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2022年7月27日 (水)

斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』

地下茎のように張り巡らせた連続する文学を、強靱な内省によって読み解く

斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』イースト・プレス

Photo_20220727141301  これまで韓国文学の紹介に努めてきた斎藤真理子の、翻訳以外の日本語出版としては初めての単著が出版された。
 韓国文学は、かつて日本では政治的関心か、少数の研究者やマニアの関心しか引かなかった。昨今は新聞雑誌の書評欄を飾ることも度々となり、本屋の棚の一部を韓国文学コーナーが占めることもままある。斎藤を初め翻訳者も増大し、昔日のさみしさはない。韓国文学はブームを越えて定着したと言っても過言ではあるまい。
 このブームの引き金は、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』だった。『82年生まれ~』は女性の生き方を真っ正面からあつかって、韓国文学どころか小説を読まない読者をも取り込んだ。社会構造がもたらす女性差別に敏感に反応した日本の読者たちが、韓国文学ブームを巻き起こしたとも言えよう。
 斎藤真理子は『82年生まれ~』を〈社会に存在するジェンダー不平等を可視化させるという明確な目的を持ったコンセプチュアルな小説〉と言った。
 まさに時代が求めた小説だったのだ。
 斎藤の視線は韓国文学を読み解くために韓国社会を分析しながらも、日本に跳ね返っている。徴兵制が敷かれて男性が共産主義の脅威から女こどもを守る代わりに、女性は我慢しろという韓国から、著者の視線は翻り、基地のほとんどを沖縄に押しつけて男女そろって無関心な日本へと向けられる。沖縄の米軍基地も自衛隊の誕生も朝鮮戦争と深く関わっている。
 植民地時代、戦後の解放空間と済州島四・三事件などの白色テロ、そして朝鮮戦争、四・一九学生革命、朴正熙の維新の時代、光州事件、民主化、IMF危機、セウォル号事件、キャンドル革命と、韓国現代史に文学は寄り添ってきた。そして韓国史の影に陽に日本が表れる。
 チョ・セヒの〈 『こびとが打ち上げた小さなボール』は、維新時代の産物である。〉と、斎藤真理子は書く。維新時代が良かったので素晴らしい文学が生まれたという意味ではない。自由と民主主義を弾圧した独裁政権の時代にどのようにして、この傑作ロングセラーが生まれたのか。ここだけでも読み応え充分だ。
 『こびとが打ち上げた~』は強引な経済成長の犠牲にされた民衆の姿を追った小説だ。『こびとが打ち上げた~』に、斎藤真理子はまぎれもない日本の小説、チッソによる公害被害を告発した石牟礼道子『苦海浄土』を連想した。古びることのない声、古びることのない表現が、資本主義的高度成長によって傷つけられた人びとの声なき声を読者に届ける、という共通点を発見している。
 朝鮮に生まれた植民者三世詩人・村松武司の言葉を借りて、チッソが植民地支配下の朝鮮で民衆の犠牲の上に巨大企業化への足がかりを作ったと批判した。『苦海浄土』は日本の朝鮮植民地支配と無関係ではなかった。
 〈彼ら(チョ・セヒと石牟礼道子)は自分の文学の文学的達成のためだけでなく、また啓蒙のためだけでもなく、対象との連帯のために文体を精錬した〉という指摘には舌を巻く。小説読者としての自分の角度の狭さを認識させられた。
 著者は、崔仁勲(チェ・イヌン)『広場』の紹介でも日本文学を振り返る。
 『広場』は韓国で言う分断文学の代表作だ。朝鮮戦争の釈放捕虜である男の来し方と選択を描いた。選択の余地ない分断、強権政治、戦争。選択の自由がないのに重い結果が残る。
 ここで斎藤真理子が連想したのは堀田善衛『広場の孤独』だった。朝鮮戦争が日本に及ぼしたものは朝鮮戦争特需だった。韓国の崔仁勲『広場』の選択が、どこに逃げるかによって自由と命のかかったものであるのに比し、『広場の孤独』は金を受け取るか否かの選択を表出したのだった。この両者の置かれた距離に、斎藤は韓国と日本が戦後冷戦構造のなかにおかれた両国の位置を確かめている。
 更に、高揚しながら経済成長の波に飲み込まれた日本の現代史に対して、幾多の広場の記憶を経て光化門広場でのキャンドル集会まで辿り着いた、韓国の連続する記憶を『韓国文学の中心にあるもの』の読者は追体験する。
 読者は、「韓国文学の背骨」としての朝鮮戦争を読む。そして朝鮮戦争体験の日韓の相違が、現代文学に反映されていたと知るに違いない。
 本書の一部だけを切り取った感想を書いたが、この本で取り上げられた文学作品は、巻末に2段組8頁にわたって紹介されている。膨大だ。
 著者の読書歴がそれ以上に膨大だからだ。斎藤真理子の読書は単発ではない。日本文学から韓国文学、世界文学まで、広く地下茎のように繋がっている。それ故に、この本自体が広範な知性によって裏付けされた批評性に富んだエッセイとして文学たり得ている。無論、現代韓国文学の解読書としては今のところ他の追随を許さない。しかしたんなるガイドブックではない。
 振り返る内省の強靱と、現実に生きる場から離れない視野で、朝鮮戦争を核とした韓国現代史を文学のなかに発見する丁寧な読書が、この本を支えている。読書とはこんなにも深く広いものなのだ、と改めて関心させられた。
 読書人の端くれとして反省。

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