フォト
無料ブログはココログ

金泰生文学の軌跡

 一九一〇年(明治四三)
韓日合邦条約調印・公布、ただちに土地調査事業を開始して、総督府財政の基礎固めとする。土地調査事業は一九一八年に完了したが、その結果、日本人地主が進出する一方で、多くの農民が土地を収奪され、中国東北部(旧満州)や日本に流れて行った。

 一九一九年(大正八)
 三・一独立運動起きる。朝鮮総督長谷川好道解任され、斎藤実が就任して、いわゆる「文化政治」を推進。「日鮮同化」を計った。

 一九二〇年(大正九)
 金泰生の父母渡日し、母は紡績工場などで低賃金で働きながら、大阪・名古屋・岸和田を転々とする。

 一九二三年(大正一二)
 日本で関東大震災が起こり、多くの在日朝鮮人が虐殺される。この年、父母日本から帰郷するが、父は単身再び渡日しそのまま音沙汰がなくなる。

 一九二四年(大正一三)     〇歳
 十一月二十七日(旧暦十一月一日)、金泰生は済州島の南西に位置する大静面新坪里に生まれた。 日本では一九二〇年台からプロレタリア文学運動の中に金煕明・李北満・金龍済・白鉄ら朝鮮人文学者の活動が目立ち始めていた。
 一九二九年(昭和四)      四歳
 十月、ニューヨーク株価大暴落し、世界恐慌始まる。
 十一月、光州学生運動起きる。
 この年、金泰生の母、ひとり息子を手放して再婚する。幼い日の母との別れについて、のちに美しい小説「童話」を発表する。

 一九三〇年(昭和五)      五歳
 初夏、親戚のおじさんに連れられて渡日する。済州島の住民の暮らしは貧困であり、流出が多かった。それは日本による植民地収奪を原因とする。金泰生はそういった渡日を「歴史による強制連行」と呼んだ。離郷譚は『私の人間地図』の序章に描かれている。<母はぼくを大阪行きの定期船の寄港する港まで送ってくれた。>金泰生にとって、母との分かれは故郷との分かれと同一の意味をもった。父母から離れ一人であった金泰生は、親戚のおじさん・おばさんと共に大阪の猪飼野に暮らした。在日生活の始まりである。
 この年五月、岸和田紡績堺分工場争議が起こるなど、一九三〇年台、関西に於いても在日朝鮮人による労働運動は盛んだった。

 一九三一年(昭和六)      六歳
 九月、日中十五年戦争満州で始まる。

 一九三二年(昭和七)      七歳
 張赫宙の「餓鬼道」が雑誌『改造』の懸賞に入選し、朝鮮人による日本語文学が本格的に始まる。
 <一九三〇年当時は、在日朝鮮人が使う朝鮮語にたいして、日本人が使う日本語はまさに圧倒的な強さと権威を誇示していた時代であった>(「私の日本地図」)。
 <いわばぼくらは、母国語を食いつぶしながら日本語で生活することを余儀なくされ、他方では自らの民族性をむしばまれていく状況におかれていた世代ともいえるだろう>(「私の日本地図」)。
 <ぼくの十代の前史は、文字の世界に目を開くまでで終る。はしおっていえば、マンガ本から片仮名を覚え、それをアイウエオ順に比較対照してひら仮名を覚える。ルビを頼りに少年雑誌から講談本、大人の読む古雑誌の類まで手に入るものは読み漁る。そのようにして文字の世界に眼を開くまで、ぼくは対人赤面症と失語症をあわせもつ無口な少年だった。>(「涙はぜいたくな持ち物」)
 大阪で紡績工場(小津武林起業会社)の朝鮮人婦人労働者による争議が起こるなど、幼年期の金泰生を包む在日朝鮮人の環境は激しいものがあった。

 一九三三年(昭和八)      八歳
 一月、保高徳蔵主催の同人雑誌『文芸首都』創刊される。創刊号に張赫宙のエッセイ「僕の文学」掲載。以後、戦後にわたって在日朝鮮人作家の拠点となる。
 五月、大阪市東成区猪飼野方面のゴム工場で朝鮮人労働者がいっせいにストを決行した。 この年、金泰生は二箇月足らずの期間だが、生れて初めて学校に通った。既に食うために働いていたため、夜学校だった。

 一九三七年(昭和一二)    一二歳
 三月、大阪の刷子締工場などで朝鮮人労働者による争議が起こった。
 七月、 溝橋事件起こり日中全面戦争に突入する。日本は朝鮮に於いて「皇国臣民の誓詞」を制定し、日本語常用を強制するなど皇民化政策を強行する。
 この年、それまで母代わりになって育ててくれたおばさんが三三歳で結核のため死ぬ。このおばさんについて、金泰生は「ある女の生涯」や「私の人間地図」で描くなど、何度も取り上げた。幼い日に母代わりのおばさんの薄幸な生と死を見て育ったことが、金泰生の思想に影を落とした。
 おばさんの夫であるおじさんが故郷へ引き揚げてしまう。その頃すでに日本に渡って来ていた母と暮らすことは許されず、一方まじめな生活建設に絶望して放蕩に明け暮れていた父との確執も募りつつあった。金泰生は孤独な少年期を歯ブラシ工場やテニスラケットの枠を作る工場・木工所など仕事を転々としながら、自活していたが、学業への興味も断ち切ることができずにいた。
 十二月、日本軍、真珠湾を奇襲して太平洋戦争始まる。

 一九三八年(昭和一三)    一三歳
 朝鮮に於いて陸軍特別志願兵制度実施。

 一九三九年(昭和一四)    一四歳
 創氏改名強行、強制連行開始等々、軍国主義戦争に朝鮮民族を人的資源として動員するための様々な政策がとられた。
 九月、大阪の東成区の鉄線工業会社で朝鮮人労働者が待遇改善を要求してスト決行。

 一九四〇年(昭和一五)    一五歳
 金史良が前年『文芸首都』に発表した「光の中に」が芥川賞の最終選考に残る。金史良は張赫宙と共に、金泰生が戦後加わる文学誌『文芸首都』の初期同人であり、「土城廓」「草深し」「天馬」「太白山脈」などの作品を次々に発表し、抵抗する日本語作家として評価されている。

 一九四一年(昭和一六)    一六歳
 この頃、毎月一日に協和会の先導で教練を受けることになっており、<皇国臣民の誓詞> を暗唱させられ、また、特高課の内鮮係から盛んに陸軍志願兵に応ずるように説教された。 七月、祖父が寝込んでしまったこともあり、教練を何回かさぼったため、協和会から生野警察署へ呼び出され、そこで殴打される少年金石範の姿を目の当たりにする。
 その祖父(オモニの父)が亡くなり、その頃静岡に住んでいた母が来阪して数日間滞在した。<ぼくは代るがわるまつわりついてくる弟たちの柔い掌を握りしめながら、自分にもこんな兄弟たちがいたことにふしぎなほど感動していた。(略)ほんとうにぼくは生きていてよかったと思ったのだ。なぜなら、ぼくはたとえ祖父を喪ってもまだ決して独りぼっちではなかったのだから。>(「私の日本地図」)
 この頃写真家になりたいという希望を持っていたが、挫折する。そのこととも関連して父との溝は更に深まる。泰生少年は読書好きで、仕事から帰ると乱読を続けていた。
 秋ごろ始めて上京する。

 一九四二年(昭和一七)    一七歳
 六月上京。東京に在って昼間働き、夜は夜間中学に通っていた。この頃教会に通うこともあった。

 一九四三年(昭和一八)    一八歳
 朝鮮において、徴兵制実施される。
 張赫宙の、朝鮮人青年が戦争へ志願する姿を賛美した小説「岩本志願兵」が『毎日新聞』に連載された。
 またこの頃、朝鮮の代表的な作家李光洙は、朝鮮人青年に兵役志願を呼び掛ける講演を各地で行う。金泰生は大阪で聞いた。

 一九四五年(昭和二〇)    二〇歳
  二月、静岡で受けた徴兵検査に甲種合格する。その頃静岡には実母が住んでいた。
 三月十日、東京大空襲。金泰生は千葉県の友人の家を訪ねていて免れる。そこで『中野重治詩集』などを友人から貰い、十二日に帰京する。
 <「雨の降る品川駅」はそれ以来ぼくの愛唱する詩の一つになった。いうまでもなくこの詩は、日本天皇・権力によって日本から放逐される朝鮮人同志への告別の詩である。かつて祖国朝鮮の独立解放運動に加わった朝鮮人を指して、日本官憲は <不逞鮮人> と呼んだ。だがぼくらは、彼らの憎悪するその <不逞> の度合いが濃密であればあるほど、それらの人々を敬意をこめて <愛国者> と呼んだ。>(「『中野重治詩集』との出会い」)
 八月十四日母方の叔父と大阪に行き、十五日、大阪の「勝山通り」にある知人の家で日本の敗戦を迎える。 <これまでの長い異国暮らしの中で最も楽しかったといえる日を一つだけ挙げろといわれれば、ぼくはためらうことなく、あの、八・一五  一九四五年八月一五日をあげるだろう。>(『私の日本地図』)
 十月、在日本朝鮮人聯盟結成。
 十二月、中野重治、宮本百合子ら新日本文学会を創立。

 一九四六年(昭和二一)    二一歳
 四月、金達寿・張斗植らが雑誌『民主朝鮮』を創刊(~五〇・七 全三三冊)。金達寿の小説「後裔の街」や、許南麒の「朝鮮冬物語」が発表され、戦後「在日朝鮮人」文学を切り開く。

 一九四七年(昭和二二)    二二歳
 故郷済州島での酪農を夢見て明治大学で農業経済を学ぶ。

 一九四八年(昭和二三)    二三歳
 肺結核のため奥伊豆の療養所に入院、八年にわたる療養生活を続け、右肺葉切除、肋骨八本を失う。
 療養中、俳句を作ることによりものを見る訓練としながら、文学を志す気持ちを強くしていった。俳句の師匠は石塚友二だったという。のちに公表された句に次のものなどがある。
  烏賊の瞳の潤みて海に向き干さる
  みぞれ打つ墓群ゆらり貌もたげ
  稿を継ぐ心に寒き沼を抱き
 いづれも成作年月日不詳であるが、死と面と向かった在日朝鮮人の立場と人生観を感じさせる。
 病院での暮らしをモチーフとした作品に「E級患者」「めるへん」「爬虫類のいる風景」などがあり、また『私の日本地図』の「あとがきにかえて」の中でも、病友加藤保彦の死について書いている。それらは、日本人を描いている点を共通点として上げることが出来る。死に直面した金泰生にとって、人間の生死は民族を越えていた。
 四月三日、済州島で五・一〇南朝鮮単独選挙に反対する人民蜂起が起こる。この選挙の強行によって朝鮮半島の南北分断時代が始まる。この間の済州島の抗争と弾圧によって金泰生の親戚の多くが抹殺された。

 一九五〇年(昭和二五)    二五歳
 六月二五日、朝鮮戦争起こる
 金史良は、北側の共和国軍に従軍して死亡したと伝えられる。

 一九五一年(昭和二六)    二六歳
 一月、在日朝鮮統一民族戦線(民戦)結成。民戦の運動は日本共産党の指導下にあった。
 一九五二年(昭和二七)    二七歳
 金達寿の「玄海灘」が『新日本文学』に連載され、その作家的地位を確立する。張赫宙は朝鮮戦争の悲劇を描いた『嗚呼朝鮮』を発表するなど、依然として盛んである。

 一九五三年(昭和二八)    二八歳
 七月、板門店で休戦協定調印され、朝鮮戦争終わり、朝鮮半島の南北固定化時代が始まる。

 一九五五年(昭和三〇)    三〇歳
 退院。
 七月、日本共産党第六回全国協議会開催され、それまでの分派闘争を解消し、党の統一がはかられた。一方、在日朝鮮人は日本共産党の指導下にあった民戦を解散し、「在日本朝鮮人総聯合会」を結成した。
 そういった事情に因って『新しい朝鮮』から改題し、金達寿を編集長とした『新朝鮮』九月号(しかし、これが最終号となった)に、若く死んだ叔母の病と自己の病とを二重写しにした小品「痰コップ」を発表。
 一九五五年末、『文芸首都』の保高徳蔵を訪ねる。『文芸首都』は戦前から張赫宙、金史良ら朝鮮人作家に多く作品発表の場を与え、戦後も尹紫遠、金泰生、金石範らが活躍した。

 一九五七年(昭和三二)    三二歳
 『文芸首都』四月号に小説「心暦」を発表する。
 この作品は、瀕死の叔父の言葉に従って行方知れずの父を追いながら、少年時代の父との確執をたどるという短編で、後の代表作「骨片」の習作にあたる。しかし「骨片」との質的な違いは、「骨片」が巡り会った父の死を生きようとする地点に主人公が到達するのに対し、「心暦」は父に対する憎しみの持続を確認して揺れる心情を描くに止どまっている点である。冒頭は<李文平は父に対して何らの愛着も持っていなかった。彼にとって父の追憶とは、真黒い醜悪な塊りのような印象であって、彼は冷やかな憎しみをもって、父の存在を拒絶してきた。……>ではじまり、結末は、激しく動揺しながらも<やはり父には会うまいと心にきめ>る、で終わる。
 「心暦」について、『文芸首都』次号(五月)の「首都月評」で亀山恒子が好意的な評価をするなど、同人の間で評価が高く、これをきっかけに金泰生は『文芸首都』の編集委員を務めることになる。『文芸首都』において、なだ・いなだ、北杜夫、佐藤愛子、森礼子らと親交する。なだ・いなだの小説「しおれし花飾りのごとく」に当時の金泰生をモデルとした朝鮮人「朴」が登場していて興味深い。
 続いて『文芸首都』六月号に、金達寿との往復書簡「無関の門さながら」を掲載。金達寿はその返事として「十六年前」を掲載し、『文芸首都』と朝鮮人という関係において、張赫宙<ついで金史良、金達寿、とこうみてくると、あなたはその四代目ということになるのでしょうか>と書いている。
 同八月号の「首都月評」を担当。九月号に小説「E級患者」を発表する。「E級患者」は戦後の結核療養所を舞台に、重症患者たちの絶望と苦悩の生態を描いた作品である。主人公は日本人で、朝鮮人として唯一人登場する崔も狂言回し的存在に過ぎず、朝鮮人としての主体性は表現されていない。「民族」意識が先行することなく、むしろ死と向き合って生きる者の姿を通して、生の価値といったことを追及しようと試みたものと思われる。
 一九五八年(昭和三三)    三三歳
 許雲河さんと結婚、のちに一男一女をもうける。
 『文芸首都』一月号の「首都合評」をなだ・いなだ、亀山恒子とともに担当。前号掲載の金石範「鴉の死」について合評し、作品の政治性と済州島蜂起という史実の面に感動を隠さない。金石範が、「看守朴書房」に続いて、「鴉の死」という金泰生自身にとっても故郷である済州島の民衆武装闘争を素材とした作品を発表したことは、大きな感動であった。そして、そういった同郷作家の出現はその後の文学活動に強い刺激になったとも言えよう。 「首都合評」には以後五九年一一月号までに計八回参加(五八年一・二・三、五九年二・三・四・一〇・一一号)。
 『文芸首都』二月号に故郷と母を描いた小説「童話」を発表。後に『季刊三千里』に発表し、作品集『骨片』に収めた同名の作品の原型である。文章表現上の違いと主人公の名前が「用民」で『季刊三千里』版の「信之」と異なる程度で、母に対する思いは変わらない。「心暦」から「骨片」へと父への思いの描きかたが変化するのと対照的である。『文芸首都』翌三月号の「首都合評」で、なだ・いなだは次のように評価した。
 <金さんが前にいるからではないが、非常に完成度のある良い作品ですね。これは少年というよりは幼年の子でしょうが、現実というものの痛みも苦しみも知らない。理解できない。自分が実は人生の最初の悲劇の主人公であるのに、それを知らない。その悲劇と無知、或は童話的な夢の世界とのコントラストがこの作品の感動の基調なんでしょう。(略)これは金さんの感情の小宇宙のような、他人を感動させるがそれ以上に踏みこませない世界を感じさせますね。>
 「童話」と同じ二月号に療養中の出来事を素材としたコント「目出度いはなし」を掲載。 『文芸首都』五月号に小説「歳月の彼方に」を発表。母代わりの叔母の生と死を少年の目で追った作品で、後の「少年」や「ある女の生涯」「私の人間地図」につながる習作である。北杜夫は、翌六月号の「首都合評」で次のように評価した。
 <『心暦』は大人の眼、『童話』は幼児の眼から見たもので、殊に後者は成功した佳篇だと思う。この『歳月の彼方に』は、その中間の少年の眼なのだが、少々中途半端で、その少年の視野がいきいきとしていないと思う>
 『文芸首都』八月号に小説「鏡」を発表。後に『新日本文学』に発表された「めるへん」・『旅人伝説』に収められた「メルヘンの人」の原型である。
 『文芸首都』九月号に小説「下賀茂で」を掲載。後に手を加えて「私の日本語地図」(8)として『未来』に掲載した後、「まぶしい人」として、作品集『旅人伝説』に収める。 十一月、在日朝鮮人の文芸誌『鶏林』創刊号に四・三済州島武装蜂起を素材とした小説「末裔」を発表。後に手を加えて『新日本文学』に転載する。

 一九五九年(昭和三四)    三四歳
 四月、『鶏林』四号に「わがふるさと・済州島」を掲載。のちに、全体に手を加えて『私の日本地図』の序章に使われた。

 一九六〇年(昭和三五)    三五歳
 韓国で四・一九学生革命起こり、李承晩政権を倒す。

 一九六一年(昭和三六)    三六歳
 韓国で五・一六軍事クーデター起こり、朴正煕軍事独裁政権成立する。

 一九六二年(昭和三七)    三七歳
 この年から七二年頃まで統一評論社に勤務し、雑誌『統一評論』の編集にあたった。<団体の仕事をまあ十年少しやりました。行動の起点は李承晩を打倒した四・一九学生革命でしたが。その一年のちの五月に朴正煕が反統一勢力として権力の座にすわる。(略)これはもうのんきに小説など書いとる時代ではないんだという切迫した気持ちがありました。>(「座談会・日本地図への別の見方」)
 朝鮮青年社発行の雑誌『新しい朝鮮』一二月号に小説「光の中へ」を発表。

 一九六四年(昭和三九)    三九歳
 『統一評論』7月号に「アメリカ軍と『韓国国軍』の関係」を筆名=安在均で掲載。
 金泰生が編集する雑誌『統一評論』の第一回統一評論賞を、李恢成が小説「その前夜」(『統一評論』九月号掲載)で受賞する。

 一九六五年(昭和四〇)    四〇歳
 一月、井野川潔、早船ちよ等の同人誌『新作家』三号に長編「人間の市」を発表する。同人の間では高く評価され、続編を依頼されるが、次号には朝鮮の長詩「米第八軍の車」鄭孔采(坂本孝夫訳)を推薦し、続編の発表はなかった。「人間の市」は『文芸首都』に発表した習作「童話」「心暦」「歳月の彼方に」を結合した作品で、かなりの力作ではあるが、後に作品集『骨片』に収められる諸作品(「童話」「少年」「骨片」「ある女の生涯」)や、幼児期から青年期へかけての記録的側面の強い『私の人間地図』などと重なる点が多く、習作と言える。

 一九六六年(昭和四一)    四一歳
 『統一評論』八月号に「論議有用 統一論議は禁句ではない 」を、九・一〇月合併号に「韓国軍の相つぐ派兵を衝く」を筆名=安在均で掲載。

 一九六七年(昭和四二)    四二歳
 『統一評論』三月号に「三・一精神と自主統一」を、四・五月合併号に「四月の広場のたたかい 四・一九人民蜂起をしのんで」を筆名=安在均で掲載。更に、同誌八月号にルポルタージュ「生きがいを求めて」を一二月号に随筆「統一を願う人」を筆名=安在均で発表。

 一九六八年(昭和四三) 四三歳
 『統一評論』四月号に「四月蜂起と南朝鮮人民の闘争」を筆名=安在均で掲載。
 一九六〇年台の金泰生は、日本文壇とかけ離れた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)系の雑誌等に政治評論・ルポルタージュ・随筆などを発表していたが、その間に金石範・金時鐘・李恢成・金鶴泳・高史明・鄭承博ら有力な在日朝鮮人作家が次々と登場していった。のちに、小田切秀雄や久保田正文らはこの頃登場した在日朝鮮人作家たちを「内向の世代と異質なもの」として「外向の文学」と呼んだ。

 一九七〇年(昭和四五)    四五歳
 この年、金泰生をはじめ金石範や高史明ら在日朝鮮人文学者の作品を多く掲載した雑誌『人間として』が創刊された。

 一九七一年(昭和四六)    四六歳
 李恢成が芥川賞を受賞する。
 八月二〇日、朝鮮南北赤十字会談が板門店で開催され、それに関する評論「民族の願いを込めて」を『統一評論』九月号から翌七二年の八・九月合併号まで一一回に渡って筆名=安在均で連載する。

 一九七二年(昭和四七)    四七歳
 六月、『人間として』一〇号に小説「骨片」を発表。金泰生文学の真髄といえるこの作品を以て文学活動を再開した意味は大きい。憎むべき父へのこだわりを描いた習作「心暦」から大きく踏み出し、昇華している。「心暦」では描かなかった父の死の確認を「骨片」で行い、そのことに重要な意味がある。金泰生の父を見る眼差しがいつしか自己凝視となっていたからである。死を見つめ、時代を見つめてきた作家にとって、自己とは父の骨片のように小さく軽いものであり、また日本社会は在日朝鮮人を閉じ込める「湯呑茶碗ほどの粗末な木箱」程の骨箱にすぎない。死者の息づきは、金泰生の「心臓の鼓動にあわせて微かに動」く。以後の金泰生はそのような独特の作風を確立していった。
 七月四日、南北共同声明発表。朝鮮統一に関する基本原則を明らかにする。
 この後、『統一評論』の仕事を辞める。

 一九七五年(昭和五〇)    五〇歳
 八月、姜在彦、金達寿、金石範、朴慶植、尹学準、李進煕、李哲ら在日朝鮮文化人によって創刊された雑誌『季刊三千里』三号に、若く死んだ母代わりの叔母についての記録「ある女の生涯」を発表。
 貧しく辛く生き、七人もの子供を生みながら一人も無事に育てることができず、アルコールに逃避する夫との間にいさかいの絶えないまま、結核菌に冒されて逝った金秋月の生涯は、壊れた換気筒のように空しい。しかし、∧あたえられた生をただひたむきに生きたことによって、彼女の生涯はすでに輝いている∨。生活の重みに耐えながら慎ましく生きた生の意味を問うた作品である。金泰生は、死んだ者に忘却という二度目の死を与えてはならぬという使命感を持っていた。
 十一月、『季刊三千里』四号に小説「少年」を発表。
 「童話」が幼年の目を通して語った故郷済州島と母の像であるとすれば、「少年」は少年の目によって表された在日する朝鮮猪飼野と母モドキたる叔母の姿である。幼くして故郷を離れ、その後も母と暮らした時間の少ない金泰生にとって夢や理想や抽象的な優しさであった母のイメージに対して、過酷な在日生活に追われた叔母の姿は生々しい現実感と、強烈な生活臭によって描写されている。

 一九七六年(昭和五一)    五一歳
 「私の日本地図」を『未来』九月号から七七年一二月号まで連載。のち補筆して単行本にまとめる。

 一九七七年(昭和五二)    五二歳
 四月、済州島民衆武装蜂起を背景にした小説「巣立ち」を筑摩書房の文芸誌『文芸展望』春号に発表。済州島蜂起を素材とした作品としては五八年『鶏林』に発表した「末裔」に次いで二作目。済州島四・三蜂起を、少年の目から描く異色作である。金泰生もまたこれを書き継ぐ意志を持っていた。
 <ぼくはいつしかそれらのふるさとびとの雄々しさについて書きたいと思っている。>(一九五六年「わがふるさと・済州島」)
 <『巣立ち』は、こんごさらに書きつぎたい願いがあるので、本書には収めなかった。>(一九七七年『骨片』あとがき)
 八月、『季刊三千里』一一号に小説「童話」を発表。幼くして別れ、別々に生きなければならなかった母への思慕を描くことによって、思想的に表出されたものは故郷であった。金泰生文学において、母と故郷=済州島とは同義語である。
 九月、創樹社より短編集『骨片』(童話・少年・骨片・ある女の生涯)を刊行。
 十二月、『筑摩現代文学大系』第九十五巻・月報に金石範との出会いを書いた「二つの出会い」を発表。

 一九七八年(昭和五三)    五三歳
 六月、未来社より『私の日本地図』を刊行。 七月三日、『東京(中日)新聞』に「『私の日本地図』を書いた金泰生氏」というインタビュー記事が掲載される。
 <実際、僕は人に出会うより別れることになれてきましたが、時間の消去作用がそういう人々の持っていたもろもろの考えや心情や辛酸の生活史を、全くなかったと同じものにして行くとしたら、こりゃたまらんという気持ちが動くのです>
 八月、『くじゃく亭通信』一七号に「富士の見える渋谷」を掲載。
 十月から、新日本文学会系の埼玉文学学校の専任講師を務める。後には、日本文学学校、横浜文学学校、千葉文学学校などでも臨時講師を務める。

 一九七九年(昭和五四)    五四歳
 五月、『季刊三千里』一八号に「李蓮実さんのこと」を掲載。後で発表される「紅い花」のモチーフである。
 『新日本文学』七月号に、金泰生文学を論じた磯貝治良「明澄と凝視と」が掲載され、九月発行の同氏の在日朝鮮人文学論集『始源の光』に収録される。
 七月、『くじゃく亭通信』二三号に「故郷の風景」を掲載。
 『未来』八月号に「ある在日朝鮮人のオモニ」を掲載。
 十月八日、『日本読書新聞』に「わが友・松本昌次」を掲載。

 一九八〇年(昭和五五)    五五歳
 『未来』一~二月号に「猪飼野再訪」(上)(下)を掲載。
 『新日本文学』二月号に小説「長屋小景」を発表。
 二月、『季刊三千里』二一号に「『中野重治詩集』との出会い」を掲載。
 『未来』五月号に「私にとって母国語とは」を掲載。鄭敬謨の著「詩人金芝河の世界」に触れながら、母国語「ウリマル」についての思いを述べる。
 <在日朝鮮人にとって、民族は一つの真理であり、祖国はその客体化された存在であり、母国語は私たちと祖国を分かち難く結びつける心の核ともいえる。親がいなければ子が生れないのは自明の理であるように、民族の心の核である母国語を本質的に放棄した時、果して私は自分を一人の在日朝鮮人と見なしうるであろうか。>
 十月より、『記録』に「私の人間地図」の連載を始める。(~八一年十一月)
 十二月より、『未来』に「私の日本語地図」の連載を始める。(~八二年二月)

 一九八一年(昭和五六)    五六歳
 六月二十一日、「朝を見ることなく・講演の集い」(徐君兄弟を守る文学創造者と読者の会・呉己順さん追悼文集刊行委員会共催、於・東京水道橋労音会館)において「同時代人としての呉己順オモニ」と題して講演。
 『新日本文学』七月号に小説「めるへん」を発表。五八年に発表した「鏡」の改作である。
 一一月一日、「朝を見ることなく・講演の集い」の記録『徐兄弟の闘いと呉己順さん』に同講演の内容が収録される。
 十二月八日、鄭敬謨主催のシアレヒム文章教室において講演。以後シアレヒム語がく(楽)塾々生たちとの交流が様々な形で続く。

 一九八二年(昭和五七)    五七歳
 五月二十五日、飯沼二郎・鶴見俊輔らの発行する雑誌『朝鮮人――大村収容所を廃止するために――』の座談会に出席するため京都に行く。<私と京都との新しい関係というのは今日からはじまるのかもしらんな>(「座談会・日本地図への別の見方」)
 五月二十九日、千葉の「光州を忘れない会」において講演。
 『新日本文学』九月号に小説「末裔」を発表。
 庄建設(株)の小冊子『告知版』九月号に「京都・ある風景の意味」を掲載。父へのこだわりと重なる京都の風景について書く。
 <ぼくが大阪から京都へ頻繁に往来したのは、一九三九年から三年間ほどのことである。その地でぼくは父と別れ、戦後に至って父の死を確かめ骨を拾った。少年期の終りから青年期へかけての苦い記憶を執 にかきたてる土地であっても、父が生涯を閉じ、その生と死に関わる場所であってみれば、厭でもぼくは自分の意識から京都の地名をふりきることができなかった。>

 一九八三年(昭和五八)    五八歳
 三月、『朝鮮人』二一号に「座談会・日本地図への別の見方」掲載。出席者は、金泰生の他、飯沼二郎・大沢真一郎・小野誠之・鶴見俊輔。
 五月、川崎市の公民館における連続講座「誰にでも書けるエッセイ」を須藤出穂とともに担当。以後、ここから生まれた「川崎エッセイの会」の指導を続けることになる。
 五月二十八日、東京府中市の「日韓問題を考える府中市民講座」において講演。
 六月四日、埼玉地方労働学校において講演。『全逓埼玉』七月十五日にその要旨を「走る赤い自転車」として掲載。
 七月、「アジア文学者ヒロシマ会議」において祖国における核の危機の現況を在日朝鮮人の立場から訴えるための∧在日朝鮮人文学者有志の会∨結成に参加。二七日から開催された「アジア文学者ヒロシマ会議」及び、第四回ナガサキ国際フォーラム「アジアの平和と文学を語る集い」に参加。
 『未来』九月号に「長崎から」を掲載。
 <核兵器の保有は「悪魔」のジェノサイド思想を根底にはらんでおり、国や民族を差別することなくその一閃によって悉く破壊し、焼きつくし、死滅させる不幸な平等の原理にもとづいて造り出されたものであるからです。>生きることを最大の価値とした金泰生が、核爆弾を憎悪するのはあまりにも当然であった。
 『新日本文学』一〇月号に、埼玉文学学校についての感想「同行者大勢」を掲載。
 <ワタシラハ、ドコヘイッタラ、ヨロシオマンネンヤロカ? 彼らの内心の問いかけがいつもぼくには聴えるような気がする。時代が変り、情況がことなっても、人にとって自分がどこへ行くのかということは、つねに根源の問いであるはずだ。(略)その問いかけに向って明確にさし出せるものが乏しい現実が、ぼくを悩ませる。だからこそまた、ぼくは彼らと行きつけるところまで歩いてみようというわけである。わが文学学校のキャッチフレーズは、同行者大勢、ということにしたい。>
 『すばる』一一月号に、小説「紅い花」を発表。
 在日朝鮮人の名も無い一人ひとりの生を問うこと。とことん生きることで、「この国の歴史」から死んでいった人々の分まで「貸しを取り立て」ようという、金泰生が文学に立ち向かうときの姿勢が如実に表れた作品である。
『思想の科学』(第7次)11月に、「私の独学時代 (自己教育のすすめ<主題>)」を発表。

 一九八四年(昭和五九)    五九歳
五月六日、大宮市立図書館連続講座「在日朝鮮人文学をどう読むか」講演。この講座は、小野悌次郎・金石範・金泰生・李恢成を講師として六回行われ、金泰生講演の際のテキストは「私の日本地図」(部分コピー)。その後、これをきっかけに生まれた「日本と朝鮮を知る文学読書会」に何度か出席する。
 十月、同郷の作家金石範が『火山島』で第十一回大仏次郎賞を受賞する。

 一九八五年(昭和六〇)    六〇歳
 二月、『私の人間地図』を青弓社より刊行。 三月二十九日、『社会新報』に「著者からのメッセージ」掲載。
 すでに死んでいった者たちの生を忘却しないこと、そのことによって自分自身の生きざまを問いつめること。〈あの人たちを私の内部で新たに蘇生させ、私が現代を生きる契機をつかむ方法を探りたかった。/その試みの一歩に「私の日本地図」を書き、このたび「私の人間地図」、続いて「私の日本語地図」を来る四月にまとめあげることができた。(略)これらの「地図」はそれぞれの欠落した空白部を相互に埋め返しながら、テーマの共通性と一筋の意図をつらぬ<ひとつの歌ともいえる。(略)在日の状況を負うて、生き、生涯を閉じた「地図」の中の人物たちは、日本人を含めて、世代を異にしながらその死は一つの時代のものとなった。(略)書く行為が人間の生に寄りそえる営みであることが、私の勇気を促してくれる。>
 『すばる』四月号に、小説「爬虫類のいる風景」を発表。 死と面と向った者の生への執着を描いて、金泰生のいわば「生の思想」を表現。金泰生が忘れまいとした死は、朝鮮人の死だけではなく、日本人も含めて、歴史の犠牲となった者全てだった。
 八月、影書房より『旅人伝説』刊行。『未来』に連載した「私の日本語地図」と、その他の未収録諸篇に手を加えてまとめたものである。
 九月二十三日、浦和市において「民族差別と闘う関東交流集会」講演。この頃、在日外国人に対する指紋押捺の強制が社会問題化していた。
 十月より、新日本文学会系の埼玉文学学校を引き継いだ自主講座埼玉文学学校のチューターを引き続き受け持ち、晩年に至る。文学学校をはじめ、幾つかの日本人のグループを乗せて、金泰生という乗り合いバスは生涯ゆったりと走り続けた。
 十二月、未来社発行の『十代にどんな教師にであったか』に「涙はぜいたくな持物」を掲載。

 一九八六年(昭和六一)    六一歳
 二月、『くじゃく亭通信』四四号に「始作折半 青丘文化賞を受賞して 」を掲載。
 三月、第一二回青丘文化賞を受賞。同賞は文芸・社会科学の分野で優れた仕事をし、社会に大きく貢献した在日朝鮮・韓国人に与えられる。選考委員は、金石範・李進煕・姜在彦の三氏と顧問の 金達寿氏。
 四月二十三日、NHKラジオ第二の「中学生の勉強室」で「私の日本語地図」(8)=『旅人伝説』所収の「まぶしい人」をテキストとして使用。
 八月、岐阜市の同人誌『繋舟』に小説「母系家族」を発表。
 十一月七日、川口市の埼玉県中央医療生協川口診療所に入院。
 十二月二十五日、午後十一時五十六分同診療所で永眠す。満六二歳

*一九八七年二月、磯貝治良、『季刊三千里』四九号に「金泰生の作品世界」を掲載。
*同二月、埼玉文学学校で金泰生の前任であった小野悌治郎、同人誌『風紋』に「追悼・金泰生」を掲載。
*一九八七年三月、『記録』「追悼 金泰生」を特集。
*一九八七年七月一九日、自主講座・埼玉文学学校主催で金泰生を偲ぶ会が開かれる。同埼玉文学学校機関誌『同行者大勢』創刊号発行され、「追悼、金泰生先生」の小特集を組む。
*一九八七年一一月、金泰生が参加していた「在日朝鮮人文学者有志の会」が母胎となって結成された民涛社の『在日文芸・民涛』創刊号に林浩治「『私的』体験から歴史意識へ――金泰生論」が掲載される。
*一九八八年九月、新日本文学会の須藤出穂が『同行者大勢』二号に金泰生の故郷を訪ねるエッセイ「済州島」を掲載。
 同月、林浩治が同人誌『愚行』二号に「小さな声で語る文学――金泰生文学の特質」を掲載。

※潰れた企画だが、『金泰生全作品集』が某有名出版社から発行を目指して編集が進んでいた。金石範さんの解説も書かれたと聞いている。そのとき年譜を依頼されたのが私であった。そのときの年譜を若干改訂してここに掲載した。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/571716/57267137

この記事へのトラックバック一覧です: 金泰生文学の軌跡:

コメント

労作ですね。 しっかり読み込み、考えたいと思います。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)