書籍・雑誌

2013年12月13日 (金)

父親は死刑囚

ファンヨンチ
黄英治 『あの壁まで』
影書房(1800円+税)
──反動の時代に抗う小さな灯

 12月6日、自民党・公明党により特定秘密保護法が強行成立させられた。「特定」と言っても何も特定していない。何が秘密か分からないから、自分でもなんだか分からないうちに逮捕されたりする。公表され得ない秘密を裁判官は公正に判断できるのか? 三権分立は大丈夫なのか?Anokabemade70_3
 NHKの朝の連続テレビ小説「ごちそうさま」は、現在大正12年(1923年)まもなく関東大震災だが、まさに大正デモクラシーの真っ最中だ。そして震災を経て1925年には悪名高い治安維持法が制定される。この治安維持法はどんどん拡大解釈され、あまりにもつじつまが合わなくなってきたので1941年に大幅改訂された。つまり大正デモクラシーも昭和の始まりと共に終わり、日本は戦時ファシズム国家に変貌していったのだ。特定秘密保護法とは現代の治安維持法と言っても過言ではない。
 日本が戦後民主主義を謳歌していた現代史の一時期に、韓国には軍事独裁政権が居座った。むろん、朝鮮半島の政治的分断を招いた根本的原因が、日本による植民地支配にあることは言うまでもない。黄英治『あの壁まで』の主人公スギは在日朝鮮人だ。中学生のときに、祖父家族の住む韓国に父親が行ったきり戻らなくなる。朴正煕が軍事独裁政権を確立し、民主主義勢力に凄惨な弾圧を加えていた時代だ。ちなみに現在の朴槿恵大統領は、朴正煕の娘だ。
 「韓国」籍の在日朝鮮人である点を除けば、両親と弟妹たちと暮らす平凡な女子中学生だったスギを、突然襲う現代史の大きな罠。韓国に行った父親が北朝鮮のスパイ容疑で逮捕され、死刑を宣告されてしまった。父の救出・救援のために奔走する母。スギも救援集会や家の仕事で学校を休みがちになる。
 中学校で孤立していたスギも、高校に入ると仲の良い友だちを作り青春を謳歌するようになった。その一方で死刑囚の父を救うための家族の闘いは続いている。両方とも自分であるのにその間で揺れていて、友人や先生たちに在日韓国人政治犯の娘である自分をさらけ出せない。友人から聞かされたサイモン&ガーファンクルの歌に自分を重ねて、心の壁を確認する。
 スギはやがて先生や友人たちを救援運動に巻き込んでいく。そして朴正煕政権から、短い「ソウルの春」と凄惨な光州事件を経て、全斗煥政権に移った韓国に行き来するようになる。囚われの父に面会するためにだ。韓国で味わう屈辱と愛情が彼女をよりたくましく育んでいく。この小説はスギの成長を描いた教養小説の趣も持っている。
Seodaemun_prison__s  スギが面会に通った西大門刑務所は、現在も残っている。ソウル西大門区にある「西大門刑務所歴史館」がそこだ。もとの西大門刑務所をそのまま博物館として使用している。外観はアウシュビッツもかくあらんと思わせる雰囲気で、見学に足を踏み入れると静謐な時間の流れに包み込まれる。日本帝国主義支配の時代には多くの独立運動家たちが収監され、殺されていった場所であり、戦後の独裁政権時代には民主主義運動に関わった市民や学生・労働者が収容された。スギのアボジ(父)もここに収監されて、終日手錠をはめられていた。〈屈服を強いるために手錠をするんだ。監獄に囚われて自由を奪われているうえに、両手が突っ張って眠ろうにも眠られず、飯を食う、排便をする、服を着替えるという人間にとって基本的なことすべてが、看守の許可なしにできない状態をつくる。この制度は日帝時代からの悪習だよ。だから監獄は、思想転向制度とあわせて日帝時代のままだった。〉
 韓国の軍事独裁政権の人民弾圧は、日本帝国主義の植民地人民弾圧を踏襲している。韓国の軍事独裁政権は、日本の軍事ファシズムの模倣であり子孫であり残滓だ。スギのアボジをでっちあげのスパイ容疑で逮捕したのは、富国強兵の日本軍国主義の実態を伴った亡霊なのだ。
 黄英治『あの壁まで』は、一読すると韓国独裁政権に苦しめられた在日韓国人家族の健気な話として読まれうるのだが、実のところ日本帝国主義を告発した作品でもある。一人の少女の精神的成長に私たちは、良かった良かったと拍手を送るのではなく、「特定秘密保護法」に反対する、反動の時代に抗う希望の灯として読みたい。

注文は書店の他、下記でも可
http://www.kageshobo.co.jp/main/books/anokabemade.html
kyotai@za.cyberhome.ne.jp

2013年10月17日 (木)

【書評】金重明『物語朝鮮王朝の滅亡』

安直な「民族主義」を超えた民衆的思想史

 よい意味で裏切られた。李朝末期の政治史が語られると思っていたところ、むしろ思想史中心に、朝鮮内部の支配層の腐敗と、それに抗する実学者たちの果敢な戦いが語られた。

 テレビドラマでお馴染みの英祖・正祖の時代から、政権が腐敗し、日本帝国主義の支配を受けるに至る過程での、朝鮮の人々の考え方の変遷である。

英祖といえば「トンイ」の子であり、正祖は「イ・サン」のことだ。党派党争に明け暮れた時代にあって、英祖・正祖は中興の名君と言われた。彼らは頑迷な老論派を抑えて実学的改革を進めていく。

 ドラマ「イ・サン」を見た人は思い浮かべてほしい。正祖を演じたのは、イ・ソジンだ。そのさい、キム・ヨジン(「宮廷女官チャングムの誓い」で主人公を助ける済州島の医師役を好演した)が扮した貞純王妃が悪い。英祖の51歳年下の後妻で、老論派に抱き込まれ英祖に讒言し、王世子を抹殺した。

英祖・正祖の時代に、朴斉家や丁若鏞などの実学や民本主義を重視した近代的思想を持った官僚や思想家たちが活躍した。正祖はドラマのとおり朝鮮の改革を推進するが、結局は貞純王妃一味に政権を奪われ、改革派は処断され一掃されてしまう。どうやら正祖も毒殺されたらしい。こうして貞純王妃の外戚による勢道政治が始まり、実学と西洋の新しい技術やキリスト教は弾圧された。民衆は死ぬほど搾取され、国は乱れていく。

 一方、日本は明治維新を経て近代的帝国主義国家へと変貌していく。日本が本格的に朝鮮侵略に乗り出したとき、朝鮮は閔妃政権の下、汚職が横行して民衆は苦しんでいた。この好機に乗じて、大日本帝国は朝鮮での権益確保を狙って動き出す。先進の欧米帝国主義に倣ったのである。「脱亜入欧」とはこのことだ。本書で著者はこの点に関して、いわゆる「征韓論」について言及していて、特に福沢諭吉と西郷隆盛の文明論を対照して紹介している点は興味深い。「脱亜入欧」の福沢に対して、西洋を野蛮と喝破する西郷を比較したのだ。弱肉強食文明論に仁義と王道の思想を対峙させて見せたのである。

 朝鮮では圧政に対して東学党を中心とする農民軍が蜂起し、朝鮮半島南部の全羅道を支配下に置くまでに広がる。その思想は〈当時、人として遇されることのなかった嫁や子供をも、ひとりの人間として対しようとした〉もので、いわば徹底した平等主義といえよう。19世紀のアジアでは最先端の思想ではないだろうか? 

 1894年、朝鮮政府軍と農民軍はすでに和約していたが、日本軍は王宮を攻撃して親日派政権を打ち立てた。この日朝戦争が日清戦争の始まりだった。朝鮮農民軍は再度蜂起し日本軍と戦うが、充実した近代的武器と「殺戮」「殲滅」を徹底した日本軍に、血を流さずに勝つ者を軍功第一とし、田畑を荒らすことを厳禁とする農民軍では抗いようもなかったと言えよう。

一方西太后の清は、このころすでに腐敗滅亡の道を転がり始めていた。日本側では、勝海舟は日清戦争に反対していた。この本では朝鮮の思想だけではなく、勝海舟や西郷隆盛ら明治維新期のリーダーたちの、反帝国主義的な思想にも触れることができる。

 朝鮮の近代を語るのに、「民族」対「民族」といった空想的でご都合主義的な構図が跋扈している。それに対して、「腐敗した支配層」対「民衆」、「帝国主義的侵略主義者」対「義をもってする反帝国主義」という当たり前の視点が提出される点がむしろ新鮮だ。著者自身の柔軟な思想が垣間見られる。

 朝鮮近代史を学ぶさいの入門書として、繰り返し読まれるようになるだろう。

                                     (岩波新書 20138

 

 

2013年7月15日 (月)

山下英愛『女たちの韓流――韓国ドラマを読み解く』岩波新書

女性解放に向かう韓流ドラマ

 『冬のソナタ』がNHKでBSで初めて放送されたのが2003年4月からのことだったそうだ。人気が高くすぐに再放送され、翌年には地上波でも放送された。主人公のペ・ヨンジュンは世の奥様方のハートをギュッとつかんでに離さなかった。相手役のチェ・ジウや敵役のパク・ヨンハも日本では人気を博した。これが「韓流ドラマ」のはしりということで周知されている。それ以来「秋の童話」「美しき日々」「宮廷女官チャングムの誓い」「アイリス」など数々の韓流ドラマがTVプログラムを席捲した。
 そうした韓流ドラマの紹介本は多数あるだろう。しかし、ドラマの変遷を韓国社会の変化にそって解説した本は多くはないのではないか。岩波新書『女たちの韓流』は、私が知らない様々を教えてくれた。この本に紹介されたドラマの大半は観ていないし、長篇の一部、数回放送分だけしか観ていないものも少なくないので批評と呼ぶにはおこがましい。感想文ほどのものを書き残しておく。
 90年代に人気を博したドラマの大半が、70~80年代の「金と暴力が支配する不条理な社会」を背景に抵抗するヒーロー、ヒロインたちを描いている点は私でも知っていた。しかし、朴正煕の独裁的経済成長期に貧民村撤去や労働組合弾圧のために雇われた暴力団が「救社隊(クサデ)」と呼ばれた、と言うような細かいことから、何人かの女性脚本家たちの登場で韓国のテレビドラマが革新していった歴史的事実にいたるまで学ぶ点が少なくない。
 何となく知ったつもりでいた女性に貞節を押しつける風潮が、朝鮮王朝時代「再嫁女子孫禁錮法」に遡り、最近まで再婚する女性を「節操のない女」とみなす傾向が強かったということ。〈夫が亡くなったり、女性が性的暴行を受けたりしたら、命を絶つのがよしとされる〉ような価値観が社会に蔓延していたら、女性の人権はどうなるのか。汚れた女を意味する「還郷女(ファンニャンニョ)」という言葉がまかり通るなら、従軍慰安婦として被害にあった女性たちは戦後もどれほど苦しい立場を強いられたのか推し量られる。
 社会の民主化は、ドラマ登場人物たちにも意識の変化をもたらし、自立を志向する女性たちと古い観念の社会との対立構造が描かれるようにもなる。朱子学的儒教道徳に縛られた社会から、女性が徐々に解放へと向かっていく過程で、テレビドラマも設定やドラマ展開が変化して行ったのだ。
 また、韓国ドラマには「出生の秘密」が前提になることが多い。秘密でなくとも出自が重要で、たいていのドラマは主人公が生まれる前後から始まる。『女たちの韓流』によると、戸主制がその理由だ。戸主制は、父子血統を重視する家族制度で「未婚の母」や「私生児」は差別の対象になる。私生児は私生児であることを隠されるか、海外に養子に出される。生まれたときからドラマチックなのだ。
 ところが2005年にこの前時代的戸主制が廃止されると、ドラマでも堂々としたシングルマザーが登場するようになる。「ガンバレ! クムスン」などがそうだ。「クムスンのように逆境の中でひたむきに生きる女性主人公のことを、韓国では『キャンディ型キャラクター』と呼ぶ」そうだ。日本のマンガ「キャンディ キャンディ」に由来するらしい。「ガンバレ! クムスン」も「キャンディ キャンディ」もまったく観ていないのでイメージがいまいちぴんと来ない。
 ペ・ドゥナ主演の「威風堂々な彼女」なら少し観た。男に捨てられ未婚の母となったウニが子どもを背負って、食品会社のダメ社長にハッパを掛けながら懸命に働く姿が印象的なドラマだ。ウニの印象はチェ・ジウとは真反対の、田舎者で一生懸命なところだけが取り柄のような女性で、これはこれで好感が持てる。「私の名前はキム・サムスン」は、冒頭の太めの女性が男に振られてぐだぐだになっているシーンが印象的だが、『女たちの韓流』によると、〈韓国社会にはびこる容姿コンプレックスを克服し、何ごとにも自己主張するキャラクターであること〉が若い女性たちから圧倒的な支持を受けた、らしい。
 チェ・ジンシルの自死の理由もこの本で分かった。んんん! やはり可哀想だったのだ。
 本書は、著者山下英愛がインターネットのWAN(ウィメンズアクションネットワーク)に連載したものから25編を抜粋したものだ。連載は2013年7月現在で42回まで至っているから、ここに紹介されていないものも多数ある。そういうわけなのか、「女たちの~」という視点の問題で省かれたのか、管見の限りで重視すべきと思われる作品のいくつかが紹介されていないのは若干心残りな気がする。何と言っても傑作「砂時計」、詐欺師の両親を持つ田舎娘が都会に出て頑張るチャン・ナラの「明朗少女成功記」、金持ちのワガママ娘が家の没落で家政婦として働くイ・ウンジュの「火の鳥」、それにチェ・ジンシルの「星に願いを」も大事だ。主人公の孤児院時代からの親友役で今や「大物俳優」の名がふさわしいチョン・ドヨンが出ていた。
 逆に、本書に紹介された「ぶっとび! ヨンエさん」は機会があったら是非観ておきたい。

2013年4月21日 (日)

三浦しをん『舟を編む』

文学と映画 行ったり来たり――不急順不同、起承転結なし(主に韓流)                                    
三浦しをん『舟を編む』――言葉を生み出す心は自由だ

Poster  丸山健二の『我、涙してうずくまり』(岩波書店)を購入したが、思ったより活字が小さくて読みにくい。四十過ぎの中年男が、孤児という出生の不幸をいつまでもぐちぐちと思い悩み、妻と別れたのも、仕事が面白くないのもみんなそのせいだと決めつけて、奇抜な行動に出たりするが、結局たいしたこともできずに思い悩むという小説だ。
 文体も重い丸山健二に反して、三浦しをんは軽くて面白い。『我、涙してうずくまり』の主人公は、「ちょっとしたごたごたに巻きこまれるたびに風をくらって逃げ、好みの世界へと退却することしか知らない、しがない勤め人。」である。彼は、仕事なんて(何をやっているかは知らないが)くだらないと確信しているようだ。丸山の主人公に対して、三浦しをんの主人公は何事に対しても一生懸命だ。ベストセラーの映画化で話題の『舟を編む』(光文社)の主人公馬締光也は、辞書作りに魅了され生涯を捧げる。その妻となる林香具矢は料理人としての仕事に命を注いでいく。
 テレビで映画のダイジェストを流したりしているので、ストーリーはみんなが知っている。大手総合出版社玄武書房の辞書編纂部では、新しい日本語辞典『大渡海』の出版に向けて日夜邁進している。並外れた言葉に対するセンスから嘱望されて営業から異動した馬締光也は、その名のとおり真面目そのものの青年。同僚の西岡は要領が良くてプレイボーイだが、彼なりの役割を十二分に果たしている。
 恋にも奥手な馬締光也は、下宿で出会った香具矢に一目惚れする。うまく立ち回れない馬締は手紙を書くが、それも恋文とはとうてい思えないほど固いので、要領を得ない。
 馬締はただひたすら真面目に辞書作りには邁進しながら、不器用な恋も実らせていく。しかし、その前には社会的権威の壁や、商業的価値の壁が立ちはだかる。言葉を追い求め整理していくだけの作業の前に、社会の壁は立ちはだかるのだ。
 「言葉とは何か」という疑問は、読み書きを人生の中心においている人間にとっては永遠の追究課題だろう。辞書を作るという作業は、言葉を操る個人と国家との狭間で揺らぎながら進んでいく。小説の中で、生涯を辞書作りに捧げた松本先生の次の言葉は印象に残る。

  「言葉は、言葉を生み出す心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものなのです。また、そうであらねばならない。……」

 この小説は、日本語辞典を編む人々の物語なので、日本語に対する問題意識や辞書を作る上での苦労話などへの興味がそそられること間違いない。新しい辞書にふさわしい用紙にさえも妥協しない。製紙会社の社員たちも半端じゃない。印刷会社勤務の長いわたしにとっても考えの至る点が少なくない。
 一言で言えば、仕事をして生きる意味を考えさせる小説と言える。しかし、仕事一つひとつに金銭的価値以外の価値を見いだすことは、現実には難しい。馬締や、香具矢、先輩編集員の荒木、松本先生のような、生涯の「仕事」を持った人ばかりでは、この社会は成り立たない。その点、仕事半ばで宣伝広告部へ異動となる、西岡の生き方を否定せずに描いた点にも共感する。が、社会批判の精神という面から批評すると、脆弱な感を拭えない。

 映画は観ないかな? ないしは当分観ない。観ないでも見た気になってしまうほど、上映前から宣伝が多すぎる。既にイメージが固定化されかけている。小説を読んでいても馬締光也の姿が松田龍平として浮かんで来る。それと荒木役の小林薫だ。あとはそうでもない。林香具矢の宮崎あおいはまったく浮かばない。わたしのイメージとは異なる。演技力のある宮崎あおいの香具矢を見たら、わたしの想像力が鈍るかも知れない。オダギリジョーにも引っ張られる。
 映画の監督は「川の底からこんにちは」の石井裕也だ。あの映画は満島ひかりの起用をはじめ出演者のセンス抜群だった。要注意だ。

2012年7月 6日 (金)

【書評】姜在彦『朝鮮儒教の二千年』

歴史を知り、己を省みる名著

姜在彦『朝鮮儒教の二千年』

 何を驚いたと言って、自分の持つ偏見や差別に気付いたことだ。柔軟で正確な知識を持たないということは恥ずべきことなのだ。
「大長今(宮廷女官チャングムの誓い)」以来、韓国歴史ドラマの人気は衰えを知らない。「ファン・ジニ」「イ・サン」「トンイ」に続いて「王女の男」の放送が7月から始まる。そういったわけで本屋の棚には解説本が溢れている。MOOK本や新書が多いようだが、文庫もあるようだ。数え切れない。2~3冊読んでみた。それなりに面白いし、系図や代々の王の解説など役に立つ。歴史的事件の紹介も分かった気になれる。それなのに何も分かっていなかったと気付く。
 『朝鮮儒教の二千年』を読んで、それまでの知識がいかにも表層的で深みがないものだったのか知った。「目から鱗が落ちる」とはこのことだ。「儒教道徳」が朝鮮民族に支配的影響力をもったということは知っていたが、それがどういう思想で歴史にどのような影響を与えたのか知らなかった。
 この本は、儒教とは何かという概説から、朝鮮史の支配的思想だった「朱子学」の何たるかまで具体的事実に沿って説いてくれる。そして歴史ドラマを観ていて、また解説本を読んだあげくに抱いてしまう偏見が解消される。
 例えば勲旧派(フングパ)と士林派(サリンパ)の対立に関して、われわれはついつい何となく勲旧派=悪役、士林派=正義、といった構図に囚われがちである。端宗(タンジョン)や死六臣にたいする同情もあるし、歴史上の悪役韓明澮(ハンミョンフェ)に対する憎悪もある。私腹を肥やす官僚政治家に対峙する清廉な士林派という構図が、現代日本の腐敗官僚に対する嫌悪と重なるのだろう。しかし朝鮮の文化的事業の殆どは勲旧派によるものだった。逆に士林派が政界を支配するようになると、朱子学一尊の「道学政治」を求め実学は蔑視された。その弊害は計り知れない。
 7月から放送が始まる「王女の男」は、端宗の補弼役である金宗瑞(キムジョンソ)の息子と、金宗瑞の宿敵首陽大君(スヤンテグム)の娘とのロミオとジュリエット的ラブストーリーだ。首陽大君のちの世祖(セジョ)は、金宗瑞や死六臣と呼ばれる忠臣たちを殺し、王位を簒奪した人物である。更に幼い甥端宗を追放して賜死させた。恐ろしい人間と思われるのも無理はない。しかし、〈かれは従来の閉鎖的な経筵の代りに輪対の席を設け、群臣たちとオープンに国政や学問について討論し、それをつうじて人物を考査した。……その討論内容は宋学=程朱学にとどまらず、孔孟や漢唐の学、さらには史学、兵学、天文、地理、医学など広範囲のものであった。父王世宗の文化事業に参加したかれの学殖は豊富である。〉つまり世祖は硬直した朱子学一尊主義を排して、柔軟に多様な文化活動を奨励した朝鮮文化の功労者なのだった。
 また、「事大主義」に関する知識も偏っていた。中国に従属する卑屈な思想とばかり思っていたが、どうやらそればかりでもない。朝貢関係とは支配と従属の関係ではなかった。明・清と朝鮮との関係は、むしろ現代のアメリカと日本の関係にそっくりだ。
 またその清だが、小中華思想に染まった朝鮮の儒者は、満州民族に対して面従腹背の歪んだ蔑視観を持っていて、その影響はかくいう私自身にまで及んでいる。しかし、満州民族は実は高い水準の文化を誇っていた。それにわれわれ農耕民こそ、自然を破壊し地球の砂漠化をもたらせた犯人であるのに比して、彼ら狩猟民族は森林の保全に努めた自然保護者だった。「野蛮」とは自分と違うものを差別する小心者の言葉だ。これからは自らを省みる言葉としなければならない。
 朝鮮の歴史を通してこの本から学ぶべき点は数え切れない。名著である。
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』講談社学術文庫 2012年2月 *2001年朝日選書

2012年4月30日 (月)

金石範の『過去からの行進』

戦い続けなければ「民主主義」は奪われる

 韓国の総選挙は保守派の政権与党セヌリ党の勝利で終わった。野田佳彦増税内閣を許しているわれわれ日本国民も愚であることにはかわりがないが、民主主義はいつも危機的状況だ。北朝鮮を批難している場合ではない。
 朝鮮半島の南半分の地域に於いて、日本帝国主義支配の時代から引きずられた利権と支配の構図は、李承晩政権から朴正煕・全斗煥軍事ファッショ政権と時代が流れてもむしろ強固になった。既得権益は内外の圧力に屈した軍事政権側が「民主化宣言」し、盧泰愚が大統領になったあとも引きずられ続けた。金石範の『過去からの行進』は、盧泰愚政権期である1991年が現在である。
 高在洙は、朝鮮籍のまま臨時旅行証明書もなしに済州島に向かい、空港で逮捕され、空港地下三階の留置場で一夜を明かした。そこで四・三済州島事件の犠牲者たちの声を聞くなど希有な体験をしながら、強制送還されるだけですまされた。しかし、高在洙を済州島で調べた「ソウルからソンニム」=南山の安企部から来た訊問官チャンマンギュは、大阪の総領事館に公使待遇の副総領事として赴任し、高在洙に接見を求めてくる。高在洙の周辺にいる在日の知識人や有力者を取り込む為であるのは明白だった。
 高在洙は作家金一潭の論文を思い出し、未知の金一潭に手紙を書いてから電話をし、新宿であうこにとになる。金一潭の論文は、金一潭を首謀者にした間諜事件のでっち上げを暴露したものだった。金一潭も韓国から無事に「強制送還」された高在洙に関心を持った。
 一方、韓成三は1984年に韓国で逮捕されスパイにでっち上げられた経験を持っている。
 KCIAの後身である安全企画部は、ノルマ達成の点数稼ぎで「スパイ」捏造を繰り返していた。まったくのでっち上げで反国家活動家にされてしまった韓成三は、拷問に屈して韓国政府への忠誠を誓わされた。彼は、反「韓国政府」的態度を崩さない作家金一潭を工作する任務を押しつけられて帰国した。顔と身体そして精神に消えぬ傷痕を残した韓成三は帰国後精神破綻状態に陥った。7年後の今日は症状は恢復したもののまだアル中のように精神不安定になっている。「権力による人間の精神、魂の操作」は7年の月日を経ても継続していくのだ。
 いまだ情緒に不安を抱える韓成三に、七年前の拷問官から電話がかかってくる。彼は現在韓国領事として赴任している。帝国ホテルで会談する領事と韓成三を、金一潭はA新聞の記者とともに見守っている。
 1991年と言えば、87年の民主化宣言を経て大統領直接選挙、翌年のソウルオリンピックがあり、韓国民主化が始まった時期である。小説中で作家金一潭はこう言っている。
「……時代が変化している。朴正煕、全斗煥たちの軍事独裁の狂気の時代、殺人政権の時代は終わったんだから。しかし残党というか、保守勢力の力、歴史の過去清算がなされないまま昔の親日派勢力が保守を代表して、保守といっても普通ではない反共右翼、極右でしょう。かれらが韓国社会を支配してきたんですよ。これは韓国民の意識の底まで染みこんでいるんだ」
 金一潭は韓成三を高在洙と結びつけ、ファシズムの残滓に反撃の攻勢をかける。
 『過去からの行進』は、在日朝鮮人を媒体に韓国の現代史を描いたのみならず、権力(暴力)による精神支配と、そこからの解放をテーマにした傑作と言える。記号としての「朝鮮籍」、思想としての「朝鮮籍」を武器にする作家金一潭は金石範自身をモデルとしているのは言うまでもない。
 在日政治犯を描いたり、小説の背景とした作品は少ない。関心のない日本人読者には難しいからだろうか? 黄英治「駄駄っ児――あの壁まで・間奏曲」(『架橋』31号 2012年1月)は、在日政治犯の家族が主人公。死刑確定囚として収監されるアボヂ(父)に面会するため渡韓した娘が、ソウルで出会った年上の留学生女性に助けられながら意志を固くしていく。獄中のアボヂは転向しない。魂まで侵されない。民主主義はこのような人々の闘いの果てに獲得され、今も獲得されつつあるものなのだろう。気を緩めれば、「祖国にたいする忠誠の誓い」の名の下に、一部の既得権益者の犠牲に成らざる得なくなる。これは決して過去の話でもなく、韓国だけの話でもない。

金石範の『過去からの行進』上下(岩波書店 2012年2月 各3100円+消費税)

2011年7月 9日 (土)

書評 戸田郁子『中国朝鮮族を生きる――旧満州の記憶』岩波書店

 80年代に青山のシアレヒム語楽塾で朝鮮語を学んでいたときに、歌曲「先駆者」を習い教室どころか酒席でも皆で歌ったものだ。抗日独立運動の先駆者を讃えた歌だ。同じ記憶を戸田郁子も書いている。戸田は書いていないが、韓国独立戦争を描いた李長鎬監督映画「一松亭の青い松」でもバックに流されたと記憶している。当時は今のように韓国映画は普通に上映される時代ではなかった。自主上映会で観たのだ。上映後の論議も白熱した。朝鮮独立軍に対峙する悪い侵略者は日本なのだから、複雑な気持ちになる人もいたようだ。「先駆者」はそういう反日本帝国主義を前提とした歌でもあった。
 戸田は中国東北部にある龍井(リョンジョン)市郊外をこの歌の舞台と思い、山頂の松の木辺りを幾たびも訪れたそうだ。韓国からの観光客にも人気のコースだっだ。しかし、この歌は捏造されたものだった。もともとの歌と曲は同じだが、詩は流浪の民の哀愁を歌ったもので、作曲者の趙斗南(チョドゥナム)も、独立軍の戦士とされた作詞者尹海栄(ユンヘヨン)も、親日団体で働く音楽家で親日歌曲を作っていたのだった。延辺のルポ作家柳燃山(リュヨンサン)の調査によって明らかにされた事実は、今日の韓国では周知のようだが、わたしは知らなかった。
 これはわたしの思い出に被る個人的感想に過ぎない。この本の中心はそんなエピソードではない。この本が明らかにしたのは、中国に移民し、忘れられた朝鮮人たちの歴史だ。と言って歴史の本ではない。戸田が出会い親交を深めた一人ひとりの姿が歴史的背景の上に浮かび上がってくる。
 かつての抗日闘志で中国朝鮮族女性幹部として最高の地位についた李敏(リミン)。彼女の革命的な恋愛と結婚生活と文化大革命時に受けた凄惨な迫害。日本兵としてシベリアに抑留された朝鮮族の鄭賢柱(チョンヒョンジュ)さんや高鍾吉(コウジョンギル)さんたち。「満州国」皇帝への献上米を作っていた呉正黙(オジョンモク)さんは、龍井でブランド米の開発普及や観光地開発で地域起こしに東奔西走している。延吉でテコンドーを教える韓国人の李裕成(イユソン)さん。戸田を「娘」と呼ぶ延辺大学朴昌昱(パクチャンウク)教授。戸田が「娘」として愛する金財花(キムジェファ)は朝鮮族小学校に通っていたが、今は結婚して蘇州で暮らし、韓国企業に勤める夫に従い韓国にも来るようだ。様々な顔が登場し、そのひとつひとつが歴史を語っている。
 戦時中軍国少年だった野村義男は、満州に出征して軍に捨てられ朝鮮族に救われた。晩年は贖罪の旅を続けていた。日本の反戦詩人槇村浩、韓国の国民詩人尹東柱についても戸田は足で語っている。
 青山里闘争で日本軍を打ち破り名を馳せた金佐鎮(キムジャジン)将軍の息子は、韓国では映画にもなって有名だが、曾孫はドラマ「朱蒙」で日本でも人気の宋一國だ。母違いの娘が黒竜江省牡丹江に住んでいた。
 19世紀末に生まれた金笑來(キムソレ)は現代社会を予言したようなグローバリズムを持った独自の理想主義者だが、日本はおろか韓国でも知られることがない。戸田はその娘金貞婉(キムジョンワン)さんに取材している。
 戸田はなにしろ何処までも足を使って取材する。朝鮮革命軍総司令官梁世鳳(リャンセボン)について調べるため、「一人で汽車を乗り継ぎ、おんぼろバスにも乗り合いの三輪タクシーにも、ロバの引くリヤカーにも乗」って中国遼寧省の奥地にその足跡を訪ねた。そこで現地の人と「日本人立入禁止」と書かれた映画を見たりする。
 わたしはこの本を読みながら、「延辺の人民は毛主席を熱愛する」という文化大革命時代の歌を思い出していた。この本に登場する中国朝鮮族の人々は文化大革命時に迫害を受けている。旧満州で日本人に次ぐ特権を与えられた朝鮮人は批判の対象になったのだ。文化大革命も日本の犯した罪と無関係ではなかった。この一冊の小さな本には、多くの苦痛の歴史と、煩悶と深い希望と少しの戸惑いが込められている。
 この本の各所に戸田の夫で写真家の柳銀珪(ユウンギュ)撮影の写真が散りばめられている。柳銀珪が1998年に出した写真集『忘れられた痕跡』を見れば二人の同志関係が良くわかる。

 著者は、80年代に韓国の名門高麗大で歴史を学び、その後も中国にも留学して中国語も修得した。ユーモアを交えた平明な文章で、突撃生活体験を紹介した『ふだん着のソウル案内』や『ハングルの愉快な迷宮』などの著作がある。現在は韓国で「図書出版土香(トヒャン)」と名付けた小出版の運営に忙しいと聞く。

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