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2019年2月24日 (日)

イム・チョル『別れの谷』

歴史の霊魂は記憶に宿る

イム・チョル『別れの谷』朴垠貞 小長井涼訳 三一書房
 

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 ソウルの東、江原道の山あいを走る旌善線の小駅別於谷(ピョロゴク)にまつわる人びとの記憶が掘り出されると、そこには韓国の歴史が人びとの霊魂として浮かび上がってくる。
 林哲佑(イム・チョル)『分かれの谷』は、詩を書く青年駅員チョン・ドンス、8歳の冬に朝鮮戦争で逃げる途上家族と生き別れになった老駅員シン・テムク、元日本軍従軍慰安婦のおばあさんスンネ、駅向かいの「音楽のあるベーカリー」という看板の女主人ヤン・スンジ、4人の相互に関連したエピソードからなる物語だ。
 別於谷駅の若い駅員チョン・ドンスは詩を書いている。鉄道庁の社内報に詩が掲載されたことがあり、「詩人」という愛称で呼ばれる。ドンスは町の講演会に招かれた元大学教授である詩人の言に従って美しいもの探してノートに書いていた。しかし、喫茶店に勤める少女の自殺を知って「美しさって」何なのかという疑問を抱く。美しささえあれば詩ができるという気持ちが揺らいだ。彼は、少女の寂しさに疲れ果てた孤独で乾いた声に耳を塞いでしまった自分に嫌悪を感じた。
 ここでイ・チャンドン監督映画「詩」を思い出した。主人公の老女もまた詩を書くために美しいものを探して歩くが、彼女を包囲する現実は冷酷だった。彼女は醜悪な現実に対峙して一篇の詩を書き残す。駅員ドンスもまた厳粛な歴史の子である。ドンスは父の死の真実を知らなかった。決して美しくない歴史に悪酔いしながらも生きるしかないのだ。美しい詩との別離、歌の別れは小説全体の背景に作家の思想として配置された。
 スンジは忌まわし都会での過去を振り切るように美しい山里に居を移してパン屋を始めたのだが、ドンスを見て少女期の記憶を思い起こす。自分が裏切った脱走兵とそっくりだったのだ。
Photo_2  老駅員シム・テムクは若いときにちょっとしたミスで新婚の鉱夫の命を奪う事故を起こしてしまった。罪障感に打ちのめされ出世からも遠ざかったシムは、放蕩と自暴自棄のうちに足掻いていたが、運命は過去の方から近づいて来た。子連れの若い女と結婚したシムは熱情的な我欲の虜になる。しかし真実は脆弱な嫉妬と暴力の支配をあっと言う間に打ち砕いた。妻を失い娘に逃げられたシムの孤独な駅勤務も終わろうとしている。
 この小説のなかで最も凄惨な人生を送った「鞄ばあさん」ことスンネは、父親も徴用されて貧しい農村暮らしのなかまだ16の歳で満州に連れて行かれ日本軍に従って移動し凄惨な若い命をやっとの思いで繋ぎ続け、生死のあいだを彷徨うように逃げて生きた。今は姪と二人で暮らしている。毎日不自由な体で重い鞄を引っ張って駅までゆっくりと歩いて来る。
 性奴隷としての日常がどんなに悲惨なものか、作者は多くの証言録や研究論文を読破して小説の土台となる歴史的事実を踏み固めてリアリティーを追求した。この章が最も長く綿密に描かれている。日本軍兵士についても、恒常的な飢えに苦しみ、不安と恐怖に身心を蝕まれている。みんな哀れな人間なのだ書き、慰安婦との恋愛関係も描いている。しかし、だからと言って、日本軍兵士の為に地獄の日々を送らされた女性たちと日本の兵士が「同士的関係」であったなどとは作者は言わないだろう。両者のあいだには厳然と非対称性の暴力が横たわっていたのだ。
 別於谷(ピョロゴク)「別れの谷」という名の駅に集う人びとの、呼び覚まされた記憶に刻まれた個人史こそ、社会の歴史とリンクしている。日本の植民地支配と「従軍慰安婦」と呼ばれる戦時期性奴隷制度、朝鮮戦争によって離散した家族の経験した痛み、北朝鮮と対峙していた韓国軍脱走兵の死、駅で起きた不慮の事故。元従軍慰安婦だった「鞄ばあさん」の目的地はどこなのか。重い鞄の中身は失われた故郷なのだ。
 廃駅間近なプラットホームで薬局のソンが言った。
「こっからえれぇたくさんのやつが出ていきおった。同時にここにゃあえれぇたくさんのやつが降り立った。もう誰もそのことを思い出してくれないかもしれねが」
 山あいのちいさな駅にまつわる記憶の集積は、現代史の霊魂を呼ぶ文学であった。

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