フォト
無料ブログはココログ
2024年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

« 2022年8月 | トップページ | 2023年1月 »

2022年10月28日 (金)

鄭承博(チョンスンバク)さんの記憶

鄭承博(チョンスンバク)さん、天真爛漫の実体は繊細な気遣いの人だったかも

Photo_20221028205104   『吟醸掌篇』を発行している編集工房けいこうのWebマガジンに「在日朝鮮人作家列伝」を依頼され、次には鄭承博について書かなければならない。それで『鄭承博著作集』を再読し始めた。
 鄭さんと親しかった北原文雄さんの『島からの手紙』にも目を通した。北原さんは「鄭承博伝」をまとめようとしていたので、存命であったらアドバイスももらえたに違いないのだが残念。
 初めて鄭承博を見たのはどこかの集会で、昔の弁士を彷彿させる身振り手ぶりの姿だった。
 その後は、94年9月に新日本文学会の大阪での会合のついでに、磯貝治良・小野悌次郎・高村三郎とともに淡路島に足を伸ばしたときだ。大阪港から高速フェリーに乗り、関西国際空港経由で一時間半、着岸するとベレー帽を被った小柄の鄭さんが待っていてくれた。
 そのとき鄭承博さんは71歳でひ孫がいると言っていた。高台に設けた仕事用の家まで鄭さん運転の車で連れて行ってもらった。
 高台の家は二間と台所の平屋造りで、コンクリート造りで蔦の絡まる書庫が別に建てられていた。窓から見える農村の風景が郷愁を誘うものなのだそうだ。
 昼からビールを飲み、紀淡海峡の速い流れに揉まれて身が引き締まった鰈の刺身を御馳走になった。向こうの白鬚神社まで散歩に出たり、戻ってはまた飲んだり食ったり、眠くなると少し寝て、また起きては飲んだりして朝方まで過ごした。
Photo_20221028205101  翌日は鳴門海峡を見学し、娘さんの喫茶店で珈琲を振る舞われた。鄭さんは毎朝ここまで降りてきて犬を散歩させるのが日課だ。
「一緒に住んでいないと喧嘩しないでいい」と言う。駆け落ちして暮らす愛妻とでも一定の距離が必要なのだ。
 次に会ったのは、北原文雄さんの『島からの手紙』によると、95年4月、北原さんが農民文学賞を受賞したときの会場だ。淡路島からの農民文学賞受賞者は鄭承博さんに続いて北原さんが二人目なのだそうだ。
 淡路島にはもう一回行っている。このときも新日本文学会の集まりの後で、小野悌次郎・北岡敏範・高村三郎とともに乗り込んだ。
 96年の9月だ。また天保山から高速フェリーに乗って洲本に降りた。その日は夜の11時頃ようやく洲本港に到着し、鄭承博さん、北原文雄さん、片倉啓文さんら『文芸淡路』のメンバーに出迎えてもらった。
960916  洲本市郊外の大野にある鄭承博邸は、前年の阪神淡路大震災にも倒壊は免れていた。壁は少し崩れたのと、テレビが落ちて壊れただけだと言う。
 また酒宴。豪華焼き肉パーティーである。
 鄭さんに「林さん焼きすぎたらあかんよ」と注意された。裏表鉄板に載せるだけで充分なとろけるような松坂牛だった。鄭さんは殆ど焼かない。
 当然文学論議に花が咲いたはずだが、まったく覚えていない。しかし鄭承博さんは文学論には、ほとんど興味を示さず、自分の人生を如何に描くか、という問題意識しかないようだった。
 また朝方まで飲み明かし、翌日は2台の車で淡路島観光した。運転は鄭さんと北原さん。73歳の鄭さんが飛ばすはとばす。いくら空いているからと言っても最高時速100キロを超えていた。
Photo_20221028205102  洲本城や鳴門海峡などを見学し、昼食は絶景の国民休暇村で支払いは片倉啓文さんにお任せだ。
 その後、鄭承博邸に戻った我々は。また酒盛り、夜には北原さんが獲りたての刺身を持ってきてくれた。鄭承博はこんな人びとに囲まれて過ごしているんだなあ、幸せだ。
 余りにも愉しかったので、私と同じ埼玉から参加した小野さんの2名はもう一泊させてもらった。
 鄭承博さんとは大阪でも何回か会っている。一度は戦時中、鄭さんが空襲から逃れて隠れた場所なども案内されたが、年月日は失念した。
 記憶は確かではないが多分98年の7月25日土曜日、金城実作で鄭承博をモデルとした彫刻「在日朝鮮人作家」の完成を祝う会が、大阪桃山駅そばの焼き肉亭「髙橋」において開催された。
 94年の1月に金城実と鄭承博の対談が淡路島の鄭さん宅で行われ、金城が「明日はぜひ鄭さんの彫刻を作りましょう。」と結んだ言葉を受け、「明日」ではなかったがやっと完成した作品を祝う会だった。
 ところが二人は会場に来る前に飲み始めていて到着が2時間以上遅れた。酔っ払った二人が姿を見せるまでおあずけを食らったが、憎めない二人に一同笑顔になった。
 鄭承博の印象は、小柄で天真爛漫、いつも笑顔で明るいおじいちゃんという感じだったが、それは晩年のことだったのかも知れない。
 新幹社版『裸の捕虜』には、文藝春秋版『裸の捕虜』所収の作品に「富田川」「山と川」「追われる日々」の3作が加えられている。
「富田川」は『川柳 阿波路』第8号(1966年1月)~第38号(1968年7月)まで31回連載。これが鄭承博の小説としては処女作にあたる。
「富田川」は上手な小説ではない。朝鮮から叔父を頼ってやって来た10歳頃の少年が飯場の飯炊きをしながら見聞きする山奥の土木現場を描いている。
 戦前の日本・紀州で飯場に寝起きして土木工事に従事した労働者の生態を描いた労働小説としての面白さがある。しかしここには労働者は描かれても朝鮮人は描かれていない。登場する日本人もほぼ気の良い庶民で主人公の少年は温かく迎えられている。
Photo_20221028205103  ところが未発表だった「山と川」は印象が違う。表現が巧みになっているだけではない。内容的には「富田川」と一部重なりながらも続編的な性格の作品になる。主人公の少年の名は張一(チャンイル)。張一は紀伊の山奥の飯場で炊事係をする少年だが、大雨で現場が崩れ、逃げ出した彼は叔父を探して歩き、別の飯場で働くことになる。
 土木工事の労働者たちは朝鮮人で、村人たちからは蔑まれている。張一も泥棒扱いされたり何度も酷い目にあっている。逆に飯場に逃げ込んだときには朝鮮語で助けを求め、同胞の労働者たちに温かく受け入れられる。「山と川」では民族差別と朝鮮人を包む戦前の社会情況が巧みに描き込まれている。この小説は新幹社版『裸の捕虜』(鄭承博著作集第一巻)に収録されるまで未発表だったが、晩年に書かれたものだと思われる。
「富田川」は鄭承博が日本人名「西原ひろし」で川柳の雑誌『川柳 阿波路』に書いたものだ。『川柳 阿波路』は、その頃バー・ナイトを経営していた鄭承博が私財をなげうって創刊した雑誌だ。
 在日朝鮮人の組織にかかわっていなかった鄭承博は、バーの経営や雑誌の発行で日本人との関わりに神経を使ったに違いない。後には淡路朝鮮文化研究会を設立したり、朝鮮語勉強会を始めたりするが、前半生は朝鮮を前面に出すことなく生きたのではなかったろうか。
 鄭承博は、楽観的で純真な好々爺ではなく、肉体の艱苦を基礎に精神の腐心を持ちこたえてきたに違いない。2001年77歳で永眠についた。来年は生誕100年です。

*けいこう舎マガジンに鄭承博さんについて書いています。

2022年10月20日 (木)

アン・ドヒョン『詩人白石 寄る辺なく気高くさみしく』

白きかべあって

アン・ドヒョン『詩人白石 寄る辺なく気高くさみしく』五十嵐真希訳 新泉社


Photo_20221020155501「人生は評価されるものではなく、生き抜くものである」という著者の言葉が染みる。
 白石(ペは1936年23歳で詩集『鹿』を上梓した詩人だ。日本でもファンの多い韓国の詩人尹東柱(ユントンジュ)が敬愛し、現代韓国でもっとも愛される詩人のひとりだ。
 白石は現在の北朝鮮平壌の北に位置する定州出身で、地方語を駆使した詩を書いた。生活と一体感のある明瞭な日常の言葉で、小さくて取るに足らないけれど貴重な民俗を描き、土着的でありながら復古主義を排除したモダニティを内包していると評価された。
 白石は日本の統治時代に日本語で書かず、植民地化で歪められた故郷の言葉を駆使したのだった。
 しかし日本ではほとんど知られていないし、その生涯は韓国でも詳しくは分かっていなかった。著者アン・ドヒョンの調査は微に入り細を穿ったもので敬意に値する。分断国家韓国で北に渡った、あるいは北にそのまま残った文学者の足跡を追うのはたやすくない。
 白石は東京の青山学院で英文を学んだ潔癖なモダニストだった。目鼻立ちがはっきりしてふさふさしたくせ毛のハンサムで、最新のスーツにネクタイを締めた格好いい青年は、女性によくモテた。
 しかし最新の知性を身につけながら、古い封建制の頸木から自由になれずに、なんどか意に沿わない結婚をして破綻した。妓生の子夜(チャヤ)と恋愛しても親や世間体に負けて結婚できないままずるずると関係を続けた。
 田舎で教師をしながら詩を書いて暮らすことを夢見た白石だったが、歴史と政治は詩人を翻弄した。
 朝鮮日報社に勤めた白石は実に多くの知古を得た。当時の社長は曺晩植(チョマンシク)だった。曺晩植はキリスト教民族主義者として知られる独立運動家だ。学芸部長は朝鮮プロレタリア芸術同盟の同盟員である洪起文(ホンギブン)だ。
 朝鮮近代文学史には左翼から右翼民族主義者まで、幅広い作家詩人たちの群像が混沌と溢れていた。
 白石が詩集『鹿』を上梓すると、100部限定の発行にもかかわらず、多くの批評を受けた。
 プロレタリア詩人として有名な林和(イムファ)から見れば、〈白石は軟弱な文学主義者の一人にすぎなかった〉が、小説家の李孝石(イヒョソク)は〈失われた故郷を見つけ出したような心情をにわかに抱いた〉と感銘を表現した。
 白石は日本語で書くことを良しとせず、民族的価値を大事にしていたが、決してプロレタリア詩人ではなく、純粋に文学を追究した詩人だ。しかし時代は詩人の純粋な思いを赦さなかった。
 この評伝は白石を追ったものだが、南北の枠を超えた朝鮮近代文学史を物語として読むこともできる。白石を中心に多くの詩人や作家、美術家が登場する。
 朝鮮戦争による南北分断は、芸術家や文学者たちを南に北に分断し追いこんだ。そしてそのどちらでも政治に翻弄された。
 平壌に残った白石は、親しかったプロレタリア作家韓雪野(ハンソリャ)の庇護もあって、ロシア文学の翻訳と童詩の創作で好評価を受けていたが、それも長くは続かなかった。やがてその純粋な文学精神ゆえに僻地に追われ、家族と自分の命を繋ぐことになる。
 いわゆる「赤い手紙」を受け取った白石は1959年家族とともに、〈北朝鮮でも指折りの奥地〉山水郡(サンスグン)館坪里(クァンビョンニ)に追放された。地図を見ると山水は朝鮮半島の東北、咸鏡南道(ハギョンナムド)の北、蓋馬(ケマ)高原の一部で、その北には国境を成す鴨緑江が流れている。北朝鮮随一の寒冷地だ。
 白石は館坪協同組合の畜産班に配属された。潔癖主義のモダンボーイの後半生は羊飼いとして働くことにあった。
 白石の最後の詩(1962年)は見る影もない政治的コピーに過ぎないが、もはや彼にとっては詩人として生きることより自分と家族の生存が重要なのだった。
 では、白石は不幸だったか? たしかに白石は詩人として幸せな晩年を過ごした訳ではなかった。しかし白石は北朝鮮の最果ての地で、妻とともに5人の子どもを育て1996年まで生きた。厳しいとはいえ大自然に包まれて牧畜労働に捧げた生涯に価値がないとは言えない。

 本書は、現代韓国でもっとも愛される詩人白石の生涯を紹介したもので、白石の詩の翻訳が素晴らしく、その解説がまた読者の理解を深めてくれる。その上で、日本帝国主義時代―解放後の解放空間(1945年8月~48年8月)―南北分断の始まり―朝鮮戦争―1957年以降の北朝鮮における教条的強硬派支配時代、という困難な歴史における文学史の一断面をも読ませてくれる。
 北朝鮮で高い評価を受けた韓雪野とモダニスト白石が親しかったエピソードも面白いが、李泰俊・朴泰遠ら多くの文学者たちの情報も満載だ。プロレタリア詩人として日本(語)でも活躍しながら転向した批評家の白鐵(ペクチョ玄徳(ヒョンドク)の『ノマと愉快な仲間たち』(作品社)の挿絵も描いている画家の鄭玄雄(チョンヒョヌン)などなど数多の文化人が登場し左右に揺れながら生きていく。白石の恋人だった子夜は戦後もしぶとく、料亭を経営して83歳まで生きた。
 白石は苦難の朝鮮近代文学史を象徴する詩人と言えるかも知れない。

※ 翻訳者による「解説註」「人名註」が充実していて近代朝鮮文学事典の趣がある。労作だ。

2022年10月10日 (月)

『火山島』の誤植などについて

金石範『火山島』(文藝春秋)の誤植などについて林浩治個人で見つけたものを以下に列挙しておきます。
他にもあるかと思いますが、あしからず。

1巻p304前から13行目
(南承之と有媛の場面)
年齢もおれと二つしか違わないのに、まるで姉さん面をしていったものだった。
     ↓
年齢もおれより二つ歳下なのに、まるで姉さん面をしていったものだった。
   ※南承之から見て有媛は2歳歳下なので「年齢もおれと二つしか違わないのに、まるで姉さん面 」という表現は間違い

1巻
p311後から3行目 有→有媛

3巻P262上 前から6行目 「七、八年ぶりに南方から〝復員〟」→五、六年ぶりに南方から〝復員〟」
       ※韓大用は、1942年8月19日釜山を出航し、1948年1月に帰国している。

4巻p513上 後から7行目 有媛はこうこうして→有媛はこうして
  p519下 前から10行目 遅い目→遅め

5巻p237下 後から2行目 芳根→芳根
  p266下 前から6行目 芳根→芳根
  p409上 後から5行目 を貼って→を貼って
  p439上 後から12行目 開けた→開けた

6巻p276上 前から12~14行目 活字ポイントが大きい
  p367下 後から8行目 直に→直
  p370上 前から2行目 反民委→反民
  p423上 後から7行目 入山反対→入山反対
  p430下 後から9行目 島掃→島掃

7巻p247上 後から6~7行目 「過」と「を」の間に不要な改行がある。
  p347下 前から9行目 読点「」が2ヶ続いている。
  p407下 前から7行目 逃げしたい→逃げしたい

« 2022年8月 | トップページ | 2023年1月 »