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2017年7月に作成された記事

2017年7月28日 (金)

剥製になった天才を考える 補遺

金秉斗さんのことなど
                        ──『吟醸掌篇』Vol.2 補遺

 『吟醸掌篇』Vol.2に自分勝手に選んだ「朝鮮文学の短篇三点」について書かせて貰った。李箱「翼」、韓雪野「泥濘」、表文台「合格者」の3点で、題して「剥製になった天才を考える」とした。その際作者についても簡単に紹介させて頂いた。しかし翻訳者に関しては名前だけに止めるしかなかった。このさい翻訳者についても少し紹介しておきたい。
 表文台(ピョ・ムンテ)「合格者」を翻訳した金秉斗(キム・ビョンドゥ)は、私にとっては朝鮮語の二人目の師であった。
 金秉斗は1934年生まれ。東京朝鮮中級学校教員や「朝鮮時報」「朝鮮新報」記者、朝鮮画報社の「今日の朝鮮」編集部長などを歴任し、その間1972年には南北朝鮮赤十字会談に在日記者団の一員として同行、平壌・ソウルで取材する機会を得ている。また宋恵媛(ソン・ヘウォン)『「在日朝鮮人文学史」のために──声なき声のポリフォニー』によると、1960年代に在日本朝鮮文学芸術家同盟機関誌『文学芸術』などに「意地っ張り」「年取った学生」などの朝鮮語小説を発表している。日本語でも短篇小説を発表したことがあると記憶するが、資料が見つからない。済州島から日本へ密航する船の中を描いた「地獄船」といったようなタイトルだったと思う。
 私の知っている金秉斗さんは1980年代、月刊『記録』に「飛揚(ピヤン)」のペンネームで白基院、高銀、李陸史などの詩・エッセイなどを翻訳していた。飛揚とは済州島の西北済州市翰林邑に浮かぶ小さな火山島である飛揚島からとった名で、金秉斗さんの出身地だということだった。
 金秉斗さんを知ったのはシアレヒム語がく(楽)塾だった。シアレヒム語がく(楽)塾は『ある韓国人の心』(1972年 朝日新聞社)などの著者鄭敬謨が主催するシアレヒム社が韓国問題を主題とする専門誌『シアレヒム』発行するかたわら、韓国語を学んだり韓国の音楽を楽しんだりする場で、韓国語クラスのほか合唱部などもあった。金秉斗は前任の金学鉉が辞めたあとの講師だった。金秉斗クラスの参加者は私を含めてそれほど勉強に熱心ではなかったが、それぞれユニークな面々であった。牧師志望の男性、韓国で囚われる政治犯の釈放運動に参加している女子大生、貿易会社で通訳をしているマジシャン、ピアニスト、銀行員、その外老若男女だった。
 私は初めて参加した日から渋谷の沖縄料理店での二次会に参加し、個性的な面々と朝まで濃い時間を共有した。これが毎週続くのだが韓国語はいっこうに上達しない。授業の無い日でも何かと理由を付けては集まり、上野の朝鮮料理屋で密造酒を嗜んだりした。合宿もしたがだいたい飲んでいて、二日目は朝からビールだった。議論はしたが勉強した記憶がない。
 金秉斗は主催者と仲違いしてシアレヒム社を去ったが、その後エディタースクールなどでも朝鮮語を教えた。私はエディタースクール参加者の自主勉強会や、中野の飲み屋の二階で開かれた別の勉強会などでも金秉斗と付き合っていた。この頃に表文台の別の作品「天国に向かう道」の原文講読もした。金秉斗さんとの付き合いがなければ表文台を知ることもなかったに違いない。
 それに金秉斗さんが兄のように慕っていた作家金泰生は、埼玉文学学校のチューターとしても私は知っていた。金泰生の死後、私は金秉斗の推薦によって『記録』誌に「解題金泰生・生と死の文学」を4回に渡って書いた。これは後に『在日朝鮮人日本語文学論』(1991年 新幹社)に収めた。
 金秉斗さんと何時しか会わなくなり暫くして、癌の治療で髪の抜けた彼と行き会ったことがある。その後また暫くして亡くなったと伝えられた。この人については公表できない逸話も少々ある。
 李箱「翼」、韓雪野「泥濘」の翻訳者である長璋吉(ちょう しょうきち)は、1968年末から1970年初めまで韓国留学した戦後韓国留学の先駆者で、東京外国語大学で朝鮮語の教員だった。私の最初の朝鮮語師匠であった大村益夫らと1970年代に朝鮮文学の会の活動をしていた。朝鮮文学の会の機関誌『朝鮮文学──紹介と研究──』に留学の経験を連載し、後に『私の朝鮮語小辞典』(1973年 北洋社、1985年 河出文庫)としてまとめている。長璋吉のエッセイはユーモラスで親しみやすく、この本を読んで朝鮮語の勉強を始めた人もけっこういるようだ。韓国在住の作家である戸田郁子もいつも読んでいたと回想している。長璋吉の著書には他に『韓国小説を読む』(1977年 草思社)、『朝鮮・言葉・人間』(1989年 河出書房新社)などがあり、翻訳も金宇鍾『韓国現代小説史』(1975年龍渓書舎)などがある。因みに韓国で出会った女性と結婚したことを「もらいつけない女房なんぞというものをかの地にもらって気もそぞろだったのではあるまいかと邪推」されている(『朝鮮文学──紹介と研究──』第5号、1971年12月)と書いている。そうとう冷やかされたに違いない。長命であったなら今日の朝鮮文学研究、韓国文学紹介の第一人者であったはずだが、1988年に47歳という若さで他界した。
 『吟醸掌篇』では、李箱の翻訳者としてもう一人崔真碩(チェ・ジンソク)をあげた。それには理由がある。李箱の翻訳は外にも数人・数点あるが、私の知る限り崔真碩編訳『李箱作品集成』(2006年 作品社)がもっとも新しい。崔真碩は李箱研究の第一人者であり、難解な李箱文学の理解者である。李箱を読み解く上で崔の論考は必須と考えたからだ。

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