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2017年4月14日 (金)

金哲『植民地の腹話術師たち─朝鮮の近代小説を読む』

植民地出身者として近代と対峙しながら生み出した  近代文学
                      金哲著、渡辺直紀訳『植民地の腹話術師たち─朝鮮の近代小説を読む』

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 曺泳日(ジョ・ヨンイル)は『世界文学の構造』において、韓国は近代文学が発展することのできる歴史的条件を備えていない。〈近代文学が発達した国と、そうでない国の違いは〉〈その国がナショナリズムを経て帝国主義までを経験したかどうかによります。〉と書いている。〈近代文学とは、本質的に「戦後文学」だ〉というのだ。日本に当て嵌めれば日清・日露戦争を経てこそ夏目漱石という国民作家の誕生を得た。曺泳日の、近代文学は近代国家になる「国民戦争」を経験して成立した長編小説を示しものであり、韓国に近代文学は成立しなかった、とする論は些か飛躍がすぎる。曺泳日自身も使っているように韓国の文学史においても「近代文学」という言葉は生きている。「韓国近代文学」あるいは「朝鮮近代文学」ということばが普遍的に使われている事実をおいて、その存在自体を抹消するのは度が過ぎている。今さら李光洙の作品は近代文学ではないと言っても始まらない。しかしヨーロッパ諸国や日本など先進資本主義国家における近代文学と、朝鮮近代文学との違いという意味でなら曺泳日の論は正当だ。
 金哲(キム・チョル)『植民地の腹話術師たち─朝鮮の近代小説を読む』は朝鮮近代文学の特殊性について、朝鮮の近代小説に具体例を取りながら解読している。金哲の前提としたのは、〈朝鮮近代文学の建設──それがすべての植民地作家たちの目標であり存在理由であった。〉という理念だ。
 朝鮮近代文学の草創期の作家らは「構想は日本語で、描くのは朝鮮語で」という植民地出身者として近代と対峙する煩悶を持った。近代とは何か。近代社会を決定づける要素とは何か。金哲は〈近代国家建設の最も重要な要素は、鉄道や電信、電話、郵便などのような新しい交通と通信の手段である。〉と書いている。近代小説はエロティシズムと不可分の関係にある近代的個人を描く様式であり、19世紀末以来韓国社会は「英語=アメリカ=文明=世界」という表象構造を一つの強迫として受け止めながらも、韓国小説はこのような社会現象を反映したが、それは同時に「民族」を発見することに繋がった。
 そして、韓国(朝鮮)語の近代化は、植民地宗主国の言語である日本語との混成を通じて成立している。しかも朝鮮語・朝鮮近代文学草創期の言語確立の死闘の末に驚くべき創造の結実を見た。日本語が侵入し、朝鮮語が圧迫され、やがて使用が禁止される1930年代後半から1945年の解放に至る期間は「暗黒期」「空白期」ではなく、むしろ「韓国語」(朝鮮語)と「韓国(朝鮮)文学」の他の可能性が模索され遂行される、躍動的かつ活力に満ちた時期でもあったと規定する。こうした金哲の逆転の発想は意外に画期的だ。
 金哲は「韓国文学とは何か」という根本的問いを自明のものとしなかった。
 1917年に発表された李光洙の『無情』は純ハングル文体で書かれている。純ハングル文体でのエクリチュールはきわめてはやく定着した。純ハングル体の小説エクリチュールこそ、植民地における最も明白かつ確実な自律的領域だ。韓国語が外国語に匹敵する、いわば韓国語による近代文学は成立しうるものだと論証して見せたと言えよう。
 本書は、李光洙・金東仁・李孝石・蔡萬植・金南天・朴泰遠・李箕永・張赫宙・金史良など多くの朝鮮人作家を取り扱い、13篇の短篇評論を13章に組んで一冊としている。表題作「第12章 植民地の腹話術師たち」には、本書の副題とは異なる「朝鮮作家の日本語小説創作」が付いている。この主題はこれまでにも多くの研究者が論じてきているが、本書では余りに短文過ぎて議論としては物足りない感じが残るのがやや残念だ。
「日本の読者に」に書かれた著者の次の言葉が、意識の高さ深さ、民族主義に囚われない新しさを示している。

  特定の集団への帰属を自らの根拠としない人たち、自分だけのことばで語ることに邁進するすべての人々に、深い連帯の気持ちを込めて本書を捧げたい。

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