フォト
無料ブログはココログ

« 2019年12月 | トップページ | 2020年2月 »

2020年1月25日 (土)

栗林佐知『仙童たち』未知谷

私たちは隠れ蓑で姿を消せるか
栗林佐知『仙童たち 天狗さらいとその予後について』未知谷
Photo_20200125152801  相模原の障害者施設で入所者19人を刺殺し、入所者と職員計26人に重軽傷を負わせた元施設職員の裁判が続いている。この事件を特異な人間による特殊な犯罪として裁いて終わらせてはならない。被告の強い差別意識がどこから生み出されてきたのかを解明しなければ、同様の思考は沈殿し蹲りときどき爆発するだろう。親による子ども虐待事件の多発も「なんで親なのにあんなヒドイことができるの」と言って優しい自分とは無関係の話として聞き流していては、虐待は減らない。犯罪者を葬り去れば済む問題ではないのだ。
 実利的には役に立たない存在が、あるいはそれほど役に立っていないと自覚した存在が、存在価値を評価されず抹殺されたら、差別の無い社会が生まれるだろうか。否、そこには新たな差別が生まれるだけだ。生産性では計れない存在の価値を私たちは考え続けなければならない。これは文学の問題だ。
 栗林佐知は前作『はるかにてらせ』でも生きがたさに寄り添っていた。新作『仙童たち』の登場人物たちも生きがたい人びとで、生きがたい世界の構造に「役立たなさ」から切り込んだ小説だ。
 四人の小学生が遠足の途中で遭難してひと晩を山で過ごした。四人はどうしたのか。『仙童たち』はその四人の小学生のその後を語るものだが、天狗にまつわる物語と小説のなかの現実がリンクしている。冒頭は非常勤学芸員の研究発表から始まり、研究タイトルは「多摩西南地域の天狗道祖神──庶民信仰をめぐる一考察」だ。
 ユーモアとシリアスが交差した文体で、民俗学や歴史学の知識を下敷きにしながら、イジメや差別、発達障害、更にはフェミニズムと男尊女卑社会の問題などが巧みに織り込まれている。
 天狗信仰などの民間伝承が消された背景にあるものは、科学的教養の普及だけではない。天皇中心の国家神道を目指す明治政府による神仏分離令、修験廃止令、神社合祀等の政策と廃仏毀釈の大衆運動があった。
日本の古き神々が近代国家権力によって排撃された歴史だ。
 それにしても、四人のひとり鯨川かんなの母親が、娘かんなを罵り正義の鉈を振り下ろす場面では、読者である自分の姿を見せつけられるようで反省しきりとなった。
〈かんなの世界は、母上の言葉でできていた。〉母とかんなの関係には「非対称性の暴力」が成立している。母親で教育者としての仕事を持つ母上をかんなは尊敬していて、かんなのせいで母上は笑顔になれないと思うと、〈おまえはダメだ。見てるとむしゃくしゃすると、母上は心の底から言う。だからかんなは、鯨川かんなが大っ嫌いだ。〉
 苦労して育ち勉強して正しき道を歩んだ廉直で篤実な母親の正義に、子どもは疲弊し心傷ついていく。親子に限らず人間のどんな関係にあっても存在の暴力は、よほど自覚的でなければ発動されてしまう。
 そんなことに気づいている作者だから、リアリズム小説ではあり得ないかも知れない話を面白おかしく書いていても、なおこの小説は社会派と呼べる。 
 栗林のアイロニーの効いた筆端が(パソコン入力だろうけど)、自分第一の新自由主義を一刀両断にしていることにも気づけなければならない。
 天狗にさらわれたり、人が宙に浮いたり、鼻白むべき研究発表は、ただのいかれた笑い話では終わらない。プラグマチックな世間では危険思想だ。公安が共謀罪掲げて乱入してこようとは、もはやディストピア小説の趣もある訳だ。しかしそこは純文学的リアリズム小説の枠などとっくに越えている作者だ。どっこい「隠れ蓑」で文字通り身を隠してしまうとは読者も仰天する。

« 2019年12月 | トップページ | 2020年2月 »