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2019年6月21日 (金)

原佑介『禁じられた郷愁 小林勝の戦後文学と朝鮮』

原佑介『禁じられた郷愁 小林勝の戦後文学と朝鮮』新幹社
小林勝のポストコロニアル文学を読む意義

 Photo_20190621230001 昨今の「韓国ブーム」は女子中高生をして「韓国人になりたい」とまで発言させている。10代向けの雑誌には「韓国人に近づける」メイクやファッションの記事が毎号のように掲載されているのだそうだ。韓国好き女子のあいだでは「オルチャンファッション」「オルチャンメイク」などの韓国語が若者ことばとして飛び交う。韓国ドラマに始まった韓国ブームは、アイドルグループなどのK-POPから、韓国料理、韓国旅行、韓国映画、今や韓国文学まで人気だ。これに異議申し立てする気は無い。ここには主従関係が無い。平等だ。カッコイイ韓国の文化に日本人が憧れて何が悪い。
 しかしながら、ここに示される日本人の憧れの対象は「韓国」であって、朝鮮民主主義人民共和国はもちろん在日朝鮮人も除外される。若者の「韓国に対する憧憬」には、かつて日本が植民地支配した朝鮮に対する自責の念を見つけることは難しいだろう。それでも韓国蔑視で優越感を得る唾棄すべき差別的な日本人意識から遠い「韓国ブーム」を批判する気はそもそも無い。
 ただかつて「韓国」は日本が植民地支配した朝鮮半島の南半分を支配する行政区域であるということを知って欲しい、とは思う。
 そして、朝鮮から引き揚げて朝鮮に対する苦悩を小説として書き続けた小林勝という作家がいたことが知られるようになったらどんなに喜ばしいだろうか。そんなことを、原佑介の『禁じられた郷愁』は考えさせる。
 第二次世界大戦で日本が負けた相手はアメリカだと、日本の国民的記憶は形成されてきた。しかし歴史はそう単純ではない。1931年からの日中十五年戦争や、南方での日本軍の疲弊を無視することはできない。そして〈旧植民地が脱植民地化の過程でこうむった苦難〉に目をつぶってしまえば、傲慢に改竄された自国美化の歴史意識のもとに、再び特権階級による人民支配がはじまるだろう。
 かつては支配的だった「植民地支配肯定論」は現在も跋扈していて、所謂「従軍慰安婦」(その実は戦時従軍性奴隷)や朝鮮人徴用工の問題をまるで無かったことかのように振る舞う安倍晋三政権とTVコメンテーターの発言に反映されていないだろうか。
 原佑介はこれを〈朝鮮を近代化し、朝鮮人を皇国臣民化することは「朝鮮の興隆にすぐ役に立つ」(たった)のだ、という功利主義に対する不動の信仰のようなものにもとづいている。〉と言う。 「近代化」や「文明化」と聞こえの良いことを言うが、金を恵んでやったのだから、朝鮮の民族性、言語や風習、「魂」は捨てろという民族帝国主義の傲慢だ。ところが経済援助されたのは朝鮮の人民ではなく親日派富裕層であり、韓国の特権的財閥に過ぎなかった。日本が援助した開発独裁が韓国経済を「発展」させたとしても、韓国民衆が有り難がる所以にはならない。まして朝鮮民主主義人民共和国の公民には形式的な補償さえなされていない。
 小林勝の文学、原佑介の言を借りれば〈小林勝のポストコロニアル文学は、まさに日本人と朝鮮人のあいだに深々と横たわる「断絶」を凝視する営みだった〉のである。従って小林勝文学はちょうど在日朝鮮人文学のカウンターパートにあたると言える。なかでも金石範や呉林俊とは共鳴しあったようだ。呉林俊は画家で詩人で峻厳な批評家だった。
 原佑介は、小林勝が肺結核を患った共通性からと思われるが堀辰雄と比較しているが、ほぼ同世代でやはり肺結核で、右肺葉切除、肋骨八本を失った在日朝鮮人作家金泰生に言及されなかったのは寂しい気がする。
 それにしても、今顧みられることの殆ど無い小林勝について、今までに無い長編評論が上梓された意義は大きい。因みに筆者も2002年発行の『韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人』(明石書店)で小林勝を担当して寄稿しているが、あたりまえの短文である。
 もともと小林勝の読者は少ない。1975年から76年にかけて全5巻の『小林勝作品集』が白川書院から発行された。編集委員に野間宏、長谷川四郎、菅原克己、中野重治とそうそうたる名を連ねた。この文学史に地位を占める有名作家たちが解説も書いたが、新日本文学会系の作家たちの営業力不足か。商業ベースで話題にならなかったのだろう。殆ど売れなかったらしい。時代に嫌われたのかも知れない。
 原佑介が今さら忘れられた作家を掘り起こし、ここまで詳細に、多角的に掘り下げた意味は何か。小林勝文学を考えることは、日本人が朝鮮(南北の政治的支配の枠を越えて民族としての)とどう向き合ってきたか、向き合っているか、向き合って行くべきかの示唆を受けることだ。
 日本人の朝鮮への愛憎と共に、小林勝は現在も生きている。小林勝を生かすことに日本人の未来はかかっている、と原佑介は思っているに違いない。

2019年6月11日 (火)

黄晳暎『モレ村の子どもたち』

暗闇の中の温もり
黄晳暎『モレ村の子どもたち』キム・セヒョン画 波多野淑子訳 新幹社

Photo_5  黄晳暎が日本に紹介され始めた頃は関心があった。初期の短編集『客地』やベトナム戦争の裏側を描いた長編『武器の影』の日本語訳が出版された。独裁政権下の韓国で労働現場に入って書いた抵抗的労働作家、社会派の戦う作家として、私には写った。朝鮮王朝期の義賊を追った長編大河小説『張吉山(チャンギルサン)』も在日する統一運動家鄭敬謨による意訳が途中まで出版された。その作品は多彩で底辺を生きた男の聞き書き『暗がりの奴ら』も世間を騒がせ、その主人公李東哲本人を作家として世に出した。黄晳暎は作家としてのみならず民主化運動、民衆芸術運動、統一運動家としての顔を持ち、在日朝鮮人作家たちとも盛んに交流した。朝鮮民主主義人民共和国を非公式に訪問し「国家保安法」に問われて逮捕された経験もある。行動する作家としてのイメージが強い。だがそれだけに韓国の民主化とともに黄晳暎の名は私の中から薄らいでいき、2000年の『懐かしの庭』あたりから私の興味はすっかり消えていった。
 しかし久々に読んだ黄晳暎作品、『モレ村の子どもたち』には、さすがと言わざるを得ない。「作家のことば」によると2000年に書かれたと思われるので、皮肉なものだ。
 6~7才の男の子スナミの視点から描かれた連作短編集で、キム・セヒョンによる挿画が作品世界と調和していて情緒的なイメージを更に喚起させる。
 1949年から50年のソウルが舞台だ。朝鮮は日本帝国主義の頸木からは解放されたが、ソ連とアメリカの干渉によって南北が分断支配されることになる。分断は南北それぞれの内側にも存在した。「雑草」でテグミの恋人「カタチンバの兄ちゃん」は工場の仲間達とともに警察と対峙して戦う。人が人を人と思わないのが戦争だ。しかも朝鮮戦争は同族同士で憎悪を極める争いだった。政治思想がなかったとしても恋人と行動を共にした女がどんな目に合ったかは想像に難くない。その上愛する人を失いぼろぼろになって佇む姿に、読者は何を見るだろうか。
 困難な時代を作家はそれでも郷愁を持って描いている。「鎌腕橋」の乞食のチュングニが娶った北からの避難民の妻は、結局は可哀相な最期を遂げる。村の人びとは居なくなったチュングニに申し訳ない気になっただろうと、幼いスナミだった作家は思う。
 「金ボタン」では母親に置き去りにされた青い目の少女が描かれた。深緑野分の『ベルリンは晴れているか』でも主人公の少女アウグステがソ連兵に犯される。戦後の混乱期に性の蹂躙はありふれた日常だったに違いない。
 子どもたちが日頃バカにしていた男が命がけで人を助ける「屋根の上の戦闘」。「幽霊狩り」は朝鮮戦争で犠牲になって打ち捨てられた多くの死の実存を、生と性に結びつけているが、少年の目で描き出しているので嫌味がない。
 老猫を遊ばせる中国人の「チンばあさん」や喪輿の彫刻師「サンボンイおじさん」、「ぼくの恋人」のダンスホールの娘で同級生の美少女ヨンファなど、どの登場人物も魅力的だ。
 「姉と弟」を読んだら、時代は違うが金承鈺の『幻想手帳』を連想した。サーカスは派手だがもの悲しい。この小説集、どの短編もユーモアがあり、ほのぼのとした愛情と温もりを感じさせてくれるが、どこかもの悲しいのだ。
 人は良く「古き良き時代」と言うが、この時代は決して良い時代ではない。それでも懐かしく感じさせる文体に強く惹かれる。
 この小説の主題は作者自身が巻頭に書いている。

  生きることはむなしいようだが、
  瞬間ごとに消えることのない美しさと暖かさが
  暗闇の中で光っている。
  いまもそうではないだろうか。

 政治に翻弄されようとも作家黄晳暎はさすがに文学者だった。

※amazonでも注文できます。

2019年6月 6日 (木)

深緑野分『ベルリンは晴れているか』

ベルリンは晴れているか、日本は曇っているか?
深緑野分『ベルリンは晴れているか』筑摩書房

Photo_4   反ファッショ統一戦線が本当に「人民戦線」の名にふさわしい人民の連帯を示すものであったなら、エルベの誓いはソ連とアメリカの握手ではなく、連合国兵士とドイツ人民との握手でなければならなかった。しかし実際には独ソ不可侵条約の締結によりドイツの人民はスターリンソ連に裏切られた。独ソ戦の開始以後も、ソ連はナチスドイツの支配者のみならずドイツ国民全てを敵と見做して戦った。戦争とはそういうものだし、英米にしても同じ事だ。ドイツ人は総じて連合国の敵と見做されたのだ。
 深緑野分『ベルリンは晴れているか』の主人公で17歳の少女アウグステは共産党員だった父を処刑され、母も失って戦中をひとり生き逃げのびたが、連合国に支配された戦後にも自由は訪れなかった。ドイツ人は新しい支配者に憎悪されている。
 この小説は戦中戦後のベルリンを舞台にしたミステリーだ。音楽家でアウグステを匿ってくれたクリストフの死を巡ってアウグステがベルリンを移動しながら真実を探す物語。クリストフの殺人と思われる死の裏にはもう一つの殺人事件、少年連続殺人事件が存在する。アウグステは戦中はナチスの被害者であり、戦後はソ連兵の性被害者として過酷な生を生きる。そればかりかアウグステは強く加害の意識を持っている。
 ユダヤ人や共産党員ばかりか障害者や性的マイノリティが民族主義国家でどんな目に合ったのか。ナチス政権下ドイツを描いた小説といえば、アンソニー・ドーアの『すべての見えない光』を想起するが、共通するのはドイツ人であっても、またナチスの支持者や党員であっても差別されるということだ。「犯罪者のいない民族共同体」などという幻想社会の実態は階層社会であり、相対的に弱い者が徹底的に苛められる。弱い者が更に弱い者を探して迫害する。ユダヤ人迫害は、その象徴であり差別の頂点にあっただけだ。
 アウグステが助けようとした幼い少女は、労働力としてだけ連れて来られた外国人労働者の娘で目が不自由だった「犯罪者のいない民族共同体」でこのような存在がどうゆう目に合うかは明らかだ。これ現代日本の抱える闇と似ている。労働力不足の日本に安い労働力として輸入された外国人労働者が、契約外の作業を低賃金で強要されている例は後を絶たない。外国人労働者やマイノリティが生きやすい社会は、国家主義社会ではあり得ないが、実のところマジョリティでさえ生きづらいのが全体主義社会なのだ。
 全体主義者は分かり安い言葉で煽動する。分かりやすく国民の胸を打ち興奮させる言葉がいかに犯罪的か。分かりやすい言葉は人間を愚弄する。日本には、軽薄な言葉を吐き出す「大臣」や、忖度ジャーナリスト、御用小説家が蔓延している。
 『ベルリンは晴れているか』の現在は戦後のベルリンだ。アウグステが行動をともにするファイビッシィ・カフカは戦中は俳優で戦後は泥棒だ。彼は戦中の罪を引きずって生きざるを得ない。読者は彼を醜いと思わなければならない。鏡を見るように。われわれは誰しも加害者である、と小説は教える。
 アウグステは幼い時に買って貰った1冊の本、英語版『エーミールと探偵たち』を命懸けで大切にしている。ドイツ語の原書ではなく英語版を学んだことが戦後の彼女を助けたし、ドイツを讃える読み物ではなく文学に親しんだことが最後までアウグステを人間たらしめたのに違いない。
 アウグステを見ていると、イ ヒョン『1945,鉄原』(梁玉順訳 影書房)『あの夏のソウル』(下橋美和訳 影書房)の主人公姜敬愛(カンギョンエ)と重なってくる。ともに戦後南北分裂したドイツと朝鮮に生きた少女たち。その運命は国の辿った運命と同様に異なった。

2019年6月 1日 (土)

黄英治『こわい、こわい』

「帰化」に抗う文学的表現

黄英治『こわい、こわい』(三一書房 1800円+税)
『図書新聞』6月1日号に黄英治『こわい、こわい』の書評を掲載したが、もう少し書きたかったことがあるので、極力重ならないように書いておきたい。

Photo_3  天皇の伊勢神宮参拝に際して、NHKは4月18日に「皇室の祖先の『天照大神』がまつられる伊勢神宮の内宮」と表現して報道した。これは天皇の神格化に繋がるとネット上では一部に異論が湧いた。天皇の代替わりと元号の改変に伴うマスコミの狂騒は神国日本を想起させ、天皇制国家日本の復活を促した。勿論、どの民族の神話も大切に思う気持ちを否定するものではないが、神話を歴史的事実とすり替えて理解するようになってしまうと歴史学は捨てられ、支配者に都合良く改変された物語が「歴史」と名付けられる事態に陥るだろう。神話の虚構に依る権威はやはり虚構であるという真理をないがしろにすれば、過去の悲惨を二乗して繰り返すことになる。
 中野重治の朝鮮人同志との連帯を歌った有名な詩「雨の降る品川駅」の原詩には「御大典記念に 李北満 金浩永におくる」という副題がついていた。「御大典」とは、1928年11月10日に挙行された裕仁天皇即位式のことだ。この式典に備えて大規模な政治弾圧が行われ、共産主義者や在日朝鮮人運動家の多くが検挙されたことは周知の事実で、小林多喜二の小説『一九二八年三月十五日』にも描かれた。天皇の名の下に号令し服従させたのだ。従って帰依しない者は排除しようとすることになる。実質的支配者が率先して恭順の意を表して、意に沿わぬ者を排除したのが実際だ。
 これは現代も変わらず、戦後それでも民主的に装ってきた「象徴天皇制」は政権の極右化とともに危険水域に達しつつある。天皇の人間的資質がどうあるかとは無関係に天皇制は排外主義を生み出すのだ。
 近本洋一は「逆立ちした塔──伊勢神宮と保田與重郎・三島由紀夫・中野重治」(『すばる』2019年5月)で伊勢神宮の式年遷宮を巡って日本的「存在」様式への問いを発している。そこで「日本」社会の成り立ちが、その核心に《公然の秘密》を置いた部族社会だという点に論及した。
 純血で普遍な天皇の系統に依拠する日本人性は、その架空の物語をコピーし続ける作業にある。日本人はつねに、その時の支配者によって日本に帰化し続ける作業を求められる。〈天皇の征服による被征服民の立場〉に依りかかってこそ他者を貶める権限が与えられる。
 移民国家化が進む日本で天皇制に帰依しない在日外国人、とりわけ戦前日本の植民地として支配され日本国民としての義務を強いられた朝鮮人の子孫の置かれた立場は危うい。
 在日朝鮮人とは誰か。1910年から1947年まで朝鮮人は否応なく「日本国民」だった。より日本人であるために日本語を強要され日本人名を名乗らせられ皇国臣民の誓詞を暗誦させられた。しかし戦後1947年5月新憲法施行直前に「外国人登録令」(外登法)が最後の勅令として制定され、「日本国民」たる在日朝鮮人を退去強制を含む外国人管理の下に置いた(水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』岩波新書)。戦後の民主主義勃興期に天皇制に拝跪しない朝鮮人は排除されようとした。
 黄英治『こわい、こわい』は、「日本」の排他性と虚構の純血主義への違和を表象した短篇集だ。二部構成になっているⅠ部は、私小説ではないが私小説的手法を駆使して、在日朝鮮人の存在の所以を問うている。
 日本国籍を取得した二人の従兄弟がそれぞれの主人公である「墓守り」と「墓殺し」は自らの朝鮮人としての根っこを大事にする者と、それを否定して「帰化」する者を対比した作品になっていて、「帰化」が日本国籍を取得するという単純な作業では無いことを暗喩している。
 「ひまわり」「煙のにおい」なども在日朝鮮人のルーツに迫り揺さぶられる存在を描いた系列の作品で、取材で得た素材と作者自身の生い立ちとをモチーフにして、在日朝鮮人の存在を表出した典型的な在日朝鮮人文学だ。
 作家黄英治は在日韓国民主統一連合(韓統漣)の活動家でもある。「あばた」の主人公は作者自身と同じように民族組織の専従をしていたが、作家を目指すわたしは、わずかなアルバイトはするが、経済的には殆ど妻の稼ぎに頼っている。出版社の在日二世の聞き書きをまとめる企画を手伝うことになり取材するうちに、自分の日本人名に今まで考えたこともない侮蔑を感じる。強制連行で渡日したアボヂ(父)黄小岩の通名は石田亀吉だった。「岩」を否定され「石」にされのろまな亀吉と嘲弄されたのだ。この〈日本人製の名前〉の意味を知らず、わたしは朝鮮を嫌い〈石田英治〉として十八歳まで生きてきた。
 震災後の東北へわたしは炊き出しのボランティアに赴き、人災を伴った天災に抗した。被災者は日本国民だけではない。翌日プロ野球の開幕戦を観に行った私たちは君が代斉唱の為に総立ちする人波の中に怒鳴られ暴行されながらも座り続けた。それはあたかも同質に鞣された皮に出来た小さなあばただった。「あばた」である意志は非同化の意志だ。
 この帰化を拒む意志は「君が代アリラン」でも表明される。高校を中退した美星はバイトして音楽を勉強し、ライブハウスなどで歌い、音楽事務所と契約してメジャーデビューまで漕ぎ着いた。ところがイベントで君が代を歌わなければならなくなる。これは踏み絵だ。日本で日本社会の一員として生きることと「帰化」は同一ではないのに、精神的帰化が強要されるのだ。
 Ⅱ部では、一旦在日の根っこ確認から先に進んで現在の日本社会の有り様を批判している。表題作「こわい、こわい」では被差別的立場にある自分が差別する側になってしまっている現実を発見する。
 「歌う仕事」で、都立特別支援学級に転任してきた朴陽一郎は、沖縄出身で新規採用の女性教員平良に君が代を歌わないのは「職務命令違反」だと脅される。被差別の記憶を持つ者が、天皇制に積極的に服従することで支配する側に立とうと、在日朝鮮人である朴を否定し、アジア出身のマイノリティーである生徒たちを貶める。
 「鏡の国」や「あるところ……」は架空の世界をモチーフにしている。「鏡の国」の世界では分断したの日本で朝鮮は統一している。現実とは逆に排外主義のヘイトスピーチで有名な在特会は朝鮮人で、在朝日本人を迫害している。この小説の意味は皮肉ではない。立場はいくらでも変わるのだという自省にある。日本人読者に問うと同時に、作家は加害者である自己を見つめているのだ。
 「あるところ……」は、現実の日本とリンクしている。自衛隊を仮想した防衛隊のJはあるところからの指示を受け特別な訓練に従事する。それは敵を憎悪し、死を恐れず、国家と社会の敵を躊躇なく殺すための訓練だ。
 「新・狂人日記」は、無論人食い社会を暴いた魯迅の「狂人日記」を念頭に置いて書かれた。現代社会はおたまじゃくしが共食いするように人間に共食いを競わせている。ぼくは「あるところ……」のJと同様の人物だ。〈恥知らずにも加害者から被害者になりすまし〉立場を変えながら共食いを繰り返している。人が人を食う社会とはまさにヘイトクライムの起きる社会だ。
 「小さな蓮池」では「人を殺してしまった償いはとうてい不可能だ」という重い事実を小説として異化した。死刑制度を含めても殺人に対価は無い。殺人は支配する側の論理としてしか正当化されない。煽動された大衆はヘイトクライムを起こす。これは単に在日朝鮮人の置かれた特殊な立場とは言えない。積極的被征服民は自己の存在と馴染まない者を差別し迫害する。
 在日韓国青年同盟(韓青)の活動が窺える「フィウォナ──希願よ!」では新しい命の誕生に、朝鮮人としての根っこから逃げず、人権と民族教育を踏みにじる社会の暴力と恥に加担しない、という意志を見せた。
 神話は忘却から始まる。黄英治は、奴隷であることを忘れた奴隷の目を持たない。繰り返し服従し続け、帰化し続ける「日本人」に抗う表現を選んだ。

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