フォト
無料ブログはココログ

« あるデルスィムの物語──クルド文学短編集 | トップページ | 金時鐘×佐高信『「在日」を生きる』 »

2018年3月12日 (月)

小島剛一『トルコのもう一つの顔』

偉大な民族国家トルコの多様な少数民族言語を歩く

 前回2月17日付けブログで、ムラトハンムンガン編『あるデルスィムの物語』を紹介した際に末尾で〈デルスィムのクルド人が使うザザ語とクルド語の関係は不明だ〉と書いたが、磯部加代子は「訳者まえがき」に、デルスィムの〈人々はクルド語とは別の言語とされているザザ語を話し、宗教的には……アレヴィー教徒が多数を占めてる。〉と書いている。また「訳者あとがき」では、1991年発行の小島剛一著『トルコのもう一つの顔』との出会いが、磯部のトルコへの興味とデルスィムへの関心の起源だったと書いているので、気になってkindle版で読んだ。Photo 『トルコのもう一つの顔』はフランス在住の言語学者小島剛一が17年に渡ってトルコの少数民族言語を踏査した経験を書いたものだ。トルコ語ばかりでなく、トルコの少数民族語やそれぞれの方言についても詳しい。トルコにはクルド人、ザザ人、アラブ人、ラズ人、ギリシャ人、アルメニア人、ヘムシン人、ガガウズ人など70以上の少数民族がいるが、トルコ政府は「トルコ共和国国民はすべてトルコ民族である」と定義しているため、国内の少数民族の存在を認めていない。現在ではトルコ語を母語としない国民の存在を認めてはいるらしいが、少数民族とは認知せず、クルドやザザなどの少数民族の置かれた立場は依然としていると思われ、『あるデルスィムの物語』の「訳者あとがき」を読めば、トゥンジェリと改名されたデルスィムの現実が垣間見られる。ましてや20世紀後半のトルコで調査した小島剛一の活動は陰に陽に妨害される。その都度肩すかしをするようにすり抜けたり親しくなった人々に助けられたりする。これは調査報告書ではない。論文でもない。日本に住んでいると気づきにくい多様な価値観との共鳴と反発の体験を綴った紀行文だ。
 トルコと言えば、日本では親日国として知られ、トルコの人は親切だと言われる。小島剛一も「トルコ人ほど親切な人たちも珍しい」という一章を設けている。その親切な人たちが、少数民族や他宗教徒には、まったく事実ではない強い偏見で対峙している現実を見せられる。〈虫も殺さぬ顔で、「イスラームの敵アレウィー教徒を殺せば天国の門が開く」と言う人にはじめて会ったときには背筋が冷たくなった。〉われわれは井の中の蛙だ。〈知らないものは見えないし、興味のないものは小さく見える〉のだ。木を見て森を見なければ、人間として生きる道を誤るかも知れない。トルコ人だけを責められはしない。〈日本にもアイヌ人の強制同化や日韓併合の歴史がある。〉昨今のヘイトスピーチや嫌韓反中本の氾濫を鑑みれば、これを過去のことだと清算することなどできない。日本語という井戸の中で四角い小さな空しか見たことのない蛙人間としての自己を振り返る契機になるかも知れない。
 「民族」に関しては、日本人はおおざっぱだ。『トルコのもう一つの顔』を読むきっかけになった『あるデルスィムの物語』の副題は「クルド文学短編集」となっているが、デルスィムに住む民族の大半はザザ人でトルコ語ともクルド語とも異なるザザ語を話し、殆どがアレウィー教徒だ。彼らの教義は他の回教徒とは著しく異なる。例えば彼らは葡萄酒を飲むし、回教寺院に行かず礼拝もしない。男女平等を宗とする。つまり小島剛一の論に沿う限りザザ人はクルド人ではない。『あるデルスィムの物語』の副題は「クルド文学短編集」ではなく、「ザザ文学短篇集」か「トルコに於ける被抑圧少数民族文学短篇集」とした方が正確だった。付け足せば、『あるデルスィムの物語』に収められた10編の作者10人の出身民族も不明だ。これは本人にもよくは分からないのかも知れない。『トルコのもう一つの顔』を読めば、「隠れ民族」やら「忘れ民族」という状態もあるらしいので、トルコ政府の強制同化政策が長期に渡っている状態では仕方あるまい。そう考えるとこのような副題を付けること自体が問題を孕んでいるのかも知れない。

« あるデルスィムの物語──クルド文学短編集 | トップページ | 金時鐘×佐高信『「在日」を生きる』 »

「書評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/571716/66488679

この記事へのトラックバック一覧です: 小島剛一『トルコのもう一つの顔』:

« あるデルスィムの物語──クルド文学短編集 | トップページ | 金時鐘×佐高信『「在日」を生きる』 »