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2022年10月28日 (金)

鄭承博(チョンスンバク)さんの記憶

鄭承博(チョンスンバク)さん、天真爛漫の実体は繊細な気遣いの人だったかも

Photo_20221028205104   『吟醸掌篇』を発行している編集工房けいこうのWebマガジンに「在日朝鮮人作家列伝」を依頼され、次には鄭承博について書かなければならない。それで『鄭承博著作集』を再読し始めた。
 鄭さんと親しかった北原文雄さんの『島からの手紙』にも目を通した。北原さんは「鄭承博伝」をまとめようとしていたので、存命であったらアドバイスももらえたに違いないのだが残念。
 初めて鄭承博を見たのはどこかの集会で、昔の弁士を彷彿させる身振り手ぶりの姿だった。
 その後は、94年9月に新日本文学会の大阪での会合のついでに、磯貝治良・小野悌次郎・高村三郎とともに淡路島に足を伸ばしたときだ。大阪港から高速フェリーに乗り、関西国際空港経由で一時間半、着岸するとベレー帽を被った小柄の鄭さんが待っていてくれた。
 そのとき鄭承博さんは71歳でひ孫がいると言っていた。高台に設けた仕事用の家まで鄭さん運転の車で連れて行ってもらった。
 高台の家は二間と台所の平屋造りで、コンクリート造りで蔦の絡まる書庫が別に建てられていた。窓から見える農村の風景が郷愁を誘うものなのだそうだ。
 昼からビールを飲み、紀淡海峡の速い流れに揉まれて身が引き締まった鰈の刺身を御馳走になった。向こうの白鬚神社まで散歩に出たり、戻ってはまた飲んだり食ったり、眠くなると少し寝て、また起きては飲んだりして朝方まで過ごした。
Photo_20221028205101  翌日は鳴門海峡を見学し、娘さんの喫茶店で珈琲を振る舞われた。鄭さんは毎朝ここまで降りてきて犬を散歩させるのが日課だ。
「一緒に住んでいないと喧嘩しないでいい」と言う。駆け落ちして暮らす愛妻とでも一定の距離が必要なのだ。
 次に会ったのは、北原文雄さんの『島からの手紙』によると、95年4月、北原さんが農民文学賞を受賞したときの会場だ。淡路島からの農民文学賞受賞者は鄭承博さんに続いて北原さんが二人目なのだそうだ。
 淡路島にはもう一回行っている。このときも新日本文学会の集まりの後で、小野悌次郎・北岡敏範・高村三郎とともに乗り込んだ。
 96年の9月だ。また天保山から高速フェリーに乗って洲本に降りた。その日は夜の11時頃ようやく洲本港に到着し、鄭承博さん、北原文雄さん、片倉啓文さんら『文芸淡路』のメンバーに出迎えてもらった。
960916  洲本市郊外の大野にある鄭承博邸は、前年の阪神淡路大震災にも倒壊は免れていた。壁は少し崩れたのと、テレビが落ちて壊れただけだと言う。
 また酒宴。豪華焼き肉パーティーである。
 鄭さんに「林さん焼きすぎたらあかんよ」と注意された。裏表鉄板に載せるだけで充分なとろけるような松坂牛だった。鄭さんは殆ど焼かない。
 当然文学論議に花が咲いたはずだが、まったく覚えていない。しかし鄭承博さんは文学論には、ほとんど興味を示さず、自分の人生を如何に描くか、という問題意識しかないようだった。
 また朝方まで飲み明かし、翌日は2台の車で淡路島観光した。運転は鄭さんと北原さん。73歳の鄭さんが飛ばすはとばす。いくら空いているからと言っても最高時速100キロを超えていた。
Photo_20221028205102  洲本城や鳴門海峡などを見学し、昼食は絶景の国民休暇村で支払いは片倉啓文さんにお任せだ。
 その後、鄭承博邸に戻った我々は。また酒盛り、夜には北原さんが獲りたての刺身を持ってきてくれた。鄭承博はこんな人びとに囲まれて過ごしているんだなあ、幸せだ。
 余りにも愉しかったので、私と同じ埼玉から参加した小野さんの2名はもう一泊させてもらった。
 鄭承博さんとは大阪でも何回か会っている。一度は戦時中、鄭さんが空襲から逃れて隠れた場所なども案内されたが、年月日は失念した。
 記憶は確かではないが多分98年の7月25日土曜日、金城実作で鄭承博をモデルとした彫刻「在日朝鮮人作家」の完成を祝う会が、大阪桃山駅そばの焼き肉亭「髙橋」において開催された。
 94年の1月に金城実と鄭承博の対談が淡路島の鄭さん宅で行われ、金城が「明日はぜひ鄭さんの彫刻を作りましょう。」と結んだ言葉を受け、「明日」ではなかったがやっと完成した作品を祝う会だった。
 ところが二人は会場に来る前に飲み始めていて到着が2時間以上遅れた。酔っ払った二人が姿を見せるまでおあずけを食らったが、憎めない二人に一同笑顔になった。
 鄭承博の印象は、小柄で天真爛漫、いつも笑顔で明るいおじいちゃんという感じだったが、それは晩年のことだったのかも知れない。
 新幹社版『裸の捕虜』には、文藝春秋版『裸の捕虜』所収の作品に「富田川」「山と川」「追われる日々」の3作が加えられている。
「富田川」は『川柳 阿波路』第8号(1966年1月)~第38号(1968年7月)まで31回連載。これが鄭承博の小説としては処女作にあたる。
「富田川」は上手な小説ではない。朝鮮から叔父を頼ってやって来た10歳頃の少年が飯場の飯炊きをしながら見聞きする山奥の土木現場を描いている。
 戦前の日本・紀州で飯場に寝起きして土木工事に従事した労働者の生態を描いた労働小説としての面白さがある。しかしここには労働者は描かれても朝鮮人は描かれていない。登場する日本人もほぼ気の良い庶民で主人公の少年は温かく迎えられている。
Photo_20221028205103  ところが未発表だった「山と川」は印象が違う。表現が巧みになっているだけではない。内容的には「富田川」と一部重なりながらも続編的な性格の作品になる。主人公の少年の名は張一(チャンイル)。張一は紀伊の山奥の飯場で炊事係をする少年だが、大雨で現場が崩れ、逃げ出した彼は叔父を探して歩き、別の飯場で働くことになる。
 土木工事の労働者たちは朝鮮人で、村人たちからは蔑まれている。張一も泥棒扱いされたり何度も酷い目にあっている。逆に飯場に逃げ込んだときには朝鮮語で助けを求め、同胞の労働者たちに温かく受け入れられる。「山と川」では民族差別と朝鮮人を包む戦前の社会情況が巧みに描き込まれている。この小説は新幹社版『裸の捕虜』(鄭承博著作集第一巻)に収録されるまで未発表だったが、晩年に書かれたものだと思われる。
「富田川」は鄭承博が日本人名「西原ひろし」で川柳の雑誌『川柳 阿波路』に書いたものだ。『川柳 阿波路』は、その頃バー・ナイトを経営していた鄭承博が私財をなげうって創刊した雑誌だ。
 在日朝鮮人の組織にかかわっていなかった鄭承博は、バーの経営や雑誌の発行で日本人との関わりに神経を使ったに違いない。後には淡路朝鮮文化研究会を設立したり、朝鮮語勉強会を始めたりするが、前半生は朝鮮を前面に出すことなく生きたのではなかったろうか。
 鄭承博は、楽観的で純真な好々爺ではなく、肉体の艱苦を基礎に精神の腐心を持ちこたえてきたに違いない。2001年77歳で永眠についた。来年は生誕100年です。

*けいこう舎マガジンに鄭承博さんについて書いています。

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