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2018年9月16日 (日)

倉数 茂 『始まりの母の国』

自己に対する違和感を持ったまま生きる
倉数茂『始まりの母の国』早川書房 2012年4月

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 『アイヌ民族否定論に抗する』(岡和田晃 マーク・ウィンチェスター編)に寄稿している倉数茂の論文「〈おぞましき母〉の病理」が興味深かったので最新作『名もなき王国』(2018年 ポプラ社)を読んだ。売れない小説家が偶然出会った若い小説家と議論する。若い小説家瞬の物語や、瞬の伯母で今は亡き無名な作家の物語、彼女の書いた小説などが浮かび上がってくる。幾重にも重なり複雑きわまりない構造になっている。なにが(小説の中の)現実で、どこまでが(小説の中の)小説なのか判然としないまま読者は翻弄されてエンディングに向かう。すべての謎が解ける最後を迎えても読者はそれが現実なのかどうか迷路の中にいる。現実と小説家である登場人物の書いた小説と妄想・幻想が絡み合い、それぞれが短編としても読める多重構造になっている。最後に明かされる「事実」も読者として信用するべきか迷う。そもそも小説だから事実ではないのだけれど、事実とは何か、「私」とは何かという疑問を自分に投げかけることになる。
 作家には、人間の性愛、嫉妬、信仰、家族、社会、生活といった小説の骨肉を再考し捉え直す作業が必須だが、倉数は精神分析学を土台として小説を構築するらしく興味深い。
 『名もなき王国』より先2012年に上梓されたのが『始まりの母の国』だ。帯には「ハヤカワSFシリーズJコレクション創刊10周年記念作品」と謳われている。私はSFファンではないので知らなかったが、評価は低かったらしく、インターネットで調べたところ、「読書メーター」などでも否定的な感想が多い。SFファンの評価基準がどこら辺にあるのか承知しないが、不当な気がする。
 私は上記したように「〈おぞましき母〉の病理」に惹かれて倉数茂を読むようになったので、この論文に沿って『始まりの母の国』を読み解こうと思う。
 外部から隔絶された孤島に女たちだけで暮らしている社会がある。孤島と言ってもけっこう広い。特色のある地域ごとに複数の村があり、村と村のあいだには山や広大な森や草原がある。この島の女は「母」と「娘」に分かれていて、娘たちは母たちの娘であって特定の誰かの娘でも母でもない。ここでの生活は共同共助で一種の共産制社会と言える。
 倉茂はジュリア・クリステヴァの言を借りて、不快と魅惑、嫌悪と執着という両極端の感情を同時に引き起こす対象のことを「abjectアブジェクト」と呼んだ。アブジェクトとは実は「母の身体」の名残だと言う。倉茂が『始まりの母の国』で描いた女の国は、〈自己と世界が未分化で、しかも世界がそのまま母親と一体化していたころの母の身体である。〉
 主人公のエレクは山中の村に住むが海辺の村に漁の手伝いに行った帰途、海辺で漂着した男を見つけ連れ帰ってしまう。男を匿って看病するが、もちろんそんなことはあってはならない。エレクは恢復した男ソアを連れて逃亡する。これは反乱だ。エレクの反乱は〈自他一体の海にたゆたっていた乳児〉が母の身体を棄却(アブジェクション)しようとする行為に似ている。
 やがて島に外の社会の軍船が近づく。この島以外の社会は私たちの社会とほぼ同じ構造の社会と言って差し支えない。正確に言えばやや過去で近未来に再来しないとも限らない父権社会だ。「父の国」の「母の国」に対する侵略が始まる。母の国と父の国の戦いだ。平和平等に暮らしていた女だけの国も慌ただしくなる。エレクとソアの次の会話は「始まりの母の国」と一般社会(父権社会)との比較特性を象徴する。
エレク「私たちが武器を使うのは、狩りのときだけ、食糧を得るためだけだ。それなのにおまえたちはいつも殺し合っている。何の意味があるんだ。」
ソア「私たちの世界では、大きいものはより大きく、強いものはより強くなろうとする。」
ソア「……私たちは父に囚われている。私は長いあいだ父を憎み、うとましく思い、そして同時に離れがたいものとして愛してきた。父に認められたいという熱望と、父から少しでも遠くに離れたいという欲望のあいだを揺れ動いてきた。…」
 母の国とて必ずしも絶対的な理想の国ではない。母たちは始まりの母の国を維持するために異形の者を排除してきた。人知れず森の奥、樹上で暮らす「森の民」の老婆は語る。
「そなたの母たちは、わしのような体を持って生まれてきた子たちをその場で死なせてしまうのじゃ。水につける、と聞いておる。そなたたちは、すべて始まりの母という鋳型から出たままでないと満足しない。わたしたちはそう思わん。わしらは単なる写しではない」
 女から生まれ女を蔑視し、犯し、支配しようとする父権社会と、母を喰って生きてきた女たちの世界は、鏡の内と外のようでもある。
 侵略を経験した「母の国」は徐々に男の世界のように統率された軍を持ち、政治的組織が支配する社会に変貌していくであろうと予測される。
 母の国は、ソアの助力もあって一旦は侵略軍を追い払うことに成功する。ソアも島から出ていく。ソアは出帆する際にエレクを誘うがエレクの応えは、「無理だ、私はここの土地の根付きの木だから」だった。エレクは母の国にいくらかの嫌悪を感じながらもそこを離れて海を渡ったりはしない。これは乳児が母親の悪しき部分、汚
(けが)れ、母と未分化である自己のおぞしまさから離れ切らないことを示している。エレナは母性棄却(アブジェクション)を選択しなかった。強く清く正しい父権社会への順応を拒否したのだ。エレナは社会への疑問を持ち、自分が自分であることへの違和感を持ち続けたまま生きることを選択した。このことには現実的意味がある。
 一方男であるソアの立場から見たときには、母との別れである。男は何度でも母との別れを体験する。これは蛇足だが、私はここで、在日朝鮮人作家金泰生が幼児期に体験した母との別れを連想した。母とも母なる済州島からも切り離された幼い命を思った。『始まりの母の国』という小説のタイトルで30年以上前に自分が書いた短文「妣が国朝鮮」を思い出していた。金泰生の短編「童話」を批評する体の短文だ。掲載したのは、大宮で在日朝鮮人文学の読書会をやっていた時の会報だ。一部引用する。
    母との別離は金泰生のいくつかの作品の冒頭に置かれ、常に故郷─済州島から離れて、渡日する少年の姿へと繋がっていく。作者にとって、過ぎ来た母=故郷=済州島のイメージは絶対に近かったのだし、母との別離を経て、後の在日の生活は相対的・過程的な立場だった。
 母とは故郷と同一の、得がたい理想なのだろう。しかしそれは「得がたい夢」でしかない。我々は違和感や生きがたさや自己肯定できない無念を抱えながら生きる動物なのだ。

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