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2021年3月13日 (土)

パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』斎藤真理子訳 白水社

ぽんと浮かんだ者たちの記録

パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』斎藤真理子訳 白水社

Photo_20210313131502   おそらくパク・ソルメという作家はコギトを強く意識しているのだと思う。
 人間にとって実存とは考えること、考え続けることだと。日本の東日本大震災に触発されたとおぼしき「私たちは毎日午後に」「暗い夜に向かってゆらゆらよ」「冬のまなざし」などは、古里原発の事故という実際には起きていない次の原発事故を背景にしている。しかし抽象的で、よく読むと死者と生者の区別、人間と動物の区別も困難だ。
 「私たちは毎日午後に」では、男は子犬の半分くらいに小さくなる。私たちは毎日面白い話、くだらない話をして笑う。
 昨日はフィリピンで洪水が起きてたくさんの人が死んだ。ずっと前にはアメリカでビルが崩壊する事件があった。去年は日本で大きな地震があった。東北で大地震と津波があった。福島第一原子力発電所の爆発事故が発生した。
 何が起きたのかと毎日のように考えているソウルに住む私たちは、元気に過ごしている。一方で古里原発の事故があったけど、関係者は一ヶ月も隠していた。人ごととして考えていさえすれば笑って暮らせるけれど、隠された事実を知ることによって安穏は失われるかも知れない。
 「暗い夜に向かってゆらゆらよ」では、古里原発の事故以後に私とめすライオンが釜山タワーを目指して歩くが、釜山タワーはあるべきところにない。
 「冬のまなざし」では、釜山の海雲台(ヘウンデ)はもう行けない場所だ。
 古里核団地は海雲台と22キロの距離にある。かつてホテルやマンションが建ち並びデパート、レストランが繁栄を極めた華やかだった海雲台は無くなった。
 だけど私たちは古里じゃなくK市にいるから大丈夫、という気持ちで生きていく。
 私はK市で生まれ育った。海満(ヘマン)からはK市が一番近い都市だ。海満という島はあらゆる意味で困難な現実からの逃げ場だ。
 別の短編「海満」で、海満そのものが描かれた。
海満は南部地方の港から船で5時間かかる。「冬のまなざし」と併せて考えれば南部地方の港というのはK市の港ということになる。
 海満には特別なものはなにもない。ただ、だらだら過ごすにはよさそうな島だ。首都での生活と対置される。ここで過ごすと、正しいことがすべてを動かすのではなかったと悟る。
 正しさとは何か。
 冒頭の作品「そのとき俺が何て言ったか」において、カラオケ店に勤務する男は、「大事なことをしっかり心に刻みつけて」いた。「人は生きている限り心をこめて歌わなければならない」。男は正義を体現している。
 たまたまこのカラオケ店に友人のサンナンととも軽い気持ちで入ったチュミは男の正義の前に恐怖を味わうことになる。
 二人はやることがないから楽しかった。しかし、男にとって客が誠心誠意歌うのが正義だ。男はチュミに正義を暴力でたたき込む。誰もが陥りやすい正義という陥穽のおぞましさを見せられる。
 翻訳者斎藤真理子の「解説」によるとこの短編集は、作者の4冊の短編集から集めた日本版オリジナル編集だ。その冒頭にこの「そのとき俺が何て言ったか」を置いたのは見事。
 「じゃあ、何を歌うんだ」では状況との距離による感性のズレを読ませた。
 韓国系アメリカ人のヘナは5・18について関心を持っていて、韓国語を学ぶ人々の集まりで光州事件について発表した。韓国語で聞くのと英語で聞くのの間にはいくつかのカーテンがあった。
 作中に金南柱の詩「虐殺2」と金正煥の「五月哭」が扱われる。光州生まれだが光州事件を体験しない私は、六〇年代後半のメキシコ、チリの大学に軍人が踏み込んだり、一九四七年の台北、ゲルニカに関する文章のように感じる。光州を歌った詩の普遍性とともに、肉体が離れてしまった歴史のどうしようもない現実感の表出でもある。私は光州の人と呼ばれるとくらくらするような距離を感じるのだ。
 では表題作「もう死んでいる十二人の女たちと」はどうか。5人の女たちを強姦殺人したキム・サニを、彼の死後、彼に殺された5人と、犯行手口の似た殺人者に殺された7人を加えた12人の女たちが繰り返し殺し続ける。キム・サニは毎回苦痛を味わう。私は小さい頃からの友達だったチョハンによってそのことを知る。
「精神をどこかへぽんと浮かせることのできる者たち」には、それを見ることができるようだ。精神がぽんと浮かんだ者たちは道ばたの何かになっているに違いない。
 チョハンは殺された女たちの繰り返される復讐をノートに記録している。これは「ぽんと浮かんだ者」の記録であり、文学の原型として提出された実存だ。
 キム・サニみたいな者たちは、ソウルで相変わらず元気に生きているということを、もう死んでいる12人の女たちは分かっている。情報から導き出された実存する「知」だ。
 さて、もう一つ「愛する犬」について、解説には〈難解だと言われることの多いパク・ソルメの別の面、すなわち優しくてかわいい小説〉らしいのだが、私には一番難解で、読者の感想を拒否しているとしか思えず、目下批評の対象になり得ない。

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