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2019年6月 6日 (木)

深緑野分『ベルリンは晴れているか』

ベルリンは晴れているか、日本は曇っているか?
深緑野分『ベルリンは晴れているか』筑摩書房

Photo_4   反ファッショ統一戦線が本当に「人民戦線」の名にふさわしい人民の連帯を示すものであったなら、エルベの誓いはソ連とアメリカの握手ではなく、連合国兵士とドイツ人民との握手でなければならなかった。しかし実際には独ソ不可侵条約の締結によりドイツの人民はスターリンソ連に裏切られた。独ソ戦の開始以後も、ソ連はナチスドイツの支配者のみならずドイツ国民全てを敵と見做して戦った。戦争とはそういうものだし、英米にしても同じ事だ。ドイツ人は総じて連合国の敵と見做されたのだ。
 深緑野分『ベルリンは晴れているか』の主人公で17歳の少女アウグステは共産党員だった父を処刑され、母も失って戦中をひとり生き逃げのびたが、連合国に支配された戦後にも自由は訪れなかった。ドイツ人は新しい支配者に憎悪されている。
 この小説は戦中戦後のベルリンを舞台にしたミステリーだ。音楽家でアウグステを匿ってくれたクリストフの死を巡ってアウグステがベルリンを移動しながら真実を探す物語。クリストフの殺人と思われる死の裏にはもう一つの殺人事件、少年連続殺人事件が存在する。アウグステは戦中はナチスの被害者であり、戦後はソ連兵の性被害者として過酷な生を生きる。そればかりかアウグステは強く加害の意識を持っている。
 ユダヤ人や共産党員ばかりか障害者や性的マイノリティが民族主義国家でどんな目に合ったのか。ナチス政権下ドイツを描いた小説といえば、アンソニー・ドーアの『すべての見えない光』を想起するが、共通するのはドイツ人であっても、またナチスの支持者や党員であっても差別されるということだ。「犯罪者のいない民族共同体」などという幻想社会の実態は階層社会であり、相対的に弱い者が徹底的に苛められる。弱い者が更に弱い者を探して迫害する。ユダヤ人迫害は、その象徴であり差別の頂点にあっただけだ。
 アウグステが助けようとした幼い少女は、労働力としてだけ連れて来られた外国人労働者の娘で目が不自由だった「犯罪者のいない民族共同体」でこのような存在がどうゆう目に合うかは明らかだ。これ現代日本の抱える闇と似ている。労働力不足の日本に安い労働力として輸入された外国人労働者が、契約外の作業を低賃金で強要されている例は後を絶たない。外国人労働者やマイノリティが生きやすい社会は、国家主義社会ではあり得ないが、実のところマジョリティでさえ生きづらいのが全体主義社会なのだ。
 全体主義者は分かり安い言葉で煽動する。分かりやすく国民の胸を打ち興奮させる言葉がいかに犯罪的か。分かりやすい言葉は人間を愚弄する。日本には、軽薄な言葉を吐き出す「大臣」や、忖度ジャーナリスト、御用小説家が蔓延している。
 『ベルリンは晴れているか』の現在は戦後のベルリンだ。アウグステが行動をともにするファイビッシィ・カフカは戦中は俳優で戦後は泥棒だ。彼は戦中の罪を引きずって生きざるを得ない。読者は彼を醜いと思わなければならない。鏡を見るように。われわれは誰しも加害者である、と小説は教える。
 アウグステは幼い時に買って貰った1冊の本、英語版『エーミールと探偵たち』を命懸けで大切にしている。ドイツ語の原書ではなく英語版を学んだことが戦後の彼女を助けたし、ドイツを讃える読み物ではなく文学に親しんだことが最後までアウグステを人間たらしめたのに違いない。
 アウグステを見ていると、イ ヒョン『1945,鉄原』(梁玉順訳 影書房)『あの夏のソウル』(下橋美和訳 影書房)の主人公姜敬愛(カンギョンエ)と重なってくる。ともに戦後南北分裂したドイツと朝鮮に生きた少女たち。その運命は国の辿った運命と同様に異なった。

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