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「在日朝鮮人文学」と金泰生の風景

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この論文は、2006年6月17日  日韓国際シンポジウム2006『在日朝鮮人文学の世界』(於:九州大教職員会館)に於いて20分の時間設定で発表された梗概「『在日朝鮮人文学』と金泰生の風景」及び、10月12日 埼玉文学学校で「金泰生の風景」と題して講義した内容であり、『재일 동포문학과 디아스푸라 2』(2008年8月제이엔씨 韓国)に収録された「「재일 조선인문학」과 김태생의 풍경」の日本語版です。

  「在日朝鮮人文学」と金泰生の風景

(序)
 1970年代、李恢成が芥川賞を受賞して、朝鮮人作家の新鮮な感覚の日本語文学が文壇マスコミにもてはやされた。ほぼ同時に「鴉の死」の作家金石範は「在日朝鮮人文学」に関する論を立て続けに発表し、「在日朝鮮人文学」という言葉は一般化していった。その後、今世紀に至る過程で三世作家・詩人たちが豊富な才能を多様な形で表現してきている。李良枝を経て、柳美里・玄月が登場するに至って、「在日朝鮮人文学」という言葉は有効性を失いつつあり、磯貝治良は「在日文学」と呼ぶべき時代になったと定義したのである。
 さて、本論は金泰生を紹介するものである。
 金泰生は在日朝鮮人作家である。狭義の意味で「在日朝鮮人作家」なのである。それは日本が朝鮮を植民地支配した歴史的経緯によって来日し、歴史的諸条件のなかで帰国できずに在日し続けたという、在日朝鮮人の典型的な姿を体現し、日本語によって文学活動するけれども、朝鮮民族の一員であるという意識を強く持って書いた作家であるという意味でそう呼ばれるのである。
 では典型的在日朝鮮人作家金泰生の意識の目を通して見れば、在日朝鮮人文学の典型的な風景が見えてくるのではないか。
 人間の精神に染みこんだ「風景」はそれぞれの生活の悲哀や喜びを包み込んでいる。人々との暖かい繋がりや辛く苦しい反発もこの風景として脳裏に焼き付く。作家金泰生の持った風景は、彼が幼くして朝鮮の済州島から大阪に来日し、そして転変しながら生きながらえた在日朝鮮人であるという点においてある種の普遍性を持っている。金泰生の文学作品に反映したものはことごとくひとりひとりの人間である。しかし、その人間を包み込む風景は、あくまで個人を描いた金泰生文学に強い社会性を与えている。金泰生の視線の先を追うならば、戦後在日朝鮮人の見た風景が見えてくるはずだ。

 一.故郷の風景
 金泰生は1924年11月27日(旧暦11月1日)、朝鮮半島南端の火山島、済州島の南西に位置する大静面新坪里に生まれた。日本では1920年代からプロレタリア文学運動の中に金煕明・李北満・金龍済・白鉄ら朝鮮人文学者の活動が目立ち始めていたころである。
 1929年10月、ニューヨークで株価が大暴落することによって世界恐慌が始まり、11月には光州学生運動という大規模な反日運動が起きる。この年、幼い金泰生の母はひとり息子を手放して再婚する。幼児期にまで遡らなければならない金泰生の故郷・済州島の記憶は、母親との別離という記憶と接近している。
 金泰生の目に写った最初の風景は済州島の風景のはずだが、その作品からは意外な事実が見えてくる。
 自伝的でかつ記録的要素の強い作品『私の日本地図』[註①]は、朝鮮の地図を開き、作家の故郷である済州島の位置と形象の地理学的な説明から始まる。そして故郷とはいったい何であろうか? と語りかけるこの文章に、5歳まで過ごした筈の故郷済州島の生々しい原風景は見えてこない。
 この本で最初に現れる風景は、第一章の冒頭である。

   ぼくが初めて日本の土を踏んだのは一九三〇年の初夏のことであった。縁者にともなわれて大阪港に辿りついたぼくは、猪飼野の町外れにあった朝鮮人長屋に落着くことになった。
   昭和初頭の猪飼野の町はずれには、どことなく牧歌的な風景がまだ残っていた。路地や横丁はもとより、表通りもまだでこぼこ道で、どこからか荷物を運んできた馬力屋が路傍に馬車を停めて、仕事の合間に車の荷台の上で弁当をたべていることがあった。電柱に手綱をつながれた馬車馬はカイバを食いつくしてしまうと、道に突っ立ったまま図々しくも長ったらしい立小便をはじめる。

 ここで、最初に裸眼で見る風景として表されたものは大阪の「猪飼野」と呼ばれる朝鮮人居住区であり、済州島は地理的な説明と遠い憧れとして描かれている。済州島は本当に金泰生にとって原風景なのだろうか? 金泰生に「故郷の風景」(『くじゃく亭通信』第23号 1979年7月)と題した短文がある。

   「アサヒグラフ」で済州島の風景を伝えるカラー写真が何点か紹介されていたことがあった。グラビア雑誌の大きな見開き頁いっぱいに、黄色をした菜の花の群生と麦畑の濃淡が眼にしみるような野の風景が展けていた。(中略)
   少し話は逸れるけれども、私の母がかって伊豆の大島に行ったとき、母はなつかしそうにここはくにの村とそっくりだといって、しきりに感心したことがあった。火山島である大島には熔岩の砕石で築いた石垣をめぐらした畑が多く、民家の庭先や路傍に赤い花弁を開いた椿が生い茂っていた。済州島にも椿が多い。さらにタムと呼ばれる砕石の垣根をめぐらして畑を風から防ぐ。よい畑ほど小石を少しまいて土が風に吹きさらわれないように庇う工夫をする。それは大島の岡田港の近くの畑でも似たことが行われているようだった。地形からしてその一帯は北西の強い季節風がもろに吹きつける位置にあったから、なおさら故郷に酷似した印象を母にあたえたのかもしれなかった。それに島のアンコさんたちが頭髪に布地をちょっとアクセントをつけてななめに巻いている風俗も、布地の白と柄物の相違はあっても〈風の文化圏〉に生きる人々にとって親近感をそそるものだ。

 金泰生は裸眼ではなく、写真で見た故郷の風景を語り、そして故郷に似た地形・風俗の伊豆大島との比較によって故郷そのものを喚起しているようだ。裸眼でみる生々しい故郷・済州島は、金泰生の中に焼き付いていない。常にワンクッションを置いて故郷を語らざるを得ないのだ。
 そうした故郷と作家との屈折した関係を如実に表した作品が「童話」[註②]である。「童話」は、金泰生が幼児期の記憶を素材として書いた言わば原風景小説なのである。
 この小説の主題は別離である。幼児期における母との別離を抒情的に描いている。別離の背景にある風景は、石垣越しに見える二本の背の高いポプラの木である。

  空は高くどこまでもひろがっていた。目あての二本のポプラも石垣のすぐ向うにはっきり見えていた。大きいポプラと小さいポプラは、まるで親子みたいによりそって仲よく立っていた。竹箒を思わせる葉のまばらな梢が風に小さくゆれている。大きいポプラはまるで小くびをゆすりながら信之においでおいでをしているようだ。見るものすべてが気持よかった。信之はすぐにもよろこんで真直ぐに駆けだせばよかったのだ。でも、信之はわけもわからずに不安だった。勢いよく目あてのポプラの方へ走って行く気になれなかった。何かよくないことがおこるのじゃないだろうか?

 結局ポプラの木の本に行った信之は、日本に行ったきり行方知れずの父方の親戚に捕まってしまい、母と離されてしまう。信之の持った風景へのそこはかとない不安は、現実の別離へと通じている。金泰生が持った故郷・済州島の風景は悲しく、思いが深いが、曖昧で不安定である。ところが、日本で出会う風景は強い現実感と生活臭を漂わせている。
 金泰生にとっての原風景は幻風景である。リアリティーの伴わないイメージの世界なのである。伊豆大島のイメージに済州島をダブラせて見る原風景へのアプローチは、やはり精神的な作業に外ならない。故郷の甘美なイメージはやさしい母のそれと同一化されて、作家の中に記憶されていった。金泰生が故郷を描けば、離郷譚であり別離譚になる。
 それはイメージの故郷への憧憬、一緒に暮らすことの少なかった母への思慕、つまり幻の原風景への回帰願望なのである。だから美しい。
 ところが日本の風景は現実の苦悩そのものを反映している。

二.在日の風景

   猪飼野はいわば、その名の示すように大阪の底湿地帯だったから、もちろん、住吉や帝塚山あたりの高級住宅街は論外としても、他の市部にくらべて住居条件がゆるやかだったこともあっただろう。だから昭和の初期、裏通りには掘立小屋とすらもいえない、板切れをつぎはぎしたような満身創痍の長屋がまだまだ残っていた。おそらく、それらの小屋は、明治末期頃の大阪場末の庶民生活の名残りを伝えるものだったろう。日本人の住人が住むに耐えなくなって引き払った後、ぶっ潰すには惜しいが金も欲しいという家主の量見から、朝鮮人同胞に居住を許したものもあったようだ。
   もちろん、大正期の平野川の改修工事に伴う飯場くずれの長屋もあったろう。低賃金を就労条件の代償として、牛小屋同然の長屋の一部を提供される例もあった。        (『私の日本地図』p.138)

 現実として立ち塞がる原風景は、猪飼野の貧しい風景だった。幼くして日本に来た金泰生はこの猪飼野の貧しい風景の中で育まれた。猪飼野の貧しさは例えば次のようである。

 猪飼野の周辺にはまだまだ田畑が点在していて野原が多く、どことなく牧歌的な風景が残っていた。だが、風景とは逆に、一世のアボジ、オモニたちの暮しはいちように苦しかった。アボジたちが働きに出たあとも、オモニたちも必ず何らかの内職をやって家計をたすけねばならなかった。それどころか、女の子でさえ。七つか八つぐらいでも働きに出されることがあった。…(略)…ぼくの知っている少女は真ちゅう製のファスナー(チャック)の爪を一つ一つ指先で拾いあげて、布地に植えこむ作業をくりかえすものだから、親指の頭の部分の皮がいつも鈴の錆のように蒼ぐろく染っていたものだ。長屋の少女たちの指を見るだけで、その子の仕事の種類さえ見当がつくこともあるぐらいだった。        『私の日本地図』p.139)

 『私の日本地図』にこのように描かれた少女の姿は、小説「紅い花」(『すばる』1983年11月)では鳳仙花の紅い花に映しながら再び構成され、戦中・戦後・現代に渡る人間ドラマとして描かれた。「錆びた洗面器の中で萎れて枯れかかっていた紅い花」といった姿が猪飼野の幼児期の印象だったと言える。また、錆びた洗面器のような猪飼野の風景だったと言うことができるのかも知れない。この町で金泰生は生活のために日本語を覚える。〈猪飼野の町の路傍はぼくの学校であり、事物はすべて教材だった。〉(『私の日本地図』p.165)
 この町での辛い生活の中からも、故郷が思い出される。少年金泰生は墓地のポプラの幹に故郷を懐かしむ。

 墓石の間に幹をすらりと伸ばした白揚がある。それは故郷の村道で見なれた姿とちっとも変らない。松の木もある。蝶も飛んでくる。竹の植え込みもある。葉ずれの音を微かにたてているポプラの幹のどこかで、蝉も鳴いている。ぼくはざらつくポプラや松の木肌の感触を手で確かめ、鼻先をつきつけて仔細にその体臭を嗅いでみる。何というなつかしさだろう。青臭く、やに臭いその木肌の臭気は、村の路傍で嗅ぎなれたあの匂いとそっくりじゃないか。日本でも、白揚や松の木は自分の村のものと同じ匂いであることが、ぼくはすっかり安心させてくれる。
          (「涙はぜいたくな持物」『十代にどんな教師にであったか』1985年12月、未来社発行 所収)

 故郷は常に思い出という名の幻影であった。幼児期の墓地での体験が、ユートピアとしての故郷の幻影を増幅させたのだ。実態としての在日の生活の風景が凄惨でればあるほど、ユートピア指向が強まる。実の父母から引き離され、縁者に育てられた異国の地での貧しい生活の風景が猪飼野だったからだ。もう少し付け足すと、母代わりのおばさんとその夫であるおじさんとの生活が、猪飼野の風景には染み込んでいる。それはこの地に住んだ多くの在日朝鮮人の場合と似かよった貧しいものだったのだ。
 特に数えの33歳で死ぬおばさんと共有した風景は、死の風景に外ならない。金泰生自身なんとなく33歳で死ぬと思い込んでいた、と言う。それほどまでに強い影響を金泰生に与えたおばさんは、子供を何人も生みながら、ことごとく失っていき、最後は貧しいまま結核で逝く。このおばさんの悲惨な像は「少年」、「ある女の生涯」、「私の人間地図」[註③]などに何度となく繰り返し描かれている。例えば、「少年」に描かれた次のような風景が、金泰生の脳の一部を支配していたに違いない。

   建物の大煙突は夜の九時ごろから夜半にかけておびただしい煙りを吐き出した。風の絶えた夏の夜には淀んだ層をつくって墓地裏の長屋の上に漂う。夜明けとともに陽射しを含んだ空気がふくらみはじめると、長屋のあたりには実質のとらえがたい臭気がたちこめた。そして、界隈の人々は、それをまるで長屋自体が発散する悪臭と信じて疑わなかった。

 少年期、最も愛してくれた「おばさん」と共有した風景を「死の風景」と呼んでしまうのは、余りにも悲しい。作者自身〈記録性が濃い〉と明言している「ある女の生涯」のおばさん「金秋月」は、故郷の土に埋められることを望んだが、果せず、大阪郊外の地に埋葬された。その地の風景も時間の流れは削り取って行く。

  彼女の墓地は跡形もなく消えていた。遠い記憶をたどりかえしてみても、道順まちがいはなかった。丘を削りとって窪地を埋めたてた厚いコンクリートの幹線道路が走り、彼方の浜寺のかつての海水浴場だったとおぼしい辺りの空間に林立するコンビナートの巨大な煙突群のなかへ没していた。眼前をひっきりなしに大小さまざまな型の乗用車やトラックがかすめすぎていった。つぎつぎに接近してはまた遠ざかっていく車のタイヤの地表をこする擦過音は一つの音帯の層となって空間にはりつき、それは私の内部をもこすりつけながらひたすらつづいた。

 故郷に埋められることだけを、最後に望んだかわいそうな朝鮮人女性の、それでもひっそりと埋葬された筈の墓地は、日本の高度経済成長の陰に、丸ごと消し去られてしまっていた。在日朝鮮人の生きた印を消し去ろうとする、日本の高度経済成長の風景は、金泰生の生を内部から削り取ろうとさえしている。金泰生の作家としての抗いがこの風景描写に窺えるのだ。

三.憎悪する京都
 母との思い出が済州島に、おばさんの記憶が猪飼野にあるとすると、父と共有する風景は、京都であった。しかし、それは金泰生にとっておぞましいものに外ならない。
 「骨片」[註④]は少年期に別れた父の所在を京都に訪ねる青年の話である。青年用民は父永河にたいしてなんらの愛着も持っていなかった。〈用民にとって永河の記憶は、真黒い醜悪な塊りのような印象だけであって、用民はこれまで冷やかな憎しみをもって心に永河の存在を拒絶してきていた〉のである。それほど嫌悪していた父を訪ねて京都駅を降りる。京都の風景は父への嫌悪と重なる。

 用民が京都駅に着いてみると風はひときわ強まっていた。満員電車のむれるような人いきれからいきなり外気にさらされると底冷えが俄かに身に沁みた。駅前の広場を背をかがめて通りぬける用民の頬を横なぐりの風がいきなり平手打ちをくらわせる。そのつど用民は足を踏みしめて立ちどまり、背中で強風をさけながらひりひり痛む耳朶を両掌でかばった。(略)人影のまばらな広場をよこぎっていくと前方の三叉路の左側に丸物百貨店の灰色のくすんだ建物がみえ、その前の歩道の片すみに貧弱な木造りの机をすえつけて宝くじ売りの老婆がしなびた眼をしょぼつかせながら、身動きもしないで坐り混んでいた。机の前面にはりつけた宝くじの宣伝広告の紙きれのはしが強風にあおられてバサバサと乾いた音をたてている。(略)丸物百貨店のくすんだ灰色のビルに隣接して、それはかつてのあの見るものを威圧するような横柄なかまえの建物とは姿こそ変っていたが、まぎれもなくK警察署のなれのはてだった。

 なんとも殺伐とした風景だ。これが、父を探しに京都に赴いた用民の心象風景なのである。愛憎を超えて、無味乾燥に拒絶してきた父との関係。それがこの風景だった。金泰生は、1939年から3年ほどの間、大阪から京都へ頻繁に往来している。その間の父との葛藤は「骨片」の他、『私の人間地図』でも知ることができる。蓄膿症の治療のために、カメラマンになりたいという希望を託していたカメラを売って作った金を父に奪われ、最終的にその関係を冷たいものにしてしまう。<もう何の希望もぼくには残っていない気がする〉。京都の風景は絶望の風景と言える。
 後に金泰生は、飯沼二郎・鶴見俊輔らの発行する雑誌『朝鮮人―大村収容所を廃止するために―』の座談会に出席するため、京都に行く。1982年5月、56歳のときである。そのときの感想を、金泰生はこう述べている。

  四〇年の時間を隔ててもその風景がぼくに刻みつけた感覚は、未だに肉体から消滅してはいなかった。それは外部にある風景がぼくにもたらした感覚というよりも、ぼくの意識が風景にあたえた意味づけだったのだ。単なる風景に格別の意味があるのではなく、それに関わる個々の人間の生きざまのありようが風景に特定の意味をあたえる。ぼくの感覚が体に刻みつけ、心に植えつけた痛切な日々の記憶をよみがえらせるには、それに関わった風景の媒介が必要だったということである。
  (「京都――ある風景の意味」1982年庄建設(株)の小冊子『告知版』9月号)

 17・8歳の、まだ若い青年が、父との葛藤を乗り越えて、その父の骨を拾いに行った京都。その風景は晩年を迎えた金泰生に、作家としての新たな出発を与えようとしていた。〈私と京都との新しい関係というのは今日からはじまるのかもしらんなあと思ったんです〉(「座談会・日本地図への別の見方」『朝鮮人』83年21号)と語る金泰生の心の風景の中には、自己を凝視する鋭利な視線が突き刺さっている。

四.戦後の風景
 1945年8月15日は金泰生にとっても特別な日だった。〈これまでの長い異国暮しの中で最も楽しかったといえる日を一つだけ挙げろといわれれば、ぼくはためらうことなく、あの八・一五――一九四五年八月一五日をあげるだろう。〉(『私の日本地図』p.146)長い植民地支配の軛(くびき)から解放された朝鮮人は、帰国する手段がなく、しかも祖国にはもはや生活の基盤もなかった。
 解放後も日本で生活を続けることになった朝鮮人の多くは、在日朝鮮人連盟などの組織を作って民族教育運動などの在日朝鮮人の民族的生活を守るための運動を展開していく。若き日の金泰生ももちろんその渦中にあった。戦後明治大学で農業を学び祖国でその知識を生かそうと考えていた金泰生であったが、GHQを後ろ盾とした文部省や自治体の民族学校に対する弾圧は見逃すことのできるものではなかった。48年には「阪神教育闘争」と呼ばれる激しい攻防があり、中学生の少年が警官によって射殺さえされている。この時期、解放から48年に結核で入院するまでの金泰生の心象風景は資料が少ない。未発表の未完の小説「明日の人」に次の部分がある。

    息づまるような憎しみと怒りをみなぎらせた、たたかいの日々がすぎていった。遂に、中央の委員会が文部当局の最後にしめした線を暫定的に呑むことを決定した日、K市の合同委員会につめかけた人々は暗い目を見開いて、屈辱的に唇を噛んでいた。
    炳植は帰り支度を終えた潤節と朴につれ立って会場を出た。ごたごたと低い家並みの建てこんだ町を出外れると、武蔵野の名残をとどめた郊外の眺めが眼前に展けた。厚みを増した黄色の麥畠が前方に横たわり、その畠を縁どって五六本のくぬぎの新樹が風に吹かれて梢をしなわせていたが、曇天の下を吹きすぎる風は冷たくえり肌をちぢませた。

 埼玉で組織活動に従って民族教育闘争に連なった金泰生の心象は、武蔵野の明るい未来を思わせる麦畑と新緑の景色であると同時に、暗い現実を示す曇天下の寒風吹きすさぶ風景でもあった。しかしその後すぐ入院療養をよぎなくされる金泰生にとって、希望と不安の入り交じったこの風景の時期は短かった。

五.療養所の風景
 金泰生は戦後帰郷を目指すが、挫折する。そのことは、『私の日本地図』に詳しい。彼はいつも故郷を目指している。その後も済州島での酪農を夢見て勉強するが、肺結核のためこれも挫折。1948年から8年に渡って奥伊豆の療養所で療養生活を送った。

   病室のおくのベッドから、ぼくはまた裏庭を隔てて向うにひろがる外界の季節の移り変りを見つめていた。冬の夜、裏山の向うからゆっくり昇ってくる円い月は、レースを思わせる繊細な雑木の網目にくるまれた手まりのように見える。春になると、褐色だった雑木の枝々が雨ごとに滲ませてぼおっと霞みはじめる。暖かい陽差しをあびた山肌の木立の繁みがいっせいに芽吹きはじめて萌黄色に変り、やがてみるみる柔らかい緑色にふくれあがってくる。それは圧倒的な生命感をみなぎらせた眩しい緑色の光の氾濫を思わせる光景だった。そのうえには穏やかな陽差しをふくんで潤んだ空がひろがっていた。ぼくはベッドにしがみつき、一見ものやさしげなその光景の奥からぼくに注がれている永遠と思える冷たい自然の一瞥を感じることがあった。空は視野の途切れた辺りで天涯を閉じ身動きならぬぼくをこの地上に封じこめている。そしてぼくはただ、深い吐息をもらしてうなだれるほかないのだ。     (「メルヘンの人」[註⑤])

 病院のベッドから見遣る風景は、自然のうつろいの強さを感じさせ、同時に人間の命の小ささを痛感させる。死に直面しているだけに、生への強く、淡い欲求の風景となっている。戦後、金泰生の文学的出発はここから始まったと言っても良い。長い療養生活のなかで、体力のない自分には文学ぐらいしかできないと思い始める。金泰生にとって文学は生より死により近い。それだけに小さな生を大事に思ったのだろう。

 消灯後の病室から見る廊下には暗いトンネルに似た冷えびえとした孤独があった。廊下のガラス戸を隔てた闇のなかで庭の常緑樹の喬木の枝をゆすぶる風のざめきが聞える。時折、風がとぎれるとベッドに仰臥した私の耳に胸の奥からプチプチと喘ぎながら息苦しく這いあがる呼吸音がはっきり伝ってくる。病み爛れて狭窄した気管支に絶え間なくからむ痰は外気を断ち、拒みながら呼吸を妨げ、執拗に私を窒息させようとするかのようだ。それは今にも絶えそうな自分の命のおぼつかない呻きに聞える。                                           (「紅い花」『すばる』83年11月)

 病院の孤独は死に直面している。その事実は民族を超えている。金泰生は「爬虫類のいる風景」(『すばる』1985年4月)の中で結核患者仲間の中原に、〈君は朝鮮出身だから敗戦国の民と呼ぶわけにはゆかんが、こと結核に関する限り原理は平等だ、不幸にしてね〉と言わせている。そして、〈立場は違っていたにしても、あじわった苦しみが似通っていなかったとはいえないんだから〉と答えている。
 療養中、俳句を作ることによりものを見る訓練としながら、文学を志す気持ちを強くしていった。俳句の師匠は石塚友二だったという。のちに公表された句に次のものなどがある。

  烏賊の瞳の潤みて海に向き干さる
  みぞれ打つ墓群ゆらり貌もたげ
  稿を継ぐ心に寒き沼を抱き    [註⑥]

 いづれも成作年月日不詳であるが、死と面と向かった在日朝鮮人の立場と人生観を感じさせる。
 病院での暮らしをモチーフとした作品に「E級患者」「めるへん」「爬虫類のいる風景」などがあり、また『私の日本地図』の「あとがきにかえて」の中でも、病友加藤保彦の死について書いている。それらは、日本人を描いている点を共通点として上げることが出来る。死に直面した金泰生にとって、人間の生死は民族を越えていた。
 右肺葉切除、肋骨八本を失った金泰生は、死に直面する風景の中に八年間を過ごし、死の前の平等とでもいうべき思想を得た。「死にたくない」という蛇のような本能の風景を通り過ぎた者として、金泰生の文学は一種の独自性を保つことになった。
 しかし金泰生の長い療養生活のあいだ、朝鮮半島は激動していた。48年故郷済州島では5・10南朝鮮単独選挙に反対する人民蜂起とこれに対する李承晩と米軍政当局による大弾圧が強行された。この世に言う「四・三事件」によって金泰生の親戚の多くが抹殺されたという。
 このとき強行された選挙によって朝鮮半島の南北分断時代が始まったのである。
 1950年6月には朝鮮戦争が起き、戦前からの日本語作家であった金史良は人民軍に従軍して死亡したと伝えられる。
 朝鮮戦争は53年7月に、板門店で休戦協定が調印されるが、朝鮮半島の南北固定化時代が始まる。
 在日朝鮮人社会においても変化があった。1951年1月、在日朝鮮統一民族戦線(民戦)が結成される。民戦の運動は日本共産党の強い影響下にあったと言える。
 55年7月に日本共産党第六回全国協議会開催され、それまでの分派闘争を解消し、党の統一がはかられた。一方、在日朝鮮人は日本共産党の指導下にあった民戦を解散し、「在日本朝鮮人総聯合会」を結成した。
 戦後朝鮮人による日本語文学も、52年には金達寿が「玄海灘」を『新日本文学』(1952年1月~53年11月)に連載して注目され、翌年筑摩書房から上梓した。戦前の作家張赫宙も朝鮮戦争の悲劇を描いた『嗚呼朝鮮』(52年5月新潮社)を発表するなど、依然として盛んであった。
 金泰生の最初の小説は、1955年退院の年、在日朝鮮人総聯合会の関係する雑誌で、金達寿を編集長とした『新朝鮮』9月号(しかし、これが最終号となった)に、発表した「痰コップ」である。この作品で若く死んだ叔母の病と自己の病とを二重写し見た金泰生は、その後も叔母さんの死の強烈なイメージを抱いたまま書き続けた。
 雑誌『新朝鮮』は朝鮮総連の結成とともに『新しい朝鮮』を改題して作られた雑誌で、金達寿の編集であった。結局2回目以降の発行は経済的事情が許さなかったので金泰生の発表の場とはならなかった。しかし編集長だった金達寿は、戦前『文芸首都』などで活躍した金史良の後輩を自負していたし、『文芸首都』は朝鮮人による雑誌ではないとはいえ、因縁の深い雑誌ではあった。

六.政治の季節
 しかし小説を書き始めた初期金泰生の活動の場は、在日の雑誌ではなかった。金泰生は1955年末頃、『文芸首都』の保高徳蔵を訪ねた。『文芸首都』は戦前から張赫宙、金史良ら朝鮮人作家に多く作品発表の場を与え、戦後も金泰生のほか、尹紫遠や金石範らが活躍している。
 金泰生は、『文芸首都』に「心暦」(57年4月)、「E級患者」(57年9月)、「童話」(58年2月)、「歳月の彼方」(58年5月)などの小説を発表していく。
 「心暦」は少年期に別れた父親との葛藤を描いた小説で、後の「骨片」の習作と言える。この小説は『文芸首都』次号(5月)の「首都月評」で亀山恒子が好意的な評価をするなど、同人の間で評価が高かった。こういうこともあってか金泰生は『文芸首都』の編集同人としても活躍することになる。
 なだ・いなだの小説『しおれし花飾りのごとく』(72年毎日新聞社、81年集英社文庫)には金泰生をモデルとした「朴」が登場する。「朴」は結核療養所で仲間と出していた同人雑誌に小説を書いていた。インターンとして「南」(北杜夫)が療養所に赴いたさいに知り合って、その後『文芸首都』の仲間に加わったということになっている。
 『文芸首都』での文学時代はいわば金泰生文学助走期間であり、この時期になだ・いなだ、北杜夫、佐藤愛子、森礼子ら日本人作家たちと交友することになり、「合評」などにも多く発言を残している。[註⑦]
 特に注目されるのは、58年1月号の「首都合評」である。この合評は、なだ・いなだ、亀山恒子とともに担当しているが、前号掲載の金石範「鴉の死」について議論している。金泰生は「鴉の死」という作品の政治性と済州島蜂起という史実の面に感動を隠さない。金石範が、「看守朴書房」に続いて、「鴉の死」という金泰生自身にとっても故郷である済州島の民衆武装闘争を素材とした作品を発表したことは、大きな感動であった。そして、そういった同郷作家の出現はその後の文学活動に強い刺激になったとも言えよう。
 病み上がりの文学青年は1958年に33歳で結婚する。以後はほぼ埼玉県川口市に居住した。しかし、状況は晴耕雨読で小説を書きながらの平穏な生活を許さない。1960年に、韓国で4・19学生革命起こり、李承晩政権を倒れたかと思うと、翌年には朴正煕が軍事クーデターを起こして独裁政権を築いてしまった。
 憤った金泰生は組織活動に従事するようになったのである。62年から72年頃まで統一評論社に勤務し、雑誌『統一評論』の編集にあたった。〈団体の仕事をまあ十年少しやりました。行動の起点は李承晩を打倒した4・19学生革命でしたが。その1年のちの5月に朴正煕が反統一勢力として権力の座にすわる。(略)これはもうのんきに小説など書いとる時代ではないんだという切迫した気持ちがありました。〉(「座談会・日本地図への別の見方」『朝鮮人』21号 83年3月)
 若い金泰生は個人的表現より組織方針に従った。アメリカ帝国主義と朴正煕軍事独裁政権に対抗する強い意志は、10年もの長い期間を文学から遠ざけたのである。
 62年、朝鮮青年社発行の雑誌『新しい朝鮮』12月号に小説「光の中へ」を発表した。この作品は62年以降の10年間に「金泰生」名で発表された二つの作品のうちの一つである。「光の中へ」はどの作品集にも収録されていないので知られることの少ない小説である。そして金泰生には珍しい政治的意志の先行した小説である。主人公で日本人高校に通う男子高校生が、組織の先輩大学生に誘われて映画の上映会に行き、そこで出会った民族学校に通う女子高生などと話すうちに、朝鮮大学に進学する気持ちになっていく、というものである。金泰生の作品は、淡々とした文章の中に、かすかな情緒の揺らぎや意思の変化が、情景として描き出されて、明確な意志を強く打ち出すことは少ないのだが、この小説は意思表示が路線的に明確な、金泰生としては珍しい作品なのである。このあと金泰生は自ら編集する『統一評論』に安在均名で評論・ルポルタージュ・随筆などを発表していったが、一般にはこの10年は空白の10年、つまり金泰生が書かなかった10年と言われる期間なのである。この10年は金時鐘の「沈黙の十年」とほぼ一致する。金時鐘の場合は文芸同(文学芸術家同盟)書記長の職に就き、創作活動は「文芸同中央常任委員会の批准を事前に受ける」という手枷をはめられたための窒息の10年と言われるが、金泰生においてもそれに近いものがなかったとは言えないだろう。「光の中へ」はそういう状況下で書かれた小説であった。
 しかしこの間にもう一つだけ金泰生名で小説を発表している。1965年1月、井野川潔、早船ちよ等の同人誌『新作家』三号に長編「人間の市」が発表された。早船ちよは吉永小百合主演で有名になった映画「キューポラのある町」の原作で有名な作家である。この小説はそれまで『文芸首都』に発表された作品群を組み直して長編化したような作品であり、同人の間では高く評価され、続編を依頼されたのであるが、次号には朝鮮の長詩「米第八軍の車」鄭孔采(坂本孝夫訳)を推薦し、続編の発表はなかった。ここにも何らかの政治的意志が働いたと言ってもあながち考えすぎとも言えないようだ。
 この間に、金泰生が編集する雑誌『統一評論』の第一回統一評論賞を、李恢成が小説「その前夜」(『統一評論』64年9月号掲載)で受賞したことを明記しておく。無名だった李恢成はその後69年に「またふたたびの道」で第12回群像新人文学賞受賞、72年には「砧をうつ女」で第66回芥川賞受賞して日本文壇に地位を築く。李恢成が文壇にのし上がるきっかけと金泰生が無関係であるわけがない。

七.注目される在日朝鮮人文学
 10年の歳月を経て、金泰生は再び文学の道を志す。1972年6月、雑誌『人間として』10号に小説「骨片」を発表すると、組織の仕事から身を引いたのである。この年は朝鮮の統一について大きな節目の年であった。7月4日、南北共同声明が発表され、朝鮮統一に関する基本原則が明らかにされた。いわゆる「七・四共同声明」である。これをきっかけに在日の知識人たちは朝鮮と日本の架け橋になろうと、雑誌『季刊三千里』を発行することになる。ちなみに創刊号の編集委員は姜在彦・金達寿・金石範・朴慶植・尹学準・李進熈・李哲の各氏である。いわゆる元共和国指示在日朝鮮人知識人グループということになろうか。金泰生もここに多くの作品を発表した。
 金泰生が文学から身を引いて、「朝鮮民主主義人民共和国」支持の立場で、祖国の統一のために働いていた、1962年から72年の10年強のあいだに、在日朝鮮人作家たちは大きな注目を集めていた。
 まず1966年11月、在日二世作家金鶴泳が「凍える口」で文藝賞を受賞した。金鶴泳は金達寿・許南麒ら一世作家たちが基本的に「共和国」を指示する立場から、祖国の統一と反米闘争、日本における在日の民族的主体性を訴える姿などを描いてきたのに対し、在日二世の苦悩、「北」指示の父親に対する反発を描き、民族問題より個人の問題により大きな苦悶を抱える主人公の姿は若い在日の共感を得た。
 そしてもう一人の二世作家李恢成は、1969年6月に「またふたたびの道」で第12回群像新人文学賞受賞、72年には「砧をうつ女」で第六六回芥川賞を受賞した。李恢成の文学は、文壇が内向する時代において、その社会性において注目され、在日朝鮮人文学の騎手として颯爽と走ったように見える。
 一方、金泰生と同世代の金石範も、1967年10月に最初の作品集『鴉の死』を新興書房から出版し、一部の熱い注目を集めた。
 異色の作家鄭承博は1971年に『農民文学』11月号に発表した「裸の捕虜」が評論家の注目するところとなり、翌年農民文学賞を受賞、芥川賞の候補にもあがった。
 日本共産党山村工作隊などの経験を持つ高史明も、1971年9月『夜がときの歩みを暗くするとき』を筑摩書房から発行して日本戦後史に文学的問題定義を突きつけたのである。

八.定住した町
 結核療養後つまり後半生、金泰生が定住しながら、定住を嫌った町が埼玉県川口市だった。そこは理想の故郷とは余りにも遠い地だった。しかし、そこで生業を営み、そこで寝起きし、妻と暮らし、子供をもうけたのだった。川口は、かつては鋳物の街として知られ、早船ちよの「キューポラのある街」で有名だ。吉永小百合主演の映画を観て、朝鮮人姉弟の姿を印象として覚えている人も少なくないだろう。金泰生はこの街に大阪猪飼野と同質のものを嗅ぎ取っている。

  芝川の橋を渡り工場のある地域に入っていくと忽ち空気が淀んで重くなり、錆びた鉄と粉塵と焦げた油脂類の匂いを混ぜあわせたような臭気が鼻を刺す。ごってり濁った空気は一種の液体を思わせる感覚で自転車をこぐ顔面の皮膚をぬらぬらっとこすりつけてくる。路傍の空地の隅には鋳物工場から廃棄されたノロが堆く盛りあげてあったりする。鋳物をふいた後のキューポラや作業場から運び出されたノロには石炭のかけらに似た石状の黒い塊りや鋳物かす、高熱で茶色にただれた釘などの鉄分がまぎれこんでいる。ノロは空地から自然にはみ出し踏みつけられて地肌の一部になっている。工場地帯の道路はそうした鉄片の錆やコークスかすや鋳物の砂や石炭のかけらに似た固形物を覗かせて死んだように黒い。子供を連れたモンペ姿のおかみさんがノロの上にしゃがみこみ小さな熊手のようなもので鋳物屑や釘や鉄線などを掻き出し、磁石を使って吸いつけてはドンゴロス袋の中へしまいこんでいる。それを屑物屋へもって行けばいくらかの小銭にはなるらしい。子供のおやつか風呂代ぐらいにはなるのだろう。
   ぼくは通りすがりにそうした光景をしばしば見かけたことが何としても侘しい眺めだった。この町で暮らし、働く人たちとその家族も決して豊かでないことが肌身に感じられた。ぼくはかつて暮らしていた大阪の町の、路地裏に鋳物工場が集まっていた一角を思い出した。…(略)…K市のこの工業地帯にもどことなくそれに似た印象があって、ぼくはできることならこの町にだけは住みたくないと思った。ぼくが死ぬような思いでもがき廻りながらやっと抜け出してきた生活空間と同質のものがこの町にはあるように思えた。                       (『旅人(ナグネ)伝説』[註⑧]p.120~121)

 理想から遠く離れて生きること、そうした人間の普遍的な生の現実を、金泰生はこの街に見たのではなかろうか。自身が、少年時代に抱いたカメラマンになる夢を捨て、また青年期に済州島へ帰って農業を営もうと思った理想も捨て、妻子を抱えて生きることにあくせくせねばならない事態に陥っていた。いや、あくせくしていたのは妻子の方で、本人は片肺と肋骨八本を失った不自由な体で、文学などにうつつをぬかし、ちっとも働けはしなかった、のかも知れない。
 大阪猪飼野と同じように、埼玉の川口には生活者の風景があり、その風景を背景として父親である金泰生を見る、二人の子供の視線がある。〈中学三年になる自分の娘が、私に批判的なんです。役にもたたないおやじだって、私が自分のおやじにやったように、なにをやってるのかわからん。あれは小言ばっかりたれるし、おふくろに苦労させて。〉(「座談会・日本地図への別の見方」)川口は子供たちにとっては故郷なのだ。そして、かつて金泰生が自分の父親を見たように、子供たちが金泰生を見ている。その視線をしっかり感じているのだ。これが自己凝視に繋がる。
 とにもかくにも、川口での生活の中から、民族問題を超えた社会性へと文学的視野を広げて行く。

  深夜、軒下で公害におかされて喘息に苦しむ野良猫といい、他人の家へおしかけて泣きじゃくる青年といい、日本にもアルコール中毒症がはびこる社会的条件は成熟しているのかもしれない。公害にしろ、アルコール中毒症にしろ、それらが腐食された自然状況の社会的反映であることには変りはないだろう。(略)
  大ヤンマの墜落といい路傍の鼠といい、ぼくらが日常何気なく見過しているこの町の風景の中で確実に小動物に生態系を脅かす環境汚染が進行していることは明らかだった。 (『旅人(ナグネ)伝説』p.136)

 民族の別なく環境汚染が人類を侵していく風景が描かれている。理想でない定住地で金泰生が見つけたものは疲弊し汚毒し腐っていく世界だった。その上に核兵器による人類絶滅の危機さえ視野に入ってくる。もはや一つの国家、一つの政治団体を超え、一つの民族さえも超えて、金泰生はあらゆる旗を降ろして文学にだけ望みを託していた。

九.日本社会に定住し連帯する
 望まぬ定住が金泰生にもたらしたものは、同時に金泰生が日本に、日本人にもたらしたものでもあった。亡くなる前10年弱の金泰生の活動を見てみよう。
 まず、1978年10月から新日本文学会系の埼玉文学学校の専任講師を務めた。新日本文学会は戦後すぐに中野重治らが起こした文学団体で、金泰生にとっては先輩作家である金達寿も深く関わっていた。埼玉文学学校は当時新日本文学会が運営していた。金泰生は他にも日本文学学校、横浜文学学校、千葉文学学校などでも臨時講師を務めた。後に埼玉文学学校が参加者による自主運営に変わってからも生涯にわたってここの指導に当たっている。[註⑨]晩年の金泰生は川口に住み埼玉文学学校の開催されている浦和に毎週出かけた。木曜の夜には文学学校の若い受講生たちとガード下の飲み屋で焼酎を交わしていたのだった。
 韓国では1980年に光州事件が起きて、全斗煥軍事政権が民主化を求める光州市民を大弾圧したが、この事件は当時日本では連日報道され、良心的市民は韓国と、そして在日朝鮮人にも強く関心を示した。その視線の先に、押しつけがましいところのない、優しく静かな文章で語り結論を急がない金泰生文学があった。金泰生は日本人のあいだに発言を広げる。
 1981年6月21日、「朝を見ることなく・講演の集い」(徐君兄弟を守る文学創造者と読者の会・呉己順さん追悼文集刊行委員会共催、於・東京水道橋労音会館)において「同時代人としての呉己順オモニ」と題して講演。[註⑩]
 12月8日、鄭敬謨主催のシアレヒム文章教室において講義。鄭敬謨は1972年『ある韓国人の心』(朝日新聞)を発行して、当時朝鮮人民共和国(同調的に)に向いていた日本の進歩的知識人の目を韓国に振り返らせた統一運動家である。この連続講義には金石範、李恢成も参加している。
 1982年5月、飯沼二郎・鶴見俊輔らの発行する雑誌『朝鮮人――大村収容所を廃止するために――』の座談会に出席するため京都に赴き、数日後には、千葉で市民によって開催された「光州を忘れない会」において講演。
 翌83年5月には川崎市の公民館における連続講座「誰にでも書けるエッセイ」を脚本家の須藤出穂とともに担当。以後、ここから生まれた「川崎エッセイの会」の指導を続けることになる。また同月末には東京府中市の「日韓問題を考える府中市民講座」において講演、翌6月、埼玉地方労働学校において講演。[註⑪]金泰生の目は、日本の市民と「韓国」に向かっていった。
 同年7月には「アジア文学者ヒロシマ会議」において祖国における核の危機の現況を在日朝鮮人の立場から訴えるための〈在日朝鮮人文学者有志の会〉結成に参加。27日から開催された「アジア文学者ヒロシマ会議」及び、第四回ナガサキ国際フォーラム「アジアの平和と文学を語る集い」に参加した。
 そして84年5月、埼玉県大宮市立図書館連続講座「在日朝鮮人文学をどう読むか」で講演。この講座は小野悌次郎をチューターとして金泰生・金石範・李恢成を招いて開催され、その後も参加者の有志が「在日朝鮮人文学」を読む運動を続けた。ここにも金泰生は関わり続けた。
 85年、在日外国人に対する指紋押捺の強制が社会問題化し、指紋押捺拒否者に日本人市民が連帯運動を展開していた9月、浦和市において「民族差別と闘う関東交流集会」において講演。
 この年の10月金泰生が指導した埼玉文学学校が新日本文学会から経済的に独立すると、これを引き継いだ自主講座埼玉文学学校のチューターを引き続き受け持ち、晩年に至る。文学学校をはじめ、幾つかの日本人のグループを乗せて、金泰生という乗り合いバスは生涯ゆったりと走り続けた。


一〇.終わりに

   私は再び、私にとっての故郷とは何だろう? という問いに立ち戻らなければならない。私は故郷を考えるとき、ひき裂かれて置き去りにしてきた自分の肉体の一部を思い描く。そして、私の故郷はかつても今も、孤独であるに違いない、と思うのだ。私の故郷から始まったこの「日本地図」は、再び私が故郷に辿りつくことによって、はじめて完結するのかもしれない。         (『私の日本地図』p.17)

 金泰生は4歳で来日して以降、不幸にして、二度と故郷に足を踏み入れることはできなかった。金泰生文学は完結しなかったのだ。母の面影で創造された幻影の理想郷=済州島から遠く離れ、育ての母である叔母の死を看取った在日の原点大阪猪飼野で成長し、自身の死を見つめた静岡山中の結核療養所を経て、政治に翻弄され、東京で文学仲間を得て、埼玉県川口市に定住した。
 金泰生は派手な作家ではなかった。むしろぱっとしたところのない目立たない作家だった。1979年に磯貝治良が「明澄と凝視と」[註⑫]と題して金泰生論を発表するまでは評論家の評価は殆ど受けていなかった。最晩年の1986年、第12回青丘文化賞を受賞した[註⑬]がこれも日本人社会では目立った賞ではなかった。そしてこの年12月25日の夜遅く、地元川口の小さな診療所でひっそりと永遠の眠りについたのである。
 畏友金石範が大作『火山島』で85年に大佛次郎賞を受けて、やっと日の目を見たことを考えると早すぎる死だったと思わざるを得ない。、
 螺旋状に回転上昇しながら金泰生の文学は故郷へと回帰を目指す。目指しながら決して到達しない理想。見えてくるの資本主義が支配し腐敗が進行する社会の現実。人類は滅びようとしているのか。文学に結論はない。金泰生はバスに乗り合わせた乗客よろしく、日本人たちと接した。そして問いかけ続けた。きみたちはどこへ行くのか、と。
                                                                                           
【註記】
①『未来』1976年9月号から77年12月号まで連載。のち補筆してまとめ、78年6月未来社から刊行。
②小説「童話」は2回発表されている。初回は1958年『文芸首都』2月号に、2回目は若干改作されて、1977年『季刊三千里』11号に発表された。
③「少年」は1975年11月『季刊三千里』4号発表、1977年9月『骨片』(創樹社)所収。『文芸首都』1958年5月に発表した「歳月の彼方に」は同じモチーフを扱ったという意味ではその原型となる習作である。
「ある女の生涯」は、一九七五年8月、『季刊三千里』3号に発表され、『骨片』に納められた。
『私の人間地図』は、『記録』1980年10月より81年11月まで連載。85年2月青弓社より刊行された。
④「骨片」は雑誌『人間として』10号(1972年6月発行)に発表され、前掲作品集『骨片』に収録された。初期の作品「心暦」(『文芸首都』1957年4月)は同じ素材で書かれた習作である。『文芸首都』時代の習作と『骨片』所収の書作品との関係については、最近金英淑が「金泰生―鎮魂と告発の文学」(大阪外国語大学修士論文)において言及している。
⑤1958年『文芸首都』8月号に小説「鏡」を発表。後に『新日本文学』(1981年7月)号に発表された「めるへん」・『旅人伝説』(1985年8月影書房刊)に収められた「メルヘンの人」の原型である。
⑥烏賊の瞳の潤みて海に向き干さる
 この句は、1984年5月大宮市立図書館連続講座「在日朝鮮人文学をどう読むか」講演の際に公表され、その後小野悌次郎が『朝日ジャーナル』に紹介するなど、在日朝鮮人文学の故国を見つめる姿としてたびたび紹介されている。
 みぞれ打つ墓群ゆらり貌もたげ
 稿を継ぐ心に寒き沼を抱き
 この二句は脚本家の須藤出穂に作者が示したもので、『記録』87年3月号掲載の須藤の追悼文に引用されている。
⑦「首都月評」「首都合評」には、計8回参加(58年一・2・3、59年2・3・4・10・11号)している。
⑧『旅人(ナグネ)伝説』は、未来社発行の雑誌『未来』1980年12月より82年2月まで連載された「私の日本語地図」に、その他の未収録諸篇を加えて、1985年8月影書房より発売された。
註⑨『新日本文学』1983年10月号に、埼玉文学学校についての感想「同行者大勢」を発表している。
 〈ワタシラハ、ドコヘイッタラ、ヨロシオマンネンヤロカ? 彼らの内心の問いかけがいつもぼくには聴えるような気がする。時代が変り、情況がことなっても、人にとって自分がどこへ行くのかということは、つねに根源の問いであるはずだ。(略)その問いかけに向って明確にさし出せるものが乏しい現実が、ぼくを悩ませる。だからこそまた、ぼくは彼らと行きつけるところまで歩いてみようというわけである。わが文学学校のキャッチフレーズは、同行者大勢、ということにしたい。〉
⑩ 同年11月1日、「朝を見ることなく・講演の集い」の記録『徐兄弟の闘いと呉己順さん』に同講演の内容が収録される。
⑪ 『全逓埼玉』7月15日にその要旨を「走る赤い自転車」として掲載。
⑫ 磯貝治良「明澄と凝視と」は『新日本文学』1979年7月号に掲載、加筆されて同年九月発行の創樹社『始源の光』に収められた。
⑬ 青丘文化賞は文芸・社会科学の分野で優れた仕事をし、社会に大きく貢献した在日朝鮮・韓国人に与えられるもので、主催は在日の有志実業人の集まりである青丘会である。金泰生は86年2月、『くじゃく亭通信』44号に「始作折半 青丘文化賞を受賞して」を掲載している。

コメント

髙淳日先生コメントありがとうございます。またその節はありがとうございました。

 しみじみと金泰生が思い出されるこのごろです。「くじゃく亭通信」「青丘通信」発刊して多くの日時がたちました。やっとこれらの冊子が合本の形になってこのたび三一書房から「始作折半」を刊行いたしました。はしがきに私の思いを載せましたがこれとは別に金泰生のイメージが彷彿としてまいります。1970年代、80年代の在日の文化事情の一端を知る上では「昭和は遠くなりにけり」と言う意味でも貴重な資料と自負しています。いまは多くの人の目に留まればと念じている次第です。

いま必要があって、読み返していたら「支持」が「指示」となっているところを発見。作品の権威のためにも訂正を。

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