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2018年2月17日 (土)

あるデルスィムの物語──クルド文学短編集

〈そこ〉にいる人たちの視線に自覚的であれ、と小説は語る
ムラトハンムンガン編 磯部加代子訳『あるデルスィムの物語──クルド文学短編集』さわらび舎

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 山城むつみ「カイセイエ──向井豊昭と鳩沢佐美夫」(『すばる』2018年3月)を読んで「非対称性の暴力」という言葉を学び、直後にクルド文学短篇集と副題の付いた本書『あるデルスィムの物語』を読んだ。「非対称性の暴力」とは山城むつみによると、意識の問題ではなく存在の問題であり、〈個人の意識がどうであろうと、たとえ私が良心的で弱者の味方として善意に満ちあふれていても、《ここ》に私が存在していることがそのまま、加害的、差別的な暴力となる《そこ》が今もなおあるということ〉だ。植民支配・同化政策による先住民や被支配民族の置かれた立場が、まさに非対称性の暴力による支配ということが言えそうだ。それはたんに過去の問題ではない。
 寡聞にしてクルド民族について知ることが殆ど無かった。本書の発行についてもTwitterで古い友人が発信していなければ通り過ぎていただろう。無知な私には、翻訳者磯部加代子の懇切丁寧な解説抜きにここに収められた10篇の短編を理解するのは難しい。
 「訳者まえがき」の助けに依ると、クルド人はチグリス・ユーフラテス川を中心とする地域の先住民族であり、その居住する地域クルディスタンはトルコ、イラク、シリア、イランに分断支配される多国間植民地だ。デルスィムとはトルコに支配されたクルドの地域の一つである。1937-8年に住民虐殺、クルド人の民族浄化=トルコ人化、スンニー化が執行された。その過程でクルド家庭の女児はクルド人の親から引き離されトルコ人将校の家に手伝いや養女として引き取られた。そうした事件を歴史的背景としてこの作品集は編まれた。この本の原文はトルコ語で書かれており、クルド語ではない。そう言った意味では在日朝鮮人文学をさかのぼり、植民地時代の朝鮮人による日本語文学、例えば、張赫宙や金史良、あるいは李光洙などを想起させる。またこの事件について口を閉ざし語らない人々が多く登場するが、済州島四・三事件が長期に渡って語られなかった事実と類似する。
 しかし、作品集中ヤウズ・エキンジ「祖父の勲章」で新聞報道されているように、現在のトルコでは考古学の発掘のように自国歴史の輝かしき歴史が汚辱にまみれたものであることが、いくらかは知られるようになっているらしい。主人公の祖父はデルスィムの虐殺者の一人である。
〈僕は、写真の下の記事を読んだ。首相が公式に謝罪し、記録が公開されたと記事は伝えていた。その「デルスィム作戦」において、洞窟の中の人間が生きたまま焼かれたことや、殺された死体はムンズル川に流されたこと、男たちが集められいっぺんに串刺しにされ、親を失い孤児となった小さな女の子たちは、将校たちのお手伝いとして引き取られたと書かれていた。僕は体の毛が逆立つのを感じた。〉
 主人公は叙勲された祖父の歴史、民族の栄光の歴史の血塗られた事実に目を向ける。
 収録された幾つかの作品は慈悲深いトルコ将校の家に貰われた女児の物語だ。ヤルチュン・トスン「カラスの慈悲心」では、私がなついているエスマー・カルファは将校の家の女中のようだ。私はカラスがたくさん出てくる夢を見る。夢の中で私は子どもを背負っている。記憶の物語は語られない。訳者解題によると、〈この物語の背景には、おびただしい数の「養女となった女児の物語」がある。〉デルスィムでの被害女児を貰い受けた軍人がどんなに優しい人間であったとしても、そこには非対称性の暴力が横たわっている。
 ジェミル・カヴクチェ「ムニラおばさんのお伽話」では、司令官の家に連れ去られたファトマは「今後クルド語を話したらお前を焼き殺す!」と言われて以来クルド語を話さなくなった。デルスィムから連れ去られた女児は同化させるために母語を奪われている。
 カリン・カラカシュル「サビハ」で、孤児院の子どもを養女としたのはトルコ建国の英雄ムスタファ・ケマルだ。その娘サビハ・ギョクチュンは世界初の女性パイロットで、デルスィム作戦に参加して名を上げたが、実はアルメニア人だったらしい。正義のために、父のためにデルスィムを空爆する女性パイロットの姿は前向きで栄光に満ちているかに見えるが、殺し殺される凄惨な流血の記憶を奥深く隠している。
 虐殺の過去を背負った人間を描いた作品もいくつか見られる。ここには非対称性暴力の自覚の芽生えが見られる。そこには微かな希望がある。ベフチェット・チェリッキ「ロリ… ロリ…」は被害者と加害者の遭遇がモチーフだが、加害者が加害の意識を持っていなければ、この遭遇はあり得ない。しかもこの遭遇は語られることがない。加害者の孫は被害者彼女と同じ言葉でありながら内に秘められた意味が違うと感じる。アイフェル・トゥンチェ「重荷」で、テレビクルーの取材を受けた老いたネイイレ夫人は、デルスィム事件で勲章を授与された英雄である父の真実を話してしまう。母は妊娠した女性や赤ん坊まで殺した所行を懼れ、夫の銃で自殺していたのだ。
 故郷から離れた地で、母語のかすかな音に魅かれることもある。ブルハン・ソンメズ「先史時代の犬ども」の舞台は英国だ。自殺未遂を繰り返すイェスマはトルコ語とデルスィムのクルド人が使うザザ語混じりに、父を殺され母をレイプされた事件について語る。〈三世代にわたり続く暴力とは、一体何なのか。それは、非トルコ人に対する同化政策というトルコ共和国における未完の暴力である。今なお、故郷を追われた者たちの尽きぬ望郷の念、凄惨な流血の記憶、複雑なアイデンティティといった、数えきれない痛みを生み出し続けている。〉(訳者解題)
 ギョヌル・クヴルジュム「禁じられた故郷」は作品中で最も詩情豊かに悲しみを湛えた作品だ。二人のよそ者でありマイノリティーである男女の出会いは、これもデルスィムを巡る凄惨な歴史を踏みしめていく運命だ。井戸に向かって囁かれた言葉は、井戸の奥深くで広がって行く。難解な作品群のなかにあっても最も読解しがたい作品だ。
 馴染みの無いクルドの文学というだけではなく、今以て沈黙で語らなければならないデルスィムの後裔たちを解読するためには相当な努力と想像力を必要とする。「訳者まえがき」「訳者解題」は適切で読者を助けてくれる。更にエッセイ風の「訳者あとがき」が、日本とトルコ、トルコとデルスィム、といった相関関係をあぶり出してくれる。
 『あるデルスィムの物語』は、トルコにおいてはデルスィム虐殺の事実を認めクルドの人々の視線を受け止めることを求めるのだろう。また文学という普遍において、先住民アイヌの視線、朝鮮人「従軍慰安婦」の視線を受け止めること、重慶爆撃や南京虐殺、731部隊の生体実験の歴史的事実を受け止めることを要求するだろう。
 なお、本書はトルコ語による小説で、磯部加代子によれば〈クルド人と自認する作家たちが作品を書く際に選ぶ言語は、ほとんどの場合トルコ語である。〉とのことだが、アラビア語、ペルシャ語及びクルド語で書かれたクルド文学もあれば日本語訳にも期待したい。デルスィムのクルド人が使うザザ語とクルド語の関係は不明だが、ザザ語による文学があるのだろうか。在日クルド人による日本語文学の可能性にも期待したい。

翻訳者がトルコに関心を持つきっかけになった関連書籍に、小島剛一著『トルコもう一つの顔』(中公新書)がある。
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-4122.html

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