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2019年12月27日 (金)

キム・ヘジン『中央駅』

心はどこにあるのか
キム・ヘジン『中央駅』生田美保訳 彩流社

Photo_20191227095801 この小説の主人公はクズだ。キャリケースを引いて駅舎を回り広場を横切り、工事中の中央駅に寝床を探しに現れた若者だ。
〈誰かが夜の端をつかんで無限に引っ張っている。〉男は浅い眠りに落ちては覚めてを繰り返す。流されるままに流され船が転覆すると溺れてもがく。救いの手は何度も差し伸べられるが、自尊心と自暴自棄が綯い交ぜな心は、手を振り切って更にもがく。
 唯一の所有物であったキャリケースを盗まれると、盗んだ女を捜し続け打擲し犯し今度は女に執着する。男は、手の施しようがないほど肝臓を病んだアル中の女を愛するが、所詮無くしたキャリケースの代わりでしかないことに気づいていない。
 男は暴力で虚勢をはって自分以外のホームレスとは違う自己を保とうとする。自分より弱い者を殴る。嘘をつき、盗み、奪うことに慣れてしまっている。信頼されて病院へ連れて行くように頼まれた少女をモーテルに連れこんで犯して追い出し、手術費用を奪う。病気の女を手元に置いておきたいために入院させないあらゆる卑怯な努力をする。
 金のために貧しい人たちが住む家々を破壊し、殴り蹴り上げ自殺へと追い込む。目前の享楽や目的のためにファナティックに行動するが、それで得たものさえひと晩で失う。
 駅を中心に都市がどんどん新しく改造されていく。病に侵された都市の肺腑にメスをいれ引っかきまわして新しいものを作っていく。古くて汚いものは暴力によって排除されていく。
「世の中に関係のないことなんてない。どんなことであれ、俺たちは少しずつ責任があるんだ。そう考えないとなにもできない」と語るチーム長の言葉に真実があるとしたら、男が女にしがみついているのも意味の無いことだは言い切れない。それを愛と呼べるかどうかはともかくとして心なくして足掻くことはない。
 ホームレスを追い出し駅の広場は瀟洒に産まれ変わった。男は上手くいかない状況を女のせいにして衰弱した女を責めようとして、また自己嫌悪に陥る。住民登録証さえ酒と暴力と引き換えに失ってしまう男の存在の意味は無政府状態であるはずなのに、男はとことん束縛されている。
 生きることより死なずにしぶとく息をつないでいる自分自身を目の当たりにすることが苦痛だ、と自身を慰めるが、男には社会に抗う思想はもちろん、自ら死を選ぶ発想すらなく、再開発に伴う貧困地帯破壊の隊列に並んで前進する。思い出も記憶も信じない男の末路だ。過去も未来も捨てた男は命令されるままに人びとの生活の破壊者として振る舞うことになる。
〈しかし今、俺は駅舎の光ではなく、それをがっちりと抱え込む巨大な闇のほうを見る。もうその深さと広さを疑いはしない。〉
 もし読者が、ヘルメットのシールドを下げ、白み始めた空を見上げる男の姿に微かにでも光を見出そうと努力するならば、裏切られるに違いない。この小説が描いたのはあくまでも深い闇なのだ。無為な人間にとって、生きることは捨てても捨てても捨てきれない時間、ずっと夜なのにまだ夜である時間だ。そこに心はあっても愛はない。人生を廃棄した人間が愛を持つことができるだろうか。絶望のなかに愛は存在できるか。孔枝泳『私たちの幸せな時間』のユンスも底辺でもがく若者だったが、ユンスには燃えるような憤怒があった。怒りは裏返せば愛になる。たとえ死刑囚でも救われるのだ。『中央駅』の「俺」は救いようがない。
 キム・ヘジンは夏目漱石や中野重治がインテリの心を描いたのと違い、格差社会のホームレス最底辺の貧困青年の救いようのない心を描いて読者の前に突きつけた。
 作者キム・ヘジンは〈すべての物語が内と外の境界で生まれ、それがある個人的な闘争の過程であるならば、〉と仮定した。男はその境界を危なっかしく歩いている、と。
 作者については「訳者あとがき」に詳しい。『中央駅』より後に上梓された『娘について』のほうが先行翻訳出版されている。

2019年12月 8日 (日)

ウン・ヒギョン『鳥のおくりもの』

生には他意がある
ウン・ヒギョン『鳥のおくりもの』橋下智保訳 段々社

Photo_20191208194501  12歳のジニが生きる世界は1969年韓国の地方都市だ。母を失い、父は行方が分からない。祖母に引き取られ、祖母の息子で大学生のヨンフン兄さん、娘のヨンオク姉さんと暮らしている。祖母は畑仕事をし部屋を貸して家賃を稼いでいる。庭の井戸を中心とした田舎の家の構造は韓国ドラマを見ていればお馴染みだ。
 ジニは克己訓練で自己を統制し、自分を「見せる私」と「見る私」に分け、「見せる私」を生へと導き「見る私」がそれを見ている。「見せる私」は他人が望む私として行動し、本当の私がそれを見ている。他人に強要されたり侮辱されたりする私は「見せる私」なので本当の私はあまり傷つかない。
 ジニは12歳で人生を悟り、生きることに真の意味などない、しょせん人間なんて自分しか愛さない生きものだと確信している。だからそれ以上成長する意味を失ってしまった。
 しかし同居するヨンオク姉さんは、恋したり、恋に破れたり、二重まぶたの手術をしたり、親友に裏切られたり、新しく恋をしたり、友を永遠に失ったりと様々な経験をし痛い目に合って成長する。そういうヨンオク姉さんを12歳のジニが見ていると、30過ぎのジニが回想している。
 ジニはヨンフン兄さんの屋根裏の本を読みあさり性的知識を豊富にした。ヨンオク姉さんが行く美容院に置かれた雑誌の「大人だけが見る頁」も夢中で読んだ。こうしてジニは性を侮るようになった。
 ジニはヨンフン兄さんの親友ホソクに恋をするがその気持ちを外に出すことはない。恥ずかしいからではなくジニは人生に対して常に冷笑的でありありたいと考えているからだ。
 『鳥のおくりもの』にはジニの家族をはじめ多くに市井の人びとが登場する。将軍という渾名のジニの同級生。そのお母さんは朴正熙の信奉者で、人間は世の中の流れに沿って生きていかなければならないというふうに生きている。光進(クァンジン)テラーのおじさんは政治家気取りだ。バイクを乗り回し一日中遊んでいる女好きで、家に帰ると妻に暴力を振るう。おばさんは辛抱強く夫の横暴に耐えている。美しく生まれた為に不幸を背負ったヘジャ姉さんと、美少年の弟ヒョンソク兄さん。ヒョンソク兄さんは不登校だ。潰れた精米屋の娘でテドン病院に住みこんで働いていたが、院長にセクハラされて理不尽にも追い出されたヨンスク姉さん。店の金を盗んで出奔したニュースタイル洋装店のミス・リー。行商人だがエホバの証人の信者のエバおばさん。ヨンオク姉さんから「キタナイ先生」と陰口されるチェ先生。そしてヨンオク姉さんを追い回す町のチンピラ、ホン・ギウンなどなど、個性的だがどこにでもいそうな人びとがジニの目から映し出される。
 これらの人びとが総じて俗物であるのに比してジニは知的で沈着だ。例えば人の評価について、〈ふと、パンパンだと大人たちに噂されているヨンスク姉さんのことが頭に浮かんだ。でも私は、ヘジャ姉さんやヨンスク姉さんが穢れた存在だとは思わない。二人が傷を負った清らかな霊魂だと思うのに変わりない。〉と考える。しかし読者はジニの知性に歪みを感じるに違いない。他の登場人物たちが俗物ながらも愛すべき人間として描かれているからだ。最後近く、ヨンオク姉さんやジニたちをトラックに乗せるホン・ギウンを見れば、作者の愛情は明らかだ。
 作者は、庶民の群像を皮肉に描きながら、その実大らかな愛で作品全体を覆っている。「訳者あとがき」によると「世態小説」と評され、朴泰遠『川辺の風景』、梁貴子『ウォンミドンの人びと』と並び称される。多分チョン・セラン『フィフティ・ピープル』なども該当するのだろう。
 ジニは1969年も90年代も何も変わらないと言っている。「生には他意がある」と言うジニの真実は時代を越えるのだろうか。作者ウン・ヒギョンは1959年生まれ。まさにジニと同世代だ。
 チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』のキム・ジヨンは1982年生まれで、作者のチョ・ナムジュは1978年生まれだ。歴史は人間の意志によって変化している。 

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