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2021年3月31日 (水)

黄晳暎『囚人』に寄せて―黄晳暎と鄭敬謨に関する私的覚え書き

黄晳暎『囚人[黄晳暎自伝]Ⅰ 境界を越えて』(中野宣子訳 明石書店)
黄晳暎『囚人[黄晳暎自伝]Ⅱ 火焔のなかへ』(舘野 晢訳 明石書店)


 2月16日、鄭敬謨(チョンギョンモ)先生の訃報を聞いた。鄭敬謨は私にとっては、『ある韓国人の心』の著者であり、かつて韓国について学び、日韓民衆連帯の末端に私を導いた師であった。
 その前日には韓国の社会運動家で統一問題研究所長の白基玩(ペクキワン)が亡くなっている。白基玩は韓国の軍事独裁政権下で困難な民主化運動を闘ってきた方だ。
 鄭敬謨は日本に亡命して評論活動をしながら、朝鮮統一運動家として働き、呂運享記念事業や日韓連帯市民運動の指導にあたっていた。
 鄭敬謨が韓国問題専門誌として87年から発行した『シアレヒム』には、鄭敬謨以外の論客も登場し、黄晳暎(ファンソギョン)の小説「韓氏年代記」も翻訳発表された。黄晳暎は、1989年に鄭敬謨・文益煥(ムンイッカン)牧師らと北朝鮮を訪問している。黄晳暎は渡日して青山の鄭敬謨の事務所シアレヒム社を訪ね、北朝鮮訪問の手はずを整えたのだ。
 不定期で発行の『シアレヒム』誌は87年に第9号を発行して滞った。代わってシアレヒムの会が編集したA4×16ページの冊子『粒』が季刊で発行されるのは、文益煥と鄭敬謨が金日成と面談した2年後だった。私も編集発行作業の末端に繋がったが、創刊号の編集後記には編集スタッフの一人に「……病気でたおれ入院」と書かれ、第2号には「……全快しました」と書かれた。第3号の編集からは復帰できた。その間、鄭敬謨先生にずいぶん心配され、埼玉の病院まで見舞いに来て頂くご足労をおかけした。文益煥と黄晳暎を北朝鮮に連れて行くという大イベントと後始末も終えて、心の余裕があったのかもしれない。
 その頃黄晳暎はベルリンにいたが、11月には渡米し93年4月27日の帰国までニューヨークに滞在した。そして帰国と同時に逮捕され懲役7年の刑を受け、5年後の1998年3月13日金大中大統領による特別赦免によって解放された。
 鄭敬謨は文益煥と黄晳暎の訪朝を助けたが、黄晳暎は「文化交流」以外の目的を持たなかった。文益煥の統一のための政治的目的とは異なっていた。
〈私が民主化のために運動し、訪朝までしたのは、何か政治的活動をしたかったからではない。私は文学を人生の仕事に選択した人間だ。私の創作以外の活動は知識人として社会に奉仕しようとするもので、それもまた私の文学の重要な一部を成している。〉
2 『囚人』は、マッチョで政治的目的を持った作家と思われがちな黄晳暎の実像を、自ら暴いた自伝だ。むろん自伝である限り全面的に客観的だとは言えないのは自明だ。
 ⅠⅡ巻通して、年代記の間に監獄生活の記録が挟まれている。Ⅰ巻は、1956年から1993年までと、1947年以降の幼年期。Ⅱ巻は1956年から1985年までとエピローグで2016年のキャンドルデモ参加の様子が描かれた。
 黄晳暎は現代史のなかに生きた。
 1943年日本帝国主義支配時代の満州長春に生まれ、解放後平壌に移住した。47年には母の背に負われて三八度線を越えてソウル永登浦に定着したが、朝鮮戦争で各地を転々とした。1960年4月「四・一九学生革命」の時、一緒にデモに参加した同級生が被弾して殺された。その後は高校を中退して放浪したり、出家を目指して寺で修業したりしたが果たせず、自殺未遂で病院に運ばれたこともある。
 66年には海兵隊に入隊し、ベトナムに派兵された。
 韓国のベトナム参戦は、ベトナム人民に大きな恨みを遺したのみならず、元韓国兵の心身にも慚愧の痛みを刻んだ。黄晳暎は、〈ゲリラに対して人間としての憐れみの感情すら持てなかった。ただ異様な物体でしかなかった。〉と回想している。ベトナム人の蔑称「グック」は朝鮮戦争当時米軍が使用した「韓国(ハングック)」の「グック」でなはいかと、黄晳暎は書いている。
 私が黄晳暎の小説を初めて読んだのは『季刊三千里』1976年春第5号に掲載された「駱駝の目」だった。それはベトナム帰還兵の自己嫌悪を見つめた短編だった。
 黄晳暎は、ベトナム帰還後、何事にも無感覚になり急に涙がこみ上げてきたりして、不眠症で悪夢ばかり見るようになった。発作的に花瓶を弟の後頭部に叩きつけたことがある。黄晳暎は苦しんだのだ。
 何もせずに見ているだけの目撃者は、道徳的責任を問われないのか? と内省した。
Photo_20210331204401  黄晳暎が長く閉じこもった生活から書く自己表現に戻ったのは毎晩書き散らしたラブレターの力だった。書くことはそれ自体が力になる。19歳で『思想界』新人文学賞を受賞という早熟で、書くことを根拠地にして生きた黄晳暎だ。九老工団の工場に就職しても、その結果は小説に結実していく。
 30代の黄晳暎は大長編『長吉山』を連載しながら、数々の中・短編も発表し、民衆文化運動の指導にもあたった。黄晳暎の民衆文化運動は日本にも波及し、新日本文学会でも1980年代には盛んに韓国民衆文化運動を紹介した。
 黄晳暎は来日するたびに日本の作家や在日朝鮮人作家たちと交流した。なかでも鄭敬謨との関係は特別だった。黄晳暎の鄭敬謨に対する評価は高い。
〈人生の節目ごとに世間と妥協することなく、ただ知性と良心にしたがって進む道を選んで来たのだ。〉というものだ。
 しかし、鄭敬謨が韓民統など在日同胞団体をさほど信じていなかったという事実も黄晳暎は知っていた。
〈海外で取り組まれている統一運動においても、組織が壊れたり互いに傷つけ合ったりしながら、利害関係によって付いたり離れたりを繰り返してきたのである。〉
 鄭敬謨自身もそうだったが、鄭敬謨主宰のシアレヒム社にも有名無名の多くの人びとが関わっては去って行った。まさに利害関係によって付いたり離れたりだが、問題意識の違いや感性の違いも大きかった。私たちの去った後も『粒』は鄭敬謨の個人紙として発行され2001年9月発行の第36号は、「鄭敬謨著書出版記念会特集号」で、黄晳暎や、今や詩人としてよりセクハラ爺として有名になってしまった高銀(コウン)も寄稿している。この号は、『南北統一の夜明け』(技術と人間)の出版記念会の様子を伝えるもので、黄晳暎の講演は「時代の不寝番」と題された。10年後に同じタイトルで鄭敬謨の大著が発行されている。
 黄晳暎によると、彼の家族は鄭敬謨の父が建てた教会に通い、鄭敬謨のために開園された幼稚園にも通ったという因縁があった。
 黄晳暎はトレンドではない。「封建的な男の視点」は「オールドハニカ(古くさいから)」、特に若い女性には興味を持たれないらしい。
 しかし黄晳暎は自己を振り返る文学者らしい視点を持っている。彼は、自分がどんなに利己的で自己中心的な男だったかを知っているし、妻との関係でも争いが起きるたびに彼女のせいにしていたと省みている。
 黄晳暎は自由気ままに振るまい、やっと稼いだ金も妻子には届けず、作家仲間たちとの飲み代に消えていった。彼は民主化運動、民衆文芸運動、作家活動と忙しいが、妻たちは子供を育てて生きるだけでも大変なのに夫を支えなければならなかった。軍事政権下での命がけの民主化運動のさなかにも男尊女卑は蔓延していたのだろう。
〈私は、性急で即物的で感情を優先させ、誠実とは言えなかった。〉
 しかしそういった自省は、他人の言葉から本質的なものを感じ取る能力に通じたに違いない。Photo_20210331204301
 貧民運動家の李喆鎔(イチョロン)を知った黄晳暎は、この底辺を這いずった元犯罪者の言葉に民衆の真実を見つけた。

 李喆鎔は別の名を李東哲(イドンチョル)という。李東哲は結構な犯罪者だったが、許秉燮(ホビョンソプ)牧師に出会って人生を再考し貧民運動に飛び込んだ。黄晳暎は文益煥牧師に勧められて民衆にとって大きな力になるだろうと、彼の人生経験の変化過程をまとめた。李喆鎔が自分の半生を口述したものを黄晳暎がまとめたのが『暗闇の子どもたち』(『囚人』の翻訳ではこうなっているが、『暗がりのやつら』くらいが適当だと思う。)だ。李東哲はその後自分で執筆するようになり『コバン洞の人びと』や『五寡婦』『聞け、墨汁ども』などを出版した。いくつかの作品は李長鎬(イチャンホ)監督で映画化された。李東哲を紹介したものは少ないが、滝沢秀樹が『いまアジアを考える』Ⅳ(1986年9月 三省堂)に寄稿した文が比較的詳しい。
 黄晳暎は充分ではなかったとしても、民衆の中から真実を見つける努力をしてきた。その時々の判断に誤りがあったとしても、その文学作品の価値は不変だ。
 黄晳暎は、仲間を作って軍事独裁体制と対峙し、現実を文学作品に取り込む努力をした。そして「表現の自由を勝ち取るための闘い」を闘ってきたのだ。黄晳暎にとっては〈物書きと抵抗運動の部分が一体化〉していたのだ。
 誰からも学ぶ黄晳暎にとっても鄭敬謨の存在は輝いていたようだ。前述の『粒』掲載の挨拶で、黄晳暎はこう言っている。
〈 私は他者として日本に住みながらむしろ日本の在り方に対して批判の声をあげることを以て、自らの使命と心得ている鄭敬謨先生の存在こそ、日本自身のために貴重な「抗体(ワクチン)」だと考えています。〉

(起承転結なし)

2021年3月13日 (土)

パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』斎藤真理子訳 白水社

ぽんと浮かんだ者たちの記録

パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』斎藤真理子訳 白水社

Photo_20210313131502   おそらくパク・ソルメという作家はコギトを強く意識しているのだと思う。
 人間にとって実存とは考えること、考え続けることだと。日本の東日本大震災に触発されたとおぼしき「私たちは毎日午後に」「暗い夜に向かってゆらゆらよ」「冬のまなざし」などは、古里原発の事故という実際には起きていない次の原発事故を背景にしている。しかし抽象的で、よく読むと死者と生者の区別、人間と動物の区別も困難だ。
 「私たちは毎日午後に」では、男は子犬の半分くらいに小さくなる。私たちは毎日面白い話、くだらない話をして笑う。
 昨日はフィリピンで洪水が起きてたくさんの人が死んだ。ずっと前にはアメリカでビルが崩壊する事件があった。去年は日本で大きな地震があった。東北で大地震と津波があった。福島第一原子力発電所の爆発事故が発生した。
 何が起きたのかと毎日のように考えているソウルに住む私たちは、元気に過ごしている。一方で古里原発の事故があったけど、関係者は一ヶ月も隠していた。人ごととして考えていさえすれば笑って暮らせるけれど、隠された事実を知ることによって安穏は失われるかも知れない。
 「暗い夜に向かってゆらゆらよ」では、古里原発の事故以後に私とめすライオンが釜山タワーを目指して歩くが、釜山タワーはあるべきところにない。
 「冬のまなざし」では、釜山の海雲台(ヘウンデ)はもう行けない場所だ。
 古里核団地は海雲台と22キロの距離にある。かつてホテルやマンションが建ち並びデパート、レストランが繁栄を極めた華やかだった海雲台は無くなった。
 だけど私たちは古里じゃなくK市にいるから大丈夫、という気持ちで生きていく。
 私はK市で生まれ育った。海満(ヘマン)からはK市が一番近い都市だ。海満という島はあらゆる意味で困難な現実からの逃げ場だ。
 別の短編「海満」で、海満そのものが描かれた。
海満は南部地方の港から船で5時間かかる。「冬のまなざし」と併せて考えれば南部地方の港というのはK市の港ということになる。
 海満には特別なものはなにもない。ただ、だらだら過ごすにはよさそうな島だ。首都での生活と対置される。ここで過ごすと、正しいことがすべてを動かすのではなかったと悟る。
 正しさとは何か。
 冒頭の作品「そのとき俺が何て言ったか」において、カラオケ店に勤務する男は、「大事なことをしっかり心に刻みつけて」いた。「人は生きている限り心をこめて歌わなければならない」。男は正義を体現している。
 たまたまこのカラオケ店に友人のサンナンととも軽い気持ちで入ったチュミは男の正義の前に恐怖を味わうことになる。
 二人はやることがないから楽しかった。しかし、男にとって客が誠心誠意歌うのが正義だ。男はチュミに正義を暴力でたたき込む。誰もが陥りやすい正義という陥穽のおぞましさを見せられる。
 翻訳者斎藤真理子の「解説」によるとこの短編集は、作者の4冊の短編集から集めた日本版オリジナル編集だ。その冒頭にこの「そのとき俺が何て言ったか」を置いたのは見事。
 「じゃあ、何を歌うんだ」では状況との距離による感性のズレを読ませた。
 韓国系アメリカ人のヘナは5・18について関心を持っていて、韓国語を学ぶ人々の集まりで光州事件について発表した。韓国語で聞くのと英語で聞くのの間にはいくつかのカーテンがあった。
 作中に金南柱の詩「虐殺2」と金正煥の「五月哭」が扱われる。光州生まれだが光州事件を体験しない私は、六〇年代後半のメキシコ、チリの大学に軍人が踏み込んだり、一九四七年の台北、ゲルニカに関する文章のように感じる。光州を歌った詩の普遍性とともに、肉体が離れてしまった歴史のどうしようもない現実感の表出でもある。私は光州の人と呼ばれるとくらくらするような距離を感じるのだ。
 では表題作「もう死んでいる十二人の女たちと」はどうか。5人の女たちを強姦殺人したキム・サニを、彼の死後、彼に殺された5人と、犯行手口の似た殺人者に殺された7人を加えた12人の女たちが繰り返し殺し続ける。キム・サニは毎回苦痛を味わう。私は小さい頃からの友達だったチョハンによってそのことを知る。
「精神をどこかへぽんと浮かせることのできる者たち」には、それを見ることができるようだ。精神がぽんと浮かんだ者たちは道ばたの何かになっているに違いない。
 チョハンは殺された女たちの繰り返される復讐をノートに記録している。これは「ぽんと浮かんだ者」の記録であり、文学の原型として提出された実存だ。
 キム・サニみたいな者たちは、ソウルで相変わらず元気に生きているということを、もう死んでいる12人の女たちは分かっている。情報から導き出された実存する「知」だ。
 さて、もう一つ「愛する犬」について、解説には〈難解だと言われることの多いパク・ソルメの別の面、すなわち優しくてかわいい小説〉らしいのだが、私には一番難解で、読者の感想を拒否しているとしか思えず、目下批評の対象になり得ない。

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