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2024年4月22日 (月)

ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳 白水社

霊魂との対話あるいは連続する惜別
ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳 白水社

 イスラエル軍のガザ侵攻で3万4千人を超える人々が殺され、パレスチナの民は今も餓死と病死に直面している。イスラエルはヨルダン川西岸地区でもパレスチナ人を迫害し、日常的に逮捕と殺害を繰り返している。人間がなんでこんなにも残忍なことができるのかと、自分の無力を嘆く声も聞こえてくる。
Photo_20240422144101  ロシアのウクライナ侵略戦争で、ウクライナ軍の戦死者は3万人を超え、民間人の死亡者数も甚大だ。ロシア側も含めた死傷者数は50万人を超えると推定されている。
 ロヒンギャ族を迫害したミャンマーでは、国軍と民主勢力や少数民族勢力との内戦が劇化している。
 スーダンでも1年前から軍と準軍事組織の武力衝突が始まり、すでに1万人以上が死亡したと伝えられる。
 チョン・ジアは『父の革命日誌』に、深刻さを跳ばした剽軽な文体で〈人間だから失敗し、人間だから騙し、人間だから人を殺し、人間だから赦す〉と恐ろしい真実を書いた。韓国の文学は歴史的事件を作家に引きつけるのに果敢だ。方法文体も多様だ。

 ハン・ガンの『別れを告げない』は、作家自身を投影したキョンハが友人の住む済州島を訪ねて体験した霊魂との対話を描いた小説だ。霊魂とはいえ、死霊とも生き霊とも判然としない。
 ソウルの病院にいるはずの友人インソンとの会話によって、四・三事件当時のインソンの母の経験を追体験していく。(四・三事件とは、米軍政庁下にあった李承晩政権下の済州島で、韓国軍、警察と西北青年団などの反共団体などが起こした一連の島民虐殺事件を言う。金石範の小説『鴉の死』や『火山島』等の小説で広く知られるようになった。)
 キョンハは、「あの都市で起きた虐殺に関する本を」を2014年に出版した。これは光州民衆抗争を素材としてハン・ガンが書いた『少年が来る』のことだと推定される。
 キョンハとインソンは若いときに仕事で知り合って以来の仲で同い年だった。
 インソンは20代後半からドキュメント映画に関心を持ち、ベトナムの密林の村を移動しながら韓国軍による性暴力のサバイバーたちにインタビューしたり、1940年代に満州の朝鮮独立軍で活動した認知症のおばあさんの日常を撮ったもので注目された。次に自分自身を撮ったものに、1948年の済州島のモノクロ映像を挿入した作品を作ったが評価は低かった。その後木工の学校に入学し、お母さんの介護のために済州島に帰って家具職人になってしまった。
 小説家のキョンハはインソン不在の済州島を訪ねなければならなくなった。インソンは済州島の自宅作業場でケガをしてソウルの病院にいた。キョンハは頼まれて、インコに水と餌を与えるために済州島でも交通不便な僻地にある家に向かった。
 大雪だった。キョンハは雪に阻まれて道を失い、道でない雪の塊の中へ転がりこんだ。枯れ川の底に落ちてしまったのだ。1948年の四・三事件の当時、この小川の向こうに40戸くらいの集落があったが、人々は皆殺しにされ廃村になっていた。
 かつて小川であった枯れ川は、生と死の境界であるに違いない。今は生も死も境界の川も雪に覆われている。
 雪に足を取られて凍えながら、やっとのことでインソンの家に辿り着いたキョンハは、鳥が死んでいる事実を見つける。死んだ鳥を埋めてやったキョンハの前にまず死んだ筈の鳥が現れる。やがてソウルの病院にいる筈のインソンが現れて語りかける。
 インソンは両親が40代のときに済州島に生まれた。成長してソウルでカメラマンとして働いていたが、済州島に帰り4年のあいだ母の介護をして看取った。母は四・三事件の生き残りだった。インソンは母の経験を聞き、資料を集め、枯れ川の向こうの村にカメラを持って行った。そこには父さんの家もあったはずだ。
 インソンは昼間は工房で家具を作り、夜は四・三事件の口述証言を読んだ。米軍の記録とマスコミの報道、裁判も受けずに収監された受刑者の名簿と保導連盟虐殺の資料が集まって事件の輪郭がはっきりしてきた時点で、自分が狂い始めていると感じた。
〈人間が人間に何をしようが、もう驚きそうにない状態〉に陥った。
 アカやアカの家族だという理由で殺された済州島の人々は3万人を超えた。証言者は「私は海の魚を食べません」と言う。裸で海に捨てられる「水葬」と呼ばれる処刑で殺される人々が大勢いたからだ。
 1950年に朝鮮戦争が始まると、予備検束されて殺された人の数は20万~30万人と推定される。
 ガザでも若い男は「ハマスかも知れない」という理由で殺されている。幼い子どもたちにも容赦ない。〈絶滅のために殺した子供たち。〉大人になったらハマスになるかも知れないし、女はハマスを産むから殺されるのだ。ヨルダン川西岸地区でもパレスチナ人は無限に逮捕され、殺され続けている。「赤狩り」「反共」と変わらない。
 壁に映った影をなぞって線を引く場面が出てくる。白い壁に映った影は霊魂の写しだ。霊魂が文学ならば、影を辿る作業は霊魂を形にする文学的行為なのだ。
 これは生き霊、死霊を越えた霊魂の物語だ。
〈彼女が霊魂であるなら、私をどこまで連れていこうとしているのか。〉とキョンハは思う。霊魂は文学の謂である。ハン・ガンは作者でありながら作品に導かれる者でもある。
 小説全体を覆うのは雪だ。墨を塗った99本の丸太で象徴される無限の死を、白い布のような雪が包んでいく過程を記録する映像のようだ。小説自体が惜別のために惜別を雪で覆っていくのだ。

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