フォト
無料ブログはココログ
2024年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

« 金源一『父の時代』 | トップページ | 黄晳暎『張吉山』全10巻 鄭敬謨訳 »

2021年10月13日 (水)

多胡吉郎『空の神様けむいので ラスト・プリンセス徳恵翁主の真実』

多胡吉郎『空の神様けむいので ラスト・プリンセス徳恵翁主の真実』影書房

ことばを奪われた詩の天才王女の生涯

Photo_20211013194001  真子さんの結婚が問題とされ、賛成したり反対したり赤の他人が口出しして、マスコミが騒いで早3年。真子さんのPTSDまで報道されて人権は無いのかと思った人も少なくないと思う。ところがここに来て結婚反対デモまでする連中がいるのだそうだ。びっくりです。
 徳恵翁主(トッケオンジュ)もまた被害者だった。他民族の支配に屈した朝鮮王朝最後の王女の悲劇は、現代の日本皇室女性の悲嘆とはとても比肩できないほど大きかったはずだ。
 しかし、『空の神様けむいので』の装丁は美しい。徳恵(トッケ)が少女時代に着ていた宮廷衣装が目を引くのだ。表紙カバーに続いて扉をめくると、勝気な少女の真剣なまなざしの口絵だ。次のページには、京城(現在のソウル)の小学校在学中に書かれた詩がおかれている。

   雨

 むくむくむくと
 黒い煙が
 空の御殿へ上がったら
 空の神様けむいので
 涙をぽろぽろ流してる

 天才詩人と呼ばれた徳恵の童詩を著者の多胡吉郎は、〈胸中の奥深くにわだかまる孤独や闇が頭をもたげてくる。〉と言う。父高宗(コジョン)の死はたんなる保護者の喪失以上のものがあったのかも知れない。朝鮮の王女が母国語ではなく支配者の言語で書いた詩である。
 徳恵は朝鮮王朝最後の王女と呼ばれるが、朝鮮王朝第26代国王、大韓帝国初代皇帝である高宗の晩年の娘で、次の第27代国王にあたる第2代皇帝で初代李王となった純宗(スンジョン)や、梨本宮方子が嫁いだ李垠(イ・ウン)の異母妹だ。
 高宗を国王であり皇帝と書いたのは、日清戦争に敗れた清国が1895年に朝鮮王朝の冊封を解いたため、1897年10月朝鮮の国号は大韓帝国と改められ、国王は皇帝と名乗ることになったからだ。この高宗が60歳のときに宮廷の下級女官梁春基(ヤンチュンギ)に生ませた子が徳恵だ。
 高宗の正妻は明成皇后閔妃である。日本公使三浦梧楼の指揮下の日本官憲と壮士らによって殺害された(1895年10月8日)あの閔妃だ。閔妃の息子が第2代皇帝純宗だ。
 日露戦争後に結ばれた1905年の第2次日韓協約(日韓保護条約)によって、日本は韓国の外交権を奪い保護国として支配した。1907年、高宗がオランダのハーグで開かれた平和会議に密使を派遣して、日韓協約の破棄を訴えようとして失敗した。結果、高宗は皇帝の地位を追われた。この事件は映画にもなった。
 そして遂に、1910年8月29日に公布施行された「日韓併合に関する条約」によって韓国は名実ともに日本の領有となる。大韓帝国皇室は「王公族」として日本の準皇族扱いされることになった。
 純宗は皇帝から「李王」に格下げされた。
 徳恵はその2年後の5月25日徳寿宮に生まれた。生まれながらに日本の支配下に、反日独立を目指し諦めた父の子として生まれたのだ。
徳恵翁主については、これまでも少なくないルポルタージュ、小説、研究などがあり、映画にもなっている。韓国の俳優ソン・イェジンのイメージを浮かべる人もいるかも知れないが、実像は少し異なるようだ。
 多胡吉郎は、悲劇の王女の真実を、『京城日報』から『上毛新聞』『横浜貿易新報』等のローカル紙に至る各新聞、また女子学習院が生徒の父兄宛に発行していた『おたより』にいたる大量の資料をつぶさに調査して、徳恵の周辺の取材と徳恵の「言葉」探しを綿密にしている。
 徳恵は、比較的自由だった京城の日の出小学校時代にいくつもの童詩を書き、宮城道雄らに曲をつけられてもいる。徳恵の詩才は広く知られるようになる。しかし時代は子どもに詩を書かせて歌わせるような「個性尊重、自由教育」を赦さなくなる。
 1925年、徳恵は日本留学が決まり、女子学習院に編入学した。
「あくどい人間たちだ。人質は私一人で沢山なのに、なにが不足でこの子をつれてきたのだろう」とは、東京で徳恵を迎えた歳の離れた兄で王世子李垠のことばだ。
 京城の小学校では王女として守られていた徳恵だったが、日本の特権階級の子女が集められた女子学習院では特別扱いはされなかった。むしろ異端であったかも知れない。それでも和歌をたしなみ才能を見せた。

師の君にみちびかれつつ分け入りし文の林のおもしろきかな

多胡吉郎は、〈それは、王女として生まれた少女の詩魂開眼の瞬間であったとも言える。文の林に分け入り、言葉の森を自由に縦遊(しょうゆう)することで、亡国のプリンセスという立場を超え、一人の女性として、人間としての肉声の言語化に目覚めたのである。そこにこそ、おのれの生があると悟ったのである。〉
と解釈した。
 そうだったのかも知れない。少なくとも生きがいの欠片のようなものを見いだしたかったに違いない。しかしそれは支配者の言語で支配者の形式での詩だった。徳恵はその詩もやがて失っていく。
 徳恵は女子学習院在学中の1930年頃から統合失調症の症状を見せ始める。原因の特定は困難だ。学校にも行かなくなる。徳恵が抱え込んだ重圧の大きさは想像を絶する。
病気癒えぬ徳恵姫に結婚話が進められた。相手は朝鮮と歴史的関係の深い旧対馬藩主宗武志(そうたけゆき)である。
 徳恵翁主の紹介はこのくらいにしておく。問題は、病を得たあと徳恵の言葉が殆ど見つからなくなってしまったことだ。心を病んだから詩を失ったのか、詩を奪われたから心を失ったのか。徳恵は二重三重に言葉を奪われた王女である。言葉を奪われるということがどれだけ大きな痛みを伴うのか、私たちは考えなければならない。
 夫となった宗武志が文学の造詣浅からぬ人だったこと。その夫と離婚した徳恵が晩年を韓国で穏やかに過ごせたことは、悲劇中の幸いではなかったか。
 いろいろ学ぶことの多い本だった。本文の主旨とは直接関係ないが、大正天皇が1907年に皇太子として朝鮮を訪問し、大韓帝国皇帝純宗と親交を結び朝鮮語を学ぶようになったという逸話など、新鮮に受け止めることができた。

« 金源一『父の時代』 | トップページ | 黄晳暎『張吉山』全10巻 鄭敬謨訳 »

書評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 金源一『父の時代』 | トップページ | 黄晳暎『張吉山』全10巻 鄭敬謨訳 »