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「在日朝鮮人文学」の変容とは何か

200902はじめに
 在日朝鮮人による日本語文学の「集大成」として、二〇〇六年に『〈在日〉文学全集』全十八巻が発行された。それまでにない規模の編集・出版であった。だが、この偉業を目にして、何やらもの淋しい感じを抱いたのは私だけではなかっただろう。このようにまとめてしまったことに対する、一種の違和感が拭えず、このように「終焉」して良いはずがないという拘泥に囚われるのだ。
 昨今韓国において、海外居留「韓人」による文学に関する研究が盛んだ。特に日本在住の韓国(朝鮮)人による文学には関心が高い。(*1)韓国の研究者は主に血統主義をとっている。彼らは朝鮮籍、韓国籍、日本国籍に関わらず研究の対象とし、父方の祖母が韓国人という鷺沢萠までも「韓国人作家」として枠に入れている。筆名の日本風、朝鮮風の区別もしない。これらは『〈在日〉文学全集』の場合も同様だ。作家の意志や作品の性質は考慮されない。自らを朝鮮人作家、あるいは在日作家として意識しない作家までこの枠に入れなければ「分類」できなくなったところに「在日朝鮮人文学」から「〈在日〉文学」と呼称を変えなければならない変容があったのである。『〈在日〉文学全集』に柳美里などが収録を拒否したことも、そのような分類に対する嫌悪と無関係ではなかっただろう。
 かつてわたしが在日朝鮮人文学を読んだときの心のふるえは、作者が朝鮮の血を引くからだけではない。日本帝国主義の支配下にあった朝鮮から、宗主国である日本に渡って日本語で書くしか選択の余地がないほどの状況で、書くことを選択した朝鮮人あるいはその子孫の作品群が、日本人である私の心に迫ってきたのだ。彼らは日本語文学史上の一時期に、ひとつの大きな塊として我々の前に現れ、そして民族を叫び、あるいは語ったのだった。そこから離れてわたしの「在日朝鮮人文学」は存在しない。

この論文は2019年発行の、林浩治『在日朝鮮人文学 反定立の文学を越えて』(新幹社)に輯録されました。本文はそちらをご覧いただければ幸甚です。

 

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