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2017年10月30日 (月)

ハン・ガン『ギリシャ語の時間』(晶文社)

静寂の中にとしての言葉は存立しうるか

Photo 男はカルチャースクールのギリシャ語講師、女は受講生だ。ギリシャ語といっても古典ギリシャ語だ。
 男は14歳で韓国を離れドイツで17年間を過ごした。将来の失明が宣告されていた男は家族の暮らすドイツから離れ、一人で母国語が話せる場所に帰った。ドイツで学んだギリシャ哲学の学位など韓国では役に立たなかったが、カルチャースクールで古典ギリシャ語の初級とプラトンの原書講読を教えていた。男は自分の人生と言語と文化は真っ二つに割れてしまっている、と考えている。男は度のきつい眼鏡をかけてはいたが、それでもよく見えなかった。日が暮れると急激に視力が落ちる。
 女は去年の晩春まで大学と芸術高校で文学を教えていた。黒板に向かったまま「あれ」がきた。原因はない。女は幼い頃から賢く、三歳のときに自分一人でハングルを身につけた。彼女は賢かったが成績は特別ではなく目立たない学生だった。〈彼女は空間を占有することが嫌だったのだ。〉〈彼女は自分の存在を遠くまで広げたくなかった。〉16歳の冬に「あれ」が来た。〈彼女はもはや言語で考えることをしなかった。言語なしで動き、言語なしで理解した。〉
 女は高校でフランス語を選択することによって、ふと言葉を取り戻した。学校を卒業し、働き、結婚して子どもを産んだ。しかし女は離婚して子どもも夫に連れて行かれた。女は20年ぶりに言葉を失った。言葉を失った女を襲ったのは死後のような静寂だった。20年前、よそよそしい外国語によって沈黙を打ち破った女は、こんどは自分の意志で言語を取り戻すために古典ギリシャ語の教室に通った。が、彼女は授業中に話しかけられてもまったく話さない。
 この小説の男は視力を失いつつあり、女は言葉を失い言語で考えない。──女の意志はどこにあるのだろうか?
 彼女は見るだけで、見たものの一切を言語に翻訳しない。──そんな状態で思考できるのだろうか?
 女は彼女の持つ言語では言い表せない世界を表現する言葉を獲得したいと願っている。

 数えきれない舌によって、また数えきれないペンによって何千年もの間、ぼろぼろになるまで酷使されてきた言語というもの。彼女自身もまた舌とペンによって酷使し続けてきた、言語というもの。一つの文章を書きはじめようとするたびに、古い心臓を彼女は感じる。ぼろぼろの、つぎをあてられ、繕われ、干からびた、無表情な心臓。そうであればあるほどいっそう力をこめて、言葉たちを強く握りしめてきたのだった。

 この美しい小説を読み解く鍵になる言葉は「中動態」だ。ギリシャ語講師である男は言う。〈古典ギリシャ語には受動態でも能動態でもない第三の態がある〉〈私たちが中動態と呼んでいるこの態は、主語に再帰的に影響を及ぼす行為を表します。〉
 國分功一郎『中動態の世界 
意志と責任の考古学(2017年、医学書院)は、小林秀雄賞を受賞して話題になったので読んだ人も少なくないと思う。翻訳した斎藤真理子の適切な「訳者あとがき」でも紹介されている。現代人が「能動態」と「受動態」の対立として描いているパースペクティヴの外側に「中動態」があり、かつては能動態と中動態が対立していたと言う。行為とは、能動のようでも必ずしも意志的でなく、受動のようでありながら意志的な側面を合わせ持つ。國分はアリストテレスやプラトンを中動態の理解の上で読み、ハンナ・アーレントの哲学解釈にまで至らせる。
 カズオ・イシグロの小説がそうであるように人間の行為は、個人の意志を超えて推移する。責任はどこのあるのか判然としない
(もちろん政治的には、その段階毎に法によって指示される社会規範は必須だ)。『ギリシャ語の時間』の二人の主人公は視力を失い、また言葉を失っている。彼らは思うように行為できない。大きく制約を受けている。だからといって意志的でないとも言えないし選択的人生を歩んでいないとも言えない。人は理解しているようで理解しない。和解を目指して和解しない。だからといって視力を失いつつある男と、言葉を失った女に表象されるものが不幸とは言えない。むしろそこには何ものか光がさしているとも言えるのではないだろうか。

   完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。
                        (國分功一郎『中動態の世界』)

 作者ハン・ガンは1970年生まれ。『菜食主義者』で2016年マン・ブッカー国際賞を受賞。日本語訳は他に『少年が来る』がある。

*國分功一郎と山崎亮の共著『僕らの社会主義』についても記事あります。

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