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2022年8月23日 (火)

黄順元『木々、坂に立つ』

歴史の因果に歪められた若者たちの精神
黄順元(ファン・スノン)『木々、坂に立つ』白川豊訳 書肆侃侃房

 チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』以来若いフェミニズム系女性作家が、日本を席巻しているが、韓国文学は若い女性文学だけではない。翻訳者である斎藤真理子は『韓国文学の中心にあるもの』で、朝鮮戦争が韓国文学の核にあると論究した。黄順元『木々、坂に立つ』も朝鮮戦争を背景とした小説だ。しかしこの翻訳出版の方が後になったため、斎藤の本では言及されなかった。
Photo_20220823152901  『木々、坂に立つ』は二部構成になっている、第一部は朝鮮戦争のさなか学徒動員された青年たちを描いた。戦争小説なのにどこか情緒的だ。戦闘も書かれるが、むしろ不条理な世界に放り込まれた青年たちの現実と歪んだ心象が描かれ詩的でさえある。
 ヒョンテは会社経営する裕福な家の息子。ドンホは「詩人」とあだ名される生真面目な青年で戦場に来ても、一線を越えられなかった恋人を思っている。ユングは両親を亡くし叔父に養われた。家庭教師をしていたが、ヒョンテの援助も受けていた。
 きまじめなドンホは外出日に飲み屋に行ってもヒョンテたちのように、気軽に酌婦を抱くことができなかった。ドンホは入隊前に恋人のスギと肉体関係になりかけたが、彼女の言葉に従ってそのまま一晩を過ごす経験をしていた。
 ヒョンテたちのように振る舞えないドンホは、潔癖症の自分に嫌気がさして悩みながらも飲み屋の女オクチュを抱いた。純情なドンホはやがてオクチュに執着するようになる。オクチュは夫を戦争で亡くし子どもを流産していた。
 ドンホはオクチュに会うために前線の部隊から彼女のいる店に会いに行ったが、客がいたため、嫉妬から部屋に向かって銃を撃ち、部隊に帰ってから自害して果てた。
 第二部は休戦協定成立後数年経っている。除隊後の彼らや周囲の若者たちの姿を描いた。
 ヒョンテは除隊後はしばらく意欲的に働いていたのだが、前線の村で居残っていた子連れの女を犯して捨てたことを思い出して、無為と倦怠に沈潜し身なりもかまわず、仕事もせずに親の金で、酒と女に身を持ち崩していた。そして飲み屋の女将が北から38度線を越えて連れてきた「生娘」ケヒャンの冷淡さに惹かれて店に通うようになっていた。
 ヒョンテは一種のニヒリズムに陥っていた。生きる目的を失っていたのだ。戦争は生きることを否定する情況だ。敵と遭遇すれば殺さなければならない。自分が殺される可能性を前提にする刹那に高揚するしかない。戦後になっても死と向き合って生きた刹那を引きずって荒んだヒョンテは、「死と向き合った瞬間、瞬間に、失われた自分自身を取り戻したいんだ。あの時はほんとに自信があったんだ」と言う。
 戦争という、個人の力ではいかんともしがたい不条理な世界に追い込まれた青年たちは、登場人物のひとり安(元)兵長の言葉を借りれば、「あの当時は皆、正気じゃなかった」のだ。言わば「神的因果性」の犠牲者であり、運命の被害者と呼べる。
 不条理な戦争によって浸食された内心の不自由が原因だとしても、ヒョンテがその身勝手な行動の責任から逃れられる訳もなく、「人間的因果性」は追及される。
 ドンホの恋人だったスギはドンホの死の真相を探るためにヒョンテやユングに近づく。ヒョンテは、スギに追及されるうちに、かえって彼女を強姦してしまう。
 ユングは家庭教師をしていた娘ミランと関係を持つが、ミランはヒョンテとも関係を持ったうえ、ユングに勧められた堕胎に失敗して死んでしまう。
 ユングはそれまで勤めていた銀行を辞めざるを得なくなり、養鶏を始める。ユングはヒョンテの責任を追及しない。ヒョンテが決して応答しないことを知っているからだ。同じ戦場で血みどろの殺し殺されの時間を共有し、〈意識の底に深く潜在している神に対する懐疑や罪の意識からくる不安や強迫観念〉を共有したのだ。ユングは責任をヒョンテに帰属させ得ない。
 ユングは痛みと慚愧を抱え込みながらも、真実のために悶着を起こすことを嫌い、世間と妥協してでも生きていく姿勢を見せる。生きることだけを目的としているからには、養鶏に興味があろうがなかろうが事業を成功させるために一歩いっぽ進むに違いない。
 ヒョンテを追及したスギは、戦争では誰もが傷ついたと認識している。しかし純粋に真実を探求し自己と妥協しない生き方は、今後の人生の困難を想像させる。
 この驚くべき小説には、これらの若者たち以外にも、両親が殺された復讐心で「裏切り者」を射殺したため、その幻影に苦しめられ続ける鮮于(ソヌ)軍曹、ボクシングの選手だったが戦争で片目を怪我し、戦後ケンカで左手の自由を失ってしまうソッキ、ヒョンテに渡されたナイフで自殺する若い娼婦ケヒャンなど、絶望の淵で生き、そして場合によっては死んでいく若者たちの姿が描かれた。
 それは、正しさやあるべき姿ではなく、歴史の歪みに映し出された若い群像の姿を歪んだままに表したものだ。
 文学は限定的ではない。この小説を読めば私たちはウクライナ戦争に思いを馳せる。戦争は必ず人の心を歪に導く。

 黄順元は1915年生まれ。多くの作品を遺し文学賞受賞も少なくなかった。大作家だ。映画やTVドラマ化もされ、特に短篇「소나기(夕立・にわか雨)」は韓国語学習テキストに使われることがあるので、韓国語学習者にはおなじみかも知れない。
 作者についての情報は、翻訳した白川豊による解説に詳しい。
 また『木々、坂に立つ』は、書肆侃侃房の「韓国文学の源流」長編シリーズの4冊目で、短編選もこれまで3巻発行されている。流行におもねることなく、流行の波に乗ろうという意欲的な出版に拍手を送りたい。
 愚銀のブログでは、金源一『父の時代』廉想渉『驟雨』を紹介している。

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