フォト
無料ブログはココログ

« 倉数 茂 『始まりの母の国』 | トップページ

2018年10月14日 (日)

チョン・セラン『フィフティ・ピープル』

文学は浅薄な人間社会に希望の灯を点す

Photo

 連作短編の形を借りて書かれたこの小説の目次は、最後の章を除けばすべて人名になっている。市井の名もなき人々にも名前がある。作者の意図はそんな所だろうと高を括っていたが、予想を遙かに上回った。帯に「痛くて、おかしくて、悲しくて、愛しい」とある。こんなありきたりなコピーが表層的な宣伝文句としてではなく、切実に当て嵌まっている。
 タイトルに出てくる人名は50人ではなく51人だが、彼ら以外に重要な登場人物が数人いる。読者が誰に心を寄せるかは自由だ。丁寧に読み込めば殆どの登場人物にシンパシーを感じるに違いない。読み進めてタイトル以外の人名が出てくると前の頁に戻ってその名を探すことになるので、行ったり来たりの繰り返しになる。
 ここに描かれたのは、ソウル郊外と思われる都市の病院とその周辺に生き働く老若男女、ただし若い人多めな感じだろうか。病院が中心だから冒頭から血とアルコールの匂いがつきまとい、死が身近に感じられたりもする。
 チョ・ヤンソンの17歳の娘スンヒは家に入って来た男にナイフで首を搔き切られた。スンヒはウサギの絵のトレーナーを着てベーグル屋でアルバイトしていた。スンヒの友だちはクォン・ナウンをからかったが、親切なスンヒはナウンをかばい、店で余ったベーグルを分けてくれた。〈高校生活はしんどいから、ちょっとした思いやりの効果がよそよりずっと長持ちする。〉恋人に殺されたと噂されるけれど、ナウンには信じられなかった。スンヒは憧れだったからだ。ベーグル屋の客で詩を書くぺ・ユンナは、スンヒのことを「笑わない親切な人」と思っていた。シンクホールに落ちて骨折したユンナが退院後ベーグル屋を訪ねると、スンヒはもう居なくてアルバイトの子は涙ぐんだ。
 スンヒの名はタイトルには無い。タイトルに無い登場人物にさえ物語があり、読者は彼らの生を頭の中で再構成する。作者は本を読む私たちに想像力を求める。
 目の下にフォークで刺された穴が三つ残ったカン・ハニョン、性的マイノリティのチ・ヨンジ、ナイジェリアから来たスティーブ・コティアン、「加湿器殺菌剤事件」で姉を失ったハン・ギュイク、名高い感染症内科医なのに月に一度低所得層居住区にボランティアに行くイ・ホ先生。どの一人も自分のできる範囲で社会の歪みに抵抗して生きる。
 大学では企業が必要とする人材育成が優先で人文学系の学科が統廃合されようとしているため、学生たちが抗議活動している。刑務所で診察する公衆保険医イ・ドンヨルは、贈収賄で収監されながら「皇帝接見」で優遇されている建設会社の社長を怒鳴りつけた。社長は「エセ精神修養的な自己啓発書」を持って、売店で鶏もも肉にかぶりついているような男だ。
 社会には薄汚い空気が満ちているが、人びとは生きることで抗っている。〈ほとんどの人が資本主義の浅薄さと醜悪さを体現したような空間で暮らしているとしたら、〉誰もが少しずつ歪んだ社会と折り合いをつけながら生きて、くしゃくしゃのシーツの皺を伸ばす程度には抵抗し、雨の日が続けば干さない蒲団に寝て、時には逃げるのも悪くない、と思う。これは韓国だけの話ではない。差別と憎悪が垂れ流される、汚職まみれの金権体質は日本社会の方が深刻だ。
 そして最終章「そして、みんなが」を読んでいるときはほんとに恐ろしかった。われわれはセウォル号の事件を知っているし、チョン・イヒョンは「三豊(サンプン)百貨店」の崩壊を小説に描いている。まるで映画館が1冊の本であるかのように、映画館に集まった人びとの名を前の頁に戻って確認しながらおそるおそる読み進めたのだ。もはやここに集まった彼らはすでに私の親しい友人であった。彼らが押しのけあい逃げ惑う悲劇を見たくはなかった。しかし作家チョン・セランの選択は、幸いなことに希望だった。ありがとう。
 斎藤真理子さんの「訳者あとがき」が解説としても批評としても素晴らしい。ここまで必読です。また、本作は亜紀書房の「となりの国のものがたり」シリーズ第1回とのことで続巻にも期待したい。

« 倉数 茂 『始まりの母の国』 | トップページ

「書評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/571716/67274331

この記事へのトラックバック一覧です: チョン・セラン『フィフティ・ピープル』:

« 倉数 茂 『始まりの母の国』 | トップページ