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2020年12月 5日 (土)

キム・ヨンス『ぼくは幽霊作家です』、パク・ソリョン『滞空女』、ホ・ヨンソン『海女たち』

キム・ヨンス『ぼくは幽霊作家です』に触発されて、パク・ソリョン『滞空女』とホ・ヨンソン『海女たち』に言及する

 日本でもベストセラーになったチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(斎藤真理子訳 筑摩書房)は、フェミニズムにリンクした韓国文学ブームを招き寄せた。多くの女性に共感され隠された憤りを表面に引き出し、いくらかは男性をもフェミニズムの勉強に導いた。作者の目的は達せられたと言って良い。
 かつて山代巴を読む会に加わっていた筆者としては、山代巴が女性のなかに人権意識を植え付けようと『囚われの女たち』(径書房)を書いたことを想起せざるを得ない。それらは目的があって伝えるための文学だった。
 一方、伝えることの困難を意識し、文学は正解を提示できないという真理を大前提にした作家に、キム・ヨンスがいる。Photo_20201205111301
  キム・ヨンスの『ぼくは幽霊作家です』(新泉社)は、翻訳者である橋本智保によると、自身が選ぶマイベストなのだそうだ。この短篇集は、歴史が見せる事実に対する懐疑に満ちている。

 歴史という名の危険な爆薬を一気に爆破させるのは、必然ではなく庭の樹が枝を伸ばす方向のように偶然がもたらせるのではないか。この世の出来事はすべて因果関係があるが、その途中の行路には偶然と些細なものがあふれている。確かなもなんて何ひとつない。
 そして人は真には理解し合えない。
「あれは鳥だったのかな、ネズミ」の僕にとって歴史学は真実に近づくための道具だったが、身近にいるセヒにさえ理解されない。他人のすべてを理解するなんてあり得る筈もなく、果てしない暗闇の中に僕は去っていく。
 「不能説(プーヌンシュオ)」に登場する、中国人民志願軍兵士として朝鮮戦争に参戦した老兵士は、戦闘で死んだ人民志願軍兵士の、あの惨憺たる光景を言葉で表すことはできない、「不能説」と語る。歴史というものは、書物や記念碑に記録されるものではない。人間の体に記録されるのだ。それこそが真実だ。震える体が、あふれ出る涙が物語るものこそが歴史なのだ。
 作家は心臓で語る詩を、とても耳では理解できない、心臓で聞く詩を表現したいのだろう。たとえ相手に届かなくとも、言葉ではとても語り尽くせないことを、そう言わずにいられないことを語るのだ。
「さらにもうひと月、雪山を越えたら」で、オリンピックが開催された1988年、韓国はおおむね勝者がすべてを手にする社会だった年、ヒマラヤ、ナンガ・アルバット遠征隊に参加して遭難しても凍える指で最期までノートに向かった青年は、届かない言葉を何のために書き続けたのだろうか。白い峰、冷たい大気、反射する光の時間は、川が流れるように限りなく続くのに、人間の時間はクレパスのような暗い深淵に陥ってしまいがちだ。クレパスに落ちるのは作家の言葉だ。
「恋愛であることに気づくなり」の俺は、1930年代後半の朝鮮で、雑誌に国際情勢について書いたり「Y凸」というペンネームで朝鮮社会の封建的な旧習を撤廃し、近代的な心性を導入するためのもの書きをしていた。しかしそこに疑いのない真実はあるのか。作家キム・ヨンスとは書く姿勢が反転している。キム・ヨンスの文学はクレパスの向こう側に届かない言葉の積み重ねなのだ。
「こうして真昼の中に立っている」で作家は、〈私たちはみな、本当に善良な人には気づかないのに、善良を装っているペテン師には騙されがちです。こんな獣のような時代には、いくら真昼でも真実を見つけ出すことはできない〉と言い放っている。届いた言葉に騙されてはならない。
 自明のことだが、文学が表現するのは史的唯物論ではない。史的事項を描いても虚構に過ぎないが、虚構だからこそ描かれる真実もある。Photo_20201205111302
 パク・ソリョン『滞空女 屋根の上のモダンガール』(萩原恵美訳 三一書房)は、実在した女性労働運動家姜周龍(カン・ジュリョン)の生涯を紹介した小説だ。姜周龍という女性が日本の植民地支配時代に、旧習に従って幼い夫と結婚し、夫を追って独立運動に加担した。夫を失った後殺人容疑で収監されたり、父親に売られるように結婚をさせられそうになって、実家を捨てて家出し平壌のゴム工場に勤める。波瀾万丈の生涯にはどの段階でも封建的因習が立ち塞がり、女性としての艱難辛苦が待ち受けている。ゴム工場では、労働者として搾取され、朝鮮人として民族差別を受け、その上に女であるための暴力を受けなければならない。姜周龍は貧困の中死を賭して闘い続けた。『滞空女』はプロレタリア文学であり、フェミニズム小説である。しかし実在した歴史的人物である姜周龍の本当の心情など誰にも分からない。それは作者と読者の想像の範疇から抜け出せない。しかしそこに真実の欠片がないとは言えない。

 K-BOOK振興会のネット連載「戸田郁子の日々是拘泥」で、戸田は黄晢暎(ファン・ソギョン)「『鉄道員三代』を紹介する書き出しで、取材に来た女性新聞記者と、若い女性作家の人気について話したとき、「あなたは、金薫(キム・フン)や黄晢暎(ファン・ソギョン)のようなベテラン作家は読まないの」と尋ねると、彼女はかぶりを振って「オールドハニカ」(オールド+動詞のハダ。古臭い、時代遅れ、野暮ったい)と答えたと書いている。
 戸田は自分を「オールドハンアジュンマ(古臭いおばちゃん)」と自嘲しながらも、〈若い世代は、暗くて重たいものは読みたくないのね。しかし時世の流行を云々するのではなく、10年後、20年後、50年後に、なにが残っているかを見よ!と叫びたくなる私である。〉と前書きを結んでいる。
 今年(2020年)95歳の金石範などはオールドハン作家の極みかも知れない。フェミニズムの視点から金石範文学を読み解く批判者が出てくると面白い、という思いはさておくとする。
 金石範は大作『火山島』の続続篇である『海の底から』で、水葬(スジャン)について書いている。それは水上(中)虐殺のことだが、主人公の南承之が密航して対馬島に隠れている女性からその話を聞く。1948年に起きた済州島民衆蜂起が鎮圧された後、朝鮮戦争が勃発すると、2000名を超える人々が予備拘束され素っ裸の500名がロープに繋がれたまま海に沈められたと言うのだ。
 むろん四・三事件で海に沈められた民衆はそれだけではない。銃殺されたり、崖から突き落とされたり、屍体を投げ捨てられたこともあったろう。済州島の海は多くの無辜の命を呑み、血まみれに荒れたのだ。
 その海で命を育んだ海女たちを歌った詩集が、ホ・ヨンソンの『海女たち──愛を抱かずしてどうして海に入られようか』(姜信子・趙倫子訳 新泉社)だ。
_0001  歌われたのは海女たち個人の歴史だ。

  幼くして海に潜ることを覚えた。

  あのとき父は海にむかって
  わたしの衣の下の素肌の恥じらいを砕くように
  陶の器を砕いて ばらまいて
  さあ潜って とってこい
  大きく足を踏み出して 振り返って 言った

日本帝国主義の時代を抗って生きた。

  誰のものでもない海に潜った罪

  命を海にかけて生きる罪ならば
  ありましょうが
  さらに 罪と言うならば
  ……
  ぎりぎりと腕を縛られ
  夢もろとも 捕まえられました

解放後起こった凄惨な四・三事件を経験し、密航して日本へ逃れた。一人の物語ではない。


  三十日後 ふたたび密航の夜

  ずたずたに引き裂かれんばかりに黒い対馬
  あちらに揺れこちらに揺れ 錨綱ひとつを頼りに
  浮いては沈み 沈んでは浮く命

済州島の海女たちの歴史は一人ひとり異なるが詩人の感性なら一つにまとめることが可能だ。
 翻訳者のひとり趙倫子(チョ・リュンジャ)は、〈彼女たちが歴史の中で限界を超えて生きたことを知るとき、私たちは「勇気」を受け取るのだと思います。〉と訳者あとがきに書いてる。
 無名の海女たちを読んだ詩を「心臓で語る詩」と呼んでも不都合はあるまい。
 さて、金石範はこう言う。
〈『火山島』などの作品が私であり、私と重なった見えない私である。現実の作者の私は影である。〉(「生・作・死」『すばる』2020年12月)
 こういう覚悟は「伝える文学」の作者にはできない。
 戸田郁子に似て、少し異なる懸念を筆者は持っている。島尾敏雄の「ちっぽけなアバンチュール」が『新日本文学』(1950年5月)に掲載されたあとの論争を題材に、菊池章一が書いた「ペンフレンド島尾十四郎」(『戦後文学の五十年』武蔵野書房 1998年 所収)を読み直して、人生上のアドヴァイスと文学作品の批評は違う、と自省しきりになるコロナ禍の年末だ。

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