずにいた親であった。(けいこう社Webマガジン「在日朝鮮人作家列伝 06高史明」を参照されたし。)
 最初の自伝的作品「歎異抄との出会い」三部作の第三部『悲の海へ』(1985年10月 径書房)の冒頭は『教行信証』の引用から始まる。

一切の群青海(ぐんじょうかい)、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄(しょうじょう)の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし。

 高史明が穢悪汚染たる自身を受け入れるまでには時間がかかる。しかし1970年代前半、つまり愛息岡真史を失う以前に小説を書いた営みこそ、高史明の踏み台になったに違いない。
 高史明が傾倒した親鸞の思想については、筆者も考える点が少なくないが、それを語る任ではない。

2024年1月23日 (火)

キム・ヨンス『七年の最後』橋本智保訳 新泉社

書き残せる者は書け
キム・ヨンス『七年の最後』橋本智保訳 新泉社
Photo_20240123155701  書くことによって救われる、生きることができるという境遇は幸福だ。書かないことでしか命が保障されないとしたら、どうすれば良いのか。
 書かない詩人はいない。
 『七年の最後』のキヘンは自分が詩を書いていることをベーラに告白した。北朝鮮の人には絶対に見せないようにと言葉を添えてノートを渡した。
 モスクワに戻ったベーラは国立映画大学にリ・ジンソンを訪ね、翻訳して貰うためにキヘンから預かったノートを渡してしまう。リは美しい朝鮮語で書かれた詩だと言ったが、ノートを持ったまま行方不明になる。
 詩人白石(ペク・ソク)については、アン・ドヒョン(五十嵐真希訳)『詩人白石 寄る辺なく気高くさみしく』を読むまでほとんど知らなかった。『詩人白石……』に書かれた通り、キヘンである白石は人生の後半を詩人としてではなく羊飼いとして送った。
『七年の最後』は白石の主に後半生を描いた。白石は田舎で教師をしながら詩を書いて暮らしたかった。現実には詩作はままならず、ロシア文学の翻訳をしたり通訳をして糊口を凌いでいたが、やがて極寒の館坪協同組合の畜産班に配属され、羊飼いの任務を負わされて生涯を送った。
 小説はロシアの詩人ベーラから始まる。ベーラはゴーリキー文学大学で学んだ女性だ。ゴーリキー文学大学と言えば、日本人として初めて卒業した奈倉有里の『夕暮れに夜明けの歌を』を思い出す。ロシアの政治指導者が新自由主義者であれ国家主義者であれ、ロシア文学の価値は下がらない。
 ベーラの故郷はスターリングラード(ヴォルグラード)だ。ロシア人が誇る「大祖国戦争」で廃墟になりながらナチス軍を破った都市である。ロシア愛国主義のアイコン的歴史だ。逢坂冬馬『少女同士よ敵を撃て』でも背景に描かれた。
『七年の最後』の政治的背景は、朝鮮半島の南北分断統治であり、スターリン個人崇拝からスターリン批判への政治史推移のなかにおかれた北朝鮮という場だ。そこは朝鮮戦争後、対抗勢力の排除が進み、金日成絶対化が構築されつつあった。日本では、共産党が主流派(所感派)と国際派に分裂し、幼稚な軍事路線に走り人民の支持を失っていった時期だ。
 主人公キヘンは朝鮮半島が南北に分断された後、北側を選んだ文学者の一人だった。多くの詩人・作家たちは身の置き所を探して南へ北へと移動した。南側でアメリカが立てた李承晩政権が南北分断統治を推進し、南側で競争者を抹殺していき独裁権力を振るった。そこに民主主義も人権の保障も執筆の自由もなかった。
 ソ連や北側の社会主義政権が民主的・民衆的だと思った多くが北に残ったり、わざわざ越北した。この小説では李泰俊や韓雪野をモデルとした人物が登場する。
李泰俊こと尚虚(サンホ)は粛清された反動的作家として、韓雪野は作家同盟委員長秉道(ピョンド)として、金日成体制に沿って粛清する側として、しかし白石を庇護する立場でもあった。秉道がいなければキヘンは僻地で生きることさえままならなかったに違いない。
 北側に行って、粛清されたり消息不明になったりした文学者は、李光洙、李石薫、金億、林和など限りない。韓雪野も後に粛清されている。体制に従順に書くことも簡単ではない。
 では政治に関わらずに生きられるだろうか。もとよりキヘンが望んだことだが、誰も政治と無関係に生きてなどいけない。
 純粋文学作家だった尚虚は「思想検討」で追い詰められた。もともと政治的作風ではなかった尚虚は書けないことで糾弾された。
〈一九五八年、平壌の人々にはまったく自由がなかったというのは、こういう脈絡からだった。彼らは言われたとおりに聞いたり見たりしなければならなかった。また言われたとおりに話さなければならなかった。〉
 政治方針が方向を変えれば上部は態度を変えることができようが、下の者は慌てる。
政治と無関係に生きることなど誰にもできないが、「政治的人間」も存在し得ない。体制派作家である秉道でさえ葛藤のなかに生きていた。
 在日二世の作家高史明(コ・サミョン)は日本共産党の活動家だった1950年代、恋愛を党に認められず「思想点検」を受け、党の軍事方針に疑問を抱いていた態度などを日和見主義として指弾された。日和見主義を自己批判し、同志の査問に積極的になったとき、党は暴力主義の排除に方針転換して、彼は極左冒険主義と言われた。
 しかし高史明の場合はそれが本人にとってどんなに切実な問題だとは言え、組織内のことだ。
 尚虚やキヘンたちの場合は国家から受ける点検であり、直接に生命の問題だった。逃げ場がない。
 キヘンはベーラ歓迎の晩餐に出席を命じられた。1957年6月のことだ。キヘンは秉道とベーラの通訳を担った。秉道はベーラの故郷スターリングラードを讃えた。しかしベーラはスターリングラードを誇らしく思っていなかった。
 キヘンは思う。秉道の言う芸術には陰影がなく真っ白に塗り潰した絵に過ぎない。
 ベーラに託された詩の書かれたノートは政治に搦め捕られて、キヘンの思想の「反動性」は権力者の掌中にあった。
 政治権力を操る者は、自らが生き残るために容赦がない。彼(ら)がどんなに立派な人格者、成果を上げた革命家だったとしても、英雄として祭り上げてはいけない。英雄は要らない。わたしたちは「指導者は必ず裏切る」と知るべきだ。
 農夫となったキヘンは、手紙や詩を書きたいだけ書き、暖炉にくべた。〈一篇の詩を書き、読み、紙を破って暖炉に入れ、その炎を眺め、〉彼は満ち足りた気持になった。これまでの生涯に書いてきた詩も、新しく書いた詩も同じように燃えて消えた。
 この小説は、詩とは何か文学とは何かと問いかけてくる。この薄汚れた政治社会で生きるとはどういうことなのか。キヘンは書けない詩を書き続けたに違いない。
「作家のことば」「訳者あとがき」までしっかり読んで欲しい。

2023年11月25日 (土)

金石範『鬼門としての韓国行』

金石範『鬼門としての韓国行 『火山島』への道』三元社
다가오는 역사를 바로 보자
政治に抗い虚無を突き破る

Photo_20231125143301  金石範は1988年11月、42年ぶりに故国行を果たして以降、30年弱の間に合わせて13回韓国に入国している。その度に紀行文などで旅の意味を書き残していてる。*その簡単な内容紹介は趙秀一「解説 金石範の訪韓紀行文について」(『金石範評論集Ⅱ 思想・歴史論』)にまとめられている。
 『鬼門としての韓国行』は2段組の分厚い本だ。渡韓したさいの紀行文に合わせて、入国を阻まれたときの所感や、金石範の歴史思想の中核をなす「親日派」批判、四・三犠牲者発掘作業に題材をとった「地の底から」などの作品も集録している。
 これらの記録は単なる紀行文に止まらない。政治との厄介な折衝を含む、金石範の文学的立場の表明であり、『火山島』などの小説を書いていく環境変化の描写でもある。

【韓国(朝鮮)渡航一覧】
 ここでは先ず金石範の朝鮮(韓国)渡航を、金石範の年齢と韓国の大統領を付けて一覧とする。
[戦前]
○1925年10月2日大阪生まれ。
○幼児期に数度済州島に行ったことがある。
○1943年、17歳の秋~44年夏、済州島に滞在。
○1945年3月、ソウルに渡航、4月には済州島で徴兵検査。ソウルに戻り、5月末に大阪に帰った。
【戦後】
○1945年11月(20歳)ソウルに渡り、翌46年夏、一ヶ月の予定で大阪へ密航。そのまま日本滞在が続いた。
 ―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・
○1984年12月(全斗煥)、59歳。『火山島』全3巻で大佛次郎賞受賞、朝日新聞のセスナで済州島近海まで飛んだ。
①1988年11月4日~25日(盧泰愚)、63歳。『文學界』の取材及び韓国の民族文学作家会議、実践文学社の共同招請で42年ぶりの故国行。
○1991年の10月に再度の故国訪問を予定していたが、韓国政府(盧泰愚)の入国拒否で果たせなかった。
②1996年10月2日~18日(金泳三)、71歳。 96’文学の年組織委員会(韓国政府後援)主催「ハン民族文学人大会」参加
③1998年8月24日~9月2日(金大中)、72歳。第2回東アジア平和と人権国際シンポジウム――「済州四・三」50周年記念国際学術大会 参加
④1999年9月29日~10月2日(金大中)、74歳。海外同胞地位向上協議会創立会議に参加
⑤2001年4月1日~9日(金大中)、73歳。「済州四・三事件の跡地と今を巡る旅――金石範さんと共に巡る済州四・三」
⑥2003年3月19日~23日(盧武鉉)、77歳。済州MBC四・三特別企画「四・三と〈火山島〉」出演。
⑦2005年4月1日~7日(盧武鉉)、79歳。民族文学作家会議主催「全国民族文学人済州大会」への出席と、韓国民族芸術人総連合主催「四・三前夜祭」での挨拶
⑧2006年10月13日~17日(盧武鉉)、81歳。 韓国日語日文学会学術大会の招聘講演及び慶州視察
⑨2007年11月9日~13日(盧武鉉)、82歳。日本平和学会2007年度秋季研究集会「東アジアにおける〈民衆の平和〉を求めて――日韓歴史経験の交差」(済州四・三研究所、済州大共催)に発言者として参加。済州空港における虐殺死体発掘の現場に立ち会う。父の山所(墳墓)と祖母の移墓の相談。
⑩2008年4月2日~7日(李明博)、82歳。済州島四・三事件60周年「在日同胞・日本人四・三交流訪問団事業」
⑪2015年3月30日~4月7日(朴槿恵)、89歳。済州島四・三平和賞本賞授賞式で演説。
10月韓国語版『火山島』全訳完成の出版記念シンポジウムは入国拒否される
⑫2017年9月15日~19日(文在寅)、91歳。第1回李浩哲統一路文学賞授賞式で演説。
 金石範文学シンポジウム「歴史の〝正名〟と平和に向う金石範文学」に出席、基調講演 「『火山島』と私――普遍性に至る道」
⑬2018年4月2日~8日(文在寅)、92歳。済州四・三平和財団の招待。
 上の一覧を見ても分かるように、金石範の韓国行は時の韓国政府の性格によって左右されている。

【『三千里』編集委員の訪韓に反対】
 1988年に42年ぶりの韓国行を果たす前に、1981年春、金達寿、姜在彦、李進煕氏ら『三千里』編集委員たちが訪韓したさいに金石範は強く同行を求められた。
 しかし、金石範は『三千里』を背負っての訪韓には反対した。全斗煥軍事政権の誘いに乗って行くわけにはいかない。『三千里』が「南」に対しても「北」に対しても骨抜きの存在になってしまうからだ。
 金達寿ら『三千里』編集委員たちの、韓国行の目的は光州事件で死刑宣告を受けた三人の政治犯たちの減刑釈放の請願という名目だった。全斗煥訪米のあとで死刑執行はあり得なかった。編集委員たちは滞韓中、受刑者達への面会を予定にいれず、政権に抗う民主勢力との接触もなかった。
〈前年五月の全斗煥政権による光州虐殺の一周忌にもなっていないことが、何ともいえぬ死者たちへの冒涜のような気がした。〉P321
 金石範は韓国政府筋の招請には非常に慎重だった。政治の季節に生きる「在日」の作家たちにとって「韓国」は鬼門だったのだ。その門をくぐると大体、文学がダメになったしまうと金石範は考えた。
 1988年11月4日、42年ぶりの韓国行を果たした金石範だったが、国籍が「朝鮮」のままで旅券は発行されず、臨時発給の「旅行証明書」での渡航だった。
 金石範は催眠弾のにおうソウルの街を歩き、また講演や懇談会、歓迎会のスケジュールに追われた。故国の地での歓迎の集まりに心が震えた。また都市貧民の密集地域を訪ねた。再開発による住民の追い出しは、撤去暴力集団によって容赦がない。光州へ行き、光州虐殺犠牲者の望月洞墓地を参拝した。木浦の儒達山に登り、莞島から快速艇で済州島に到着した。
 このような自由な視察は官製の韓国訪問ではなし得ない。
 済州島では済州大学での講演、懇談会に忙しかったが、反共連盟事務局長や幹部による強引な済州道知事、済州市長との面会は拒否した。

【故郷とは何か】
 大阪生まれの金石範は何故済州島に拘るのか。
〈故郷はただ受動的に一定のところで生まれたからとしてそこが故郷になるのではなく、自分の意思で内部に故郷を培い、はぐくみ、作りあげるべきものだと私は考える。〉P70
 1925年生まれの金石範は、生まれたのは大阪だが、両親は済州島出身で、母親が妊娠中に渡日している。
 13歳のときに済州島に渡って数カ月を過ごし、自分が「日本人」ではなく朝鮮人だという民族的自覚と反日思想を自分のものとしていった。
 1943年17歳の秋、父の妹である叔母の家がある済州島の済州市禾北洞(ファブクトン)や、漢挐山観音寺に寄宿して朝鮮語の勉強をしたり、朝鮮独立について考えていた。翌年夏には大阪に戻ったが、済州島で独立を語り合った友は逮捕されてしまう。
 1945年3月、徴兵検査を口実にソウルに渡り、4月には済州島で徴兵検査を受けて第二乙種合格。ソウルに戻り禅学院で李錫玖(イソック)先生とその弟子である張龍錫(チャンヨンソク)らと出会う。彼らは独立運動の闘士だった。5月に発疹チフスに罹り入院。月末に一旦日本に戻って敗戦を迎えたが、11月にはソウルに渡り、張龍錫らの建国同盟に合流。翌46年には漢学の大家鄭寅普が創設した国学専門学校国文科に入学した。この鄭寅普(チョンインボ)は李光洙や崔南善らとともに日本当局の執拗な親日派転向工作のターゲットだったが、屈することがなかった人だ。金石範の師は親日に堕ちず非転向を貫いた人だった。
 また独立運動の同志たちは、金石範が日本に帰って朝鮮に戻れなくなっていたあいだに、李承晩政権にことごとく殺されていった。李承晩政権を支えたのが親日派だ。*1947年から49年のあいだにソウルの親友張龍錫から届いた手紙が22通残されており、『金石範評論集Ⅱ思想・歴史論』に収録されている。

【親日文学批判】
 1948年「韓国」は南朝鮮で強行された単独選挙によって成立した。この「南」だけの分断選挙に反対する朝鮮全体の運動の一環として済州島の四・三事件が起きた。そうして成立した李承晩政権によって数万の島民が虐殺され、沈黙を強いられた。
 金石範は韓国への出入りの背後にある政治的取引に敏感だった。韓国の軍事政権とその流れをくむ保守政治には妥協しなかった。当然、日帝時代の親日文学に対しても批判的態度を変えない。
 朝鮮近代文学の祖と言われる李光洙に対しても、その「親日行為」を指弾している。〈民族保存のための協力とは何か。協力とは李光洙にとって自身を含めて日本人化すること、天皇の赤子となることであるのだから、どうして民族の保存ができるのか。「民族保存」と「日本人化」は両立しない。〉(P147)と詭弁を批判した。
 李光洙が解放後も、自分が「内鮮一体」と天皇崇拝を唱えたのは朝鮮民族の禍を和らげるためだとして、反省の弁を述べなかったことに怒ったのだ。
 日帝支配の時代にも、金石範の師であった鄭寅普や、詩人韓龍雲など少数だが親日派に下らなかった知識人は存在した。
 金石範が「親日」と責任を追及するのは、悪質で極端な者たち、積極的、主導的役割を果たした者たちで、やむを得ず受動的に「親日」の態度を取った一般民衆を含むものではない。
 無論、歴史的状況を無視して語ることはできない。波田野節子『李光洙──韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』(中公新書)は歴史の制約を強調した論だ。しかし金石範は、行為の主体たる個人の責任を否定することに強い違和感を表明している。
 体験者で朝鮮人である金石範と、日本人という加害側である波田野節子とでは、立場から見える視点が変わっても仕方がない。波田野の論は日本人読者「私」にはある程度響くが金石範には届かないだろう。

【苦難の韓国行から自由へ】
 金石範は訪韓には慎重だった。金石範は「朝鮮籍」のままの訪韓を求め、政府批判を含む発言の自由を担保しない訪韓を嫌ったからだ。
 ちなみに「朝鮮籍」とは、1947年5月2日、日本国憲法施行の前日に公布され即日施行された勅令である外国人登録令によって「外国人」と規定された「朝鮮人」の国籍欄に記入された記号であって、当然1948年に成立した大韓民国及び朝鮮民主主義人民共和国のどちらかを指すものではない。
 金石範は統一していないどちらかの権力を背景にした国籍に与しないため、韓国が民主化した今日でも朝鮮籍を保持している。
 金石範は、上記一覧の①~③までは韓国入国の申請をするたびに政府批判をしないことと国籍変更の約束を求められた。
 ③の1998年8月の東アジア平和と人権国際シンポジウム参加のさいは、すでに金大中政権だったが、安全企画部に敵視されていた金石範にとっては、困難な渡韓だった。参加者一同の抗議書簡が政府に届き、ギリギリで入国が許可され最終日に到着できた。
④以降は権力による渡航の困難がなくなった。
 そして記憶が抹殺され歴史が殺されてきた「四・三」が公になり、「悲しみの自由」を獲得した。四・三事件の犠牲を声に出して悲しんでも、逮捕されたり拷問されたりすることはなくなったのだ。
 特に2003年10月、盧武鉉大統領が済州島を訪問し、島民・犠牲者に公式謝罪した事実は大きな意味を持った。
 しかし2009年に李明博政権が登場すると、韓国の政治は右旋回する。2015年朴槿恵政権下で金石範は入国を拒否された。同年4月、第一回済州島四・三平和賞を受賞した金石範の演説を、朴槿恵政権の与党セヌリ党国会議員や右翼が問題視し、保守系新聞なども騒いだ。結果、11月韓国語版『火山島』全訳完成の出版記念シンポジウムへの参加のための韓国入国は拒否された。
 それでも、韓国の市民は壮大なローソクデモなどで朴槿恵政権を退陣に追い込み、文在寅民主政権を誕生させた。
 そして金石範は2017年9月には第1回李浩哲統一路文学賞を受賞し訪韓した。この時の演説「解放空間の歴史的再審を――解放空間は反統一、分断歴史の形成期」では、李承晩政権の正統性の否定、解放空間(1945~48年)の歴史的再審、再検討の必要を要求した。
 金石範は「大韓民国」の正統性を問うた。反共を国是とした大韓民国建立の正統性の否定に繋がる「四・三事件」の正名(ジョンミョン)こそ必要だと主張したのだ。
*2015年4月1日「第1回済州平和賞授賞式における記念講演」と2017年9月17日「第1回李浩哲統一路文学賞受賞記念講演」は『金石範評論集Ⅱ 思想・歴史論』(明石書店)に収録されている。

【文学と政治】
 ところで金石範の著作をこのように紹介すると、金石範文学が政治先行の政治主張のためのもののように思われてしまうかも知れないが、まったく違う。
 金石範は四・三民衆蜂起の宣伝文学、スローガンを書いてはならないと言う。政治的な勢いに乗るとどんな立場であれ、それは文学をダメにすると。
 金石範は文学が政治に絡め捕らわれることを嫌った。
 『鬼門としての韓国行』は、1945年から1988年に韓国訪問を果たした42年のあいだに、金石範が政治と格闘、葛藤してきた精神を反映している。
 金石範はその間に済州島四・三事件を題材にした「鴉の死」に始まる多くの作品を書き、虚無を超克し、深い絶望から脱出する道のりを歩んでいた。1976年からは後の「火山島」になる「海嘯」の連載を始め、1983年に『火山島』第一部全3巻を上梓した。
 1986年からは「火山島」第二部の連載を始めた。1988年には東京とソウルで済州島四・三事件40周年記念集会が開かれ、歴史から抹殺されてきた四・三事件が公然化し、韓国で『火山島』第一部が一部省略ながら出版された。この年に金石範は韓国訪問を果たしたのだ。
 金石範の韓国行に妥協はない。親日派政権による政治との闘いが続いた。『鬼門としての韓国行』に親日派批判が相当頁数を割かれているのには意味がある。
『火山島』は1997年に全7巻発行が成し遂げられ、2015年には韓国で全訳が完成した。そのさいにも、親日の後継である保守政治に入国を阻まれたが、2017年には91歳で李浩哲統一路文学賞を受賞して渡韓、上記したように大韓民国の正統性を厳しく問う演説をした。
 金石範は、現実の朝鮮(韓国)から引き離され、虚無に陥りながらも在日する意味を文学において生きた。42年ぶりに韓国行きを果たしてから、更に政治とは妥協しない文学的闘争を強化していった。
『鬼門としての韓国行』は、政治に抗う文学的闘争の記録であり成果でもある。

2023年10月10日 (火)

斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』

詩人の読書は、ペンを持たない

斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』岩波書店

Photo_20231010141501  愚銀のブログに書いたパク・ソルメ『未来散歩練習』の書評に、この小説を語る上での大事な要素を省いた。それは小説の主人公で作家の私が、マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人びと』を読んでいて、そこに登場するジャックらをあたかも友人のように感じ、私の生活とリンクしているという点だ。
 パク・ソルメ自身も小説の登場人物さながらに『チボー家の人びと』に愛情を感じていたのだろうなあ、と思っていたら、翻訳した斎藤真理子もこの長編小説にはだいぶ思いが深いようだった。『図書』に連載してこのほど上梓された『本の栞にぶら下がる』の第1回と2回に渡って書いている。
 あとで聞いた話だが、『チボー家の人びと』の翻訳出版を手がけた白水社から、自作『未来散歩練習』の翻訳が出版されたことに、パク・ソルメ自身喜んだそうだ。
『本の栞にぶら下がる』には、翻訳者斎藤真理子ではなく文学少女からおとなの読者になるまでの斎藤真理子の読書遍歴の一部が、美しく描かれている。
 その読書は思想としての「韓国文学」を構築する底辺に蓄積され土台となっていたと言えるかも知れない。ここで書かれたのは必ずしも有名な作家詩人ばかりではない。
 朝鮮を歌った詩人後藤郁子の読者はそう多くはない。抵抗の詩人として知られる石川逸子は最近〈戦前、たとえ詩であっても、皇国思想に楯突くことは相当な覚悟を必要としたであろうに、敢然と立ち向かった詩人夫妻がいた。〉(「邪悪なる植民地支配 詩で抗う」東京新聞2023年10月8日)と書き、後藤郁子の詩「或る朝鮮少女に」を紹介している。
 斎藤真理子は、その石川逸子の以前の言葉を借りて、「或る朝鮮少女に」を「朝鮮へのすぐれた恋歌」として、茨木のり子の戦後の詩「七夕」と並べて示した。「七夕」は茨木夫妻が散歩していると、焼酎の匂いをぷんぷんさせるステテコ姿の男性が振り返る。喧噪の絶えない在日朝鮮人の家と、古代以来もたらされた渡来文化の恵みとを結びつけて連想させる詩だ。
「七夕」への思いも、後藤郁子夫妻の紹介もじつに的確で染みる。
 小学生のころから茨木のり子のファンだった斎藤真理子は、大人の読者として自らを振り返る。
 茨木のり子は「ハングルを学び」韓国の詩を日本の読者に翻訳紹介した初めての日本語母語者詩人だったが、斎藤は韓国語で詩を書き韓国で詩集を出した韓国語詩人でもある。1990年代初めソウルに滞在した1年2ヵ月のあいだに生まれた詩をまとめて2018年に上梓している。(詩集『단 하나의 눈송이(ひとひらの雪)』)
 同詩集のあとがきで、論文や新聞記事だったら韓国語で書くことはできなかったろうけど詩だから書けたのだ、と書いている。詩は内側から生まれ出てきた言葉だから未熟でも書き留められたという意味か。詩人の素質を表したのだろうと思う。
 斎藤真理子は20代初めから「あ、」と思った詩を万年筆でノートに書き写してきた。これが大事だなあ、とつくづく思う。書く行為こそ文学心を育む。振り返るならば、悪筆で早くからワープロを使っていた自分の文学的無能を感じざるを得ない。
 このエッセイ集で初めて知る詩人もあった。中村渠(かれ)は沖縄の詩人だ。中村渠は詩集を出していない。大城立裕が作った私家版が沖縄県立図書館にあるのみで、斎藤はそのコピーを取り寄せて、自らも作っていた中村渠の詩をコピーした綴りと並べて見る。
〈中村渠の路地が、朝鮮にも通じていた〉。
 斎藤は、この無名の詩人を朝鮮の有名な詩人鄭芝溶(チョンジヨン)と並べた。
 鄭芝溶は北原白秋主宰の雑誌『近代風景』に日本語詩を投稿していた。同時期に中村渠も投稿していて、斎藤真理子はこれらをコピーしていた。白秋と斎藤は母語の異なる、朝鮮と沖縄という日本に支配された地域の詩人の、〈風通しの良い、端正な、一語一語が粒立つような詩〉に気づいていた。現代史に飲み込まれて死んだ二人の詩人を、斎藤真理子はこのエッセイで追悼したのだ。
 考えてみれば追悼集なのかしらとも思う。林芙美子と郷静子、漱石と李光洙、後藤明生と李浩哲、永山則夫、長璋吉、田辺聖子、森村桂等々だ。マダム・マサコには知識も経験も追いつかない。
 斎藤は編み物しながらも本を読む。思いもよらないことだ。(不器用ですから。)実はこのエッセイの冒頭で、斎藤と同郷の作家高野文子の『黄色い本――ジャック・チボーという名の友人』という本を紹介している。主人公は田家実地子といって読書と編み物が好きな女の子だ。同じ新潟の高校生で同じように『チボー家の人びと』の読者だった斎藤真理子の内心に与えた影響は想像に難くない。
 筆者は、斎藤の前著『韓国文学の中心にあるもの』について、斎藤真理子の読書は地下茎のように張り巡らされている、と書いた。このエッセイ集も縦横に地下に伸びた根から、地上に芽吹いたものだ。
 ちなみに筆者も本を読むとき付箋を立て、黄色マーカーを使う。しかしこの本は装丁の素朴な美しさに遮られたのか、書き込みしないと決めて読んだ。斎藤真理子謙虚なり、汚すべからず。

2023年8月24日 (木)

パク・ソルメ『未来散歩練習』斎藤真理子訳

パク・ソルメ『未来散歩練習』斎藤真理子訳 白水社
ぼくの未来散歩練習

Photo_20230824211401  パク・ソルメ『未来散歩練習』はタイトルどおり散歩する小説だ。散歩の舞台は主に釜山だ。
 小説は私の語る部分と、スミを中心とする物語の二部構成になっている。
 私はソウルで会社勤めしながら創作活動している作家で、釜山で部屋を探していたが、銭湯で出会った60歳ぐらいの白くて大きい人チェ・ミョンファンに紹介されたマンションの部屋を借りる。
 チェ・ミョンファンは女子商業高校を卒業後、アメリカ文化院近くの貿易会社の経理係として勤務した。1982年3月のアメリカ文化院で火災が発生した日に、性被害にあっている。
 お金を貯めて増やして家を購入して、家を担保にしてお金を借りてまた家を買い、家の価格が上昇すると売って儲けた。儲けた金を家族に上げてしまったりしないで、自分で貯金し結婚もしないで一人で生きてきたので、頭の変な女として扱われた。
 私は歩いては食べ、食べては歩いて考える。ソウルと釜山を行き来してチェ・ミョンファンと親しく交わる。
 また、私は釜山を歩きながら考える。アメリカ文化院が見える昔デパートだったビルの6階男子用トイレで1982年に大学生がビラを撒いたこと。80年5月の光州に関するアメリカの責任を問うビラだった。その日、アメリカ文化院には20歳前後の若い女性4人が入っていき持ち込んだガソリンに火をつけた。
 釜山アメリカ文化院は、今は釜山近現代歴史館になっている。その建物は1929年に東洋拓殖株式会社釜山支店として始まった。解放後は米軍宿舎として使用され、1949年から米国海外公報処アメリカ文化院になり、朝鮮戦争中にはアメリカ大使館の役割も果たした。1999年に米国政府から韓国政府に返還されたときには「釜山アメリカ文化センター」となった。2003年7月から近現代歴史館となっている。
 私は現代美術の展示で、釜山近現代歴史館に関する原稿を依頼される。
 この小説の別面ではスミとスミの叔母ユンミ姉さん、スミの中学時からの友人ジョンスンが描かれる。
 中学生のスミは、父が事業を失敗して釜山の母の実家に寄宿している。そこにユンミ姉さんが刑務所から出てくる。ユンミ姉さんは1982年の釜山アメリカ文化センター放火に関連して逮捕された大学生だ。
 ユンミ姉さんが光州に行くと言いだし、スミはユンミ姉さんについて光州に行く。スミも「私」と同様に歩く。道庁前の噴水のまわりも歩いた。
 光州で留めてくれた家のおばさんがユンミ姉さんの背中を撫でる。
〈おばさんは姉さんの背中を撫でた。おばさんの小さくて固い手が撫でている姉さんのやせた背中は、それぞれすごく違っているようでいて、もちろん違う体だけれども、それぞれ違う性格の肉と骨が重ねられたところのように見えた。〉
 光州事件に抗議した放火事件で逮捕されたユンミ姉さんにたいする、光州に住むが光州を語れないおばさんの優しさが連帯の影のように描かれた。
 スミの物語は「私」の書いた小説なのかも知れないが、そうではないかも知れない。
『未来散歩練習』の時間的背景には光州事件がある。光州事件については映画「タクシー運転手 ~約束は海を越えて」やハン・ガンの小説『少年が来る』などで知った日本人も少なくないと思う。
 当時「光州事件」は日本では報道された。
 その前年、ぼくは「李恢成の作品について」という中学生の感想文ほどの力んだ評論を『流域』という雑誌に掲載した。
 1981年に鄭敬謨のシアレヒム語がく(楽)塾に入塾したものの二次会の酒飲みが目的になってしまって、韓国語は上達しなかった。
 しかしここで知った友人が主催した「千葉光州を忘れない会」に行って金泰生の講演を聞いた。光州の闘争と虐殺を忘れず、歴史を問い返しつつ今を生きる日本人の集まりという主旨だった。1982年5月29日のことだ。この日も翌日まで飲んだ。
 その年8月初めて韓国に行った。ソウルのピマッコルは、今は一部だけが観光用に整備されて残されているが、当時はまだ鍾路にそって長く続く汚れた路地だった。安飲食店や安旅館も並んでいた。鍾路やピマッコルを行ったり来たりして、夜は酒を飲んで多分一週間ほど過ごした。
 その後高速バスで光州に向かった。光州市内に入る前に銃を構えた兵士がバスに乗り込んできて、最後尾まで進みUターンして出て行った。型どおりの任務を遂行したのだろう。誰も誰何されなかった。
 光州でも安そうなホテルに宿を決めると散歩に出かけた。
 光州公園で出会った同年代の青年に、公園内の博物館、民俗館、安重根義士崇謨慕碑や国立光州博物館、光州学生運動に関する資料館などに連れて行ってもらった。
 夜はまた呑んだ。その頃の生ビールは安全な瓶ビールと違ってどこで作ったか分からない代物で生ぬるくまずかった。おかげで翌日は下痢腹を抱えてバスに乗り、秀吉の朝鮮侵略戦争「壬辰倭乱(文禄の役)」時の金徳齢将軍を祀った忠壮祠などをまわった。
 その間に「光州事件」については一切話さなかった。

『未来散歩練習』で、東京に留学したスミをユンミ姉さんが訪ねてくる。スミは東京案内をしようと思うが、姉さんはあまり歩かず同じ喫茶店に何回も入ってコーヒーを飲んで過ごした。
 姉さんは韓国に帰ったら病院行きよと言って帰って行った。作者は歩いて歩いていろいろな人と交流しながら、人権に繋がる過去を描こうとしたのだが、最後の最後で「横臥者の視線」を表出したくなったに違いない。
 われわれは立って闘う者だけではない。市川沙央『ハンチバック』を引き合いに出すまでもなく、超高齢者のお世話に明け暮れる前期高齢者の身であれば、この連帯の困難は身に染みている。

 さてさて1982年夏、光州を後にしたぼくは釜山にも行って大分歩いて疲れた。釜山にはさして興味も湧かず嫌な経験はいくつかして関釜連絡船に乗って帰国したのだった。『未来散歩練習』を翻訳した斎藤真理子さんの「推薦の辞」によると、斎藤さんも同年夏に釜山を歩いたらしい。どこかですれ違っていたかも、などと妄想寸前の現在である。

2023年8月 9日 (水)

イ・グミ『アロハ、私のママたち』李明玉訳

結婚移民女性たちが切り開いた道
イ・グミ『アロハ、私のママたち』李明玉訳 双葉社

Photo_20230809112001  イ・グミの『アロハ、私のママたち』はタイトルのとおり、ハワイに生きる女性たちを描いた小説だ。ハワイを背景にした韓国の小説としては、去年(2022年)翻訳出版されたチョン・セラン『シソンから、』(斎藤真理子訳)がある。『シソンから、』は朝鮮戦争時に家族を虐殺されて、逃げるように最後の写真花嫁としてハワイに移民したシム・シソンにまつわる物語だった。シソンが闘い切り開いた、女性が虐げられず、男性が虐げることのない知的な社会への道を、ハワイを訪れた子孫たちが確かめて行く。
 『アロハ、私のママたち』の主人公たちが朝鮮を発ったのは1918年、シソンより30年以上前だ。シソンの親の世代で、最初期の「写真花嫁」としてハワイに移民した女性たちの物語だ。
 中心になるのは、慶尚南道金海(キメ)に近いオジンマル村に住む没落両班の娘ポドゥルと、その友だちで村では金持ちの家の娘ホンジュ、被差別的立場である巫堂(ムーダン)の家の娘ソンファの三人だ。
 ポドゥルは義兵に出た父を亡くし、兄も殺され、普通学校を2年の途中で辞めて家事や弟たちの世話をして暮らしていた。
 仲介人の話によると、ポワと呼ばれていたハワイは遊んで暮らせるほど豊かで、縁談の相手も若い地主でポワに行けば楽に暮らせるばかりか、学校にも通えるという。
 朝鮮の女性は古い身分制度に縛られ、男尊女卑の思想に抑圧され、日本に蹂躙されるという二重三重の迫害を受けていたため、このまま故郷で暮らして生きる希望を持てない娘たちには写真花嫁は希望に思えた。写真花嫁たちはそれぞれ固有の事情も抱えていた。
 日本を経由してやっとの思いでポワに着いて見ると、待ち受けていた男たちは、親か祖父ほどの年齢で、過酷なサトウキビ畑で働く農業労働者たちだった。彼らは虚偽の年齢、職業、収入で写真花嫁を募集していた。
 写真花嫁たちは泣く泣く結婚して嫁ぎ先に発って行った。三人もバラバラな地域に嫁ぎそれぞれ苦労して生きるが、後には再会して助け合うことになる。
 ポドゥルの夫テワンだけは若かったが、独立運動ばかりに熱心で家庭を見返ることがなく、ついには中国に行ってしまう。
 日本に迫害される朝鮮から、楽園と思ったハワイにやってきた娘たちだったが、そこも侵略の歴史と差別の横行する社会だった。
 ハワイは王国であったが、1895年1月に女王リリウオカラニは逮捕廃位され、1898年8月、アメリカ合衆国の準州とされた。
 ハワイの土地は白人に合法的に奪われ、サトウキビやパイナップルの農場では、白人農場主たちが先住民労働者を酷使していたが、輸出拡大につれ労働者不足になり、日本人などを使うようになっていた。
 朝鮮人労働者は日本人に較べて少数だったが、日本人労働者が賃上げや待遇改善を求めて争議を繰り返したため、スト破りとして使われることもあった。朝鮮人たちは労働者同士の連帯よりも、日本に対する民族的恨みを選択した。
 ハワイは階級闘争と民族矛盾、民族差別が錯綜して、分裂と団結が複雑に絡み合っていた。
 朝鮮人社会にあっても、パク・ヨンマン派とイ・スンマン派に政治的に分裂し時には暴力騒動も起き、ポドゥルたちも否応なく巻き込まれていた。
 ハワイは多民族社会であり、多言語社会でもあった。ハワイの農場や労働現場、生活の場では、英語、ハワイ語、日本語などの混じったピジン語が意思疎通に使われた。朝鮮の儒教的身分社会しか知らないポドゥルたちにとって、ハワイは異世界だったに違いない。そこは女でも母親でも一人ひとりに名前のある社会でもあった。ポドゥルは自分の母の名前すら知らなかった。
 ポドゥルたちの世代は殆ど英語はできないが、ポドゥルの子どもたちの世代になると英語の方が普通になる。
 1941年12月7日、日本軍がパールハーバーを奇襲攻撃した。ポドゥルの息子ジョンホは軍隊に入る決意をする。朝鮮からの移民2世は国籍はアメリカだが、親の国籍は日本だ。アメリカ人にとって朝鮮系はなく、彼らも日系アメリカ人に過ぎない。アメリカ市民で愛国者であると示すためには軍隊に入る必要があるのだ。
 朝鮮系ハワイ移民は立場も精神も複雑だ。安易に単純化できない複雑を複雑なまま表出することに、スローガンやコピーではない文学の意味がある。
 南国の観光地のイメージが強固なハワイの歴史に、詳しい人は少ないだろう。多少知っている人間でも、日本の支配が強まる朝鮮から、1000人以上もの女性たちが写真だけで結婚移民したという事実を考えたことがあろうか。彼女たちはそれぞれ『シソンから、』のシソンの親なのだと思う。
 原著の内容をしっかり検証した翻訳に好感を持った。翻訳者の体験と調査で関西弁を使っているのも違和感がない。
 作者と翻訳者がともに「李」氏だが、発音は「イ」と「リ」にしている。互いに否定しない関係も良い。

2023年6月 9日 (金)

チャン・ウンジン『僕のルーマニア語の授業』/ 済東鉄腸『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』

マイナー言語のまま阻害された心を描く、言語民族主義の克服
チャン・ウンジン(須見春奈訳)『僕のルーマニア語の授業』CUON
済東鉄腸『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』左右社

 2022年2月にロシアのウクライナ侵攻が始まって1年4ヵ月が過ぎた。南部ヘルソン州でドニプロ川に設置されているカホフカ水力発電所の巨大ダムが破壊され、600キロメートル以上が水没、数千棟の住宅が浸水、ウクライナ市民6000人超が避難した。ロシアが仕掛けた地雷の多くが流されてどこに行ったか分からない。貯水池の水が減少して農業に深刻な被害が予想される。化学物質や細菌も流出し、深刻な環境汚染も懸念される。ザポリッジャ原発の冷却水も不足し危険な状態が更に悪化しそうだ。
 毎日の悲惨なニュースのおかげで、それまでまったく知らなかったウクライナの地名や地理に少しだけ詳しくなった。とはいえ、ロシアとウクライナの関係など何となくしか知らないので、黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)を読んだが、東欧の歴史は複雑怪奇だと嘆息するしかない。余りにも無知だったからだけど、島国根性に汚染された身にはなかなかに理解が追いつかない。
 同じスラブ民族でルーシ公国を先祖としながら、北方に逃れたモスクワ公国の方が強大なロシア帝国としてウクライナを支配することになり、独立後の今もまたウクライナ支配を企てているとは、名状しがたい。
 ウクライナとロシアは同じスラブ語ながら異なる言語を使用していて、ウクライナ語は常にロシア語によって弾圧され消滅の危機にあっていた。現在も東部や南部、クリミア半島ではロシア語が強制されているようだ。なんだか日本による朝鮮植民地支配における朝鮮語、朝鮮文学弾圧を想起したが、同族という意味では沖縄言葉の禁止の方が近いのかも知れない。
 ウクライナ戦争によって、ウクライナ周辺の国々の位置関係を知るようになったボンクラは私ばかりではないと思う。
 ウクライナの南に位置する大きな国はルーマニアだが、ルーマニア語はロマンス諸語に分類されるので、ウクライナ語とは大分違うようだ。だがルーマニア語は隣がウクライナだけのことはあり、スラブ諸語の強い影響を受けているのだそうだ。
Photo_20230609212001  韓国の作家チャン・ウンジンの『僕のルーマニア語の授業』を読んで、ルーマニア語の授業って、そう普通に書かれても日本の大学でルーマニア語て発想は浮かばない。韓国にしても登場人物たちの母校は外国語大学に違いない、などと自己を納得させている。
 もっともハン・ガンに『ギリシャ語の時間』という小説もあるので、井戸のように狭いダイニッポンコクと違って韓国では多様な語学が学ばれているのかしら、などと思わない訳でもない。
 さて『僕のルーマニア語の授業』は、大学の「初級ルーマニア語翻訳演習」のクラスで見つけた、秋の瞳を持った彼女を回想する僕の話だ。この短い小説に出てくる登場人物は、主に僕と彼女キム・ウンギョンと後輩のヒョンスの3人だ。一見なんともなく自由に生きているように見えても、3人とも行きにくい世の中で辛い生を耐えている。
 学生時代の僕はルーマニア文学の研究者として大学に残るつもりでいたが、今は満員電車に押し込まれて運ばれる平凡なサラリーマンだ。
 僕が翻訳していたドリネル・チェボタールは無名に近い作家だった。チェボタールは都会に暮らす人間の孤独をよく表す作品を書いていて、自身も不安と孤独を抱えていた。アルコール依存症で精神病院に長期入院していたこともある。僕が翻訳した9篇目で最後の小説「キャンドルと夢」は精神病院で書き上げた作品だ。作家は孤独と苦痛を毎日紙に刻み磨くように綴ったに違いない。
〈たったひとりのために好きな作家の小説を翻訳することがどんなに楽しかったか。〉
 寒さの中駐車された車の下に隠れる野良猫の、腹を減らせた姿が魅力的に描かれる。
Photo_20230609212002  この美しい小説を読んでもルーマニア文学に特別な思い入れをすることはないのだが、気になっていた『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』(左右社)を読んだ。書いたのは済東鉄腸という若い作家で、難病を抱えながらネット上で「友だち」を増やしてルーマニア語を学びルーマニアで作家デビューしてしまった。
 済東によると、ルーマニアでは小説家で飯を食うことはできず、作家とはイコール兼業作家なのだ。だいぶ以前に島田雅彦が、日本の小説家は殆ど労働者作家だと話したのを聞いたことがある。小説を書く大学の教員や医者とかが労働者かどうかも疑問だが、わが国には働かない専門作家もいるだろう。
 さてこの本『千葉からほとんど出ない引きこもり~』は、済東のルーマニア文学に熱中していく過程や、試行錯誤、失敗と赤恥の表出に嫌みがない。若者言葉・文化の連用には爺読者としてはやや引き気味だけど、共感の方が圧倒的に多い。自己肯定感の低いひきこもりである済東には誇張した自尊心は見えない。カッコイイを目指した様子はあるのだが率直でペダンチックでない。こじれたネトウヨと対照的だ。10歳以上若いルーマニア人を師匠として仰ぎ、ずっと年上の研究者を友人としている。
 日本人が外国語で文学作品を書く、というのは多和田葉子が代表選手だろうし、斎藤真理子も韓国語で書いた詩集を上梓している。逆にリービ英雄、デビット・ゾペティ、アーサー・ビナード、シリン・ネザマフィ、楊逸、李琴峰など文学的表出に日本語というマイナー言語を選んだ外国人はもはや枚挙に暇がない。彼らは帝国主義によって言語を押しつけられたのではなかった。
 こうした文学徒はこれからも増えるだろう。世界には母語ではない言語を自己の文学表現のツールとして選択する作家や詩人が少なくない。言語民族主義の終焉は近い気がする。
 ロシアよプーチンよ、ロシアファースト止めようよ。時代遅れの思想はこの惑星を終わりに近づけるだけです。

2023年4月 6日 (木)

ペク・ナムリョン『友 벗』

北朝鮮体制派作家の文学
ペク・ナムリョン『友 벗』 和田とも美訳 小学館

Photo_20230406210601  ペク・ナムリョン『友』が描いたのは1980年代北朝鮮の地方都市だ。北朝鮮の市民生活を描いた小説が日本で翻訳出版されることは珍しい。
 作者のペク・ナムリョン(白南龍)は北朝鮮の作家だ。それも解放前(日本の植民地時代)からの作家ではなく、また海外に脱北した反体制作家でもない。北朝鮮で地位を得ている体制派の小説家だ。訳者解説によると、この本は1988年に平壌で出版された。北朝鮮はまだ金日成(キムイルソン)の時代だ。韓国でも1992年に発行され、フランスやアメリカでも翻訳出版されている。
『友』は離婚訴訟をめぐる請求者夫妻と、これを担当する人民裁判所判事及び判事の妻や、職場の同僚たち等の姿を通して、家庭とは夫婦とは何かという問題を提起している。
 チョン・ジヌは山間都市の人民裁判所で判事として勤めている。そこに女性が離婚相談に訪れる。女性は33歳のチェ・スニ、芸術団のメゾソプラノ歌手だ。夫は機械工場の旋盤工で35歳のリ・ソクチュン。
 チェ・スニは「あの人とは生活のリズムがまったく合いません」と涙ながらに訴える。自らは向上心が強く、夫は余りにも平凡で会話が成り立たなかった。
 スニも元は同じ工場に勤めていたが、才能を認められて道(行政区画)の芸術団で専門歌手になっていた。
 夫のソクチュンは旋盤工として社会のために服務することを生活信条としていて、開発に失敗すると無駄にした資材分を弁償するような男だった。妻に、人格と知識を向上させるために工業大学で学ぶことを勧められても、大学卒の肩書きより技能工として平凡に生きることが大事だと主張した。
 チョン・ジヌ判事は、7歳の子どものいる二人の生活に深く踏み込んでいく。日本でこういうことはないだろうな、と思う。
 チョン判事は離婚訴訟を調査していくうちに、自分と妻との関係を重ねて考えるようになる。妻のウノクは高地での野菜品種改良に熱心で、しゅっちゅう主張してなかなか戻らない。家の中にも実験温室をつくり、妻のいないあいだはチョン判事が世話をしている。家事もこなすチョン判事は内心では妻に不満を持っていて苛立つこともある。
 この小説には形式的な英雄主義や、典型化による政治の文学化から脱した表現で人間の煩悶が描かれている。むしろ「やりがい搾取」が批判され、社会の変化に伴う人間の欲望に同情的だ。
 どんな社会にも人間の生活があり苦悩がある。喜びがあれば怒りがある。幸福を支える土台に辛い生が固くうずくまっている。
『友』を読むと、北朝鮮社会では家庭が〈社会という有機体の一つの細胞〉とされていることが分かる。家庭は祖国の小さな縮図なのであり、家庭が国家の生活単位だとされている。
 そこに肯定的な評価はできないが、社会の価値観は時代や地域に左右される。日本と韓国で常識が異なる以上に、韓国と北朝鮮に住む人びとのあいだでは、その違いは大きいだろう。今読まれれば別世界の小説と思われるかも知れない。
 しかし江戸の時代小説や、明治を描いた小説を読んで封建的だからダメだとは言えないように、社会を支配する宗教や政治思想が異なる世界を描き、我々とは前提となる価値観が違っても文学的価値が損なわれることはない。
『友』をハッピーエンドと読む読者もいるし、この先の不安を想像する読者もいるだろう。北朝鮮は現代日本とは違う政治社会だが、自己実現と結婚や夫婦生活における相互理解の困難は共通している。
『友』が出版された1988年と言えば、韓国で盧泰愚大統領候補が「6・29民主化宣言」発表を余儀なくされた翌年で、オリンピックが開催された年だ。88(パルパル)オリンピックに北朝鮮は参加していない。その後の南北の歩みは対称的だ。
 北朝鮮の体制派作家を、詩人白石(ペク・ソク)の末裔と呼んだら不遜だろうか。白石だけでなく、ペク・ナムリョンは解放後の混乱のなか追われるように越北して北朝鮮に逃れた朝鮮の作家たちの子孫なのだ。その意味はアン・ドヒョン(五十嵐真希訳)『詩人白石 寄る辺なく気高くさみしく』(新泉社)を参照されたい。

2023年3月16日 (木)

エリザ・スア・デュサパン『ソクチョの冬』

エリザ・スア・デュサパン『ソクチョの冬』原正夫訳 早川書房
他者との邂逅

Photo_20230316200901  韓国は人口も産業もソウルに一極集中している。有名大学もK-POPも最新のグルメもソウルに集まっている。
 フランス語作家エリザ・スア・デュサパンの描いたソクチョは田舎だ。ソウルの北東、春川(チュンチョン)の東に位置する夏の観光地だが、小説はタイトル通り正月前後冬の束草(ソクチョ)が舞台だ。冬のソクチョは雪に覆われている。ソクチョは海水浴客で賑わう町だが、冬に訪れても何もないしとても寒い。そしてその冬はマイナス27℃にもなる近年稀に見る寒さだった。
 主人公で女性のわたしは、朴老人が営む古ぼけた旅館に勤めている。わたしはフランス人の父と韓国人の母の間に生まれたが、父とは会ったことがなく、水産市場で働く母に育てられた。
 小説はわたしが勤める旅館にフランス人の男性が訪れるところから始まる。男は1968年生まれのヤン・ケラン。バンド・デシネというフランス語圏漫画の作家だ。旅館に滞在して自分の作品の最終巻を書こうとしている。
 旅館にはほかに日本人の登山家や、美容整形した後の療養で彼氏と一緒に滞在している顔に包帯の少女などが宿泊していた。
 わたしの恋人は江南のタレント事務所に所属が決まってソウルに行ってしまう。
 ケランは淡淡と街や寺や雪岳山(ソラクサン)国立公園、非武装地帯などを見学しては宿に戻って、自分の部屋で絵を描いていた。わたしの作る韓国料理には手を付けなかった。
 ケランの絵は、本物と見まごうばかりの雪が白く輝き、まるで表意文字のようだ。
 フランスと韓国の地政学的な差異や、ケランの食事に象徴的に表れる文化的差異が、二人の思考のねじれを感じさせるが、わたしはケランを案内したり世話しているうちに親しくなっていく。
 自由の国フランスから来た漫画家が滞在するのは、休戦中とはいえ戦争状態が解消されていない韓国の、北朝鮮との境界線に近い土地ソクチョだ。
 美容整形が気楽に語られる社会風土や、ソウルの芸能事務所に所属してソクチョから出て行く恋人の配置は、魚市場で働く母の実体のある生活とは背反しているように見える。虚栄と実体が共存していて、両者が違和感なく語られるのが資本主義的成長の歪みだ。
 ケランはラジオから流れるK-POPグループの新曲にも眉をひそめる。資本の垢にけがされない原初的な何かをケランは見つけようとしたのに違いない。わたしはそういうケランに共感していく。
 ケランという他者の目を通してソクチョの冬を見直すわたしは、他者である筈のケランにシンパシーを感じ、他者の視点を獲得していくかに思える。一方、ケランもわたしというソクチョの若い女性の言葉にインスピレーションを感じ、自己の作品のヒロインを形作っていく。
 極寒の風景の中で他者と遭遇して自己を発見する。簡潔で繊細な文体が心地よい。
 この小説はフランス語で書かれているが、小説内で使用される言語は英語、韓国語、フランス語の多言語小説だ。その点にも注目しておきたい。
 エリザ・スア・デュサパンは、フランス人の父と韓国人の母を持って1992年に生まれ、フランスとスイスの国籍を持つ。
『ソクチョの冬』はフランス語圏の数々の文学賞の外、2021年には全米図書賞翻訳部門も受賞している。この賞は昨今、多和田葉子の『献灯使』や柳美里『JR上野駅公園口』も受賞していて日本でも知られるようになった。
 この小説がデュサパンの最初の作品で、第2作は在日朝鮮人をモチーフにしていると聞く。その翻訳出版にも期待したい。

2023年3月 4日 (土)

ペ・スア『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』

原初を手探る映像小説だが、「霊魂は比喩です」
ペ・スア『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』斎藤真理子訳 白水社

Photo_20230304110301  世間では「ネタバレ」という言葉が流通している。小説などのストーリーや結果が第三者によって知らされてしまうことを言う。ネタバレするとその作品を読む価値が下がってしまい読む気が失せてしまう現象が起こるので、レビューなどで「ネタバレ注意」と言われることがある。ネタバレしたくらいでつまらなくなる小説に文学価値があるとは思えないが、一般的にはわざわざネタバレを読んでから作品を読む読者はいないだろう。
 しかし、ペ・スア『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』は「誰かネタバレしてくれ!」と言いたくなる小説だ。
 難解な書名の解読さえ、読み終わってもよく分からない。それらしい文は出てくる。
 ペ・スアという作家を体験したことは、欣喜よりも痛痒に近いかも知れない。論理性より映像性が高く、読者は観客ないしは鑑賞者の立場に置かれる。人によっては、この本の読書は修行に似てくる。歴史や政治が隠されて、霊魂の光速だけが描かれるからだ。
 私は2022年6月の『吟醸掌篇』Vo.4に「霊魂は如何にして闘うか」という短文を書き、〈日常からは消し去られている内面に潜在するはずの記憶と呵責が生み出す霊魂〉の実存について、金石範「魂魄」、崎山多美「ピンギヒラ坂夜行」、パク・ソルメ「もう死んでいる十二人の女たちと」という3篇を連続させて論じている。
 その前には、金承鈺『生きるということ 金承鈺作品集』の書評「霊魂の速度」を愚銀のブログに発表している(2021年11月)。金承鈺にとって、追い詰められた実態としての自己が、生活や欲望から自由でない実存であるという矛盾が容認しがたく、霊魂が肉体を離れて光速で飛んでいくという形而上の「経験」を認めた。
 これらの作品では、歴史の呵責や後悔、自己否定の認識が生み出す霊魂が描かれたのだが、ペ・スアが書いたのは意志のない霊魂だ。まず、私は記憶がすべて消えている。
 国籍不明のこの小説の主人公らしい女である私は、廃墟を誘発する者だ。7歳のときに家を壊した。下着を焼き、家族を焼き、眠ったまま深くうなだれて歩いた者だ。私は最後まで猶予された書類であり、永遠に読まれない原稿だ。永遠に、そして何度でも新たに書かれるべき一冊の本だ。
 巫女は私の名を「ウル」だと言う。巫女と言っても韓国や日本の巫女を想起させない。アフリカか中南米に巫女がいればこんな感じかと思わせる。
 ウルの手はひとりでに文を書きはじめる。意志によって書くのではなく、多分だが精神的邂逅によって書くようだ。ただ言葉があり、言葉が言葉を産んだのであり、絶えずお互いに役割を変え続ける言葉たちがあっただけだ。
 ウルは女であり、踊る人で、書く人だ。そのつど即興的にノートを広げ、どのページでもいいから埋めていく。ウルは読む人でもある。読むからには演劇する人だ。演劇は誰の意志も同意もないままに始まる。なぜなら演劇とはすなわち現実だからだ。演劇と現実に境界はない。
 子どもであった私たちの踊りと歌が現実を私たちの世界に引きずり込む。私たちは生を発明した。ウルは子どもであり大人であり、生徒であり、旅行者でもある。
 時はいつも前に流れるだけなのか? という疑問が投げかけられる。私たちという物質的な個人は抽象的な時間とともにその感情の原子系を構築するのだと言う。
「母さんが死んだ 私のはじまりのきざしが消えた!」
この抽象的な台詞が意味するものは混沌だ。実のところ「私」「ウル」「母さん」の区別さえ鮮明でない。私は、私たちであるのかも知れないし、彼女であるのかも知れない。あるいは霊魂を食らう毛の長い黒いルーマニア産の牧羊犬の名もウルだ。実はこの小説は、ⅠⅡⅢの3章に分けられていて、それぞれ別の話として読むこともできるし、同じ人物を次元のズレによって別の角度から描いたとも読める。
「ウルは見る目」であり、見られるものである。
 母さんが死んだ家で、私は両腕を垂らした姿勢で死体のように座っている。ウルは過去であり未来である。私の中に〈はじまりの女〉を感じる瞬間、〈はじまりの女〉が静かに燃えはじめる。同時にウルは自分が誰かの幽霊だという感覚を持つ。
 ウルは、踊っているが、同時に肉体から離脱していく犬の霊魂でもある。
 ウルは自分の目に入ってくる未来の美しさも、残忍さも、信じることができない。つまり小説には書かれないがウルは支配される者でもある。ウルは底知れない暗黒によって見られるものだ。
 ウルは遠くにいる。遠くで書いている。ウルは意志や信念、主義を持たず意識さえ失ったまま書き始める。遠くにいるということは、自覚のないまま暗闇にいるということだ。
 文学はウルが書き取った未知の声だ。暗黒の声だ。
 ウルである私には同行者がいる。同行者は黒ずくめの男性だ。彼は無害だ。匂いもしない。彼は自ら失敗する者であり、廃墟を誘発する者ではない。同行者は巫女によって「偽の名」を付けられる。男はウルの古い友だちであるが互いに記憶がない。
 同行者は「霊魂は比喩だ」と言う。彼は演技者であり神の代理人の側にじっとしている。
 ウルによって、あるいは作者によって生は発明される。同行者によってあるいは読者によって生は演じられる。

  一匹のネズミが言った。
  遠くにいるから
  ウルは遅れて来るだろう

 作者は原初をたぐる寄せられただろうか? 読者は遅れてくる原初を発見できただろうか? 不明。
さて小文はネタバレにはほど遠い。個人の感想です。
解説は巻末の訳者あとがきをご覧あれ。丁寧です。詳細です。斎藤真理子さん、どれだけ読んでるの

2023年2月11日 (土)

キム・スム『さすらう地』岡裕美訳 新泉社

貨車で運ばれた棄民の歴史
キム・スム『さすらう地』岡裕美訳 新泉社

Photo_20230211164101  ロシアのウクライナ侵攻は多くの難民を輩出し、その一部は日本にも辿り着いた。日本にはクルド族などの事実上の難民も、人権を侵害されながら定住している。ミャンマーでは民主派の活動家が国内難民化し、少数民族地域に脱出して闘っている。それ以前からロヒンギャ族の人びとは、国軍による激しい弾圧から逃れる逃避行が続いている。
 6日に起きたトルコ南西部の地震で、被害に遭ったクルド族やシリア反政府組織支配地域住民の今後が心配される。
 難民は侵略戦争と有機的に繋がっている。日本の侵略にあい土地を奪われた朝鮮の人びとは、日本や満州あるいはロシアの極東地域沿海州などに生活の糧を求めて移住していった。移住地では寒冷の荒れ地を開拓して町をつくった。やっと生きられるようになったところで、彼らは追放された。
 1937年8月21日、ソ連人民委員会議および全連邦共産党中央委員会の極秘決定により、国境地域からの朝鮮人追放が命じられた。極東地方への日本のスパイ活動の浸透を阻止するためという名分だった。
 移住という名の追放は、9月9日から10月25日までに、中央アジアへ約17万2000人の朝鮮人が追放された。
 キム・スム『さすらう地』は、馬や山羊などの家畜を運ぶ貨車に詰め込まれて運ばれる人びとと、その会話を描いた。
 いきなりの移住命令で行き先も知らされていない。みな混乱したままだ。夫が行商中で不在の妊婦とその姑、乳飲み子を抱いた妻とキリスト教徒の夫、夫と離婚した母と息子、聴覚を失った歌い手と妻、ロシア人の夫と別れた妻と幼い息子などなど。それぞれの事情を抱えた個別の生を生きてきた。
 彼らはストーブの消えたトイレの無い貨車で、昼夜の区別も分からなくなりながら、持参した食料だけを少しずつ食べ、窮屈な列車内でおまるやバケツに排便して備えられたドラム缶に捨てていた。
 彼らは1ヵ月を超える苦難の旅程を、手も洗えない不潔な状態で過ごさなければならなかった。不安と怒りと恐怖に苛まれながら、お互いの身の上を語り合った。
 朝鮮国籍、日本国籍、ロシア国籍を取った者、ソビエトの人民として認定された者、国籍を一切持たなかった者も、見た目が朝鮮人であれば貨車の客となった。忠実な共産党員、ボルシェビキ、革命家や独立運動家でも、朝鮮人であって逮捕を免れた者は貨車に乗せられた。
 革命が成功すれば朝鮮民族や他の弱小民族も見下されない社会になると信じた朝鮮人には、余りにも悲惨な道程だ。
 42枚の小さな巾着に種を入れてチョゴリとチマの内側に縫い付けた姑の、土地を耕し生きる民の発想は豊かで堅実だったが、運命は想像を超えて残酷だった。
 ファンじいさんの言葉には微かな希望が感じられるが、ここで全てを紹介はできない。ただ、「彼らの主人になろうとするな……、彼らのしもべになってもいけない……」という言葉には歴史を超える重さが感じられる。
 金石範も、長編『火山島』の主人公である李芳根のモットーとして「支配されず、支配しない」を上げている(「インタビュー 支配されず、支配せず」『世界』2019年7月)。
 金石範は自由と平等の精神の謂として語ったのだが、ファンじいさんは、新しい土地で生きる手立、心構えとして語ったのだ。
「どうして私たちが生き残らなくてはいけないんです?」
「生きていたいじゃないですか」
 生きるために、死んだ赤子を車外の草原に放り捨ててでも生きて到着した地には、約束された家も家畜も農機具も用意されていなかった。葦原で出産し、手で掘った穴にむしろをかぶせて住み、現地の民に物乞いして生きた。
 彼らが捨てられた場所は、中央アジアの国カザフスタンのウシュトベというところだ。棄民された朝鮮人は多くの命を失っていったが、生き残った者らは原住民や他の少数民族とも協力して不毛の地を開拓した。
 現在、この地の朝鮮半島に出自を持つ住民は自らを高麗人、先祖から伝えられる言葉を高麗語と言う。
『さすらう地』はロシア語、朝鮮語の多言語小説だが、子孫である高麗人たちによる高麗語文化維持はなかなか難しいと思われる。それでも、小さな巾着に入れられた種子のように、高麗人の文化・文学は耕された地に撒かれ苦難のなかで育っている。

 『さすらう地』とほぼ同時期に発行された,ユン・フミョン(東峰直子訳)『白い船』(CUON)は、カザフスタンからキリギスタンへ高麗語を学ぶ高麗人少女を訪ねる旅。広がりながら滅びに向かう民族文化の儚げな生命力を描いてすがしい。
 高麗人文学に関しては한국문학 번역원『해외 한인문학 현황 자료집 4 고려인 문학』が詳しい。
 東京新聞の報道によると、ロシアに武力侵略されたウクライナからの避難民約3000人が韓国に滞在し、殆どがカザフスタンに強制移住させられた朝鮮人の子孫「高麗人」だ。この避難民の多くが韓国語を話せず、在留資格が不安定で職探しも難しく、苦境に立たされている、という。戦争はまた罪の無い人民から土地を奪い苦難を強いている。

*参考:岡奈津子「ロシア極東の朝鮮人―ソビエト民族政策と強制移住

2023年1月 9日 (月)

金石範『新編 鴉の死』CUON

虚無を描き厭世を突き破る、金石範初期の傑作

Photo_20230109193201  昨年(2022年)韓国文学専門の出版社CUONから、金石範の本が2冊発行された。2017年から2022年にかけて『すばる』に掲載された3篇を集めた『満月の下の赤い海』と、最初期の短編を再編集した『新編 鴉の死』だ。最初の作品と最新の作品が1年のうちに連続して出版された意義は小さくない。殊に『鴉の死』の再版という勇気のある出版は、文学史的意味を持つ。
 金石範の代表作は何と言っても、11000枚の大作『火山島』だ。その続編や、『火山島』を書く作家自身を描いた作品などを含めると『火山島』関連作品だけでも膨大になる。
 『新編 鴉の死』所収の「対談 ディアスポラ的想像力、金石範と『火山島』」によると、金石範は『火山島』の大量の翻訳原稿をすべて読み、誤字・誤訳を細かく指摘する分厚いメモを翻訳者である金煥基に送っている。このとき金石範は90歳近かった。『火山島』にかける金石範の意欲は並々ならぬものである。
 1925年生まれ、老境に至った金石範は、〈『火山島』などの作品が私であり、私と重なった見えない私である。現実の作者の私は影である。〉(「生・作・死」『すばる』2020年12月)と書いている。
 文学作品と作家自身が渾然一体となった存在としての金石範とは何か。
 1948年から1952年まで、金石範は日本共産党の党員でありながら在日朝鮮統一民主戦線系の大衆運動に参加していた。1952年に日本共産党を離脱してからは、北朝鮮に繋がる組織活動で仙台に行くが、そこでの仕事に耐えかねて脱落する。このいかんともしがたい敗北感が金石範をニヒリズムに誘った。このあたりの事情について金石範は、『満月の下の赤い海』所収の「消された孤独」に書いているので、参照されたいが一部だけ引用する。

 Kは「鴉の死」を書くことで、小説人生の荒野を一人で行くような無の出発点に立つ。その荒涼の上に立たしめた背後の力は、仙台での挫折であり、対馬での島からの密航者との一夜であり、解放後の四年間にわたる友からの手紙とその死であり、それがKが背負うべき十字架だった。

 敗北者金石範を救ったのが「鴉の死」の執筆だった。
「鴉の死」は、『文藝首都』1957年8月号に発表された「看守朴書房」に続いて、同誌12月号に掲載された。発表順は前後し、その前にも「夜なきそば」などの秀作を発表しているが、「鴉の死」こそ金石範にとって最初の文学だ。
 「鴉の死」発表の10年後、1967年に「鴉の死」「看守朴書房」「観徳亭」「糞と自由と」の4篇を収めた作品集『鴉の死』が新興書房から刊行された。金達寿の『わが文学と生活』(1998年 青丘文化社)によると、新興書房は朴元俊が朝鮮ものの翻訳を主に出していた小さな出版社で、金達寿が「在日の者の作品もだしてくれないか」と金石範の短編集を推薦したのがきっかけとなった。
 71年にはこれに「虚無譚」を加えた『鴉の死』が講談社から出版、73年には講談社文庫版『鴉の死』が出版された。講談社文庫版は85年に新装版が発行された。1999年には小学館文庫で『鴉の死 夢、草深し』が発行された。その他、講談社『現代の文学39 戦後Ⅱ』(1974年)や集英社『コレクション戦争と文学1 朝鮮戦争』(2012年)にも「鴉の死」は集録された。「鴉の死」は韓国、台湾、フランスなどでも翻訳出版され、英語にも翻訳された。
 「鴉の死」は作家自身がもっとも愛着がある作品であると言うだけではなく、文学史的にも重要な価値を持つ短編小説と言える。済州島四・三事件を告発した最初の作品であると同時に、金石範文学の原点だからだ。
 主人公の丁基俊(チョンギジュン)は、済州島における米軍政庁の通訳だが、実は山に籠もって米軍当局と闘うパルチザンのスパイとしての任務を負っている。彼の正体を知っているのは、友人でパルチザン幹部の張龍石(チャンヨンソク)だけだ。張龍石の妹で丁基俊と相愛の亮順(ヤンスン)もそれを知らない。
 米軍側に下った(と思われる)基俊を亮順は批難する。食い下がる亮順を基俊は暴行強姦したが、後悔した。
〈この冷たい柔かい無垢の肌に永遠の爪痕を残した〉
 亮順は両親とも逮捕され収容所に入れられる。収容所の金網ごしの亮順を見た基俊は潮のように逆巻く悔恨に押しつぶされそうになる。
〈党のために祖国のために! これがこの一瞬の彼をなお不幸にし、おのれを空しゅうできなかったのだ。〉
 処刑されていく亮順の姿に、基俊は限りない呪詛の声を聞く。
 『火山島』読者であれば、丁基俊が梁俊午(ヤンジュノ)の原型だと思い至るだろう。しかし『火山島』の梁俊午は丁基俊ほど深い闇を感じさせない。「鴉の死」では内面の痛み、煩悶、欲求と絶望を丹念に追っている。この絶望は作者金石範が持った虚無と似通っている。金石範は時空と立場を越えて丁基俊に魂を写したのだ。
「鴉の死」こそ金石範を生かした。「鴉の死」を書いたことによって金石範は生きたのであり、「鴉の死」が文学史に残る多くの作品群と、『火山島』を書かせた。
 他にも登場人物の『火山島』との類似が複数見られる。まず、でんぼう爺だ。でんぼう爺は、60過ぎで、肩に生首を入れた籠をぶら下げ「ええや、ほうい、ええや、ほうい」と触れ回る。その姿は、「鴉の死」が描ききれない済州島全体の悲惨な風景を印象づける。
 李尚根(イサングン)は飲んだくれの大男だが、父が殖産銀行重役で、本土の全羅道に広大な土地を持っている島の有力者だ。『火山島』の主人公李芳根(イバングン)の原型だが、ここでは脇役に過ぎない。
 かくのごとく、「鴉の死」は『火山島』の原初的な作品であり、『火山島』は「鴉の死」を角度を変えて書いていったものとも言える。
「鴉の死」より先に発表された「看守朴書房」は、残虐な歴史に非知性の民衆が飲み込まれる様を描いた。
「看守朴書房」で描かれた朴書房(パクソバン)は、黄海道で自分でも素性の分からぬ奴僕だった。「朴」は旦那の姓である。
 京城で支械クンの仕事にありついて二、三年たったが、「女護ガ島」ということばに惹かれて済州島に来た。40歳近い年齢の「老チョンガー」(老いた独身男性)だ。どういうわけか看守に抜擢されて出世した。
 朴書房の楽しみは監房の女囚を見ることだ。特に若い別嬪明順(ミョンスン)を気に入っている。しかし明順にはやがて「釈放」と言う名の処刑が決まっていた。
 明順は獄内でただ一人白くて汚れていない手ぬぐいを持っている。暑苦しい監房で誰に頼まれても隠した手ぬぐいを出さない。それは死刑が執行されるときに出身地と名前を書いて死後身元が分かるようにするためだった。
 この手ぬぐいの逸話は、金石範が後々まで気にかけており、2007年に行われた済州空港での虐殺遺体発掘現場での体験を書いた「私は見た、四・三虐殺の遺骸たちを」(『すばる』2008年2月)でも触れている。
 金石範は24、5歳のときに、済州島から対馬に逃れてきた二人の女性を迎えに行ったおりに、「乳房のない女」K女に、白いタオルをチマのなかに隠しもっていた若い女囚の話を聞いている。明順はこのK女がモデルだと上記エッセイで明かしている。発掘現場で金石範は太股に巻かれたタオルを探すともなく探した。
 明順にすっかり惚れてしまった阿Qならぬ朴書房は、トラックに乗せられた明順を追って走ったため、せっかく出世した警官の資格を剥奪され処刑された。最後の言葉が「おらですな、どうも――大韓民国がしっくりしねんでさ」だった。
「観徳亭」は、『火山島』にも登場する「でんぼう爺」を主人公としている。
 でんぼう爺という名のいわれは、人のでんぼうすなわち腫れ物の膿を吸いだして治療するところから付いた呼び名だ。でんぼう爺は60過ぎの老人で城内(街)では観徳亭の床下で寝起きしていた。
 ところがちょっとしたきっかけで、敗残パルチザンの首を籠に入れて触れ回り、身元を探す公職に就いたのだった。
 田舎の村落から城内に戻ったでんぼう爺は、敗残のパルチザン数十人の行進に遭遇する。彼らは胸に自らを叛徒と罵る「布告」を垂らし、人間の生首を突き刺した竹槍を肩に担いで、観徳亭広場の周囲をぼろぼろに歩かされていた。鴉の群れが竹槍の先の首に食いかかり、まだ生きて歩く敗残兵を責めたりもした。
〈彼はこの首の行列の前で、自分が首をもって歩いた姿がいかにみにくいものであるかをはじめてさとったのだった。〉
 そのとき一人の女が悲痛な声をあげて飛び出した。でんぼう爺に首を探して売ってくれと頼んだソプニだった。ソプニはその場で射殺された。
 老人は大金をはたいてソプニの死体をもらい受け、観徳亭の床下に運んだ。
 看守朴書房やでんぼう爺は、知性の対極にあるような地位を持たない無知で貧しい最下層の庶民だが、その動物的な愛によって「大韓民国」に背を向ける。
「鴉の死」の丁基俊が知性の持ち主であるばかりに、党の任務と人間的欲求との狭間で苦悶しなければならなかったのとは対称的だ。
 「万徳幽霊奇譚」ではもうひとりの民衆象が描かれた。万徳(マンドギ)は、供養主(コンヤンジュ)つまり朝鮮の寺男だった。万徳が観音寺の女管理人「ソウル菩薩」に鞭打たれる関係は『火山島』と同じだが、でんぼう爺らと同様に、こちらの方が主人公なので詳細に描かれる。
 万徳は日本の朝鮮人寺の飯炊き女が連れてきて済州島の観音寺に預けた子どもだった。大柄で力が強く、大きな鼻と優しい心の持ち主だった。日本の植民地時代には徴用されたが、生き残って帰ってきた。
 ところが、ソウル菩薩に鞭打たれながらも安穏と暮らしていた万徳も「大韓民国」とは肌が合わなかったようだ。そこでは、アカの思想以外は何事も赦される。強姦、ドロボー、人殺しなどは警官になる有力な資格証のようなものだった。(なんだかプーチンのロシアが囚人を解放してウクライナ侵攻に使っている現在を想起させる。)
 万徳はアカを射殺する命令を拒否した罪で処刑された。処刑は執行されたが、優しさ故に助けたシラミに助けられて、「幽霊」として生き返り騒動を巻き起こす。万徳の行く末は不明だが、もともと戸籍もなく氏素姓の分からない万徳のことだ。幽霊になって夜な夜な号泣したり念仏を上げたりして、人びとの恐れを買っても歴史には残らないだろう。
 金石範は底知れぬ厭世を「鴉の死」に託し、翻弄される無知な庶民像の抵抗によって均衡を保ったのではないだろうか。
『新編 鴉の死』の出版はそんなところに思いを至らせてくれた。

金石範『新編 鴉の死』CUON

2025年現在、改定第2版が発行されています。

2022年10月28日 (金)

鄭承博(チョンスンバク)さんの記憶

鄭承博(チョンスンバク)さん、天真爛漫の実体は繊細な気遣いの人だったかも

Photo_20221028205104   『吟醸掌篇』を発行している編集工房けいこうのWebマガジンに「在日朝鮮人作家列伝」を依頼され、次には鄭承博について書かなければならない。それで『鄭承博著作集』を再読し始めた。
 鄭さんと親しかった北原文雄さんの『島からの手紙』にも目を通した。北原さんは「鄭承博伝」をまとめようとしていたので、存命であったらアドバイスももらえたに違いないのだが残念。
 初めて鄭承博を見たのはどこかの集会で、昔の弁士を彷彿させる身振り手ぶりの姿だった。
 その後は、94年9月に新日本文学会の大阪での会合のついでに、磯貝治良・小野悌次郎・高村三郎とともに淡路島に足を伸ばしたときだ。大阪港から高速フェリーに乗り、関西国際空港経由で一時間半、着岸するとベレー帽を被った小柄の鄭さんが待っていてくれた。
 そのとき鄭承博さんは71歳でひ孫がいると言っていた。高台に設けた仕事用の家まで鄭さん運転の車で連れて行ってもらった。
 高台の家は二間と台所の平屋造りで、コンクリート造りで蔦の絡まる書庫が別に建てられていた。窓から見える農村の風景が郷愁を誘うものなのだそうだ。
 昼からビールを飲み、紀淡海峡の速い流れに揉まれて身が引き締まった鰈の刺身を御馳走になった。向こうの白鬚神社まで散歩に出たり、戻ってはまた飲んだり食ったり、眠くなると少し寝て、また起きては飲んだりして朝方まで過ごした。
Photo_20221028205101  翌日は鳴門海峡を見学し、娘さんの喫茶店で珈琲を振る舞われた。鄭さんは毎朝ここまで降りてきて犬を散歩させるのが日課だ。
「一緒に住んでいないと喧嘩しないでいい」と言う。駆け落ちして暮らす愛妻とでも一定の距離が必要なのだ。
 次に会ったのは、北原文雄さんの『島からの手紙』によると、95年4月、北原さんが農民文学賞を受賞したときの会場だ。淡路島からの農民文学賞受賞者は鄭承博さんに続いて北原さんが二人目なのだそうだ。
 淡路島にはもう一回行っている。このときも新日本文学会の集まりの後で、小野悌次郎・北岡敏範・高村三郎とともに乗り込んだ。
 96年の9月だ。また天保山から高速フェリーに乗って洲本に降りた。その日は夜の11時頃ようやく洲本港に到着し、鄭承博さん、北原文雄さん、片倉啓文さんら『文芸淡路』のメンバーに出迎えてもらった。
960916  洲本市郊外の大野にある鄭承博邸は、前年の阪神淡路大震災にも倒壊は免れていた。壁は少し崩れたのと、テレビが落ちて壊れただけだと言う。
 また酒宴。豪華焼き肉パーティーである。
 鄭さんに「林さん焼きすぎたらあかんよ」と注意された。裏表鉄板に載せるだけで充分なとろけるような松坂牛だった。鄭さんは殆ど焼かない。
 当然文学論議に花が咲いたはずだが、まったく覚えていない。しかし鄭承博さんは文学論には、ほとんど興味を示さず、自分の人生を如何に描くか、という問題意識しかないようだった。
 また朝方まで飲み明かし、翌日は2台の車で淡路島観光した。運転は鄭さんと北原さん。73歳の鄭さんが飛ばすはとばす。いくら空いているからと言っても最高時速100キロを超えていた。
Photo_20221028205102  洲本城や鳴門海峡などを見学し、昼食は絶景の国民休暇村で支払いは片倉啓文さんにお任せだ。
 その後、鄭承博邸に戻った我々は。また酒盛り、夜には北原さんが獲りたての刺身を持ってきてくれた。鄭承博はこんな人びとに囲まれて過ごしているんだなあ、幸せだ。
 余りにも愉しかったので、私と同じ埼玉から参加した小野さんの2名はもう一泊させてもらった。
 鄭承博さんとは大阪でも何回か会っている。一度は戦時中、鄭さんが空襲から逃れて隠れた場所なども案内されたが、年月日は失念した。
 記憶は確かではないが多分98年の7月25日土曜日、金城実作で鄭承博をモデルとした彫刻「在日朝鮮人作家」の完成を祝う会が、大阪桃山駅そばの焼き肉亭「髙橋」において開催された。
 94年の1月に金城実と鄭承博の対談が淡路島の鄭さん宅で行われ、金城が「明日はぜひ鄭さんの彫刻を作りましょう。」と結んだ言葉を受け、「明日」ではなかったがやっと完成した作品を祝う会だった。
 ところが二人は会場に来る前に飲み始めていて到着が2時間以上遅れた。酔っ払った二人が姿を見せるまでおあずけを食らったが、憎めない二人に一同笑顔になった。
 鄭承博の印象は、小柄で天真爛漫、いつも笑顔で明るいおじいちゃんという感じだったが、それは晩年のことだったのかも知れない。
 新幹社版『裸の捕虜』には、文藝春秋版『裸の捕虜』所収の作品に「富田川」「山と川」「追われる日々」の3作が加えられている。
「富田川」は『川柳 阿波路』第8号(1966年1月)~第38号(1968年7月)まで31回連載。これが鄭承博の小説としては処女作にあたる。
「富田川」は上手な小説ではない。朝鮮から叔父を頼ってやって来た10歳頃の少年が飯場の飯炊きをしながら見聞きする山奥の土木現場を描いている。
 戦前の日本・紀州で飯場に寝起きして土木工事に従事した労働者の生態を描いた労働小説としての面白さがある。しかしここには労働者は描かれても朝鮮人は描かれていない。登場する日本人もほぼ気の良い庶民で主人公の少年は温かく迎えられている。
Photo_20221028205103  ところが未発表だった「山と川」は印象が違う。表現が巧みになっているだけではない。内容的には「富田川」と一部重なりながらも続編的な性格の作品になる。主人公の少年の名は張一(チャンイル)。張一は紀伊の山奥の飯場で炊事係をする少年だが、大雨で現場が崩れ、逃げ出した彼は叔父を探して歩き、別の飯場で働くことになる。
 土木工事の労働者たちは朝鮮人で、村人たちからは蔑まれている。張一も泥棒扱いされたり何度も酷い目にあっている。逆に飯場に逃げ込んだときには朝鮮語で助けを求め、同胞の労働者たちに温かく受け入れられる。「山と川」では民族差別と朝鮮人を包む戦前の社会情況が巧みに描き込まれている。この小説は新幹社版『裸の捕虜』(鄭承博著作集第一巻)に収録されるまで未発表だったが、晩年に書かれたものだと思われる。
「富田川」は鄭承博が日本人名「西原ひろし」で川柳の雑誌『川柳 阿波路』に書いたものだ。『川柳 阿波路』は、その頃バー・ナイトを経営していた鄭承博が私財をなげうって創刊した雑誌だ。
 在日朝鮮人の組織にかかわっていなかった鄭承博は、バーの経営や雑誌の発行で日本人との関わりに神経を使ったに違いない。後には淡路朝鮮文化研究会を設立したり、朝鮮語勉強会を始めたりするが、前半生は朝鮮を前面に出すことなく生きたのではなかったろうか。
 鄭承博は、楽観的で純真な好々爺ではなく、肉体の艱苦を基礎に精神の腐心を持ちこたえてきたに違いない。2001年77歳で永眠についた。来年は生誕100年です。

*けいこう舎マガジンに鄭承博さんについて書いています。

2022年10月20日 (木)

アン・ドヒョン『詩人白石 寄る辺なく気高くさみしく』

白きかべあって

アン・ドヒョン『詩人白石 寄る辺なく気高くさみしく』五十嵐真希訳 新泉社


Photo_20221020155501「人生は評価されるものではなく、生き抜くものである」という著者の言葉が染みる。
 白石(ペは1936年23歳で詩集『鹿』を上梓した詩人だ。日本でもファンの多い韓国の詩人尹東柱(ユントンジュ)が敬愛し、現代韓国でもっとも愛される詩人のひとりだ。
 白石は現在の北朝鮮平壌の北に位置する定州出身で、地方語を駆使した詩を書いた。生活と一体感のある明瞭な日常の言葉で、小さくて取るに足らないけれど貴重な民俗を描き、土着的でありながら復古主義を排除したモダニティを内包していると評価された。
 白石は日本の統治時代に日本語で書かず、植民地化で歪められた故郷の言葉を駆使したのだった。
 しかし日本ではほとんど知られていないし、その生涯は韓国でも詳しくは分かっていなかった。著者アン・ドヒョンの調査は微に入り細を穿ったもので敬意に値する。分断国家韓国で北に渡った、あるいは北にそのまま残った文学者の足跡を追うのはたやすくない。
 白石は東京の青山学院で英文を学んだ潔癖なモダニストだった。目鼻立ちがはっきりしてふさふさしたくせ毛のハンサムで、最新のスーツにネクタイを締めた格好いい青年は、女性によくモテた。
 しかし最新の知性を身につけながら、古い封建制の頸木から自由になれずに、なんどか意に沿わない結婚をして破綻した。妓生の子夜(チャヤ)と恋愛しても親や世間体に負けて結婚できないままずるずると関係を続けた。
 田舎で教師をしながら詩を書いて暮らすことを夢見た白石だったが、歴史と政治は詩人を翻弄した。
 朝鮮日報社に勤めた白石は実に多くの知古を得た。当時の社長は曺晩植(チョマンシク)だった。曺晩植はキリスト教民族主義者として知られる独立運動家だ。学芸部長は朝鮮プロレタリア芸術同盟の同盟員である洪起文(ホンギブン)だ。
 朝鮮近代文学史には左翼から右翼民族主義者まで、幅広い作家詩人たちの群像が混沌と溢れていた。
 白石が詩集『鹿』を上梓すると、100部限定の発行にもかかわらず、多くの批評を受けた。
 プロレタリア詩人として有名な林和(イムファ)から見れば、〈白石は軟弱な文学主義者の一人にすぎなかった〉が、小説家の李孝石(イヒョソク)は〈失われた故郷を見つけ出したような心情をにわかに抱いた〉と感銘を表現した。
 白石は日本語で書くことを良しとせず、民族的価値を大事にしていたが、決してプロレタリア詩人ではなく、純粋に文学を追究した詩人だ。しかし時代は詩人の純粋な思いを赦さなかった。
 この評伝は白石を追ったものだが、南北の枠を超えた朝鮮近代文学史を物語として読むこともできる。白石を中心に多くの詩人や作家、美術家が登場する。
 朝鮮戦争による南北分断は、芸術家や文学者たちを南に北に分断し追いこんだ。そしてそのどちらでも政治に翻弄された。
 平壌に残った白石は、親しかったプロレタリア作家韓雪野(ハンソリャ)の庇護もあって、ロシア文学の翻訳と童詩の創作で好評価を受けていたが、それも長くは続かなかった。やがてその純粋な文学精神ゆえに僻地に追われ、家族と自分の命を繋ぐことになる。
 いわゆる「赤い手紙」を受け取った白石は1959年家族とともに、〈北朝鮮でも指折りの奥地〉山水郡(サンスグン)館坪里(クァンビョンニ)に追放された。地図を見ると山水は朝鮮半島の東北、咸鏡南道(ハギョンナムド)の北、蓋馬(ケマ)高原の一部で、その北には国境を成す鴨緑江が流れている。北朝鮮随一の寒冷地だ。
 白石は館坪協同組合の畜産班に配属された。潔癖主義のモダンボーイの後半生は羊飼いとして働くことにあった。
 白石の最後の詩(1962年)は見る影もない政治的コピーに過ぎないが、もはや彼にとっては詩人として生きることより自分と家族の生存が重要なのだった。
 では、白石は不幸だったか? たしかに白石は詩人として幸せな晩年を過ごした訳ではなかった。しかし白石は北朝鮮の最果ての地で、妻とともに5人の子どもを育て1996年まで生きた。厳しいとはいえ大自然に包まれて牧畜労働に捧げた生涯に価値がないとは言えない。

 本書は、現代韓国でもっとも愛される詩人白石の生涯を紹介したもので、白石の詩の翻訳が素晴らしく、その解説がまた読者の理解を深めてくれる。その上で、日本帝国主義時代―解放後の解放空間(1945年8月~48年8月)―南北分断の始まり―朝鮮戦争―1957年以降の北朝鮮における教条的強硬派支配時代、という困難な歴史における文学史の一断面をも読ませてくれる。
 北朝鮮で高い評価を受けた韓雪野とモダニスト白石が親しかったエピソードも面白いが、李泰俊・朴泰遠ら多くの文学者たちの情報も満載だ。プロレタリア詩人として日本(語)でも活躍しながら転向した批評家の白鐵(ペクチョ玄徳(ヒョンドク)の『ノマと愉快な仲間たち』(作品社)の挿絵も描いている画家の鄭玄雄(チョンヒョヌン)などなど数多の文化人が登場し左右に揺れながら生きていく。白石の恋人だった子夜は戦後もしぶとく、料亭を経営して83歳まで生きた。
 白石は苦難の朝鮮近代文学史を象徴する詩人と言えるかも知れない。

※ 翻訳者による「解説註」「人名註」が充実していて近代朝鮮文学事典の趣がある。労作だ。

2022年10月10日 (月)

『火山島』の誤植などについて

金石範『火山島』(文藝春秋)の誤植などについて林浩治個人で見つけたものを以下に列挙しておきます。
他にもあるかと思いますが、あしからず。

1巻p304前から13行目
(南承之と有媛の場面)
年齢もおれと二つしか違わないのに、まるで姉さん面をしていったものだった。
     ↓
年齢もおれより二つ歳下なのに、まるで姉さん面をしていったものだった。
   ※南承之から見て有媛は2歳歳下なので「年齢もおれと二つしか違わないのに、まるで姉さん面 」という表現は間違い

1巻
p311後から3行目 有→有媛

3巻P262上 前から6行目 「七、八年ぶりに南方から〝復員〟」→五、六年ぶりに南方から〝復員〟」
       ※韓大用は、1942年8月19日釜山を出航し、1948年1月に帰国している。

4巻p513上 後から7行目 有媛はこうこうして→有媛はこうして
  p519下 前から10行目 遅い目→遅め

5巻p237下 後から2行目 芳根→芳根
  p266下 前から6行目 芳根→芳根
  p409上 後から5行目 を貼って→を貼って
  p439上 後から12行目 開けた→開けた

6巻p276上 前から12~14行目 活字ポイントが大きい
  p367下 後から8行目 直に→直
  p370上 前から2行目 反民委→反民
  p423上 後から7行目 入山反対→入山反対
  p430下 後から9行目 島掃→島掃

7巻p247上 後から6~7行目 「過」と「を」の間に不要な改行がある。
  p347下 前から9行目 読点「」が2ヶ続いている。
  p407下 前から7行目 逃げしたい→逃げしたい

2022年8月23日 (火)

黄順元『木々、坂に立つ』

歴史の因果に歪められた若者たちの精神
黄順元(ファン・スノン)『木々、坂に立つ』白川豊訳 書肆侃侃房

 チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』以来若いフェミニズム系女性作家が、日本を席巻しているが、韓国文学は若い女性文学だけではない。翻訳者である斎藤真理子は『韓国文学の中心にあるもの』で、朝鮮戦争が韓国文学の核にあると論究した。黄順元『木々、坂に立つ』も朝鮮戦争を背景とした小説だ。『韓国文学の中心にあるもの』では最初言及されなかったが、増補新版では取り上げられた。
Photo_20220823152901  『木々、坂に立つ』は二部構成になっている、第一部は朝鮮戦争のさなか学徒動員された青年たちを描いた。戦争小説なのにどこか情緒的だ。戦闘も書かれるが、むしろ不条理な世界に放り込まれた青年たちの現実と歪んだ心象が描かれ詩的でさえある。
 ヒョンテは会社経営する裕福な家の息子。ドンホは「詩人」とあだ名される生真面目な青年で戦場に来ても、一線を越えられなかった恋人を思っている。ユングは両親を亡くし叔父に養われた。家庭教師をしていたが、ヒョンテの援助も受けていた。
 きまじめなドンホは外出日に飲み屋に行ってもヒョンテたちのように、気軽に酌婦を抱くことができなかった。ドンホは入隊前に恋人のスギと肉体関係になりかけたが、彼女の言葉に従ってそのまま一晩を過ごす経験をしていた。
 ヒョンテたちのように振る舞えないドンホは、潔癖症の自分に嫌気がさして悩みながらも飲み屋の女オクチュを抱いた。純情なドンホはやがてオクチュに執着するようになる。オクチュは夫を戦争で亡くし子どもを流産していた。
 ドンホはオクチュに会うために前線の部隊から彼女のいる店に会いに行ったが、客がいたため、嫉妬から部屋に向かって銃を撃ち、部隊に帰ってから自害して果てた。
 第二部は休戦協定成立後数年経っている。除隊後の彼らや周囲の若者たちの姿を描いた。
 ヒョンテは除隊後はしばらく意欲的に働いていたのだが、前線の村で居残っていた子連れの女を犯して捨てたことを思い出して、無為と倦怠に沈潜し身なりもかまわず、仕事もせずに親の金で、酒と女に身を持ち崩していた。そして飲み屋の女将が北から38度線を越えて連れてきた「生娘」ケヒャンの冷淡さに惹かれて店に通うようになっていた。
 ヒョンテは一種のニヒリズムに陥っていた。生きる目的を失っていたのだ。戦争は生きることを否定する情況だ。敵と遭遇すれば殺さなければならない。自分が殺される可能性を前提にする刹那に高揚するしかない。戦後になっても死と向き合って生きた刹那を引きずって荒んだヒョンテは、「死と向き合った瞬間、瞬間に、失われた自分自身を取り戻したいんだ。あの時はほんとに自信があったんだ」と言う。
 戦争という、個人の力ではいかんともしがたい不条理な世界に追い込まれた青年たちは、登場人物のひとり安(元)兵長の言葉を借りれば、「あの当時は皆、正気じゃなかった」のだ。言わば「神的因果性」の犠牲者であり、運命の被害者と呼べる。
 不条理な戦争によって浸食された内心の不自由が原因だとしても、ヒョンテがその身勝手な行動の責任から逃れられる訳もなく、「人間的因果性」は追及される。
 ドンホの恋人だったスギはドンホの死の真相を探るためにヒョンテやユングに近づく。ヒョンテは、スギに追及されるうちに、かえって彼女を強姦してしまう。
 ユングは家庭教師をしていた娘ミランと関係を持つが、ミランはヒョンテとも関係を持ったうえ、ユングに勧められた堕胎に失敗して死んでしまう。
 ユングはそれまで勤めていた銀行を辞めざるを得なくなり、養鶏を始める。ユングはヒョンテの責任を追及しない。ヒョンテが決して応答しないことを知っているからだ。同じ戦場で血みどろの殺し殺されの時間を共有し、〈意識の底に深く潜在している神に対する懐疑や罪の意識からくる不安や強迫観念〉を共有したのだ。ユングは責任をヒョンテに帰属させ得ない。
 ユングは痛みと慚愧を抱え込みながらも、真実のために悶着を起こすことを嫌い、世間と妥協してでも生きていく姿勢を見せる。生きることだけを目的としているからには、養鶏に興味があろうがなかろうが事業を成功させるために一歩いっぽ進むに違いない。
 ヒョンテを追及したスギは、戦争では誰もが傷ついたと認識している。しかし純粋に真実を探求し自己と妥協しない生き方は、今後の人生の困難を想像させる。
 この驚くべき小説には、これらの若者たち以外にも、両親が殺された復讐心で「裏切り者」を射殺したため、その幻影に苦しめられ続ける鮮于(ソヌ)軍曹、ボクシングの選手だったが戦争で片目を怪我し、戦後ケンカで左手の自由を失ってしまうソッキ、ヒョンテに渡されたナイフで自殺する若い娼婦ケヒャンなど、絶望の淵で生き、そして場合によっては死んでいく若者たちの姿が描かれた。
 それは、正しさやあるべき姿ではなく、歴史の歪みに映し出された若い群像の姿を歪んだままに表したものだ。
 文学は限定的ではない。この小説を読めば私たちはウクライナ戦争に思いを馳せる。戦争は必ず人の心を歪に導く。

 黄順元は1915年生まれ。多くの作品を遺し文学賞受賞も少なくなかった。大作家だ。映画やTVドラマ化もされ、特に短篇「소나기(夕立・にわか雨)」は韓国語学習テキストに使われることがあるので、韓国語学習者にはおなじみかも知れない。
 作者についての情報は、翻訳した白川豊による解説に詳しい。
 また『木々、坂に立つ』は、書肆侃侃房の「韓国文学の源流」長編シリーズの4冊目で、短編選もこれまで3巻発行されている。流行におもねることなく、流行の波に乗ろうという意欲的な出版に拍手を送りたい。
 愚銀のブログでは、金源一『父の時代』廉想渉『驟雨』を紹介している。

2022年7月27日 (水)

斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』

地下茎のように張り巡らせた連続する文学を、強靱な内省によって読み解く

斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』イースト・プレス

Photo_20220727141301  これまで韓国文学の紹介に努めてきた斎藤真理子の、翻訳以外の日本語出版としては初めての単著が出版された。
 韓国文学は、かつて日本では政治的関心か、少数の研究者やマニアの関心しか引かなかった。昨今は新聞雑誌の書評欄を飾ることも度々となり、本屋の棚の一部を韓国文学コーナーが占めることもままある。斎藤を初め翻訳者も増大し、昔日のさみしさはない。韓国文学はブームを越えて定着したと言っても過言ではあるまい。
 このブームの引き金は、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』だった。『82年生まれ~』は女性の生き方を真っ正面からあつかって、韓国文学どころか小説を読まない読者をも取り込んだ。社会構造がもたらす女性差別に敏感に反応した日本の読者たちが、韓国文学ブームを巻き起こしたとも言えよう。
 斎藤真理子は『82年生まれ~』を〈社会に存在するジェンダー不平等を可視化させるという明確な目的を持ったコンセプチュアルな小説〉と言った。
 まさに時代が求めた小説だったのだ。
 斎藤の視線は韓国文学を読み解くために韓国社会を分析しながらも、日本に跳ね返っている。徴兵制が敷かれて男性が共産主義の脅威から女こどもを守る代わりに、女性は我慢しろという韓国から、著者の視線は翻り、基地のほとんどを沖縄に押しつけて男女そろって無関心な日本へと向けられる。沖縄の米軍基地も自衛隊の誕生も朝鮮戦争と深く関わっている。
 植民地時代、戦後の解放空間と済州島四・三事件などの白色テロ、そして朝鮮戦争、四・一九学生革命、朴正熙の維新の時代、光州事件、民主化、IMF危機、セウォル号事件、キャンドル革命と、韓国現代史に文学は寄り添ってきた。そして韓国史の影に陽に日本が表れる。
 チョ・セヒの〈 『こびとが打ち上げた小さなボール』は、維新時代の産物である。〉と、斎藤真理子は書く。維新時代が良かったので素晴らしい文学が生まれたという意味ではない。自由と民主主義を弾圧した独裁政権の時代にどのようにして、この傑作ロングセラーが生まれたのか。ここだけでも読み応え充分だ。
 『こびとが打ち上げた~』は強引な経済成長の犠牲にされた民衆の姿を追った小説だ。『こびとが打ち上げた~』に、斎藤真理子はまぎれもない日本の小説、チッソによる公害被害を告発した石牟礼道子『苦海浄土』を連想した。古びることのない声、古びることのない表現が、資本主義的高度成長によって傷つけられた人びとの声なき声を読者に届ける、という共通点を発見している。
 朝鮮に生まれた植民者三世詩人・村松武司の言葉を借りて、チッソが植民地支配下の朝鮮で民衆の犠牲の上に巨大企業化への足がかりを作ったと批判した。『苦海浄土』は日本の朝鮮植民地支配と無関係ではなかった。
 〈彼ら(チョ・セヒと石牟礼道子)は自分の文学の文学的達成のためだけでなく、また啓蒙のためだけでもなく、対象との連帯のために文体を精錬した〉という指摘には舌を巻く。小説読者としての自分の角度の狭さを認識させられた。
 著者は、崔仁勲(チェ・イヌン)『広場』の紹介でも日本文学を振り返る。
 『広場』は韓国で言う分断文学の代表作だ。朝鮮戦争の釈放捕虜である男の来し方と選択を描いた。選択の余地ない分断、強権政治、戦争。選択の自由がないのに重い結果が残る。
 ここで斎藤真理子が連想したのは堀田善衛『広場の孤独』だった。朝鮮戦争が日本に及ぼしたものは朝鮮戦争特需だった。韓国の崔仁勲『広場』の選択が、どこに逃げるかによって自由と命のかかったものであるのに比し、『広場の孤独』は金を受け取るか否かの選択を表出したのだった。この両者の置かれた距離に、斎藤は韓国と日本が戦後冷戦構造のなかにおかれた両国の位置を確かめている。
 更に、高揚しながら経済成長の波に飲み込まれた日本の現代史に対して、幾多の広場の記憶を経て光化門広場でのキャンドル集会まで辿り着いた、韓国の連続する記憶を『韓国文学の中心にあるもの』の読者は追体験する。
 読者は、「韓国文学の背骨」としての朝鮮戦争を読む。そして朝鮮戦争体験の日韓の相違が、現代文学に反映されていたと知るに違いない。
 本書の一部だけを切り取った感想を書いたが、この本で取り上げられた文学作品は、巻末に2段組8頁にわたって紹介されている。膨大だ。
 著者の読書歴がそれ以上に膨大だからだ。斎藤真理子の読書は単発ではない。日本文学から韓国文学、世界文学まで、広く地下茎のように繋がっている。それ故に、この本自体が広範な知性によって裏付けされた批評性に富んだエッセイとして文学たり得ている。無論、現代韓国文学の解読書としては今のところ他の追随を許さない。しかしたんなるガイドブックではない。
 振り返る内省の強靱と、現実に生きる場から離れない視野で、朝鮮戦争を核とした韓国現代史を文学のなかに発見する丁寧な読書が、この本を支えている。読書とはこんなにも深く広いものなのだ、と改めて関心させられた。
 読書人の端くれとして反省。

 

*2025年1月、40頁増補の新版が発行されました。
01_20250112201201

2022年5月19日 (木)

玄徳『ノマと愉快な仲間たち 玄徳童話集』

玄徳『ノマと愉快な仲間たち 玄徳童話集』鄭玄雄画 新倉朗子訳 作品社
日本支配下朝鮮の子どもたちに希望の灯火を

Photo_20220519100701 『ノマと愉快な仲間たち』を手に取ると、まず、素朴でほのぼのとした表紙絵・挿絵が目を引く。副題は「玄徳(ヒョン・ドク)童話集」だが、帯文には「どこか懐かしい気持ちになる、大人のための童話集」とある。
 本書に訳出されたもののほとんどが1930年代後半に書かれている。したがって、ここに描かれた子どもを中心とした風景は、植民地時代まっただなかの朝鮮の風俗を描写したものだと言える。
 鄭玄雄(チョン・ヒョヌン)の派手さのない、むしろ地味だが愛情を感じさせる挿絵が釣り合っている。
 ノマというのは5、6才の男の子の呼び名で、他にキドンイ、トルトリ、女の子のヨンイといったの友だちが出てくる。この子たちの住む路地裏や町角が遊び場になっている。――子どもたちの呼び名については本書序文に解説されている。
 話は同じ言葉の繰り返しでリズミカルに進行し、大げさな事件は起きないが子どもたちの心の機微が丁寧に描かれる。
 ノマはお母さんと暮らし、お父さんは遠くに出稼ぎに行っていたりして、だいたいのところ不在だ。設定は作品毎に若干の異動があり、トルトリがノマの弟になることもある。しかしキドンイだけはどの作品でもやや裕福で、水鉄砲やおもちゃの刀を持っていたり、服や靴も他の子どもたちよりも上等だ。その分底意地が悪く、ノマの靴を馬鹿にしてはしゃいだり、飴を見せびらかせて一人で食べたり、おもちゃや子犬を独り占めにして貸してくれない。
 ノアたちは子どもらしい想像力で電車ごっこをしたり、ウサギのきょうだいになって遊んだ。ときには小さな冒険に出かけて帰り道が分からなくなり、途方に暮れたりするが、いつも周りの大人たちの愛情に見守られている。
 微笑ましくて、少し悲しくて、それでも子どもたちはたくましく、植民地支配下にあっても希望に満ちている。
 集録された初編はおとなしい童話だ。プロレタリア文学ではない。民族主義的な抵抗を表してもいない。そうした意図はないのだと思う。しかし朝鮮の子どもの明るい未来を願う作家の意志は明かだ。
 作者の玄徳(ヒョン・ドク)は1910年の「日韓併合」の前年に生まれ、植民地時代に半生を生きた青年作家だ。
 玄徳は若くして才能を認められたが、工事現場で働いたり、日本に渡ってペンキ屋や土工として苦労したそうだ。――詳しくは訳者解説を読んで下さい。1938年に発表した「草亀」で作家朴泰遠(パク・テォン)に激賞された。この中編小説は書肆侃侃房の「韓国文学の源流短編集2」『オリオンと林檎』(2021年9月)に集録されている。
 朝鮮語での自由な創作が厳しさを増していく時期に、朝鮮語だけでしか書かず、発表誌を失うと絶筆した。
 書くことでしか生きていけないと決意した作家が、書かないことを選択するとは尋常ではない。多くの作家が帝国主義宗主国の言語である日本語で書く道を選んだ時代に、日本語を拒否して絶筆したのだ。そういった作家は他には、金廷漢(キム・ジョンハン)など極少数だ。
 玄徳は朝鮮戦争後に越北して1962年以後の消息は不明だ。この年代の朝鮮人の悲劇を象徴するような存在かも知れない。序文を寄せている牧瀬暁子は朴泰遠の研究者で、『川辺の風景』(作品社)などの翻訳者だ。朴泰遠は越北作家として、韓国では体制が民主化されるまでは禁忌されていた。玄徳も同様だ。
 翻訳した新倉朗子はフランス文学者。語学の素養があるとは言え、70歳過ぎてからの韓国語学習でこの翻訳出版にこぎ着けたのは凄い。だらだらぐだぐだの己を省みると恥ずかしくなる。尊敬しかない。

2022年5月13日 (金)

金石範「地の疼き」

金石範「地の疼き」『すばる』5月・6月
個を越えたの文学を検証する試み

Photo_20220513142901  96歳の金石範が『すばる』5月と6月に分けて小説「地の疼き」を発表した。主人公は、2020年『すばる』7月に書いた「満月の下の赤い海」と同じく、金石範本人を模した「K」だ。
 金石範は、〈『火山島』などの作品が私であり、私と重なった見えない私である。現実の作者の私は影である。〉(「生・作・死」『すばる』2020年12月)と書いている。
 現実の影である金石範の私が、私と重なった見えない作品を表出するために設定したKである。
 Kはもちろん済州島四・三闘争を小説のテーマとしている。1988年11月、Kは、42年ぶりに故郷訪問を果たす。
 韓国訪問のためにKは駐日韓国大使館領事部ハン参事官と対峙した。ハン参事官はかつてKも編集員だったS誌の他の編集メンバーたちの韓国訪問を実現し、韓国籍取得に至る成果を得た経験を持っていた。
 1947年、日本政府は外国人登録令を実施し登録証の国籍欄は全体が「朝鮮」だった。それが、1965年の日韓条約で分断朝鮮の南である「韓国」だけが国籍を意味するようになった。Kは依然として朝鮮籍のままだ。
 S誌というのは『季刊三千里』の謂で、1981年2月に金達寿、姜在彦、李進煕らが韓国を訪問した。このときの韓国訪問に反対した金石範は編集委員を辞している。彼らの訪問をTK生の「韓国からの通信」は厳しく批判したが、金達寿は故郷に錦を飾った紀行を『故国まで』(1982年4月 筑摩書房)として発表している。
 小説のKはハン参事官から入国許可証を受け取ったが、差し出された手を握らなかった。
 Kは、ソウル―光州―済州島を訪ねてハン参事官の意に沿わぬ発言を続けた。民主化したとはいえまだ反共風土の根強く残っている韓国社会で、Kは「忌避人物」とされていた。親戚との交流もギスギスしたものとなり、墓参りは諦めざるを得なかった。
 再びソウルに戻ったKは、1945年夏独立運動の同志で同い年のチャンを思い出す。夏休みに一時日本に戻ったKはそのまま朝鮮に戻れなくなる。李承晩政権と闘うチャンはなんども手紙をよこした。
 チャンの恋人は音楽学校に通う令嬢だが、チャンは彼女を日本に逃がしたがっていた。李有媛造形のヒントとなった女性だろう。
 Kは〈殺人を否定しながら殺意を抱いてその枠を越えようとする李芳根について〉考えた。Kならぬ金石範は、Kと『火山島』の登場人物である李芳根を錯綜させていく。

「火山島」の虚構的空間と現実の生活空間をつなぐものは、虚構と現実の交錯、重なりであり、二次的虚構であって、Kが「火山島」のなかへ入るか、李芳根が「火山島」の外へ出てくるか、両者の動き自体が虚構における事実――現実となる。

 Kは南山西麓の町角で李芳根とともにトランペットの響きを聞く。李芳根は東麓に位置する「西北」詰所の邸宅に向かう。『火山島』第四巻第十三章の場面だ。そこで李芳根は初めて文蘭雪(ムンナンソル)と会う。テロリストの巣窟にいた美しい女に惹かれていく。
 22日間の故国訪問からW市のマンションに帰ったKは、十日間昼夜連続で夢を見た。夢と現実の境界の分からなくなる異世界に没入した。金石範文学にしばしば見られる状況だ。
 ことばも人間も景色もすべて済州島で日本の出てこない夢だった。それは60余年の在日生活に敵対し否定した。
 こうした極めて民族的な文学思想が、42年ぶりの故郷訪問が導いた63歳のKのものか、じつは96歳の金石範の感慨か筆者には分からない。
 ただ小説は、この10日間の夢を「意識化された欲望――深層の朝鮮の表現」だと語る。そして夢こそ真実の現実で、在日の存在が仮象なのだと。

現実の自分とそれを仮象だとする夢の自分の分裂、この分裂と夢が表現に向う。

 仮象の認識が転化してのイメージとして文学が成立する。実体からの分裂であり、一種のニヒリズムが発生する。
 ニヒリズムは「火山島」の李芳根を生み出す。李芳根は植民地時代に逮捕されながら、肺結核もあって転向保釈された過去を憎んで放蕩し、外界との関係を絶ったのだった。
 しかし李芳根はほんとうにニヒリストだろうか、という疑問は筆者のものである。
 李芳根は、裏切り者柳達鉉(ユダルヒョン)を死に追い込み、警察幹部の鄭世容(チョンセヨン)を射殺する。虐殺者に対する憎悪、個に対する殺意への移行は、李芳根の年下の友人たちに対する限りない愛と対比される。
 また、「地の疼き」では珍しく金石範であるKの父の来歴について書かれている。
 Kの曾祖父が隣接の朝天(チョチョン)から三陽(サミャン)に移った。祖父は30代半ばに至らない早死にだった。父の家は済州きっての名門一族だったが旧韓国の滅亡、植民地化とともに没落した。父は日本の植民地時代に適応できなかった。気位高く、働くことを知らない破落戸(パラッコ)の道化者だった。
 父は二児の母親だった寡婦と結ばれた。Kを孕んだ母は大阪へ旅立ち、イカイノでKを産み落とす。父は郷里で妓生と生活していたが、K出産後2、3年後数えの36で死去した。金石範は実の父と会ったことはない。
 母は還暦祝いの10余年後に死去し、大阪郊外の小高い丘の麓の風水の地相に適した墓所に葬られた。
 こうした両親への追想が作家の老齢と無関係でないはずがなく、小説のなかに組み入れられることに、ますます自己存在の全体を小説という虚構の真実に組み込もうとする足掻きのように思える。
 1996年、Kは8年ぶりに韓国を訪ねた。
 ゲリラ戦跡や虐殺の跡地、島民が穴居生活をした洞窟などの四・三遺跡を訪れたが、この衝撃をそのときは充分に内在化はできなかった。Kは済州島を離れてから「胸に疼き」を感じていた。

 ゲリラたちが骨を埋めた地の疼き、地霊が故国の地を踏んだKの軀に移ってやがてKのなかで灰をかぶった熾火のように燃え続けているのだろう。

 1998年8月、済州島「四・三」五十周年記念国際学術大会に招かれたKは、一旦は入国を拒否されたが、大会参加者一同の抗議によって金大中政権が動き、最終日の夕刻済州島空港に到着した。
 劇的な入国は韓国の変化を感じさせた。Kは親戚とともに祖父母の墓参りも果たした。済州島は四・三解放へと動きつつあった。
 金石範は、『火山島』の登場人物たちのなかに影としてのKを見つめていた。「地の疼き」は現実に生きる作家自身という個を越えた魂魄の文学を、自ら検証する試みのようだ。

2022年4月17日 (日)

チャン・リュジン『仕事の喜びと哀しみ』

チャン・リュジン『仕事の喜びと哀しみ』(牧野美加訳 CUON)
 働く意味を考える、爽快な仕事文学

Photo_20220417211801  チャン・ガンミョン『鳥は飛ぶのが楽しいか』(吉良佳奈江訳 堀之内出版)を読んだ流れで、まだ読んでいなかったチャン・リュジン『仕事の喜びと哀しみ』も読んだ。
 モチーフが似通っていると思ったからだ。両者ともに、生きるための仕事との格闘や就職の困難、生きがいでは生活できない現実、住宅を確保することさえ困難な社会事情などが描かれる。
 しかし『鳥は飛ぶのが楽しいか』の登場人物たちが、社会に対する絶望や諦念に支配されているのに比べ、『仕事の喜びと哀しみ』に収められた初編には諦念が見えない。それほど諦めていないというか、あっけらかんとした明るさがある。仕事に喜びさえ感じている。追い詰められていない。
 表題作「仕事の喜びと哀しみ」は、IT系スタートアップ企業に勤める主人公の女性が会社への不満や上司の理不尽を語りながらも、頑張ってうまく解決していく。にっちもさっちもいかない絶望ではなく、喜びのある職場を得た爽やかな勝者の文学だ。これ皮肉ではない。
 「助けの手」は、主人公夫妻が子どもを儲ける余裕はないものの、やっと手に入れた20坪台のマンションでつつましい生活を送り家政婦を雇う話だ。働いて生きるために家政婦を雇わなければならないとは、よく考えるとけっこう大変なことであるにもかかわらず、絶望的な雰囲気はない。
 「やや低い」で、チャンウが自分が目指す方向性と商業音楽のパッケージの背反に動揺する姿は、チャン・ガンミョン「音楽の価格」のミュージッシャンわらの犬の煩悶と似て異なる。
 チャンウはたまたま適当に作った「冷蔵庫ソング」がユーチューブでヒットしてしまって、企画会社から契約を持ちかけられる。しかしチャンウは音楽をアルバム単位でしか考えられない。デジタルシングルなんて小説の一部だけをつまみ読みするようなものだと考えているために、引き受けられない。結局、実生活では失うものが大きく豊かに暮らすことはできない。しかしチャンウは呆然としても生活のために闘う姿勢を持たない。どこか茫洋としている。
 チャン・ガンミョンの「音楽の価格」では、わらの犬はチャンウほど芸術家肌ではない。音楽労働者としての自己を認識している。この違いは作家の文学観の違いなのだろうか。
 チャン・リュジンの主人公たちは立ち上がった視線を持っている。顔を踏みつけられた地べたから見る小説ではない。しかし、それだけに小さな心の揺れが感動を呼ぶ。
 韓国の学生は就職のために英語などの検定や資格取得、海外留学などのスペックを積み上げ、対外活動に精を出して目標に向かうという大変な努力をしなければならない。「タンペレ空港」の私は、ダブリンで3ヶ月をワーキングホリデーで過ごすために格安便に乗った。経由地のフィンランドのタンペレという小さな空港に真夜中に到着し5時間半の待ち時間がある。
 私はそこで目の不自由な老人と出会う。私は待ち時間を老人と過ごし、ドキュメンタリープロデューサーになりたいという夢を語った。私は老人と連絡先を交換して搭乗を手伝ってダブリンに向かった。ワーキングホリデーを終えて帰国した私を待っていたのは、あのひとときを一緒に過ごしたフィンランドの老人からの写真と手紙だった。
 その後私は大学を卒業して下請け制作会社を経験したあと、食品会社に就職した。
 なりたい目標に向かって忙しく努力し続けることは、たとえ無理だったとしても無駄ではなかったはずだ。しかし生きるためにあくせくしているうちに、忘れていった大事なものはなかったか。そこに気づいたとき人は心を震わす。
 ここに上げなかった短篇も含めてすべて軽快なタッチで爽やかに描かれている。冷たい生マッコリの爽快感といったところだろうか。
 チャン・リュジンは1986年生まれのまだ若い作家だ。韓国ではミレニアル世代と呼ばれる過度な競争世代に属していて、自身も「仕事の喜びと哀しみ」の主人公同様のIT企業で働いた経験がある。

チャン・ガンミョン『鳥は飛ぶのが楽しいか』の書評は『図書新聞』6月18日第3547号に掲載されました。

«ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』