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2018年5月 5日 (土)

多和田葉子 地球にちりばめられて

ディストピア越境すれば未来はあるかも

                                     多和田葉子『地球にちりばめられて』(講談社)

 東日本大震災以後、作家たちはすぐそこの未来を想像したがった。それらは一様にディストピアだ。星野智幸は代表選手で『呪文』などすぐそこの近未来をリアルに描いている。木村友祐『野良ビトたちの燃え上がる肖像』や吉村萬壱『ボラード病』なども近「近未来」だ。窪美澄『アカガミ』やいとうせいこう『小説禁止令に賛同する』などはもう少し先の、山口泉『重力の帝国』は別次元のディストピアだ。これらの小説の特徴は多くの場合自然災害と原子力発電所の事故が根底に据えられている点だが、その上に安倍政権の危険性に対抗する感情が創作意欲をそそったに違いない。全体主義政府の支配する社会は個人の自由を一切保障しない。真実は政治家や政治活動家の強弁によって押し隠される。強いリーダーが導く世界がどうゆう社会になるか、作家たちは想像を逞しくする。
 いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』は日本が滅んだ後2036年の囚われた小説化を描いていて興味深い。作家本人とおぼしき「わたし」は75歳で、旧日本のことであるらしい東端列島の拘置所独房に収監されている。旧政府によって「思想犯」として投獄されたのは2024年、紛争の直前のことだ。東端列島は複数国家連合の出現と、紛争中に重なった地震と豪雨と原子力事故の連続によって自滅したが、わたしはその後も収監されたままだ。汚染され拘置所の職員等は防護服を着用している。防護服も着ないわたしは言わば棄民なのだった。わたしは収監者用の小冊子『やすらか』に「随筆」を連載していて、原稿を検閲されているが、これが文学論でもあり小説そのものでもあり作品の肉となっている。
 桐野夏生「日没」(『世界』連載中)は時間的に『小説禁止令に賛同する』の少し前に位置して作家たちが収監される様を描いているのでこれも興味深い。
Photo 日本が滅んだ後海外に残った日本人を描いた小説がある。多和田葉子『地球にちりばめられて』だ。だが、この小説をディストピア小説と呼ぶには躊躇いがある。Hirukoという印象的な名の女性はヨーロッパ留学中に自分の国が消えてしまって帰れなくなり、デンマークのオーデンセのメルヘン・センターで移民の子対象の語り部として働いている。
 Hirukoはスカンジナビアの人なら聞けばだいたい意味が理解出来る手作り言語に、内心「パンスカ」と名付けてこれを駆使している。パンスカは常に変化して「今のわたしの状況そのものが言語になっている」。
 Hirukoの育った国では「出る杭は打たれる」という諺があって、口数の少ない勤勉な人が評価されたが、ヨーロッパでは何もできないわたしの「こんな事をやったらいいんじゃないかしら」という提案が評価される。アイデアが大切で、実践しながら経験を積めば良いと考えられる。この近未来ヨーロッパの福祉は充実していてHirukoやグリーンランドエスキモー出身のナヌークやインド出身で男性から女性に引越中のアカッシュも受け入れられる。移動の自由もほぼ保障されていて主人公たちはスウェーデン、デンマーク、ドイツ、スペインと旅をする。排外主義者による白色テロは起きることがあるが支配的ではなく、ディストピアとは言えない。ただ、〈中国大陸とポリネシアの間に浮かぶ列島〉が消滅してしまっているという一点のみが気になるだけだ。
 テレビに登場したHirukoに関心を持ち最初に彼女と旅に出る言語学者の卵クヌートの存在は、狂言回し的でもありながら、実はマイノリティーと非対象の「普通」という足場に立っていて、その母親同様「支配的暴力」を内包している。一方でクヌートの言語に対する疑問や考察は、小説に対して支配的立場に立つ読者である私を細部で導く。例えば、

ネイティブは魂と言語がぴったり一致していると信じている人たちがいる。母語は生まれた時から脳に埋め込まれていると信じている人もまだいる。そんなのはもちろん、科学の隠れ蓑さえ着ていない迷信だ。

という独白は、読者の頭に巣くう言語民族主義を撃破する。
 またナヌークは出汁の研究をしていて、文化の越境性を感じさせる。この社会では消滅した列島はほぼ忘れ去られているが、「すし」や「コスプレ」などという言葉は残っている。ただしそれらの言葉が日本由来だと知る者は殆どいない。言語学の研究対象なのだ。
 彼らはHirukoと同じ母語を持つSusanooを訪ねてアルルに向かう。HirukoもSusanooも日本人には馴染みのあるネーミングだ。Hirukoはもちろん「蛭子(ひるこ)」である。イザナギとイザナミの間に生まれた最初の神で、まぐはう際に女神から先に声をかけたために不具の子として流されたあの赤子だ。スサノウノミコトについては説明の必要はないだろう。暴れ者であるがゆえに天照大神が隠れるという事件が起きる。これらのネーミングは象徴的だ。
 Susanooは言葉は理解するがどの言葉でも喋れない。Hirukoとの母語での会話も一方的になる。Susanooは自分の母語を喋るHirukoと出会うことによって言葉の回復を望んだのかも知れない。ストックホルムの失語症研究所へと心は向かったのかも知れない。滅んだ言語の話者と研究者、同情者たちの旅は終わらない。
 さて、愚かな為政者のせいで天変地異より先んじて滅びるかも知れない我が言語、我が言語文学は流された先で生き延びることができるだろうか?

2018年5月 1日 (火)

ヤン ヨンヒ『朝鮮大学校物語』

再び光が当てられる日本の中の「朝鮮人」
 1970年代に李恢成や金鶴泳ら在日二世朝鮮人作家が現れ、主人公たちはそれぞれの立場で民族的アイデンティティを探した。在日朝鮮人による民族発見の文学的旅は「在日朝鮮人文学」と呼ばれ、日本人読者には日本に住む朝鮮人を意識させ、在日朝鮮人青年たちには複数の指針を示した。40年以上の年月を経て、その間「在日朝鮮人文学」は新しい世代の登場とともに「〈在日〉文学」と呼ばれるようになったが、李良枝以後そうした枠組みには当て嵌める意味を感じさせない作品が増えていた。柳美里は2006年に発行された『〈在日〉文学全集』に作品を集録していない。
 ところが最近ヘイトスピーチとレイシストの示威行動が社会問題化し衆目を集めるようになると、在日朝鮮人あるいは在日韓国人とは誰なのかを問う文学が再び脚光を浴び始めた。
 黄英治は商業ベースに乗らない地道な作家だ。黄が在日一世の父を描いた『記憶の火葬』(影書房)を上梓したのが2007年、韓国で囚われた在日政治犯の娘を描いた『あの壁まで』(影書房)が2013年、そして2015年発行の『前夜』(コールサック社)では、ヘイトスピーチに立ち向かう青年たちを題材とした。ヘイトスピーチは作家たちを刺激した。
 『ひとかどの父』(朝日新聞出版)、『緑と赤』(実業之日本社)、『海を抱いて月に眠る』(文藝春秋)など深沢潮の一連の作品もそうした題材を扱っている。特に最新作『海を抱いて月に眠る』は、朝鮮から「密航」した男が南北分断の政治状況に翻弄されながら身元を隠して生きなければならなかった様子を、父の困難に無知であった二世である娘と対比しながら描き、「在日」の歴史性を明らかにしようとする意図が窺える。
 崔実『ジニのパズル』(講談社)についてはこのブログで書評を書いている。群像新人文学賞を受賞してデビューし、織田作之助賞も受賞した。在日朝鮮人のジニは中学から朝鮮学校に通うが、北朝鮮バッシングと在日ヘイトのうねりの中で、自己の不安定な存在に嫌悪を抱き始める。朝鮮学校という小社会を取り込んだ日本そのものに反発したジニはオレゴンの高校で反発の日々を送る。ジニは残念ながら日本では自己を確認できない。Photo
 『ジニのパズル』がモチーフとしたのは中級学校だったが、ヤン ヨンヒの『朝鮮大学校物語』(角川書店)はその名のとおり朝鮮大学での生活を日本の読者に見せた。芝居が好きで演劇の勉強がしたくて東京の朝鮮大学に入学したミヨンだが、全寮制の朝鮮大学には夢見た自由が存在しない。全体主義で官僚主義的に統率された学校でミヨンは息苦しさから逃れられない。隣接する美大の学生との恋愛で表出された対比は見事だが、単純には描かれなかった。すでに日本社会が抱えた排外主義の問題も投射されている。
 しかしながら大筋では「北朝鮮>朝鮮大学校」の抱えた闇がクローズアップされてしまう。朝鮮大学生であることによるある種の特権を持っているミヨンは北朝鮮で姉に会うことがかなうが、音楽家であった姉夫婦は危険人物として地方で監視された生活を送っていた。姉の「…この国背負わされて日本で生きるのも大変やと思うわ」という言葉にミヨンの意志は固まる。
 この小説に対する興味は物語の主軸から離れたところにもある。在日朝鮮人の「朝鮮語」の多様さ、日本各地の方言に染まった日本語訛りの朝鮮語の多様さだ。言語が抱える民族性と地方性、越境性、などの課題は文学読者には常に関心事だ。
 ソウルから来た演劇人との交流のなかでミヨンが認めるのは〈美しいソウル弁で語られる強靱な信念〉だった。彼らは、表現の自由が担保されない韓国という独裁政権下で逮捕覚悟で演劇活動をしている。
「朝鮮語を話す人間は北朝鮮の学校を出たスパイだから関わるなと言われました。でも私が出会った演出の金さんはスパイどころか、酒好きの芝居バカです。…偏狭な妄想者に邪魔されるなんて真っ平です。いい舞台を作りましょう」
 「偏狭な妄想者」というのはここで直接には韓国の独裁政権だが、北朝鮮の為政者、あるいはヘイトスピーチをがなり立てる日本の排外主義者にも当て嵌まりそうだ。
 ただしここで読者が気をつけなければいけないのは2点、一つは朝鮮大学校の、あるいは在日朝鮮人のおかれた日本の状況がそれほど鮮明でない点、朝鮮大学校で組織に従順に過ごした学生にも人間としての精一杯の生があったはずだ。もう一つ、このモデルは1980年代の朝鮮大学、韓国も北朝鮮も日々変化しているということ。朝鮮大学校の現在が描かれる日も待たれる。

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