フォト
無料ブログはココログ
2024年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

« 斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』 | トップページ | キム・ヨンス『七年の最後』橋本智保訳 新泉社 »

2023年11月25日 (土)

金石範『鬼門としての韓国行』

金石範『鬼門としての韓国行 『火山島』への道』三元社
다가오는 역사를 바로 보자
政治に抗い虚無を突き破る

Photo_20231125143301  金石範は1988年11月、42年ぶりに故国行を果たして以降、30年弱の間に合わせて13回韓国に入国している。その度に紀行文などで旅の意味を書き残していてる。*その簡単な内容紹介は趙秀一「解説 金石範の訪韓紀行文について」(『金石範評論集Ⅱ 思想・歴史論』)にまとめられている。
 『鬼門としての韓国行』は2段組の分厚い本だ。渡韓したさいの紀行文に合わせて、入国を阻まれたときの所感や、金石範の歴史思想の中核をなす「親日派」批判、四・三犠牲者発掘作業に題材をとった「地の底から」などの作品も集録している。
 これらの記録は単なる紀行文に止まらない。政治との厄介な折衝を含む、金石範の文学的立場の表明であり、『火山島』などの小説を書いていく環境変化の描写でもある。

【韓国(朝鮮)渡航一覧】
 ここでは先ず金石範の朝鮮(韓国)渡航を、金石範の年齢と韓国の大統領を付けて一覧とする。
[戦前]
○1925年10月2日大阪生まれ。
○幼児期に数度済州島に行ったことがある。
○1943年、17歳の秋~44年夏、済州島に滞在。
○1945年3月、ソウルに渡航、4月には済州島で徴兵検査。ソウルに戻り、5月末に大阪に帰った。
【戦後】
○1945年11月(20歳)ソウルに渡り、翌46年夏、一ヶ月の予定で大阪へ密航。そのまま日本滞在が続いた。
 ―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・
○1984年12月(全斗煥)、59歳。『火山島』全3巻で大佛次郎賞受賞、朝日新聞のセスナで済州島近海まで飛んだ。
①1988年11月4日~25日(盧泰愚)、63歳。『文學界』の取材及び韓国の民族文学作家会議、実践文学社の共同招請で42年ぶりの故国行。
○1991年の10月に再度の故国訪問を予定していたが、韓国政府(盧泰愚)の入国拒否で果たせなかった。
②1996年10月2日~18日(金泳三)、71歳。 96’文学の年組織委員会(韓国政府後援)主催「ハン民族文学人大会」参加
③1998年8月24日~9月2日(金大中)、72歳。第2回東アジア平和と人権国際シンポジウム――「済州四・三」50周年記念国際学術大会 参加
④1999年9月29日~10月2日(金大中)、74歳。海外同胞地位向上協議会創立会議に参加
⑤2001年4月1日~9日(金大中)、73歳。「済州四・三事件の跡地と今を巡る旅――金石範さんと共に巡る済州四・三」
⑥2003年3月19日~23日(盧武鉉)、77歳。済州MBC四・三特別企画「四・三と〈火山島〉」出演。
⑦2005年4月1日~7日(盧武鉉)、79歳。民族文学作家会議主催「全国民族文学人済州大会」への出席と、韓国民族芸術人総連合主催「四・三前夜祭」での挨拶
⑧2006年10月13日~17日(盧武鉉)、81歳。 韓国日語日文学会学術大会の招聘講演及び慶州視察
⑨2007年11月9日~13日(盧武鉉)、82歳。日本平和学会2007年度秋季研究集会「東アジアにおける〈民衆の平和〉を求めて――日韓歴史経験の交差」(済州四・三研究所、済州大共催)に発言者として参加。済州空港における虐殺死体発掘の現場に立ち会う。父の山所(墳墓)と祖母の移墓の相談。
⑩2008年4月2日~7日(李明博)、82歳。済州島四・三事件60周年「在日同胞・日本人四・三交流訪問団事業」
⑪2015年3月30日~4月7日(朴槿恵)、89歳。済州島四・三平和賞本賞授賞式で演説。
10月韓国語版『火山島』全訳完成の出版記念シンポジウムは入国拒否される
⑫2017年9月15日~19日(文在寅)、91歳。第1回李浩哲統一路文学賞授賞式で演説。
 金石範文学シンポジウム「歴史の〝正名〟と平和に向う金石範文学」に出席、基調講演 「『火山島』と私――普遍性に至る道」
⑬2018年4月2日~8日(文在寅)、92歳。済州四・三平和財団の招待。
 上の一覧を見ても分かるように、金石範の韓国行は時の韓国政府の性格によって左右されている。

【『三千里』編集委員の訪韓に反対】
 1988年に42年ぶりの韓国行を果たす前に、1981年春、金達寿、姜在彦、李進煕氏ら『三千里』編集委員たちが訪韓したさいに金石範は強く同行を求められた。
 しかし、金石範は『三千里』を背負っての訪韓には反対した。全斗煥軍事政権の誘いに乗って行くわけにはいかない。『三千里』が「南」に対しても「北」に対しても骨抜きの存在になってしまうからだ。
 金達寿ら『三千里』編集委員たちの、韓国行の目的は光州事件で死刑宣告を受けた三人の政治犯たちの減刑釈放の請願という名目だった。全斗煥訪米のあとで死刑執行はあり得なかった。編集委員たちは滞韓中、受刑者達への面会を予定にいれず、政権に抗う民主勢力との接触もなかった。
〈前年五月の全斗煥政権による光州虐殺の一周忌にもなっていないことが、何ともいえぬ死者たちへの冒涜のような気がした。〉P321
 金石範は韓国政府筋の招請には非常に慎重だった。政治の季節に生きる「在日」の作家たちにとって「韓国」は鬼門だったのだ。その門をくぐると大体、文学がダメになったしまうと金石範は考えた。
 1988年11月4日、42年ぶりの韓国行を果たした金石範だったが、国籍が「朝鮮」のままで旅券は発行されず、臨時発給の「旅行証明書」での渡航だった。
 金石範は催眠弾のにおうソウルの街を歩き、また講演や懇談会、歓迎会のスケジュールに追われた。故国の地での歓迎の集まりに心が震えた。また都市貧民の密集地域を訪ねた。再開発による住民の追い出しは、撤去暴力集団によって容赦がない。光州へ行き、光州虐殺犠牲者の望月洞墓地を参拝した。木浦の儒達山に登り、莞島から快速艇で済州島に到着した。
 このような自由な視察は官製の韓国訪問ではなし得ない。
 済州島では済州大学での講演、懇談会に忙しかったが、反共連盟事務局長や幹部による強引な済州道知事、済州市長との面会は拒否した。

【故郷とは何か】
 大阪生まれの金石範は何故済州島に拘るのか。
〈故郷はただ受動的に一定のところで生まれたからとしてそこが故郷になるのではなく、自分の意思で内部に故郷を培い、はぐくみ、作りあげるべきものだと私は考える。〉P70
 1925年生まれの金石範は、生まれたのは大阪だが、両親は済州島出身で、母親が妊娠中に渡日している。
 13歳のときに済州島に渡って数カ月を過ごし、自分が「日本人」ではなく朝鮮人だという民族的自覚と反日思想を自分のものとしていった。
 1943年17歳の秋、父の妹である叔母の家がある済州島の済州市禾北洞(ファブクトン)や、漢挐山観音寺に寄宿して朝鮮語の勉強をしたり、朝鮮独立について考えていた。翌年夏には大阪に戻ったが、済州島で独立を語り合った友は逮捕されてしまう。
 1945年3月、徴兵検査を口実にソウルに渡り、4月には済州島で徴兵検査を受けて第二乙種合格。ソウルに戻り禅学院で李錫玖(イソック)先生とその弟子である張龍錫(チャンヨンソク)らと出会う。彼らは独立運動の闘士だった。5月に発疹チフスに罹り入院。月末に一旦日本に戻って敗戦を迎えたが、11月にはソウルに渡り、張龍錫らの建国同盟に合流。翌46年には漢学の大家鄭寅普が創設した国学専門学校国文科に入学した。この鄭寅普(チョンインボ)は李光洙や崔南善らとともに日本当局の執拗な親日派転向工作のターゲットだったが、屈することがなかった人だ。金石範の師は親日に堕ちず非転向を貫いた人だった。
 また独立運動の同志たちは、金石範が日本に帰って朝鮮に戻れなくなっていたあいだに、李承晩政権にことごとく殺されていった。李承晩政権を支えたのが親日派だ。*1947年から49年のあいだにソウルの親友張龍錫から届いた手紙が22通残されており、『金石範評論集Ⅱ思想・歴史論』に収録されている。

【親日文学批判】
 1948年「韓国」は南朝鮮で強行された単独選挙によって成立した。この「南」だけの分断選挙に反対する朝鮮全体の運動の一環として済州島の四・三事件が起きた。そうして成立した李承晩政権によって数万の島民が虐殺され、沈黙を強いられた。
 金石範は韓国への出入りの背後にある政治的取引に敏感だった。韓国の軍事政権とその流れをくむ保守政治には妥協しなかった。当然、日帝時代の親日文学に対しても批判的態度を変えない。
 朝鮮近代文学の祖と言われる李光洙に対しても、その「親日行為」を指弾している。〈民族保存のための協力とは何か。協力とは李光洙にとって自身を含めて日本人化すること、天皇の赤子となることであるのだから、どうして民族の保存ができるのか。「民族保存」と「日本人化」は両立しない。〉(P147)と詭弁を批判した。
 李光洙が解放後も、自分が「内鮮一体」と天皇崇拝を唱えたのは朝鮮民族の禍を和らげるためだとして、反省の弁を述べなかったことに怒ったのだ。
 日帝支配の時代にも、金石範の師であった鄭寅普や、詩人韓龍雲など少数だが親日派に下らなかった知識人は存在した。
 金石範が「親日」と責任を追及するのは、悪質で極端な者たち、積極的、主導的役割を果たした者たちで、やむを得ず受動的に「親日」の態度を取った一般民衆を含むものではない。
 無論、歴史的状況を無視して語ることはできない。波田野節子『李光洙──韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』(中公新書)は歴史の制約を強調した論だ。しかし金石範は、行為の主体たる個人の責任を否定することに強い違和感を表明している。
 体験者で朝鮮人である金石範と、日本人という加害側である波田野節子とでは、立場から見える視点が変わっても仕方がない。波田野の論は日本人読者「私」にはある程度響くが金石範には届かないだろう。

【苦難の韓国行から自由へ】
 金石範は訪韓には慎重だった。金石範は「朝鮮籍」のままの訪韓を求め、政府批判を含む発言の自由を担保しない訪韓を嫌ったからだ。
 ちなみに「朝鮮籍」とは、1947年5月2日、日本国憲法施行の前日に公布され即日施行された勅令である外国人登録令によって「外国人」と規定された「朝鮮人」の国籍欄に記入された記号であって、当然1948年に成立した大韓民国及び朝鮮民主主義人民共和国のどちらかを指すものではない。
 金石範は統一していないどちらかの権力を背景にした国籍に与しないため、韓国が民主化した今日でも朝鮮籍を保持している。
 金石範は、上記一覧の①~③までは韓国入国の申請をするたびに政府批判をしないことと国籍変更の約束を求められた。
 ③の1998年8月の東アジア平和と人権国際シンポジウム参加のさいは、すでに金大中政権だったが、安全企画部に敵視されていた金石範にとっては、困難な渡韓だった。参加者一同の抗議書簡が政府に届き、ギリギリで入国が許可され最終日に到着できた。
④以降は権力による渡航の困難がなくなった。
 そして記憶が抹殺され歴史が殺されてきた「四・三」が公になり、「悲しみの自由」を獲得した。四・三事件の犠牲を声に出して悲しんでも、逮捕されたり拷問されたりすることはなくなったのだ。
 特に2003年10月、盧武鉉大統領が済州島を訪問し、島民・犠牲者に公式謝罪した事実は大きな意味を持った。
 しかし2009年に李明博政権が登場すると、韓国の政治は右旋回する。2015年朴槿恵政権下で金石範は入国を拒否された。同年4月、第一回済州島四・三平和賞を受賞した金石範の演説を、朴槿恵政権の与党セヌリ党国会議員や右翼が問題視し、保守系新聞なども騒いだ。結果、11月韓国語版『火山島』全訳完成の出版記念シンポジウムへの参加のための韓国入国は拒否された。
 それでも、韓国の市民は壮大なローソクデモなどで朴槿恵政権を退陣に追い込み、文在寅民主政権を誕生させた。
 そして金石範は2017年9月には第1回李浩哲統一路文学賞を受賞し訪韓した。この時の演説「解放空間の歴史的再審を――解放空間は反統一、分断歴史の形成期」では、李承晩政権の正統性の否定、解放空間(1945~48年)の歴史的再審、再検討の必要を要求した。
 金石範は「大韓民国」の正統性を問うた。反共を国是とした大韓民国建立の正統性の否定に繋がる「四・三事件」の正名(ジョンミョン)こそ必要だと主張したのだ。
*2015年4月1日「第1回済州平和賞授賞式における記念講演」と2017年9月17日「第1回李浩哲統一路文学賞受賞記念講演」は『金石範評論集Ⅱ 思想・歴史論』(明石書店)に収録されている。

【文学と政治】
 ところで金石範の著作をこのように紹介すると、金石範文学が政治先行の政治主張のためのもののように思われてしまうかも知れないが、まったく違う。
 金石範は四・三民衆蜂起の宣伝文学、スローガンを書いてはならないと言う。政治的な勢いに乗るとどんな立場であれ、それは文学をダメにすると。
 金石範は文学が政治に絡め捕らわれることを嫌った。
 『鬼門としての韓国行』は、1945年から1988年に韓国訪問を果たした42年のあいだに、金石範が政治と格闘、葛藤してきた精神を反映している。
 金石範はその間に済州島四・三事件を題材にした「鴉の死」に始まる多くの作品を書き、虚無を超克し、深い絶望から脱出する道のりを歩んでいた。1976年からは後の「火山島」になる「海嘯」の連載を始め、1983年に『火山島』第一部全3巻を上梓した。
 1986年からは「火山島」第二部の連載を始めた。1988年には東京とソウルで済州島四・三事件40周年記念集会が開かれ、歴史から抹殺されてきた四・三事件が公然化し、韓国で『火山島』第一部が一部省略ながら出版された。この年に金石範は韓国訪問を果たしたのだ。
 金石範の韓国行に妥協はない。親日派政権による政治との闘いが続いた。『鬼門としての韓国行』に親日派批判が相当頁数を割かれているのには意味がある。
『火山島』は1997年に全7巻発行が成し遂げられ、2015年には韓国で全訳が完成した。そのさいにも、親日の後継である保守政治に入国を阻まれたが、2017年には91歳で李浩哲統一路文学賞を受賞して渡韓、上記したように大韓民国の正統性を厳しく問う演説をした。
 金石範は、現実の朝鮮(韓国)から引き離され、虚無に陥りながらも在日する意味を文学において生きた。42年ぶりに韓国行きを果たしてから、更に政治とは妥協しない文学的闘争を強化していった。
『鬼門としての韓国行』は、政治に抗う文学的闘争の記録であり成果でもある。

« 斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』 | トップページ | キム・ヨンス『七年の最後』橋本智保訳 新泉社 »

金石範」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』 | トップページ | キム・ヨンス『七年の最後』橋本智保訳 新泉社 »