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2023年8月24日 (木)

パク・ソルメ『未来散歩練習』斎藤真理子訳

パク・ソルメ『未来散歩練習』斎藤真理子訳 白水社
ぼくの未来散歩練習

Photo_20230824211401  パク・ソルメ『未来散歩練習』はタイトルどおり散歩する小説だ。散歩の舞台は主に釜山だ。
 小説は私の語る部分と、スミを中心とする物語の二部構成になっている。
 私はソウルで会社勤めしながら創作活動している作家で、釜山で部屋を探していたが、銭湯で出会った60歳ぐらいの白くて大きい人チェ・ミョンファンに紹介されたマンションの部屋を借りる。
 チェ・ミョンファンは女子商業高校を卒業後、アメリカ文化院近くの貿易会社の経理係として勤務した。1982年3月のアメリカ文化院で火災が発生した日に、性被害にあっている。
 お金を貯めて増やして家を購入して、家を担保にしてお金を借りてまた家を買い、家の価格が上昇すると売って儲けた。儲けた金を家族に上げてしまったりしないで、自分で貯金し結婚もしないで一人で生きてきたので、頭の変な女として扱われた。
 私は歩いては食べ、食べては歩いて考える。ソウルと釜山を行き来してチェ・ミョンファンと親しく交わる。
 また、私は釜山を歩きながら考える。アメリカ文化院が見える昔デパートだったビルの6階男子用トイレで1982年に大学生がビラを撒いたこと。80年5月の光州に関するアメリカの責任を問うビラだった。その日、アメリカ文化院には20歳前後の若い女性4人が入っていき持ち込んだガソリンに火をつけた。
 釜山アメリカ文化院は、今は釜山近現代歴史館になっている。その建物は1929年に東洋拓殖株式会社釜山支店として始まった。解放後は米軍宿舎として使用され、1949年から米国海外公報処アメリカ文化院になり、朝鮮戦争中にはアメリカ大使館の役割も果たした。1999年に米国政府から韓国政府に返還されたときには「釜山アメリカ文化センター」となった。2003年7月から近現代歴史館となっている。
 私は現代美術の展示で、釜山近現代歴史館に関する原稿を依頼される。
 この小説の別面ではスミとスミの叔母ユンミ姉さん、スミの中学時からの友人ジョンスンが描かれる。
 中学生のスミは、父が事業を失敗して釜山の母の実家に寄宿している。そこにユンミ姉さんが刑務所から出てくる。ユンミ姉さんは1982年の釜山アメリカ文化センター放火に関連して逮捕された大学生だ。
 ユンミ姉さんが光州に行くと言いだし、スミはユンミ姉さんについて光州に行く。スミも「私」と同様に歩く。道庁前の噴水のまわりも歩いた。
 光州で留めてくれた家のおばさんがユンミ姉さんの背中を撫でる。
〈おばさんは姉さんの背中を撫でた。おばさんの小さくて固い手が撫でている姉さんのやせた背中は、それぞれすごく違っているようでいて、もちろん違う体だけれども、それぞれ違う性格の肉と骨が重ねられたところのように見えた。〉
 光州事件に抗議した放火事件で逮捕されたユンミ姉さんにたいする、光州に住むが光州を語れないおばさんの優しさが連帯の影のように描かれた。
 スミの物語は「私」の書いた小説なのかも知れないが、そうではないかも知れない。
『未来散歩練習』の時間的背景には光州事件がある。光州事件については映画「タクシー運転手 ~約束は海を越えて」やハン・ガンの小説『少年が来る』などで知った日本人も少なくないと思う。
 当時「光州事件」は日本では報道された。
 その前年、ぼくは「李恢成の作品について」という中学生の感想文ほどの力んだ評論を『流域』という雑誌に掲載した。
 1981年に鄭敬謨のシアレヒム語がく(楽)塾に入塾したものの二次会の酒飲みが目的になってしまって、韓国語は上達しなかった。
 しかしここで知った友人が主催した「千葉光州を忘れない会」に行って金泰生の講演を聞いた。光州の闘争と虐殺を忘れず、歴史を問い返しつつ今を生きる日本人の集まりという主旨だった。1982年5月29日のことだ。この日も翌日まで飲んだ。
 その年8月初めて韓国に行った。ソウルのピマッコルは、今は一部だけが観光用に整備されて残されているが、当時はまだ鍾路にそって長く続く汚れた路地だった。安飲食店や安旅館も並んでいた。鍾路やピマッコルを行ったり来たりして、夜は酒を飲んで多分一週間ほど過ごした。
 その後高速バスで光州に向かった。光州市内に入る前に銃を構えた兵士がバスに乗り込んできて、最後尾まで進みUターンして出て行った。型どおりの任務を遂行したのだろう。誰も誰何されなかった。
 光州でも安そうなホテルに宿を決めると散歩に出かけた。
 光州公園で出会った同年代の青年に、公園内の博物館、民俗館、安重根義士崇謨慕碑や国立光州博物館、光州学生運動に関する資料館などに連れて行ってもらった。
 夜はまた呑んだ。その頃の生ビールは安全な瓶ビールと違ってどこで作ったか分からない代物で生ぬるくまずかった。おかげで翌日は下痢腹を抱えてバスに乗り、秀吉の朝鮮侵略戦争「壬辰倭乱(文禄の役)」時の金徳齢将軍を祀った忠壮祠などをまわった。
 その間に「光州事件」については一切話さなかった。

『未来散歩練習』で、東京に留学したスミをユンミ姉さんが訪ねてくる。スミは東京案内をしようと思うが、姉さんはあまり歩かず同じ喫茶店に何回も入ってコーヒーを飲んで過ごした。
 姉さんは韓国に帰ったら病院行きよと言って帰って行った。作者は歩いて歩いていろいろな人と交流しながら、人権に繋がる過去を描こうとしたのだが、最後の最後で「横臥者の視線」を表出したくなったに違いない。
 われわれは立って闘う者だけではない。市川沙央『ハンチバック』を引き合いに出すまでもなく、超高齢者のお世話に明け暮れる前期高齢者の身であれば、この連帯の困難は身に染みている。

 さてさて1982年夏、光州を後にしたぼくは釜山にも行って大分歩いて疲れた。釜山にはさして興味も湧かず嫌な経験はいくつかして関釜連絡船に乗って帰国したのだった。『未来散歩練習』を翻訳した斎藤真理子さんの「推薦の辞」によると、斎藤さんも同年夏に釜山を歩いたらしい。どこかですれ違っていたかも、などと妄想寸前の現在である。

2023年8月 9日 (水)

イ・グミ『アロハ、私のママたち』李明玉訳

結婚移民女性たちが切り開いた道
イ・グミ『アロハ、私のママたち』李明玉訳 双葉社

Photo_20230809112001  イ・グミの『アロハ、私のママたち』はタイトルのとおり、ハワイに生きる女性たちを描いた小説だ。ハワイを背景にした韓国の小説としては、去年(2022年)翻訳出版されたチョン・セラン『シソンから、』(斎藤真理子訳)がある。『シソンから、』は朝鮮戦争時に家族を虐殺されて、逃げるように最後の写真花嫁としてハワイに移民したシム・シソンにまつわる物語だった。シソンが闘い切り開いた、女性が虐げられず、男性が虐げることのない知的な社会への道を、ハワイを訪れた子孫たちが確かめて行く。
 『アロハ、私のママたち』の主人公たちが朝鮮を発ったのは1918年、シソンより30年以上前だ。シソンの親の世代で、最初期の「写真花嫁」としてハワイに移民した女性たちの物語だ。
 中心になるのは、慶尚南道金海(キメ)に近いオジンマル村に住む没落両班の娘ポドゥルと、その友だちで村では金持ちの家の娘ホンジュ、被差別的立場である巫堂(ムーダン)の家の娘ソンファの三人だ。
 ポドゥルは義兵に出た父を亡くし、兄も殺され、普通学校を2年の途中で辞めて家事や弟たちの世話をして暮らしていた。
 仲介人の話によると、ポワと呼ばれていたハワイは遊んで暮らせるほど豊かで、縁談の相手も若い地主でポワに行けば楽に暮らせるばかりか、学校にも通えるという。
 朝鮮の女性は古い身分制度に縛られ、男尊女卑の思想に抑圧され、日本に蹂躙されるという二重三重の迫害を受けていたため、このまま故郷で暮らして生きる希望を持てない娘たちには写真花嫁は希望に思えた。写真花嫁たちはそれぞれ固有の事情も抱えていた。
 日本を経由してやっとの思いでポワに着いて見ると、待ち受けていた男たちは、親か祖父ほどの年齢で、過酷なサトウキビ畑で働く農業労働者たちだった。彼らは虚偽の年齢、職業、収入で写真花嫁を募集していた。
 写真花嫁たちは泣く泣く結婚して嫁ぎ先に発って行った。三人もバラバラな地域に嫁ぎそれぞれ苦労して生きるが、後には再会して助け合うことになる。
 ポドゥルの夫テワンだけは若かったが、独立運動ばかりに熱心で家庭を見返ることがなく、ついには中国に行ってしまう。
 日本に迫害される朝鮮から、楽園と思ったハワイにやってきた娘たちだったが、そこも侵略の歴史と差別の横行する社会だった。
 ハワイは王国であったが、1895年1月に女王リリウオカラニは逮捕廃位され、1898年8月、アメリカ合衆国の準州とされた。
 ハワイの土地は白人に合法的に奪われ、サトウキビやパイナップルの農場では、白人農場主たちが先住民労働者を酷使していたが、輸出拡大につれ労働者不足になり、日本人などを使うようになっていた。
 朝鮮人労働者は日本人に較べて少数だったが、日本人労働者が賃上げや待遇改善を求めて争議を繰り返したため、スト破りとして使われることもあった。朝鮮人たちは労働者同士の連帯よりも、日本に対する民族的恨みを選択した。
 ハワイは階級闘争と民族矛盾、民族差別が錯綜して、分裂と団結が複雑に絡み合っていた。
 朝鮮人社会にあっても、パク・ヨンマン派とイ・スンマン派に政治的に分裂し時には暴力騒動も起き、ポドゥルたちも否応なく巻き込まれていた。
 ハワイは多民族社会であり、多言語社会でもあった。ハワイの農場や労働現場、生活の場では、英語、ハワイ語、日本語などの混じったピジン語が意思疎通に使われた。朝鮮の儒教的身分社会しか知らないポドゥルたちにとって、ハワイは異世界だったに違いない。そこは女でも母親でも一人ひとりに名前のある社会でもあった。ポドゥルは自分の母の名前すら知らなかった。
 ポドゥルたちの世代は殆ど英語はできないが、ポドゥルの子どもたちの世代になると英語の方が普通になる。
 1941年12月7日、日本軍がパールハーバーを奇襲攻撃した。ポドゥルの息子ジョンホは軍隊に入る決意をする。朝鮮からの移民2世は国籍はアメリカだが、親の国籍は日本だ。アメリカ人にとって朝鮮系はなく、彼らも日系アメリカ人に過ぎない。アメリカ市民で愛国者であると示すためには軍隊に入る必要があるのだ。
 朝鮮系ハワイ移民は立場も精神も複雑だ。安易に単純化できない複雑を複雑なまま表出することに、スローガンやコピーではない文学の意味がある。
 南国の観光地のイメージが強固なハワイの歴史に、詳しい人は少ないだろう。多少知っている人間でも、日本の支配が強まる朝鮮から、1000人以上もの女性たちが写真だけで結婚移民したという事実を考えたことがあろうか。彼女たちはそれぞれ『シソンから、』のシソンの親なのだと思う。
 原著の内容をしっかり検証した翻訳に好感を持った。翻訳者の体験と調査で関西弁を使っているのも違和感がない。
 作者と翻訳者がともに「李」氏だが、発音は「イ」と「リ」にしている。互いに否定しない関係も良い。

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