フォト
無料ブログはココログ

« 多和田葉子 地球にちりばめられて | トップページ | クォン・ヨソン『春の宵』 »

2018年6月 5日 (火)

チョン・ミョングァン『鯨』

アンチ「ファム・ファタール」としての呪い

チョン・ミョングァン『鯨』晶文社 斎藤真理子訳

Photo

 チョン・ミョングァン『鯨』は荒唐無稽なエンターテイメント小説だ。常識を逸脱した登場人物の造形は純文学には見いだせないだろう。むしろ「クレヨンしんちゃん」や「ONE PINCE」といったアニメの造形に近い。純文学嗜好の読者には荷が重いかも知れない。両手の指がそれぞれ2本ずつしかないヤクザがナイフ使いの名手だったり、人が1トンまで太ったりする。
 しかし三世代にわたる女の憎悪ドラマは凄まじい。作品中に具体的な年代を表す記号は出てこないが、訳者あとがきで説明されているように1920年代から2000年代の韓国史を背景に主には朴正煕政権の時代を念頭に書かれたと言ってよい。「南の将軍」を朴正煕と読む読者があっても問題ない。
 小説全体を支配する「汁飯屋の老婆」の呪いは、死んだあとも何度も姿を現し、不幸を生成していく。後に「汁飯屋の老婆」と呼ばれる女は、余りの醜さに新郎に抱かれることなく3日で婚家を追い出され、奉公先のデクノボー(事故のためか知能に発達障害を持っている)の息子と性的関係を結び袋だたきにあう。「汁飯屋の老婆」は世間への復讐を誓って汁飯屋で小銭を貯める。デクノボーの子を孕み娘を生むが彼女に家族愛は無く、娘は片目を潰され、ハチミツ2瓶で売り飛ばされてしまう。醜い老婆が隠し貯めた金こそ、言わば呪いの罠である。老婆はこの金を使わずに死んでしまったが、クンボクがこれを見つけて事業を興す。
 小説の裏側の主人公は「汁飯屋の老婆」であるが、実際の主人公はクンボクとその娘チュニだ。クンボクは「汁飯屋の老婆」と対称的に美しく性的魅力に満ちた女として瞬く間に成長し、男達を手玉にとってのし上がる。クンボクの女性的魅力はまず父親を、そして山村から連れ出してくれた魚屋、怪力無双の大男シンパイを虜にし、ヤクザで町の支配者である刀傷などが次々に支配されていく。
 刀傷がかつて愛した日本の芸者ナオコは蠱惑的な魅力で刀傷を操り指を一本ずつ奪っていくが、刀傷はその愛が幻想であったことを知る。刀傷がクンボクを「ナオコ」と呼ぶのはまさにファム・ファタールとしての完全な姿をクンボクに求めたからに違いない。マッチョなシンパイはクンボクのファム・ファタール性に惹かれて彼女を得るが、自力を過信して大怪我し、クンボクに養われて自滅する。刀傷やシンパイの男性性はクンボクの女性性と対称的に、力強い者裕福な者として描かれる。ファム・ファタールとは何か。筆者は一知半解なので内藤千珠子の言を引用したい。
 ファム・ファタールとは、一般に、一九世紀ヨーロッパのロマン主義において形成された女性イメージの類型だといわれている。それは性的な魅力によって男性を致命的な恋に溺れさせ、破滅に導く女性を意味し、宿命の女、魔性の女、悪女、娼婦のイメージと重なり合う妖婦型女性、男性を死という危険な運命におびき寄せるほどの魅力を備えた女性と定義されている。表象としてのファム・ファタールには、女性に対する欲望と恐怖、魅惑と嫌悪、崇拝と憎悪といった両義的心理が投影されており、その二面性や両義性が分析の対象となってきた。また、物語の形式としては、ファム・ファタールの内面は意思や精神を欠如させた謎/空白とされ、読み取り不能な女の謎が物語を牽引するという定型をもつ。
                     (内藤千珠子『愛国的無関心』新曜社 2015年)
 興味深いのはクンボクの後半生が男性化する点だ。クンボクはファム・ファタールとして読者の前に現れ次から次へと男と関係しながら、言わば彼らを踏み台にして事業を発展させる。政治の象徴である南の将軍からも認められたクンボクは、この社会ではもう女性である必要が無くなった。クンボクは売春宿から救った睡蓮を美しく育て自らの愛人とする。クンボクはついに男性化したのだ。成功者となったクンボクは自らが男性としてファム・ファタールに嘲弄される。作者チョン・ミョングァンは一見、クンボクを通して〈女性嫌悪(ミソジニー)に裏打ちされた男性的欲望の回路〉そのものを読者に見せつけ、〈異性愛中心主義を背景とした近代の差別的な論理の骨格〉を壊したかのように思わせる。しかしこの特殊な人格が老婆の呪いによって破滅を迎える結末を考えるならば、男性優位の資本主義的成長社会において、男性化すること、あるいは男性と同様の支配的立場に立つことの愚かしさを表象しているとも言える。
 もう一点、この小説に従来型の親子関係の描き方に見られる家族主義的道徳の観点が抜けている点も興味深い。「汁飯屋の老婆」は自らが生んだ娘「一つ目」を愛さなかったし、一つ目もまた母を憎んだ。クンボクも娘であるチュニを愛せず、むしろ厄介に感じていた。言うまでも無く、作家が家族愛を否定したのではないだろう。しかし家族愛という幻想からいったん目をそらすことによってしか見えない社会の構造が見つかるかも知れないのだ。家族愛では救えないものがある。
 クンボクの娘チュニは、母親と異なり見かけの美しさを持たない。彼女は啞者で怪力だ。そして純真な心を持ち、社会的には無知だ。チュニの造形は見事。彼女はファム・ファタールたり得ない。チュニが男なら、ドストエフスキー『白痴』のムイシュキン公爵、柳美里『ゴールドラッシュ』の幸樹、金石範『万徳幽霊綺譚』の万徳と類似しているが、女性主人公としてこのような造形を得たことを読者として喜びたい。
 チュニは劇場放火の罪を着せられ投獄される。ここでチュニは優しさ故に看守鉄仮面に凄惨な拷問を続けられる。恩赦で出獄したチュニは廃墟となった町に戻り、煉瓦工場跡で独り生きる。ここでの出会いと別離が意味するものだ何だろうか。
〈何年かが過ぎた。彼女は一人で煉瓦を焼いていた。工場を訪れた者は誰もいなかった。〉
 この小説では、憎悪の心が何度でも反復して具象化し不幸を招く。しかしそれは荒唐無稽な嘘話とばかりは言っていられない。
 エピローグ、子どもの頃親しかった象のジャンボに乗って宇宙を飛ぶチュニは「ここはとっても静かだね。」と呟く。

« 多和田葉子 地球にちりばめられて | トップページ | クォン・ヨソン『春の宵』 »

「書評」カテゴリの記事

「韓国文学のオクリモノ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/571716/66798258

この記事へのトラックバック一覧です: チョン・ミョングァン『鯨』:

« 多和田葉子 地球にちりばめられて | トップページ | クォン・ヨソン『春の宵』 »