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「在日朝鮮人文学」とは何か

『世界文学』No.96・『民主文学』2003年4月号掲載の論文の転載です。

 (はじめに)
 「在日朝鮮人文学」という言葉がいつ世の中に現れたかは定かではないが、七〇年代には頻繁に使われ、岩波書店発行の「講座文学」八巻『新しい世界の文学』(七六年)の中に、金石範の「在日朝鮮人文学」が収められている。では何を指して「在日朝鮮人文学」と呼んだのか? 川村湊は『戦後文学を問う』(岩波新書)の中で、次のように書いている。

  ごく一般的にいえば、「在日朝鮮人(在日コリアン)が」「日本語で」「〝民族的アイデンティティーの危機のなかでの、彼らの苦悩と抵抗〟を」表現した文学というようにまとめることができるかもしれない。もちろん、第三番目の主題については、それぞれの作家に固有のテーマ、モチーフがあって一概にはまとめられないが、在日朝鮮人の置かれた主体的あるいは社会的な状況との関わりなしに、在日朝鮮人文学が成立すると考えることは困難だろう。

 在日朝鮮人の文学活動に、日本語によるものだけでなく、朝鮮語によるものもある。在日朝鮮人でありながら、〈在日朝鮮人の置かれた主体的あるいは社会的な状況〉とも、戦前・前後を通しての南北朝鮮の歴史とも、現代韓国の状況ともまったく無関係な作品を書く作家もいる。そう考えると、川村のようなまとめ方が、一応妥当と言わざるを得ない。また、「在日朝鮮人」ということば自体が曖昧だ。「在日朝鮮人文学作家・詩人」たちの中には、「朝鮮」籍、「韓国」国籍、「日本」国籍のものがいる。この社会的現実も問題の捉え方を困難にしている。
 韓国の評論家洪起三は、「在日韓国人文学論」(東国大日本学研究所日本学叢書『在日韓国人文学』ソル出版社)において、次のように言っている。

  我々は、在外韓国人の文学が、多少の例外があるかも知れないが、いったん韓民族文学圏の範疇に含まれる文学だと考える。南北韓の文学を基盤として、中国・ロシア・アメリカ・及び日本とドイツ・カナダ・ブラジル・オーストラリア・フランス等世界各地で発表されている韓国人たちの文学作品を網羅して、それを「韓民族文学圏」と呼ぶことができる。…………
   在日韓国人文学を理解するために、東北アジアの文化共同体的歴史を共有する韓中日三国の近代的交渉・交流・葛藤の様相をすこし理解しなければならない。……
   侵略者の国、民族的屈辱を負わせた敵の国で生きなければならなかった在日同胞たちは解放の日になってもそこから立ち去ることはたやすくなかった。むしろ解放後、あの慌ただしい解放政局の社会的混乱と分裂のために密航船に乗り日本に行った人たちさえ増えていた。そうして在日同胞の数は、ある年百万名を超えていた。日本の南北等距離外交に影響されて、同胞社会も民団と朝総連に分裂し、南北の政治的影響と変化によって、同胞社会は不断に苦痛を受けてきた。彼らは力ない祖国で暮らしたが、日帝による強制で連行されて行った人々が大部分であるけれども、彼らが不断に労働力を搾取されたり人権を蹂躙されたりしても、争ってばかりいる祖国は彼らの助けには成らない場合が多かった。むしろ祖国が分裂したという事実だけでも彼らには苦痛と首枷をかけるはずだった。また日本社会の激しい民族差別は同胞二世・三世たちを母国語を知らない根無しの人間にする原因になり、彼らには韓国人でも日本人でもないという自嘲と「半チョッパリ」コンプレックスがもつれた一種の境界人(Grenze Mensch)心理を抱かせた。
   在日同胞文学はこのような歴史的背景を通して誕生した。同じ在外同胞文学といっても、中国や米国のそれとは決して同一視できない理由は、まさにその歴史的背景の差違において由来するのである。日本地域には昔からわが同胞が移住して住んだり、往来したりが頻繁だったが、在日同胞文学の対象は日帝植民地時代以後日本へ移住して行った同胞とその後代が作り出した文学に限定される。したがって、渡来人の問題や朝鮮朝の官僚及び知識人の往来、日帝時代の留学生の文学活動等は本質的に「在外同胞文学」の性格と大きく区別される必要がある。                                                 (原文ハングル・林訳) 

 洪起三の論は、たぶんに「民族主義的」なものではあるが、ここで言う「在日同胞文学」が、ほぼ「在日朝鮮人文学」に当たる。
 わたしが、九一年に『在日朝鮮人日本語文学論』という本を上梓したさい、この本のタイトルは、単に「在日朝鮮人が日本語で書いた文学を論ずる」という意味で、「在日朝鮮人文学」に対するわたしなりの再定義を避けたのであったが、この機会に川村や洪起三の論を踏まえて、再定義してみると、つまり共通するのは、歴史的過程で日本に居住せざるを得なかった朝鮮人が、朝鮮民族としての自らを束縛する帝国主義言語であるところの日本語をもって、自らを解放する主体的な意志行為の結果としてなしたものとしての文学作品を、「在日朝鮮人文学」と呼ぶ、とすることができる。こうすると、わたしの定義はかなり狭い範囲に絞られる。

 一.在日朝鮮人文学前史
 洪起三は、上記論文で、韓国の研究者李漢昌の示した在日朝鮮人文学の時期区分に異論を唱えたが、李漢昌の時期区分は、
①草創期(一八八一~一九二〇年代初)
②抵抗と転向期(一九二〇年代~一九四五)
③民族現実文学期(一九四五~一九六〇年代中盤)
④社会告発文学期(一九六〇年代後半~一九七〇年代末)
⑤主体性探索文学期(一九八〇年代~現代)
というもので、近代、朝鮮人が日本語で文学を始めた時期から、現在に至るまでのかなり長い間を対象としている。この時期区分は在日朝鮮人文学の区分というよりは、「朝鮮人による日本語文学」の時期区分と考えれば、だいたい的を射ている。
 一九二〇年代というプロレタリア文学の時代には、日本の文学史から除いてはならない作品が登場した。白鐵・金龍済らのプロレタリア詩人は、彼らが転向して日本帝国主義に手を貸したという事実を差し引いても、日本のプロレタリア文学史に残すべき詩人だった。特に金龍済は、天皇制権力ともっとも果敢に戦い、非転向を貫いたまま朝鮮へ追放された、輝けるプロレタリア戦士であり、詩人だった。
 金龍済は、一九二七年十八歳のときに渡日し、新聞配達・牛乳配達などで働きながら、二十一歳のとき左翼文壇にデビューし、プロレタリア詩人会のもっとも若い会員として参加し、詩誌『プロレタリア詩』に詩を掲載するようになった。同時にストライキを指導して拘束されるなど、政治闘争も盛んに行っていた。やがて彼は、作家同盟事務長また、日本共産主義青年同盟員となり、小林多喜二や宮本顕治のレポ係を務めるようになった。共青には詩人伊藤信吉の推薦で加盟した。一九三二年五月、コップ・作同の一斉検挙(治安維持法)で検挙されると、一九三六年三月までの四年近くを、非転向で貫き、出所した金が驚いたのは、彼が獄に繋がれている間に日本人同志の殆どが転向していたことだった。一九三六年十一月に朝鮮芸術座事件に連座して検挙され、翌年七月に強制送還されている。その後は「転向」して軍国主義詩人として文章を書いた。解放後は作家としてはあまり恵まれず、売文作家として過ごし一九九四年に死去した。金龍済については、大村益夫『愛する大陸よ――詩人金龍済研究』(大和書房 九二年)が詳しい。他に金龍済の恋人だった中野鈴子の研究者として知られる、大牧富士夫にもいくつかの論文がある。
 もう一人、日本共産党指導下の日本プロレタリア文学運動の日本語詩人として白鐵がいた。白鐵は、一九〇八年生れで、『地上楽園』『プロレタリア』『プロレタリア詩人』などに詩を書いたが、後にはやはり皇国作家として活動した。解放後は、文芸評論家として名を為し中央大教授や国際ペンクラブ韓国本部委員長を務め、一九八五年に死亡した。金龍済や白鐵などは、日本プロレタリア文学史に残る詩人ではあったが、彼らを朝鮮文学史上のプロレタリア詩人と呼ぶのは困難である。在日朝鮮人文学と呼ぶことも難しい。
 一九三〇年代に入ると、張赫宙と金史良という二人の朝鮮人作家が登場した。この二人こそ戦後在日朝鮮人文学に直接繋がる在日朝鮮人文学前史と呼ぶべき作家たちといえる。
 張赫宙は、一九三二年に雑誌『改造』の第五回懸賞小説に「餓鬼道」で入選し、日本文壇に登場した。この小説は貯水池工事現場の労働搾取に対決する農民たちの決起を素材にしたプロレタリア文学であった。張赫宙は一九〇五年大邱生まれ。一一年には朝鮮教育令が公布され日本語教育が強化されている。少年期を慶州で過ごした張赫宙は、普通学校で日本語を「国語」として学んだ。高等普通学校時代には菊池寛に心酔し、既に創作を試みたと書いている。この頃左翼思想に傾倒していて、小学校の訓導になってからも社会主義運動の影響を受けた。
 『改造』懸賞小説で日本文壇に登場した張赫宙は、日本プロレタリア作家同盟への加盟を勧められるが、凋落の見えたプロレタリア文学からは離れ、純粋文学の人々と交際するようになる。特に保髙徳蔵と知り合うことによって、彼の主催する『文藝首都』に作品を発表するようになった。この頃の張赫宙はまだ、朝鮮の悲惨な現実を日本の読者に知らせたいという意識をもっていたから、「追われる人々」や「奮い起つ者」などの抵抗的作品を書いている。このあと「権という男」「ガルボウ」といった抵抗的要素のない心理主義的芸術至上的作品を発表することによって、日本文壇に好意的に評価されるようになる。後は当時の日本の作家たちの歩んだ道と同じである。徐々に軍国主義に手を貸すようになっていった。と言っても朝鮮に対する愛情がなくなったわけでも無く、そのときどきの許される範囲で朝鮮の文化を紹介するような仕事をしたりもしている。例えば村山知義演出で上演された「春香伝」の原作を書いたりもしている。それでも四〇年代以降は、皇国日本に奉仕するしか、張赫宙に生きる道は無かった。
 よく張赫宙と対照的に評価されるのが金史良である。金史良は一九一四年平壌の裕福な家庭に生まれた。張赫宙より九歳若いわけであるから、より徹底した日本語教育を受けているはずである。金史良は少年期に光州学生運動に刺激された反日デモに参加している。三三年に佐賀高等学校に入学して以降も反日的思想を維持していたと思われる。三六年には、朝鮮芸術座の検挙に伴って、安英一や金龍済らとともに拘留される。その後、金史良は朝鮮の先輩作家である張赫宙を頼って『文芸首都』を訪ね、『文藝首都』の三九年十月号に「光の中に」を発表する。これが翌年芥川賞候補となった。「光の中に」は朝鮮人の母と日朝混血の父を持つ少年山田春雄と、「ミナミ先生」と呼ばれる朝鮮人帝大生ナムとの交流を描いている。春雄少年の父は酒飲みで乱暴、いつも妻を殴っている。母親は夫の暴力に耐えている。こうした春雄少年の両親像というのは、戦後の在日朝鮮人文学に共通する一つの典型をなしている。この小説はミナミが春雄少年の前で朝鮮人のナムに変わっていくことによって、春雄も朝鮮人としての自己の未来に明るい光を見いだすという筋書きだが、これは必ずしも民族的要求に応えてはいない。むしろ「内鮮一体」運動に応えている面がある点は否めない。「内鮮一体」というのは、朝鮮人を皇国のために役に立つ者として日本人と同じように扱おうという、軍国主義政府の官制の運動である。金史良は、日本帝国主義に対峙する朝鮮人も、民族独立の意志を持った朝鮮人も描けなかった。日本帝国主義批判そのものを描くことは、この時期には既に無理だったのである。
 金史良の登場は張赫宙と同様に、大日本帝国の政治的な枠の範囲で、支配者の言語で行われたのである。金史良は始めから「内鮮一体」の重い鎖を引きずっていたことになる。しかしながら四一年皇軍への従軍を拒否して拘禁されるなど、抵抗的姿勢を見せ、「天馬」や「太白山脈」などの作品を残して、四五年中国の朝鮮独立軍を目指して脱出。朝鮮戦争に従軍作家として朝鮮人民軍とともに南下し米軍の仁川上陸に伴う撤退の途中で消息を絶っている。
 もう一つ、戦前の朝鮮人による日本語文学として無視できないものに、朝鮮在住の朝鮮人作家による日本語作品がある。李光洙・李無影・兪鎮午・趙容萬など当時の代表的な朝鮮作家たちが日本語で書いている。それらは、決して質の低いものばかりということでもなかったということも事実である。彼らは朝鮮語で書けない束縛の中で、日本語で書くことに非常に努力をしていて、「巧み」に書いている。「内鮮一体」のポーズを取りながら朝鮮の民族性を描く内容を持ったものもあったのである。これを竹内実は七〇年の『文学』十一月号で〈「内鮮一体」の小説は、まるで切れ目のわからない、起伏のゆるやかな丘陵がつづくように、非「内鮮一体」の小説と連係を保っている〉と書いている。

 二.前期在日朝鮮人文学
 大日本帝国の敗戦は、朝鮮人に朝鮮語使用の自由をもたらした。しかし、実際に朝鮮語での創作が自由に行われたかといえば疑問符を付けざるを得ない。朝鮮は、戦後日本の混乱とは比較にならないほどの困難に陥った。一方、日本に取り残された朝鮮人の多くは、朝鮮語で書く能力に欠け、内在的能力があったとしても、朝鮮語で印刷出版販売する環境になかった。結局彼らは日本語でしか発表できなかったのである。李漢昌の区分に依れば、③民族現実文学期(一九四五~六〇年代中盤)がここにあたるが、私としては、一九四五年までを在日朝鮮人文学前史、在日朝鮮人の日本語文学草創期として捉え、戦後の金達寿を中心とした時期を、前期在日朝鮮人文学期、と考えたい。
 一九四六年四月に金達寿らによって『民主朝鮮』が発行されると、多くの在日朝鮮人作家・詩人が参集し、ここを舞台に活躍した。また『新日本文学』にも金達寿・許南麒らが登場している。
 戦後初期、活躍した朝鮮人作家たちといえば、ほとんどが『民主朝鮮』に登場した、金達寿・許南麒・李殷直・張斗植・金元基らの新人たちであったが、張赫宙や金素雲など戦前からの作家たちも活動を止めていなかった。また、小説『38度線』を書いた尹紫遠は、「尹徳祚」という名で、戦前に歌集『月陰山』を発行している。
 一九四〇年代に日本語で書いた朝鮮在住の朝鮮人作家たちは、殆どが日本語の使用を止めている。解放後の朝鮮では、「親日行為」が社会的批判の的になったので、作家たちも批判された。特に反民族行為処罰法が四八年に制定され、一時的にではあったが、反民族行為が追及されると、文学者では、李光洙・朱耀翰・崔載瑞・金龍済が取り調べを受けた。朝鮮では日本語を使うこと自体が反民族的行為とみなさるような雰囲気でもあった。日本では朝鮮人日本語作家たちが台頭したこの時期、祖国では日本語での文学活動などもってのほかだったという事実を押さえる必要がある。
 四六年五月に発行された『民主朝鮮』二号に掲載された張斗植の「仲人」という小説は、日本の敗戦によって出獄した闘士を迎える演説会の会場風景からはじまるという点で象徴的な作品だった。刑務所から解放された独立運動の闘士の結婚話であり、朝鮮民族の解放を喜ぶ小説である。このような内容の小説が日本語で書かれたということに一つの意味があった。祖国の解放を日本語で書くなどとは、本国では想像もできないことだった。大日本帝国のくびきの中ではまだ世に出ることのなかった若い朝鮮人日本語作家・詩人たちにとって、「戦後」はまさに解放区であった。彼らは戦後の左翼優勢的な雰囲気の中で、肩で風を切るように堂々と世に出ていったのである。
 戦後初期在日朝鮮人文学を牽引した作家は何と言っても金達寿である。金達寿は一九二〇年一月、朝鮮慶尚南道昌原郡に生まれた。三・一独立運動の翌年である。ご多分に漏れず貧困で喘いだ金達寿の家族は、稼ぐために日本に渡った。金達寿は十歳のとき一九三〇年に、母を追って渡日する。このときには父は既に他界している。父親のいない朝鮮人の家族であり、しかも恐慌下の日本で、楽に生きられるわけがない。金達寿は殆ど修学の機会に恵まれず、納豆売りや屑拾いなどをして働いた。
 金達寿は『民主朝鮮』を一九四六年三月に創刊すると、直ちに「後裔の街」の連載し、四八年には朝鮮文芸社から同名で刊行している。内容は、日本から南次郎総督支配下の「京城」に帰った青年高昌倫を主人公として、日本で成長した朝鮮人青年の母国での煩悶が描かれている。在日朝鮮人の主人公は、祖国を支配する日本に対する反発を感じながらも、祖国に来てみると、祖国での実生活の感覚や文化から離れている自己を発見する。彼は母国語さえも自由には使えない。毎日朝鮮語の読み書き発音を習わなければならない朝鮮人。自ら努力して学習しなければ朝鮮人になれない朝鮮人なのである。日本帝国主義の植民地支配下とはいえ、日本で育った高昌倫と朝鮮の人々との違いは明白であった。母国語さえ自由に使いこなせず、祖国での実生活の感覚から離れている自己を発見して悩む青年像は、後輩在日朝鮮人作家たちに引き継がれる。
 祖国と、祖国の文化に馴染めない自己との間の煩悶というテーマは、一九八八年に発表された李良枝の「由煕」をはじめ、李起昇「ゼロはん」、柳美里「石に泳ぐ魚」、鷺沢萌「君はこの国を好きか」など、きわめて現代的テーマとして生きたのである。こうした問題を提出した金達寿の「後裔の街」は、在日朝鮮人文学を象徴する作品だったともいえる。張赫宙や金史良など戦前の朝鮮人日本語作家たちは、朝鮮語で書く能力的不自由を持たなかったし、実際に朝鮮語での作品をも残している。李光洙や李無影などの朝鮮文壇の作家たちについては言うまでもない。彼らが日本語で書かなければならなかったのは、日本帝国主義の政治的支配に直接強制されたものであり、戦後の作家・詩人たちのような能力的・社会環境的問題とは質が違った。
 朝鮮人であることを常に意識していなければ朝鮮人でない朝鮮人。この民族言語の不自由ということ、祖国の文化に馴染めない自己の発見という問題は、文学上の問題であると同時に祖国朝鮮と日本語を使う在日との矛盾でもあった。
 少年期に日本に渡り日本語で日常生活を過ごし、朝鮮語教育を受けなかった金達寿らは、朝鮮語で文学作品を残す能力を持たなかった。戦後在日朝鮮人文学は、既に朝鮮語を駆使して書く能力のない世代によってはじまったといっても過言ではない。
 もちろん戦後の文学者のすべてが朝鮮語で書く能力に欠けたというのではない。詩人の許南麒は翻訳もやったし、姜舜は朝鮮語による詩作を実践した。金石範も朝鮮語による創作を試みたことがある。しかし、戦後在日朝鮮人日本語文学のはじめに、既に二世三世文学が抱えると同じ、朝鮮語で書けないという条件が存在したということは重要な意味を持っている。金達寿という戦後在日朝鮮人文学の代表的作家がそうであったように、植民地支配の残した負の遺産は在日する朝鮮人から、母国語によって自由に創作する環境を奪っていたのである。私が戦後初期の金達寿を中心とした在日朝鮮人による日本語文学を、「在日朝鮮人文学前期」と見ている根拠はここにある。
 金達寿は『後裔の街』のあと、一九五三年には初期の代表作である「玄海灘」を『新日本文学』に連載した。
 金達寿は一九四三年にソウルへ行き、京城日報社に入社している。「京城日報社」は、当時すでに朝鮮総督府の御用新聞であった。金達寿は入社の翌年に退社して日本に戻り、解放を迎えた。この間の経験が「後裔の街」や「玄海灘」などの作品に生きている。これらのほかにも『叛乱軍』(五〇年 冬芽書房)、『前夜の章』(五五年 東京書林)などを初期に書いた。
 この頃の金達寿は、素朴な庶民の旺盛な生活力を描きながら、そうした民衆像と在日朝鮮人の左翼運動や祖国朝鮮民主主義人民共和国とを政治的に結びつけた作品を書いていた。
 「玄海灘」は、四三年頃の「京城」(ソウル)を舞台とし、日本から来て、京城日報の記者に採用された西敬泰が主人公で、「後裔の街」の設定と同じだ。もう一人の主人公白省五は中枢院参議白川世弼の息子という、大家の出でありながら、共産主義運動と朝鮮の独立を目指している。恵まれない朝鮮人として育ち、大新聞社の社会部記者として出世を目指す西敬泰と、やがて逮捕され拷問を受けながら口を割らない白省五。西敬泰は、白省五たちや多くの中学生たちが「不逞鮮人」として投獄される場面に御用新聞の記者として立ち合う。彼はまた、朝鮮人青年の出征志願を推進する記事を書かざるを得ない立場にある。朝鮮人としての被差別的立場から抜け出そうする出世意欲と、民族的良心との葛藤がよく描かれている。
 初期の金達寿といえば骨太な左翼作家というイメージが強いが、意外に繊細な小市民意識をうまく描いた作家でもあった。ところで戦後在日朝鮮人の文学活動の拠点だった『民主朝鮮』は一九五〇年に終巻を迎える。『新日本文学』には、その後も金達寿、尹紫遠、許南麒、安宇植ら、朝鮮人文学者の作品が掲載された。
 金達寿は続いて『日本の冬』(筑摩書房五七年)、『朴達の裁判』(『新日本文学』五八年十一月号掲載、五九年 筑摩書房)、『番地のない部落』(五九年 光書房)、『夜来た男』(六〇年 東方社)、『密航者』(六三年 筑摩書房)、『中山道』(六三年 東方社)、『公僕異聞』(六五年 東方社)などの諸作品を上梓している。
 金達寿は一九五八年九月に岩波新書『朝鮮―民族・歴史・文化』を出版した後、在日朝鮮人総連合会(総連)によって非難された。金日成中心でない朝鮮の民族・歴史・文化を書くとは許せないということだろうか。実は六〇年代というのは、組織に与していた作家たちは、金石範も金泰生も日本語での創作を十年近く止めていた時期である。小説や詩などの文学は母国語でという組織に対する日本語作家たちの葛藤があったと言える。
 戦後金達寿と並んで代表的な朝鮮人文学者と言えば、詩人の許南麒であった。許南麒は、一九四九年に『朝鮮冬物語』(朝日書房)、五〇年に『日本時事詩集』(朝日書房)、五一年には『火縄銃のうた』(朝日書房)と立て続けに詩集を発行した。
 『朝鮮冬物語』は、はじめ「朝鮮風物詩」として『民主朝鮮』に連載した長編詩を中心として再編したものである。許南麒は、日本語で詩作する場合〈朝鮮のおかれている位置と境遇とを、なるべく多くの日本人にわかってもらうため〉にそうするのであって、従って、芸術性よりも政治性を重視している。だからといって、許南麒の詩の芸術的完成度を否定することには繋がらないが、日本語詩はプロパガンダであるという、許南麒の意志は強い。許南麒は、日本語で詩を書くことに対して負のこだわりを持っていた。一世詩人許南麒は朝鮮語を否定されていた民族意識が強いのだ。
 長編詩「朝鮮冬物語」の冒頭に置かれた「傷だらけの詩にあたえる歌」は、許南麒が、というよりも口を封じられた朝鮮人が自らの詩を歌う心を讃えている。

 おまえたち
 傷だらけの おれの詩たち、
  やせおとろえた二つの羽根と
 いたずらに きょろきょろする
 二つの触角をもった
 繃帯だらけの おれの詩たち、
 くちさきには
 異国製の 頑丈な猿ぐつわがはめられ
 手足の一つ一つには
 あしかせ、てかせ、
 がちゃがちゃと
 鎖の音も ものものしく軋む おれの詩たち、

 おまえたち
 傷だらけの おれの詩たち、
 いまこそ起き上がれ
 いまこそ肩を組み
 一列にならべ、
 おれたち 傷つけたれた者、
 おれたち 虐げられた者の
 ときが来るのだ、
 いまこそ鎖をならして立ち上がれ、

 朝鮮語ではもの書くことも喋ることも禁止するという、まさに「頑丈な猿ぐつわ」をはめたのは、日本帝国主義である。「朝鮮の詩」も朝鮮語も、手足を鎖で縛り付けられ、やせおとろえ、傷ついたまま解放に至ったのである。
 許南麒は手放しで解放の喜びを歌うよりも、長い日本支配の間に失われた民族の文化という困難な現実を見失うまいとしていた。朝鮮は解放されたものの依然として日本帝国主義の錆びた鎖を引きずっているというのが、自ら日本語で詩を書く自分に対する戒めであった。許南麒にとって日本語で詩を書く行為は、政治的プロパガンダの役割以上のものであってはならなかった。
 六〇年代以降は、許南麒は殆ど日本語詩を書かず、これが朝鮮民主主義人民共和国を支持する朝鮮総連の路線ともなっていった。
 五〇年代後半から、六〇年にかけて、金泰生、金石範、金時鐘などの有力な作家・詩人たちが雑誌などに登場している。そして、彼らの殆どが六〇年代には日本語での創作を中断した。かれら朝鮮人日本語作家たちの殆どが朝鮮総連傘下におり、日本語での文学を目指すこと自体が反民族的裏切り行為と考えられた当時、在日朝鮮人による日本語文学は一時衰退する。このあたりの文学史的状況について、梁石日の最新作『終わりなき始まり』(二〇〇二年 朝日新聞)に、モデル小説的に描かれていて興味深い。

 三.後期在日朝鮮人文学
 在日朝鮮人文学が広く日本の世の中に注目されたのは、李恢成が「砧をうつ女」で芥川賞を受賞する前後である。
 一九六六年に金鶴泳が文芸賞を受賞、六九年に李恢成が群像新人文学賞を受賞、七二年に李恢成が『砧をうつ女』で芥川賞を受賞すると、にわかに、在日朝鮮人文学が注目されはじめた。この間に金石範の『鴉の死』が出版され、また、高史明の問題作『夜がときのあゆみを暗くするとき』や、鄭承博の『裸の捕虜』なども出版され、金時鐘や呉林俊などの詩人も登場した。この頃は、古井由吉に代表される「内向の世代」の時代である。そこに社会性を帯びた在日朝鮮人文学の登場はある種の新鮮さがあったのだと思われる。
 磯田光一は『戦後日本文学史・年表』(七九年 講談社)のなかで、「内向の世代」の対象にあるものとして、真継伸彦・柴田翔ら雑誌「人間として」のグループ、東峰夫・大城立裕ら沖縄の作家たちに加えて、在日朝鮮人作家たちを挙げている。また、久保田正文は、『昭和文学史論』で、〈「内向の文学」とは異なって、あるいはむしろ「外向の文学」とでもみるべき文学〉として在日朝鮮人作家たちの作品を示している。
 金達寿を中心とする在日朝鮮人文学前期と、このころ現れた李恢成・金鶴泳を中心とする作家たちの違いは、後者が商業文壇に登場したことと、二人とも在日二世だったということが、まず言える。

 1)金鶴泳
 金鶴泳は、一九三八年九月十四日、群馬県生れで、本名は「廣正」。五八年、二十歳で東京大学理科一類入学。工学部工業化学科卒業を卒業すると、大学院に進学している。金鶴泳の特徴は、一世作家たちとは著しく異なるこのような高学歴と、それを支えた父親の財力であった。金鶴泳ほどでないにしても、二世作家たちは、一世が貧困のなかでのし上がってくれた御陰で、自身はそれほどの貧困ではなく、学歴を持っていた。
 金鶴泳は、六六年九月、二十八歳のとき「凍える口」で文藝賞を受賞、『文藝』十一月号に発表された。「凍える口」は、民族問題や社会問題よりも、吃音との闘争が中心である在日朝鮮人青年崔圭植が主人公であるという点で、それまでの金達寿的在日朝鮮人文学とは、著しく異質であった。主人公は努力してもどうしても入り込めない一般社会との溝を抱えていて、人間は理解し合えないという真実に到達する。朝鮮への帰属が文学の中心であったそれまでの在日朝鮮人文学とはまるっきり違う。
 これ以後、金鶴泳は「緩衝溶液」(『文藝』六七年七月)、「遊離層」(『文藝』六八年一月)、「錯迷」(『文藝』七一年七月)、「石の道」(『季刊芸術』七三年十月)などを発表し、この間に、東大大学院博士課程を中退し、六九年頃からは、ほぼ作家生活に入っている。単行本は、八五年一月四日、生まれ故郷で自殺死するまでに以下の六冊を出版、逝去後の八六年一月に『金鶴泳作品集成』が作品社から発行されている。
『凍える口』(「凍える口」「弾性限界」「まなざしの壁」)七〇年 河出書房新社
『新鋭作家叢書 金鶴泳集』(「凍える口」「弾性限界」「錯迷」)七二年 河出書房新社
『あるこーるらんぷ』(「錯迷」「あるこーるらんぷ」「軒灯のない家」)七三年 河出書房新社
『石の道』(「石の道」「仮面」「夏の亀裂」)七四年 河出書房新社
『鑿』(「あぶら蝉」「月食」「冬の光」「鑿」)七八年  文藝春秋
『郷愁は終り、そしてわれらは――』八三年 新潮社
 これらの作品で、母を殴打する暴力的で愚かな父親に朝鮮を見る金鶴泳の小説の主人公たちは、朝鮮への民族的帰属に救いを求め得ない。金鶴泳にとって朝鮮人であることは、「負」の要素以外のなにものでもなかった。金鶴泳は、朝鮮人であることの負、吃音であることの負、人間存在そのものの負を背負っていたのである。
 金鶴泳は、自己否定の追求というかたちでアイデンティティーを求め続けた。そのため彼の作品は、暗鬱で重厚、脆弱なほどに繊細な文体を選択させたのである。
 また、金鶴泳の父は北朝鮮の熱烈な支持者であり、金鶴泳の妹たちは朝鮮民主主義人民共和国に帰国しているのだが、金鶴泳の作品は、父への反発が最初は「朝鮮」への嫌悪となり、更には「北」に帰国した妹たちへの思いから朝鮮民主主義人民共和国を憎悪することとなる。そしてそうした感情の裏側に、「韓国」が見えかくれもする。金鶴泳は、七二年、韓国に旅行し、以後たびたび韓国訪問、中央情報部、経済企画院、文化広報部、板門店などを訪問している。そうした行動が最後の長編であり、失敗作であった『郷愁は終り、そしてわれらは――』に繋がっている。

 2)李恢成
 七〇年代を代表する在日朝鮮人作家は李恢成だった。李恢成は、朝鮮人であることに積極的意味を追求した点で、金鶴泳とは対照的だった。李恢成は、民族的というだけでなく、ユーモラスな言語表出も含めた「民衆的言語表現」を駆使した。おおらかさの中に繊細だが屈託のない線の太い文体をものにしていて、金鶴泳とまったく正反対に位置した。
 李恢成は、一九三五年二月、樺太真岡町で生まれた。朝鮮人家庭に生まれたとはいえ、軍国主義の風潮の中で、少年李恢成は他の少年たち同様皇国少年だった。そして四五年いきなり世界観がかわるのである。
 四七年、日本の敗戦の翌々年、十二歳の李恢成は家族と共にサハリンから脱出し函館に至る。そこから米軍の命により長崎県針尾島引揚者援護寮に収監されたが、からくも釜山への送還を免れ札幌に定着したのだった。李恢成も、二十一歳で早大露文に入学したという点で、金鶴泳ほどでないとしても、一世ほどの経済的・修学的苦労はしなかった。三年生のときに朝鮮総連傘下の在日朝鮮人留学生同盟に加盟しているので、金鶴泳と反対に朝鮮民主主義人民共和国支持を強烈に表明したことになる。そして李恢成は大学卒業後も組織の仕事に従事した。
 しかし二十歳代末に作家を目指した李恢成は、「その前夜」という小説で第一回統一評論賞を受賞したあと、六七年三十二歳のときに朝鮮総連を離脱する。そして六九年に「またふたたびの道」が群像新人文学賞受賞して以後は、「われら青春の途上にて」「死者の遺したもの」「証人のいない光景」「青丘の宿」などを次々に発表していき、七二年には「砧をうつ女」で、朝鮮人作家として初めて芥川賞を授賞された。
 芥川賞受賞の前々年七〇年の十月、李恢成は「内密裡」に十日間に渡って朴正煕軍事独裁政権下の韓国を訪問しているが、その目的や行動の内容に関しては、今のところ明らかにしていない。李恢成はその後七二年六月にも韓国を訪問し、ソウル大、梨花女子大で講演している。同年七月に南北朝鮮が「七・四共同声明」を発表して統一への模索を始めると、九月、「北であれ、南であれ、わが祖国」を発表した。
 一九七六~七九年にかけては、軍事独裁政権下の韓国を舞台にした長編革命小説『見果てぬ夢』を発表して注目された。その後は、八四年に、「伽?子のために」が小栗康平監督によって映画化され、これも話題となった。李恢成は常に時代の中心で、我々読者に話題を提供してくれたのである。
 彼の行動性、ポジティブな生き方は、時の青少年に大きな影響を与えていく。八六年、韓国の作家黄晳暎を招いての「統一クッ」上演運動を指導し、八七年には在日文芸誌『民濤』を創刊した。こうした前向きで能動的な生き方は、まったく金鶴泳とは対照的である。ただし、ふたりとも「北朝鮮」の政治的・文化的影響の範囲において育まれ、「韓国」にぐんと近づいて行った点で似ている。
 李恢成は、『見果てぬ夢』のあと、サハリン訪問、西ドイツで開催された「国際文学者会議82'」に参加、家族と別れて一人暮らしをはじめ、マダン戯「統一クッ」上映運動、在日文芸『民涛』の発行、中央アジア諸国訪問、『朝鮮文学選』の編集、ニム・ウェールズの『「アリランの歌」覚書』の編集など、多忙に動き回った。公私ともに李恢成の行動力は、良いにつけ悪いにつけ輝いていた。
 そして九四年に『百年の旅人たち』を発表した。『百年の旅人たち』は、サハリンから脱走して、九州の施設に収用される朝鮮人の数家族を描いた傑作で、野間文芸賞を受賞している。
 李恢成は九五年に韓林科学院日本学研究所の招請で韓国訪問。九六年にはソウルで開催されたハン民族文学人大会に参加し、その後「韓国」籍を取得する。貪欲なまでに旺盛に社会と関わっていく生き方の中で李恢成は自己の文学を成立させていった。文化としての「韓国」との距離を縮めながら、政治的にも歩み寄った李恢成の精神は、政治としての「韓国」との関係を深めながら、八〇年代半ばに自死する金鶴泳の精神と遠いようで近い。ふたりの距離は、遠くて近い、精神のありようにおいては、非常に遠かったし、時代の選択においては近かった。

 3)金石範
 芥川賞を受賞した李恢成はマスメディア的には在日朝鮮人作家の代表選手だったが、理論的にも、文学的にも、在日朝鮮人文学を代表したのは金石範といえよう。
 金石範は一九二五年十月生、李恢成より十歳年上だ。大阪生野区猪飼野で、母が来日して数ヶ月後に生まれる。父は済州島で病死していたため母と二人暮らしだった。尋常小学校を卒業後歯ブラシ工場などで働いた。この世代の在日朝鮮人はたいていみな幼少時から生活のために働いている。金石範と同年代の畏友に清冽なリアリズム文学で知られた作家金泰生がいた。
 金石範は、一九三九年夏、済州島で数ヶ月をすごしたが、日本に戻ってから済州島を故郷とする意識を強くし、次第に反日思想を強くしていった。
 敗戦前の軍国主義日本で、小さな朝鮮人民族主義者として、金石範は希有な存在だった。戦後の在日朝鮮人作家で、戦前の記憶のある者の殆どが、積極的、非積極的に、多かれ少なかれ日本人同様に軍国主義の協力者であり、少年であれば、皇国少年であったりもした。朝鮮の独立と革命を真剣に考え、行動しようとした朝鮮人がどれほどいたろうか。金泰生も鄭承博もそうではなかった。金達寿でさえ違う。李恢成や金時鐘は皇国少年だった。だが金石範は「小さな民族主義者」として光っていた。
 金石範は、敗戦の前年十八歳のときに済州島へ渡り、母国語の勉強に励み、朝鮮の独立について友と語り合っている。(金石範『新編「在日」の思想』自筆年譜)そして、敗戦直前の三月には、中国への脱出を考えて徴兵検査を口実にソウルに渡る。済州島で徴兵検査を受け第二乙種合格した彼は、ソウルに戻り禅学院で僧侶に偽装していた解放運動家の李錫玖と出会う。ここで盟友張龍錫とも出会った。この間の事情は『1945年夏』などに表現されている。
 孤高の青年は、日本敗戦によって虚無主義に陥った。四八年、京都大学文学部美学科に入学した年、故郷済州島では「四・三事件」が勃発した。日本では阪神朝鮮人教育弾圧事件が起きる。この年の秋頃、済州島からの密航者増えた。これらの人々から聞いた話が、金石範を刺激し、「鴉の死」や「火山島」など済州島を素材としたライフワークに向かっていく。
 虚無主義者でありながら、社会主義者であった。金石範は五一年に『朝鮮評論』を創刊。その後、仙台で組織の資金活動に携わるが傷心して帰阪する。(『地の影』)
 大阪に戻って工場労働などをして働き、所帯ももった金石範は、小説を書いていた。五七年、「看守朴書房」を『文藝首都』八月号に、「鴉の死」を同十二月号に発表する。
 「看守朴書房」「鴉の死」などの短編や、『火山島』は「四・三事件」を素材としている。「四・三事件」とは、度重なる民衆弾圧と、南朝鮮における単独選挙に反対した勢力が、米軍占領と李承晩政権に対して武装蜂起し、漢拏山にたてこもって、大規模なパルチザン闘争を始め、パルチザンの勢力拡大を怖れたファショ政権が、五万とも六万とも言われる島民を虐殺した一連の事件のことをいう。
 金石範の「看守朴書房」「鴉の死」に続く一連の作品は、「四・三事件」下の済州島という極限状態における人間の在り方と、民衆像を追求していた。
 『鴉の死』は、米軍政庁に通訳として勤務するが、実はパルチザンの同志(秘密党員)である、丁基俊を中心に、殖産銀行重役で本土に広大な土地を持つ地主の息子であるが、警官といざこざを起こして逮捕されたりする大男の酔漢でニヒリスト青年李尚根や、殺されたパルチザンの首を天秤棒にぶら下げて人々に見せて歩きながら、身元を探すことを生業としている、でんぼうじい、丁基俊と連絡をとるただ一人のパルチザン張龍石、その妹で丁基俊の恋人であったが、今は収容所に囚われている亮順などの多彩な人物が登場する。
 五八年十二月から五九年三月にかけて、鶴橋駅近くで屋台「どん底」をきりもりしていた姿が、たまたまNHKの映像に残っている。その後、大阪朝鮮高校教師を経て、東京へ転居後「朝鮮新報」勤務など、組織の仕事に従事した。
 しかし、六〇年「糞と自由と」を『文藝首都』十月に、「観徳亭」を『文化評論』五月に発表後、しばらくの間日本語執筆を断念していた。しかしその間、在日朝鮮人文学芸術同盟などの組織で働きながら、朝鮮語で執筆、朝鮮語版「火山島」を『文学芸術』に連載した。これが、後に『文学界』に「海澎」として連載され、単行本発行にさいして、『火山島』と改題された小説の原型になる。
 六七年九月、金石範は新興書房から『鴉の死』を出版したが、この出版は組織の意向に反していた。朝鮮語での創作が奨励され、日本語での創作が否定されていた時期だけに、その対立は厳しい。結局、六八年金石範は朝鮮総連を離脱し、日本語による創作を再開する。
 『鴉の死』以後、『火山島』完結までの間に『万徳幽霊奇譚』『1945年夏』『往生異聞』『祭司なき祭り』などの問題作を発表していった。
 『万徳幽霊奇譚』は、済州島の事件を背景にした小説だが、ユーモラスな点など他と趣がことなる。万徳という寺の飯炊き男が主人公、万徳は少し抜けていて、「のろま」とか「バカ」とか罵られている。万徳は大阪の朝鮮寺で飯炊きをしていた知能の低い純粋無垢な女が、どこかの男に、ちょっとおいでと呼ばれたので行ったら子供が出来ちゃったということらしい。その母親に連れられて済州島の観音寺というお寺の和尚に預けられた。
 万徳は日帝時代には、徴用されて「万徳一郎」という名を付けられたが、頑として受け付けず、「万徳一郎」と呼ばれても返事もしないほど純粋であり、ある意味で「バカ」だった。解放後は、寺で公養主(コンヤンジュ)と呼ばれるで飯炊き男になる。山のゲリラと政府の討伐隊が戦い始めると官製の「民兵」に強制され、「歩哨」となる。万徳はねっからの善人であるため、寺をゲリラ討伐の駐屯所にしている警官たちがバクチをはじめたりすると、彼等に注意して逆に殴られたりする。頑固で、善人、優しい心を持っていて、そして非常に力が強い。
 この万徳がちょっとしたことで警察に逮捕されてしまう。そして、ほかの多くの人々一緒に処刑されてしまうのだが、運良く穴の中で死体の下になって助かって、這い出してくる。それから万徳の幽霊がでたというので大騒ぎになる、という話である。
 万徳はバカ(パーボー)だから、自らはパルチザンに参加したりはしない。自然な本能によって無謀にも権力に抵抗する。万徳は自然な存在という意味で民衆性が徹底している。政治的な思想性を持たない徹底して民衆的な存在としての万徳を描くことに拠って、政治的状況にたいする、もっとも徹底した抵抗を描いた。そういった意味で『万徳幽霊奇譚』は金石範文学の一つの到達点であるということもできる。
 金石範は八三年から九七年にかけて日本の文学史に燦然と輝く大長編『火山島』全七巻を文藝春秋より刊行。『火山島』は三巻まで発行の段階で、大佛次郎賞を受賞、全七巻完結すると、毎日芸術賞を受賞するなど高い文学的評価を受けた。その後も、八六年『金縛りの歳月』集英社、八九年『故国行』岩波書店、九六年『夢、草深し』講談社などを発表し、九六年には、ソウルで開かれたハン民族文学人大会に、李恢成と共に参加したが、その後も「朝鮮」籍を変えず、現在は、「準統一国籍」の設定を主張するなど国籍問題に関しては、頑強な態度をくずさないでいる。
 九七年、『火山島』通巻七巻が完結すると、翌年毎日芸術賞を受賞した。九八年夏、「済州島四・三事件五十周年記念――第二回東アジア平和と人権国際シンポジウム」に参加を申請するも、韓国政府の入国拒否にあったが、参加者らの抗議によって、最終日にようやく、入国。故郷済州島の土を踏んだ。

 四.「在日」文学
 李漢昌の時代区分でいうところの「主体性探索文学期」というのは李良枝を念頭において考えたのだと想像される。管見では、李良枝は、「後期在日朝鮮人文学期」の最後に位置し、その次に来る「在日文学期」の始めにも位置する。
 李良枝の文学は、朝鮮人としての自己確認によって始まった。一九八二年に最初の小説「ナビタリョン」が『群像』(十一月号)に発表されると、この新鮮な新人の登場に、私は驚嘆した。「ナビタリョン」は在日朝鮮人の主人公が韓国の舞踊と出会って韓国人としての自己を確立していくという、アイデンティティ発見の物語だった。
 李良枝は五五年三月十五日、父=李斗浩・母=呉永姫の長女として山梨県都留郡に生まれる。在日二世だったが、九歳のときに両親が日本に帰化し、良枝は田中淑枝となった。両親は、少女期の良枝に、藤間日本舞踊、山田流箏曲、小原流華道などを習わせ、日本文化を身につけさせる努力をした。
 両親の離婚後、伽倻琴と韓国舞踊を習い始めるなど韓国文化に目覚め、二十五歳になると、韓国で本格的に伽倻琴やパンソリなどの修行をする。まさに、日本に帰化して日本人になった在日朝鮮人青年が朝鮮人としての自己を発見し、朝鮮人としての自己を確立していくという、典型的なストーリーが、李良枝によって体現されている。李良枝の小説は韓国でも翻訳され、在日同胞が民族性を取り戻すストーリーとして受けとめられた。
 八八年に『群像』十一月号に発表された「由煕」が翌年第一〇〇回芥川賞を受賞した。この小説は、韓国に留学している由煕という女性が韓国のエネルギッシュな雰囲気や大衆文化に馴染めず、韓国語の騒々しさに圧倒されて日本に帰っていくというストーリーである。この小説は、在日と祖国=韓国との「違い」を描き、その後の祖国への帰着を目指さない「在日」世代の先駆け的な作品となった。
 李良枝はその後、九二年五月(三十七歳)新宿区のマンションで急逝心筋炎のため逝去。晩年は日本も韓国も故郷だという意識をもつようになっていた。
 「在日」でありながら、必ずしも祖国を目指さないで、「在日」としての自己を確立した作家として、梁石日がいる。梁石日は三六年、大阪に生まれた。二十九歳のときに事業に失敗して大阪を出奔し、仙台などを放浪の果て、東京でタクシードライバーを経験したあと、四十五歳で小説『タクシー狂躁曲』を出版して注目された。他に『夜を賭けて』『血と骨』『終わりなき始まり』『族譜の果て』などがある。エンターテイメントな作品群で最も売れている作家と言える。年齢的には李恢成等と同世代と言えるが、「祖国」に向かった李恢成と、「在日」志向の梁石日の間には文学世代的にはズレがある。むしろ、李良枝に近く、続く、柳美里・玄月・金城一紀等、更に若い世代に続くものを持っている。

 終わりに
 金石範は、自己の文学を日本文学から意識的に切り離すことによって、「在日朝鮮人文学」を自立せしめようとした。朝鮮語を母語として育たなかった作家たちは、「母国語を知らぬことへの絶えざる不安と後ろめたさから自由ではない」(金石範『民族・ことば・文学』)という意識構造によって、在日朝鮮人文学を成立させた。朝鮮語を母語として育たなかったということを恥じる意識によって、自らを朝鮮人として律し、朝鮮人たるための、意識上の闘争を頑なに保ち続けることによって、「在日朝鮮人文学」は定義されつづけたのだった。
 戦前は民族言語と故郷を略奪され、戦後は民族言語と故郷を喪失しながら、民族を取り戻す精神運動のなかで、日本語で書き続けた朝鮮人文学者によって、一時的に「在日朝鮮人文学」は確立し、歴史とともに消えていく、そういう運命を辿っている。
 紙数の関係で作品の内容に踏み込めなかった点、及び柳美里に代表される現在最も若い世代について触れられなかった点等、不足は多々あるが、ご容赦願いたい。

【参考文献】
安 宇 植『金史良』岩波新書 一九七二年一月
林 鍾 国(大村益夫訳)『親日文学論』高麗書林 一九七六年十二月
磯貝治良『始源の光』創樹社 一九七九年九月
竹田青嗣『〈在日〉という根拠』国文社 一九八〇年一月
金泰生『私の人間地図』未来社 一九八五年二月
竹田青嗣『夢の外部』河出書房新社 一九八九年五月
林 浩治『在日朝鮮人日本語文学論』新幹社 一九九一年七月
大村益夫『愛する大陸よ―詩人金龍済研究』大和書房 一九九二年三月
任 展 慧『日本における朝鮮人の文学の歴史』法政大学出版局 一九九四年一月
白川 豊『植民地期朝鮮の作家と日本』大学教育出版 一九九五年七月
川村 湊『満州崩壊』文藝春秋 一九九七年八月
林 浩治『戦後非日文学論』新幹社 一九九七年十一月
金 達 寿『わが文学と生活』青丘文化社 一九九八年五月
小野悌次郎『存在の原基―金石範文学』新幹社 一九九八年八月
川村 湊『生まれたらそこがふるさと―在日朝鮮人文学論』平凡社 一九九九年九月
兪 淑 子『在日韓国人文学研究』月印 二〇〇〇年六月
中村福治『金石範と「火山島」』同時代社 二〇〇一年八月
洪起三編『在日韓国人文学』ソル出版社 二〇〇一年十二月
磯貝治良 他 『金達寿ルネッサンス』解放出版社 二〇〇二年二月
李恢成『可能性としての「在日」』講談社文芸文庫 二〇〇二年四月
金石範『新編「在日」の思想』講談社文芸文庫 二〇〇一年五月

【参考論文】
大牧冨士夫 「自愧の言葉なれど」 『幻野』三一号 一九八九年八月
大牧冨士夫 「あるプロレタリア詩人の現在」 『新日本文学』秋号 一九九二年十月
金 龍 濟 「幻像」 『子午線』六号 一九九三年八月
伊藤信吉 「日本追放の詩人たち―金龍済」 『騒』一五~二一号(一九九三年九月~九五年三月)、二七号(九六年九月)
李 銀 子 「『言葉の杖』を求めて」 『新日本文学』 一九九四年十一月
白川 豊 「張赫宙研究」 東國大学校大学院博士学位論文 一九八九年
白川 豊 「張赫宙作戯曲〈春香伝〉とその上演をめぐって」 『史淵』一二六輯 一九八九年三月
長 璋吉 「苦悩の文学者たち 解放前後」 『韓国を読む』集英社一九八六年二月
(本稿は『世界文学』No.96掲載論文の誤植等を訂正した上で、『民主文学』二〇〇三年四月号に転載した林浩治の論文である。) 

*「在日朝鮮人文学」の変容とは何か も参照下さい。

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