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2019年6月 1日 (土)

黄英治『こわい、こわい』

「帰化」に抗う文学的表現

黄英治『こわい、こわい』(三一書房 1800円+税)
『図書新聞』6月1日号に黄英治『こわい、こわい』の書評を掲載したが、もう少し書きたかったことがあるので、極力重ならないように書いておきたい。

Photo_3  天皇の伊勢神宮参拝に際して、NHKは4月18日に「皇室の祖先の『天照大神』がまつられる伊勢神宮の内宮」と表現して報道した。これは天皇の神格化に繋がるとネット上では一部に異論が湧いた。天皇の代替わりと元号の改変に伴うマスコミの狂騒は神国日本を想起させ、天皇制国家日本の復活を促した。勿論、どの民族の神話も大切に思う気持ちを否定するものではないが、神話を歴史的事実とすり替えて理解するようになってしまうと歴史学は捨てられ、支配者に都合良く改変された物語が「歴史」と名付けられる事態に陥るだろう。神話の虚構に依る権威はやはり虚構であるという真理をないがしろにすれば、過去の悲惨を二乗して繰り返すことになる。
 中野重治の朝鮮人同志との連帯を歌った有名な詩「雨の降る品川駅」の原詩には「御大典記念に 李北満 金浩永におくる」という副題がついていた。「御大典」とは、1928年11月10日に挙行された裕仁天皇即位式のことだ。この式典に備えて大規模な政治弾圧が行われ、共産主義者や在日朝鮮人運動家の多くが検挙されたことは周知の事実で、小林多喜二の小説『一九二八年三月十五日』にも描かれた。天皇の名の下に号令し服従させたのだ。従って帰依しない者は排除しようとすることになる。実質的支配者が率先して恭順の意を表して、意に沿わぬ者を排除したのが実際だ。
 これは現代も変わらず、戦後それでも民主的に装ってきた「象徴天皇制」は政権の極右化とともに危険水域に達しつつある。天皇の人間的資質がどうあるかとは無関係に天皇制は排外主義を生み出すのだ。
 近本洋一は「逆立ちした塔──伊勢神宮と保田與重郎・三島由紀夫・中野重治」(『すばる』2019年5月)で伊勢神宮の式年遷宮を巡って日本的「存在」様式への問いを発している。そこで「日本」社会の成り立ちが、その核心に《公然の秘密》を置いた部族社会だという点に論及した。
 純血で普遍な天皇の系統に依拠する日本人性は、その架空の物語をコピーし続ける作業にある。日本人はつねに、その時の支配者によって日本に帰化し続ける作業を求められる。〈天皇の征服による被征服民の立場〉に依りかかってこそ他者を貶める権限が与えられる。
 移民国家化が進む日本で天皇制に帰依しない在日外国人、とりわけ戦前日本の植民地として支配され日本国民としての義務を強いられた朝鮮人の子孫の置かれた立場は危うい。
 在日朝鮮人とは誰か。1910年から1947年まで朝鮮人は否応なく「日本国民」だった。より日本人であるために日本語を強要され日本人名を名乗らせられ皇国臣民の誓詞を暗誦させられた。しかし戦後1947年5月新憲法施行直前に「外国人登録令」(外登法)が最後の勅令として制定され、「日本国民」たる在日朝鮮人を退去強制を含む外国人管理の下に置いた(水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』岩波新書)。戦後の民主主義勃興期に天皇制に拝跪しない朝鮮人は排除されようとした。
 黄英治『こわい、こわい』は、「日本」の排他性と虚構の純血主義への違和を表象した短篇集だ。二部構成になっているⅠ部は、私小説ではないが私小説的手法を駆使して、在日朝鮮人の存在の所以を問うている。
 日本国籍を取得した二人の従兄弟がそれぞれの主人公である「墓守り」と「墓殺し」は自らの朝鮮人としての根っこを大事にする者と、それを否定して「帰化」する者を対比した作品になっていて、「帰化」が日本国籍を取得するという単純な作業では無いことを暗喩している。
 「ひまわり」「煙のにおい」なども在日朝鮮人のルーツに迫り揺さぶられる存在を描いた系列の作品で、取材で得た素材と作者自身の生い立ちとをモチーフにして、在日朝鮮人の存在を表出した典型的な在日朝鮮人文学だ。
 作家黄英治は在日韓国民主統一連合(韓統漣)の活動家でもある。「あばた」の主人公は作者自身と同じように民族組織の専従をしていたが、作家を目指すわたしは、わずかなアルバイトはするが、経済的には殆ど妻の稼ぎに頼っている。出版社の在日二世の聞き書きをまとめる企画を手伝うことになり取材するうちに、自分の日本人名に今まで考えたこともない侮蔑を感じる。強制連行で渡日したアボヂ(父)黄小岩の通名は石田亀吉だった。「岩」を否定され「石」にされのろまな亀吉と嘲弄されたのだ。この〈日本人製の名前〉の意味を知らず、わたしは朝鮮を嫌い〈石田英治〉として十八歳まで生きてきた。
 震災後の東北へわたしは炊き出しのボランティアに赴き、人災を伴った天災に抗した。被災者は日本国民だけではない。翌日プロ野球の開幕戦を観に行った私たちは君が代斉唱の為に総立ちする人波の中に怒鳴られ暴行されながらも座り続けた。それはあたかも同質に鞣された皮に出来た小さなあばただった。「あばた」である意志は非同化の意志だ。
 この帰化を拒む意志は「君が代アリラン」でも表明される。高校を中退した美星はバイトして音楽を勉強し、ライブハウスなどで歌い、音楽事務所と契約してメジャーデビューまで漕ぎ着いた。ところがイベントで君が代を歌わなければならなくなる。これは踏み絵だ。日本で日本社会の一員として生きることと「帰化」は同一ではないのに、精神的帰化が強要されるのだ。
 Ⅱ部では、一旦在日の根っこ確認から先に進んで現在の日本社会の有り様を批判している。表題作「こわい、こわい」では被差別的立場にある自分が差別する側になってしまっている現実を発見する。
 「歌う仕事」で、都立特別支援学級に転任してきた朴陽一郎は、沖縄出身で新規採用の女性教員平良に君が代を歌わないのは「職務命令違反」だと脅される。被差別の記憶を持つ者が、天皇制に積極的に服従することで支配する側に立とうと、在日朝鮮人である朴を否定し、アジア出身のマイノリティーである生徒たちを貶める。
 「鏡の国」や「あるところ……」は架空の世界をモチーフにしている。「鏡の国」の世界では分断したの日本で朝鮮は統一している。現実とは逆に排外主義のヘイトスピーチで有名な在特会は朝鮮人で、在朝日本人を迫害している。この小説の意味は皮肉ではない。立場はいくらでも変わるのだという自省にある。日本人読者に問うと同時に、作家は加害者である自己を見つめているのだ。
 「あるところ……」は、現実の日本とリンクしている。自衛隊を仮想した防衛隊のJはあるところからの指示を受け特別な訓練に従事する。それは敵を憎悪し、死を恐れず、国家と社会の敵を躊躇なく殺すための訓練だ。
 「新・狂人日記」は、無論人食い社会を暴いた魯迅の「狂人日記」を念頭に置いて書かれた。現代社会はおたまじゃくしが共食いするように人間に共食いを競わせている。ぼくは「あるところ……」のJと同様の人物だ。〈恥知らずにも加害者から被害者になりすまし〉立場を変えながら共食いを繰り返している。人が人を食う社会とはまさにヘイトクライムの起きる社会だ。
 「小さな蓮池」では「人を殺してしまった償いはとうてい不可能だ」という重い事実を小説として異化した。死刑制度を含めても殺人に対価は無い。殺人は支配する側の論理としてしか正当化されない。煽動された大衆はヘイトクライムを起こす。これは単に在日朝鮮人の置かれた特殊な立場とは言えない。積極的被征服民は自己の存在と馴染まない者を差別し迫害する。
 在日韓国青年同盟(韓青)の活動が窺える「フィウォナ──希願よ!」では新しい命の誕生に、朝鮮人としての根っこから逃げず、人権と民族教育を踏みにじる社会の暴力と恥に加担しない、という意志を見せた。
 神話は忘却から始まる。黄英治は、奴隷であることを忘れた奴隷の目を持たない。繰り返し服従し続け、帰化し続ける「日本人」に抗う表現を選んだ。

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