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2024年3月18日 (月)

酒井誠『酒井定吉とその時代 一共産主義者の星霜』

共産党史を個人史から読む
酒井誠『酒井定吉とその時代 一共産主義者の星霜』知道出版

Photo_20240318220501  高史明読んでいて、共産党の50年問題の不条理を考えさせられた。
「列伝06高史明」では、共産党に関する参考書として、中北浩爾『日本共産党 「革命」を夢見た100年』(中公新書 2022年)と日本共産党中央委員会『日本共産党の100年 1922―2022』(新日本出版社 2023年)の2点だけあげておいたが、その後、『酒井定吉とその時代』を知った。
 同書は1893年生まれで日本共産党の極初期からの党員だった酒井定吉(sadakiti)の生涯を、その息子で、言わば共産党員2世だったがその後除名された誠が追った記録だ。
 定吉は徳田球一の推薦で1925年初秋の日本を発ちクートヴェに留学した。クートヴェとは東洋勤労者共産大学のことだ。ソ連が東洋諸国の勤労者を教育するための機関だ。台湾からの留学生謝雪紅や、中国からの蒋経国に関する記述もあって興味深い。(蒋経国については周知だろうが、謝雪紅もたいへん興味深い。)
 定吉の入党は1927年8月、渡辺政之輔の審査を受け片山潜から入党確認の通知を受けたというのだから歴史的人物だ。
 しかし日本共産党は小林多喜二が小説に書いたように、1928年3月15日に1568人も検挙されて、主要幹部を失い大打撃を受けた。
 コミンテルンは直ちに、日本共産党再建のため定吉ら4名を帰国させた。
 定吉は、山代吉宗、山代巴、加藤四海、春日正一らと〈京浜グループ〉を組織して活動中1940年5月に逮捕され1945年9月に釈放されるまで獄中に囚われた。グループのなかで加藤四海は逮捕翌日の取調中に殺され、山代吉宗は1945年1月獄中死させられた。
 作家山代巴の『囚われの女たち』全10巻に京浜グループの人民戦線的思考と活動が描かれた。山代巴は自らの獄中経験を、人権と連帯の貴重な経験として生かそうとした。
 この時期は徹底的な暴力と特高スパイの二重戦術で共産党のみならず、日本の民主主義は瀕死の状態に置かれた。そのためか、戦後共産党では「非転向獄中何年」という称号が幅をきかせた。徳田球一や宮本顕治が英雄視される一方、転向を意思表示して獄外に出て獄中の同志の救援のために働いた山代巴や田中ウタは批判された。
 もう一点、この本で興味をひくのは日本共産党とソ連、中国との関係だ。中ソ両国と日本共産党との微妙な関係。日本共産党はスターリンの支持を受けて暴力革命路線を走ったわけだが、その路線は「中国の道」と呼ばれた。中国革命を模した農村から都市を包囲する暴力革命の道が選択されたのだ。一方、中国の知日指導者は、スターリンが日本に押しつけた武装闘争路線を成功の見込みがないと考えていたようだ。
 中国には、河北省に日本共産党の「党学校」が置かれ、日本革命の活動家を育成するための機関で総勢2000名に及ぶ規模だった。
 武装闘争という極左冒険主義の参加者の一部は中国に追放された。ちなみに定吉は武力路線時の犠牲者の救援と支援に5年間をかけてつくした。しかし高史明のような朝鮮人は救済されなかった。
 1955年7月の第六回全国協議会後共産党は議会主義の道を歩む。しかし、それまでの暴力路線を現在の共産党は分派がかってにやったこととして党史から抹殺している。著者は〈過去に目を背けるものが未来を語る言葉は虚ろに聞こえるだけだ。〉と厳しい。
Photo_20240318220502  朝鮮戦争に関する記述も興味深い。ソ連と中国がそれぞれどんな態度で臨んだのか? なぜソ連は参戦せず、中国は義勇軍を送ったのか。
 著者である酒井誠自身も面白い人だ。共産党員2世で中国に留学している。もちろん日本共産党の指示に基づいての留学だ。文化大革命にも参加する。しかし日中両共産党の微妙な対立を反映して誠たちは日本共産党指導部と対立していく。
 誠は除名され、帰国後は中国物産の販売会社に勤め、中国共産党支持のグループが作った「日本共産党(左派)」に加わった。当然、父とは断絶した。

しかし、レーニンと毛沢東の著作を金科玉条としていた当時の私には、日本の共産党は修正主義に堕落したとの確信は強くなる一方であり、それに加えて、文化大革命に沸き返っている北京の熱気も、十九歳の私に大きな影響を与えずにおかなかった。(中略)私が自分の頭で考えることを取り戻すまで、それから実に二十年余りの月日が経っていた。

 酒井定吉についての本であるから仕方ないが、誠の経験をもう少し読みたかった。文化大革命の経験や、帰国後の政治活動の経験や葛藤をも明らかにしてほしい。
 私が属した新日本文学会にも、共産党員2世で、多分親と断絶して「日本共産党(左派)」の活動をしばらくしていた人がいた。ベトナムに行ったと聞いているが消息は知らない。また、中国物産展を主催して会に経済的貢献をしていた会員もいた。
 1972年に日中国交回復してパンダが上野動物園に来てからしばらくのあいだは、日本人の好きな国第一位は中国だったと記憶している。私自身も学生時代に日中友好協会の会員だったし、中国物産展のアルバイトをけっこうやった。
 現在の日本共産党と中国共産党との関係を詳しくは知らない。中国共産党の現在を支持することはできない。日本共産党に政治的主張には同意する点が多いが、歴史清算はまだまだだと思っている。
 本書は基本的には酒井定吉という共産党員の生涯から描いた日本共産党史というところだが、いろいろと懐かしさを感じさせる本でもあった。

2024年3月12日 (火)

チョン・ジア『父の革命日誌』橋本智保訳 河出書房新社

愚直な人― チョン・ジア『父の革命日誌』を読んで考えたこと、連想したこと

Photo_20240312194401 『父の革命日誌』は、生涯社会主義を信奉し、最後は電柱に頭をぶつけて死んだ父コ・サンウクと、その葬儀に集まって来た人々の姿を、娘であるアリが語った小説だ。宗教二世ならぬ主義者二世のナラティブでもある。
 作者チョン・ジアの邦訳は『歳月』があるが、その静謐な文体とは一転、ユーモラスで回転速く語られる。
 アリは弱音を吐いたことがない。泣いたこともない。〈これがまさにパルチザンの娘の本質なのだ。〉と思っている。
 骨の髄までアカである父は自分で選んだから仕方ないとして、アリはアカの娘に生まれたかったわけではなく、生まれたときから貧しいアカの娘だった。オヤガチャにはずれたのだ。
 アカの子どもは普通の人間と親密にしてはいけない。アリは32歳になるまでメイクはおろか、スキンケアすらしたことがなかった。恋人ができて結婚直前まで進んだが、恋人の親にアカの娘だと知られてご破算になった。
 父がアカであるということで、家族や親戚中が被害を受けた。この国は反共軍事独裁国家「大韓民国」である。今は民主化したとはいえ、少女期をアカの娘として過ごしたアリの苦難は想像に難くない。「家族」の範囲が日本より広いせいか親戚も苦労させられた。甥は陸軍士官学校に合格していたのに身元調査で入学がかなわなかった。
 父がパルチザンになって多くの同僚を殺されながら闘った歴史的背景には、済州島四・三事件や麗水・順天事件などがある。麗水・順天事件を起こした反乱軍は、制圧されたあと残党が智異山に籠もって闘いを継続した。そのとき、父も山に入ってパルチザンとなった。母も同志だった。この韓国現代史については読者諸氏が各自調べて欲しい。
 〈労働者と農民が主となる世の中を夢見て戦った〉はずの父なのだったが、父は労働がまったく苦手で、草取りの2時間にも耐えきれずに帰ってきては焼酎をあおった。農作業は本で学んだ通りには行かなかった。
 妻にセックスを断られて朝までやけ酒を飲でいたという回想などは滑稽ですらある。そうした父をアリである私は「前職パルチザン」と称している。
 この小説、三日も続く韓国の葬式の実態を読むことにもなる。何しろ人が集まり飲み食いする。生き残ったパルチザンの同志たちが全国から来る。父はパルチザンの一員とは言え、有名な革命家ではなく、非転向を貫いた闘志でもなかった。実は組織再建のために「偽装転向」をしているのだが、それを知っているただ一人の同志は北朝鮮に行ってしまったので証言はできない。それでも民主化した韓国、国会議員や大学関係者、出版社などから二十基余りの花輪が並んだ。
 母のパルチザン時代の同僚の娘が何かと世話を焼いてくれる。従姉妹たちも親切だ。エホバの証人の信徒も来るし、右翼の老人も来る。アリの教え子たちも手伝う。
 社会主義者で唯物論者だった父は、生前自分も貧しいのに、私的所有を批判してきたためか、「大衆」に分け与えてしまう人だったし、村の人たちのためにお節介を焼く人だった。
 頭を金髪に染めた高校中退の少女は父のタバコ友だちだった。少女の母親は、〈アメリカに勝った世界で唯一の国〉ベトナムの出身だ。
 また父は、担当だった情報課の刑事と冗談を言い合い酒を酌み交わしたりもした。(ちなみに現代日本でも、担当の公安刑事が定年前の挨拶に来たなんて話を聞いたことがある。)
 アリは逮捕され拷問を受けた前職パルチザンの父ではなく、実直に村人と付き合ってきた父の実体を確認していく。
 失敗だらけの人間が嫌いで人と付き合いたくないアリに、父は答えた。人間だから失敗し、人間だから騙し、人間だから人を殺し、人間だから赦す。なんだか名言だ。
 父コ・サンウクは実直を越えて愚直な、お人好しな社会主義者だったに違いない。そういう人は確かにいる。騙されやすい人だ。
 そういう愚直をお人好しのバカと思うか、芯の強い意志の強い人間だと思うかは人によって違って良い。
 愚直と言えば、徐勝(ソ・スン)さんの『獄中19年』(1994年7月 岩波新書)に崔夏鍾(チェ・ハジョン)という人についての記述がある。
 徐勝さんはソウル拘置所から大邱の特舎に移送されると、すぐに激しい暴行を受けて萎縮していた。励ましてくれたのが崔夏鍾さんだった。
 崔夏鍾さんは朝鮮戦争を人民軍政治軍官として戦った。彼は1961年、38度線の北側「朝鮮民主主義人民共和国」から南派して「大韓民国」に潜入した。朴正煕配下の将軍だった叔父崔周鍾(チェ・スジョン)を訪ねて、南北統一のために力を合わせるように説得した。
 まったくお目出度いにもほどがある。もちろんすぐに逮捕された。以来1998年3月に釈放されるまで囚われの身の長期囚だった。
 2000年6月に朝鮮民主主義人民共和国へ送還され、当地で祖国統一賞を受賞した。存命かは知らないが祖国統一を否定する金正恩政権下では彼も彼の家族も心配だ。
 キム・ハギ『完全なる再会』にも崔夏鍾をモデルとした人物が登場する。
 こういう人を愚直と言うのだと思う。
 安保法制が騒がれた頃、2014、5年頃のことだが、家の前を3人の高齢女性がデモ行進していたことがある。彼女らが立ち止まってハンドマイクで安保法制反対を訴えるのをベランダから見ていたら、郵便受にチラシを入れていった。
(安保法制の強行採決は、国民主権の基本原理に違反し立憲主義を否定して、集団的自衛権の行使を容認する暴挙だ。戦時の後方支援拡大や武器使用拡大、自衛隊の海外における武力行使に道を開くものだった。安保法制以来、日本の平和主義はぐだぐだだ。)
 そのうち家を訪ねてくるようになり、しばらくして赤旗日曜版を購読することになった。いまでも集金にきているが、80代後半のお歳だ。娘さん等ご家族が車で送ってくることもある。共産党員て大変だよね。愚直でないとできないと思う。
 中野重治にこんな詩があったのを思い出した。

共産主義者の受けたのとは別な 共産主義者の親であるものとしての迫害に堪えたその人たち
そして息子たちに先き立たれさえし 白髪となり
いまは墓のなかへと行ったその人たち
ああ この登録されなかつた人たちのためどんな切子に今夜灯を入れようか
                         (「その人たち」部分)

 この詩は息子が共産主義者だった場合だから、パルチザンの娘であるチョン・ジアともアリとも逆の立場だけれど同じですね。
 以上『父の革命日誌』を読んで連想したことでした。

2024年3月 1日 (金)

高史明『夜がときの歩みを暗くするとき』「弥勒菩薩」「邂逅」

「在日朝鮮人文学」ないしは「パンチョッパリ」文学としての高史明初期小説

 昨年7月、作家高史明が死んだ。91歳だった。高史明は山口県下関市生まれの在日2世で、自らの少年期を描いた少年向けの読み物『生きることの意味―ある少年のおいたち』(1974年12月 筑摩書房)で多くの読者を得た。また『歎異抄』など親鸞のことばを媒体とした人生論作家として知られる。
 しかし、その作家としての出発は小説だった。
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 高史明の最初の作品『夜がときの歩みを暗くするとき』(1971年6月 筑摩書房)の主人公境道夫は日本人だ。広島の被爆孤児で、共産党に救われ生きる意味を見いだしていたのだが、1950年代前半、分裂共産党時代の暴力革命指令に翻弄され、また「人妻」である泉子との恋愛関係を組織に糾弾されて苦悶する。

 一方で民族革命と日本共産党の活動との狭間で悩む朝鮮人の友人金一竜らも登場する。しかし作家自身の心情を写したのは、むしろ日本人である境のほうだ。その点を小田実や金時鐘は批判的に見ていた。
 高史明の視線は朝鮮民族に向かっていない。高史明にとっての「朝鮮」とは父であり、故郷下関の朝鮮人部落であった。朝鮮半島の南にも北にも実感を持てなかった。
 とはいえ高史明は法隆寺の仏像を観たり、朝鮮の文学に接したときには〈自分のなかにある特殊な感情、あるのめり込みの感情が起きる〉(『彼方に光を求めて』1973年 筑摩書房)。朝鮮を発見し、朝鮮を求めているのだ。しかし高史明の朝鮮は単純にナショナリズムとは結びつかない。
 高史明は1950年代前半の分裂共産党の不幸な時代に、自己の倫理観や愛や善悪を超越して組織から下された指示に依存し、組織との一体感に心酔していた。しかし結局は朝鮮人であることによって組織を放り出された。
 この体験を通して高史明は、属して依存することの危険性を実感している。高史明にとって「ナショナリズム」とはそういった意味をもった。ナショナリズムは高史明の拠り所とはならない。
 しかし作家デビューした高史明は、周囲から朝鮮人作家の一人として認識され、評価された。小田実らによって朝鮮人の登場人物の視点で書かれた方が良かったと指摘されると、高史明はそれはたんに作者の力不足だと応えている。(「書評 高史明著『夜がときの歩みを暗くするとき』」『人間として』7 1971年9月)
『夜がときの歩み~』は季刊文芸誌『人間として』創刊号(1970年3月)から4回に渡って連載され71年6月に出版された。『人間として』7号に、合評形式の上記書評が掲載され、小田実・金時鐘・高史明・柴田翔・真継伸彦による「〈討論〉ことばと現実」でも取り上げられた。
 同討論で金時鐘は高史明について〈彼は朝鮮語を深層心理の中にもっていないと言いながら、自分の言語の体質感として、すでに朝鮮語をもち続けているということではないかと思うのですよ。〉と、かなり穿った見方を披露した。ここで金時鐘は主人公が朝鮮人でなく日本人であることに不満を唱えた。〈私たち自身は私たちを書くということにもっと徹するべきではないだろうか? とりもなおさず在日朝鮮人の文学が自立し得るゆえんでもあるわけだが……。〉と言うのだ。
 こうした偏狭な民族主義的文学論に高史明は音を上げた。そもそも悪童だった高史明は小学校の苦手な勉強のなかでも作文が一番嫌いだったと言う。母のいない、日本語のうまくない頑固な父との貧しい暮らしで、自分を書くことに引け目を感じていたのだ。在日朝鮮人知識人とは付き合いがなかった。たんに朝鮮語を知らなかったし、日本語作文の訓練もできていなかった。
 高史明が『夜がときの歩み~』を書いたのは民族意識ではない。組織で査問されながら、その自分を組織原則で守るために、彼の理解者である別の党員を積極的に査問し、日和見主義者として猛烈に批判した過去への罪障感のためだ。この主題の大きさに主人公を朝鮮人に設定する必然性を、高史明は確立できなかった。
 それでもその後、朝鮮人を主人公とし在日朝鮮人の抱えたものを描いた作品を、高史明は2点発表している。『人間として』7号(1971年9月)に発表された「弥勒菩薩」と、『季刊三千里』3号(1975年夏)に発表された「邂逅」だ。

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「弥勒菩薩」の主人公洪英泰は密航者だ。

 英泰は少年期に父に連れられて朝鮮に帰り、長閑な田舎で暖かく迎えられたが、朝鮮戦争が始まって徴兵された。英泰の部隊は〈共匪〉追討のために英泰の部落を襲った。英泰は引っ張り出された従兄を銃殺しなければならなかった。それから2ヵ月後、英泰は軍隊を脱走し、故郷を捨てて日本へと密航した。
 九州の貧しい朝鮮人家族が密航者の彼を匿ってくれた。女一人で六人の子どもを養っていた母親は、英泰が不安定な密航者だから固持しても、娘の徳子を嫁にくれたのだった。
 英泰は東京で小さな製本所に勤務していたが、依然として登録のない密航者のままだった。英泰は在日朝鮮人のどんな組織にも属しておらず、いつ逮捕されるか分からない無国籍の密航者としての不安を抱えていた。徳子が妊娠すると、無国籍者の立場では育てられないと、無理矢理堕胎させた。
 徳子は情緒不安に陥った。英泰の不安が徳子に反映したに違いない。徳子は精神錯乱を激化していき、刑事に追われる妄想に苛まれていた。
 英泰は徳子を慰めるために京都旅行に連れて行く。京都で訪れた寺の仏像の前で徳子は一心不乱になる。救いを求めて、弥勒菩薩が現世に現れるまでの年月「五十六億六千九百九十九万七千五百」を唱える姿はすさまじい。
 この仏像は、作中には明記されていないが広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像だと推定できる。
 また主人公が朝鮮人の組織と無関係である点は作者である高史明自身を反映している。
 密航者の悲哀が主題だが、追い詰められた精神描写の背景に、韓国のファシズムや戦後日本の不安定な雰囲気も窺える。

Photo_20240301222701  もうひとつの短篇「邂逅」は在日朝鮮人の主人公が、生まれ育った町を訪れた話だ。河求泰は大阪で小さな焼肉屋を営むが、16歳の時に離れた北九州の海辺の町を24年ぶりに訪ねた。彼ら朝鮮人部落の子どもたちが遊んだ風景はなくなっていたが、旧友石文植は暖かく迎えてくれた。
 石文植は日本人妻と二人の子どもとの暮らしで、韓国籍を取得していた。日本への帰化も図ったが拒否されていた。
 河求泰は、朝鮮人と言われながら朝鮮を外国のように感じていた。石文植は生まれ育った日本のこの町が自分の故郷だと言った。
 北朝鮮へ「帰国」した友もいた。しかし、河求泰にとって〈この土地が、この土地の風と空が、彼の故郷であった。たとえ、それが異国の地であっても、この土地をしっかりと両手に抱きしめるほかないのである。彼は、静かに首を横にふりつづけながら思う。おれは、この土地から、出発するほかないのだ……逃げることはできない、おれの悲哀は、この土地とともにある。〉
 こうした感傷は、済州島生まれの金泰生や、大阪生まれとは言え朝鮮と身体的繋がりの深い金石範、そもそも済州島から逃げてきた金時鐘とは異なる。李恢成のサハリン、梁石日の大阪猪飼野のように高史明の下関は故郷として存在した。
 小説「邂逅」は高史明の極初期の作品だが、「祖国」に向かうスタンスを象徴した作品と言える。

 高史明は言う〈わたしは、朝鮮人の一人である。わたしの社会的いとなみは、外国人登録証の登録番号第182877号と切れたところにはない。〉(「明日への断想」『季刊三千里』2号 1975年夏)
 この時点で高史明のアイデンティティーは外国人登録証にあった。
 高史明は、日本人ではないが朝鮮人とも言えない「半チョッパリ」つまり半分日本人野郎という悪罵に自己を見いだしていた。高史明は在日朝鮮人の組織にも縁遠く、同世代の李恢成のように祖国の統一や韓国の民主化に意識の多くを割くことはなかった。
 その上高史明は暴力に溺れた悪童であったし、自らが批判されたことば「日和見主義」で他人を貶める者であった。日本共産党の活動家であったが、朝鮮人であるが故に排除され、朝鮮人の組織からも敬遠されていた。そして12歳の息子に自殺されるまで、息子の苦悩に気づかずにいた親であった。(けいこう社Webマガジン「在日朝鮮人作家列伝 06高史明」を参照されたし。)
 最初の自伝的作品「歎異抄との出会い」三部作の第三部『悲の海へ』(1985年10月 径書房)の冒頭は『教行信証』の引用から始まる。

一切の群青海(ぐんじょうかい)、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄(しょうじょう)の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし。

 高史明が穢悪汚染たる自身を受け入れるまでには時間がかかる。しかし1970年代前半、つまり愛息岡真史を失う以前に小説を書いた営みこそ、高史明の踏み台になったに違いない。
 高史明が傾倒した親鸞の思想については、筆者も考える点が少なくないが、それを語る任ではない。

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