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2019年1月23日 (水)

キム・ヘジン『娘について』 

名前を持たない封建道徳が、新しい名前を踏みつける

                                                                          キム・ヘジン『娘について』 古川綾子訳(亜紀書房)

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 現代は封建的因習に支配された古い価値観と、多様な存在を平等に認めてあらゆる差別の撤廃を目指す新しい価値観との矛盾が激突する時代だ。
 チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』は、この社会でごく普通の女性がどう差別されてきたかを指し示し、大きな反響を呼んでいる。1978年生まれのチョ・ナムジュより更に若い1983年生まれのキム・ヘジンは、『娘について』の解説によると、ホームレスに転落した青年の悲哀や不安定な社会に生きる若者たちを描いて評価されてきた。新作『娘について』は韓国文学を牽引するクィア(性的マイノリティ)文学として文学史に位置づけられるらしい。
 この小説は、同性愛者の娘と世間体を気にする母との対立を軸に、老人介護と施設の抱える闇、外国人労働者と移民問題など現代社会を覆う社会的諸問題をモチーフに展開する。
 要介護老人に対する施設経営者側の非人間的扱いに断固抗議する母親も、娘が同性愛者であることにたいしては不寛容だ。母は娘に、平凡に結婚して家庭を築き子を産み育てる「普通」の母となることを望んでいる。性的マイノリティに対する社会的差別に対する抗議に母の理性は肯んじるが、なにも自分の娘が先頭に立つことはないと感情は穏やかではない。母の古い女性観は世間体を気にして、平凡に地道に生きる道こそ、胸を張れる生き方だと思い込んでいる。
 母は老人介護施設で働いていて、ジェンという老女を担当している。ジェンは外国で学び活躍して結婚もせず生涯を人びとのために尽くした。本を書き、アメリカや韓国で移民のための教育センターや人権相談センターを創設し、韓国政府を批判して入国禁止になったこともある。
 母である「私」は、ジェンの世話をしながら娘の将来を重ねて見ている。〈窮屈で息苦しい孤独の中で老いていく人。他人と社会、そんなご大層なものに日々を無駄に費やし、すべてを使い果たし、暮れゆく人生をひとりぼっちで見つけなければならない、痛々しくて哀れな人。〉
 私は、施設で厄介者扱いされ捨てられようとするジェンの問題は、目の前に迫る自分自身の問題なのだと気づきながら、一方で自身に関係のない社会問題に時間とお金を注ぎこんでしまったジェンを哀れむことによって精神的優位を保とうとしている。それなのに私は結局ジェンを守ろうと奔走してしまう。
〈とにかく知らないふりをして、沈黙を守るのが礼儀だと思われているこの国に私は生まれ、育ち、老いてしまった。それなのに今になって、どうしてこんなことを考えるのだろう。今までずっと黙って言われたとおりに生きてきたのに、今回の件がどうしてこんなに気になるのだろう。〉療養保護士としての自尊心がそうさせたのかも知れない。現代社会で働くことは、仕事の奴隷として常に疎外や無視を恐れなければならないという現実に抗ったのだ。
 娘は性的マイノリティであることを理由に大学から排除され、クィアグループの抗議は群衆の暴力によって踏みにじられる。私は〈この子たちは生の真ん中にいる。幻想でも夢でもない。堅固な大地をしっかり踏みしめて立っている。私がそうであるように。他の人がそうであるように。この子たちは冷酷とも言える人間の営みの中心で生きている。〉と意識し始める。
 この小説では、私は「母さん」「奥さん」であり名前で呼ばれない。介護施設の同僚も同様に「教授夫人」だったり「新入り」だったりで名前が無い。それに比して娘たちは「グリーン」「レイン」と自分たちで付けた名前で呼び合っている。名前で呼ばれない親世代に付けられた本名を拒否した新しい名前なのだ。ここには家族とは何だという疑義が見える。此処にも古い価値観と新しい価値観の激烈な衝突がある。要介護老人ジェンも本名ではない。ジェンもまた社会に対峙して戦った過去を持っている。日々の生活が一杯いっぱいで疲弊し、人のことを考えられなくなっている人びとに名前を選択することはできない。

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