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2019年6月11日 (火)

黄晳暎『モレ村の子どもたち』

暗闇の中の温もり
黄晳暎『モレ村の子どもたち』キム・セヒョン画 波多野淑子訳 新幹社

Photo_5  黄晳暎が日本に紹介され始めた頃は関心があった。初期の短編集『客地』やベトナム戦争の裏側を描いた長編『武器の影』の日本語訳が出版された。独裁政権下の韓国で労働現場に入って書いた抵抗的労働作家、社会派の戦う作家として、私には写った。朝鮮王朝期の義賊を追った長編大河小説『張吉山(チャンギルサン)』も在日する統一運動家鄭敬謨による意訳が途中まで出版された。その作品は多彩で底辺を生きた男の聞き書き『暗がりの奴ら』も世間を騒がせ、その主人公李東哲本人を作家として世に出した。黄晳暎は作家としてのみならず民主化運動、民衆芸術運動、統一運動家としての顔を持ち、在日朝鮮人作家たちとも盛んに交流した。朝鮮民主主義人民共和国を非公式に訪問し「国家保安法」に問われて逮捕された経験もある。行動する作家としてのイメージが強い。だがそれだけに韓国の民主化とともに黄晳暎の名は私の中から薄らいでいき、2000年の『懐かしの庭』あたりから私の興味はすっかり消えていった。
 しかし久々に読んだ黄晳暎作品、『モレ村の子どもたち』には、さすがと言わざるを得ない。「作家のことば」によると2000年に書かれたと思われるので、皮肉なものだ。
 6~7才の男の子スナミの視点から描かれた連作短編集で、キム・セヒョンによる挿画が作品世界と調和していて情緒的なイメージを更に喚起させる。
 1949年から50年のソウルが舞台だ。朝鮮は日本帝国主義の頸木からは解放されたが、ソ連とアメリカの干渉によって南北が分断支配されることになる。分断は南北それぞれの内側にも存在した。「雑草」でテグミの恋人「カタチンバの兄ちゃん」は工場の仲間達とともに警察と対峙して戦う。人が人を人と思わないのが戦争だ。しかも朝鮮戦争は同族同士で憎悪を極める争いだった。政治思想がなかったとしても恋人と行動を共にした女がどんな目に合ったかは想像に難くない。その上愛する人を失いぼろぼろになって佇む姿に、読者は何を見るだろうか。
 困難な時代を作家はそれでも郷愁を持って描いている。「鎌腕橋」の乞食のチュングニが娶った北からの避難民の妻は、結局は可哀相な最期を遂げる。村の人びとは居なくなったチュングニに申し訳ない気になっただろうと、幼いスナミだった作家は思う。
 「金ボタン」では母親に置き去りにされた青い目の少女が描かれた。深緑野分の『ベルリンは晴れているか』でも主人公の少女アウグステがソ連兵に犯される。戦後の混乱期に性の蹂躙はありふれた日常だったに違いない。
 子どもたちが日頃バカにしていた男が命がけで人を助ける「屋根の上の戦闘」。「幽霊狩り」は朝鮮戦争で犠牲になって打ち捨てられた多くの死の実存を、生と性に結びつけているが、少年の目で描き出しているので嫌味がない。
 老猫を遊ばせる中国人の「チンばあさん」や喪輿の彫刻師「サンボンイおじさん」、「ぼくの恋人」のダンスホールの娘で同級生の美少女ヨンファなど、どの登場人物も魅力的だ。
 「姉と弟」を読んだら、時代は違うが金承鈺の『幻想手帳』を連想した。サーカスは派手だがもの悲しい。この小説集、どの短編もユーモアがあり、ほのぼのとした愛情と温もりを感じさせてくれるが、どこかもの悲しいのだ。
 人は良く「古き良き時代」と言うが、この時代は決して良い時代ではない。それでも懐かしく感じさせる文体に強く惹かれる。
 この小説の主題は作者自身が巻頭に書いている。

  生きることはむなしいようだが、
  瞬間ごとに消えることのない美しさと暖かさが
  暗闇の中で光っている。
  いまもそうではないだろうか。

 政治に翻弄されようとも作家黄晳暎はさすがに文学者だった。

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