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2018年8月15日 (水)

チャン・スチャン『羞恥』

羞恥心は言語の貧困に対峙する
チャン・スチャン(斎藤真理子訳)『羞恥』みすず書房

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 中学生の娘を持つ私であるイ・ウォンギルは不眠症に悩まされ、仕事を辞めさせられて日がな一日町を彷徨っては真昼の市街地の路地でうたた寝するような生活をしていた。それが死者を守る墓守りの生き方として最善だとして受け入れてさえいた。私は朝鮮民主主義人民共和国から逃れる所謂「脱北」の途上、疲れ果てて動けなくなった妻を置き去りにして逃げた罪を負っている。
 私とトンベクとヨンナムは韓国の東南アジア人街で出会った脱北者仲間で、それぞれ生き残ったことへの羞恥心を強く抱いている。家族を失って取り戻せないトンベクは黄色い染料を被って首を吊った。もう一人の友ヨンナムは江原道の田舎に引っ越した。
 ヨンナムが住む冬季オリンピックを誘致した市の郊外では、朝鮮戦争当時の民間人の遺骨が大量に出土して騒然となっている。そこへ誘われた私は娘のカンジュとその同級生で双極性障害があるらしいチスを連れて行き、騒動に巻き込まれる。ヨンナムは懺悔劇をやろうとしていて、オリンピック誘致推進派から執拗な脅迫と妨害を受ける。ヨンナムにとって演劇は、60年前の遺骨を慰霊するためだけでなく自分の罪を洗い流すためでもある。妻子を置いて逃げたという罪を犯して一人暮らすのがつらいのだ。演劇によって観衆の前に自分の恥を晒す懺悔こそヨンナムを生かそうとした。
 チャン・スチャンの小説『羞恥』は人は何で生きるか、何のために生きるのか、という問いを突きつけてくると同時に文学の意味をも問うている。
 世間は、オリンピックのもたらす経済効果と遺骨のために工事が遅れた場合の損失額を引き比べ、オリンピックに賛成する者は愛国者で反対するのは売国奴だという風潮に囚われている。関心があるのは工事で利益を上げ、それを守ることだけで戦争のことや犠牲者のことは面倒の種だ。「経済効果」はヨンナムの懺悔とは二律背反する。
「…見たとこ、懺悔とか真実とか怨恨とか、とにかく人間の世界の言葉はみんないやなんじゃないか。ただもう物質主義なんだ。それで懺悔という言葉を、あいつらの好きな開発とか、発展とか、そういう言葉の反対語みたいに思っているんじゃないかってね。…」
 この言葉は文学が、経済発展主義者の敵であることを表象している。2年後に東京オリンピックを控えた日本の為政者の言葉の貧困を想起する。
 しかし小説の私はオリンピック選手村建設工事現場のごたごたから距離を置きたいと思っている。政治的主張もしない。彼らは脱北者だからだ。北から来た人間にたいする謂われのない嫉みと差別を彼らは身を以て感じてきている。避難民に対する差別の構造は普遍的だ。フクシマの避難民に対する暴言・妄言とイジメも同種だ。
 私は言う「…いったい、俺たちをこんなにひっきりなしに恥じ入らせるものは何なんだろう? 俺たちは羞恥によって自分を守ろうとしているよ。そんなつまらん自尊心について考えてみたこと、ないかい?」
 恥じ入るべきなのは、脱北者や被災者だろうか。恥ずべき罪を重ねて生きてきたのは彼らだけではあるまい。羞恥を感じられるかどうかに人間性の核心を問う論拠がある。そこには文学の価値も同居している。恥ずべき人生を正直に羞じることに意味はある。羞恥こそ文学の価値だ、と極論しても過言ではない。真の文学は厚顔無恥などこかの国のオオオミには理解の外だ。
 明日の朝私はまた死を意識しながら起き、工場へ行くだろう。そこで、生きるために汗を垂らして働き、カンジュと私をさげすむ者たちと闘うだろう。
 町に戻った私に一筋の光がさしたエピローグに感謝したい。
 脱北者に関して、また脱北者に拘わる文学については、作者紹介とともに斎藤真理子の懇切丁寧な「訳者解説」に詳しい。

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