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2019年10月 2日 (水)

牧原憲夫『客分と国民のあいだ 近代民衆の政治意識』

名著再読 明治初期を見て現代を考える
牧原憲夫『客分と国民のあいだ 近代民衆の政治意識』(吉川弘文館 1998年)

Photo_20191002200701 歴史研究者牧原憲夫の代表的著作『客分と国民のあいだ』を再読して、明治政権のもたらした事態と現代の状況の類似を感じた。
 牧原は冒頭で1884年について書いている。
〈一八八四年(明治一七)といえば松方正義蔵相による強力なデフレ・増税政策によって不景気が深刻化した時期だった。〉
 米価高騰を受け豪農は大儲けしたが、庶民にまでバブル経済の恩恵は届かなかった。
 何だか今と似ている。今はデフレから脱却できないまま増税政策を強行している訳だが、アベノミクスで「好景気」と言うのは役人と大企業、一部の経営者、ハングレ集団だけで庶民の貧困化は増幅している。そして「嫌韓」的アピールの連呼だ。この点も明治と似通っている。
 1884年の12月、朝鮮で甲申事変が起きた。金玉均らのクーデタが失敗し、彼らを助けた日本公使は日本へ逃げ帰った。その際に日本人小商人にたいする反発が噴出、中国兵の加担もあり。軍人11人居留民29人が殺害された。この事件が誇張されて日本で報道され報復の声が高まった。こうした興奮のなかで「わが日本」という意識、中国・朝鮮に対する敵視・蔑視が醸成された面も否定できないだろう。〈殺されたのはわれわれ日本人だという被害者意識に触発された一体感〉が醸し出されたのだ。今日、虚構の「在日」特権論が跋扈し、韓国人が「嘘」の慰安婦問題などをでっちあげて日本人を罵倒しているという妄想ストーリーが跳梁しているのと同じだ。
 牧原は、「仁政」が武士階級の内部で、治者としての自覚を喚起する論理であり、仁政は武士のみが統治者となりえた身分制国家にあって、客分たる民衆に対して領主・家臣が当然に負うべき政治的責務であった、と言う。政治的強者とともに経済的強者もまた「私欲」を自制すべきなのだったが、明治維新がもたらした「自由放任」は、治者が富者とともに“仁政からの責務”から解放され「傲然自恣」になれること、つまり“仁政からの解放”によって自由に儲けることを意味した。現在の新自由主義と比肩できよう。あるいは鄧小平の白猫黒猫理論にも近いか。
 明治政府は仁政拒否を公言した権力だった。安倍政権は民主平等安全維持のための規制拒否を公言した権力だ。岩盤規制を破壊してやりたい放題の自由を与えられた加計学園の経営者等のアベ友企業こそ、近世社会の「徳義」を拘束と感じ、それから脱却して大儲けを望んでいた富裕な商人・農民、成り上がりたちの末裔だ。
 牧原は、民衆が客分から脱却して自発的に国民になっていく回路として祝祭化=お祭り騒ぎがあると言い、東京奠都三〇年記念祝賀式典や日清日露戦争時の祝勝会や提灯行列等などを例として上げている。祝祭的雰囲気のなかでの「日本の連戦連勝」は近代社会の弱者・敗者でしかない民衆にも“強者の一員としての我ら”という自尊心を持たせた。
〈学歴社会や都市化の進行によって社会的価値序列の下位ないし周縁におかれた(と意識した)者のなかからは、自らの劣位に国家的価値を付与し、自らを国家と直結させる回路が拓かれた。〉
 これまるっきり現代の(安倍政権下の)日本と同じではないか。現代の祝祭は天皇の代替わりでありオリンピックも祝祭化されようとしている。安倍政権は憲法改正を掲げているが、明治政府による民衆の国民化過程に重要だったのが、1889年(明治22)の大日本帝国憲法発布という祝祭だった。
 現在はどうだろう? 国会議員選挙でも50%を割る低い投票率は、政治をやるのは誰でも構わないという客分意識の現れではないか。
 こういう時期は危険だ。オリンピックで日本のチームや選手が勝てば、私たちは知らず知らずのうちに日の丸を見上げ、君が代を外れた音程で口ずさみ、御真影ならぬテレビ画面で天皇一族を拝み、「万歳」三唱するのではないか。
 オリンピックを含む祝祭イベントは、日の丸掲揚を見上げながら「君が代」を歌い「万歳」をとなえるなかで、人びとは「日本国民のひとり」であることを実感させられることになる。
 一体感をもたらす熱狂的祝祭空間を私たちは待ち望んでいないだろうか。
 すでに優遇される上層国民と、搾取される下層国民とに分割されつつある日本人は、統治者に期待することを止め、期待される国民として自己を意識し始めている。その見返りはポイントではなく、日本国民としての名誉だ。そのためには明治政府以来のアジア諸国の人民に対する蛮行の事実はあってはならない。歴史修正主義の価値はここにある。
 大日本帝国憲法の発布は、立憲君主制と国民統合の新たな回路を創出した。1984年から5年後だ。安倍政権が目指す日本国憲法の改正は、戦後民主主義という「仁政・徳義」の動きを排し、冷徹な「法による支配」という名目で、事実上「法」を支配し人民を利益を生み出すためだけに統治しようという企てだ。だが、50%の客分の半分でも管理支配される自己の立ち位置を理解するならば、状況は大きく変化するだろう。希望は無い訳ではない。
Photo_20191002200801 牧原憲夫さんが本書を出版されたのは1998年だ。牧原さんは歴史学者なので素材は過去の事実だが、慧眼は余りにも先を見通していた。牧原さんが亡くなって三年、単著未収録の歴史論文を精選して集録した『牧原憲夫著作選集』上下巻(有志舎)が今年9月末発行された。
 尚、当ブログでは、牧原憲夫『山代巴 模索の軌跡』而立書房 に関しても書いている。

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コメント

牧原憲夫著『客分と国民の間』(吉川弘文館)は、1998年第一刷発行ですが、今年2019年5月に第五刷が発行されました。これは、11出版社共同復刊<書物復権>事業によるもので、読者の要望に応じて選ばれた復刊とのことです。現在、入手可能になりましたので、お知らせします。

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