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2017年2月 9日 (木)

李炳注『関釜連絡船』のぎりぎり

学徒兵世代の文学再評価を

 第二次世界大戦末期つまり日中15年戦争末期、学徒動員以後も朝鮮人学徒は徴兵されなかった。しかし「志願」させられ大陸へ出兵していった。朝鮮人学徒の強制的出兵志願について、韓国では張俊河の『石枕』などが有名だ。張俊河は兵舎を脱走し重慶へ向かい大韓民国臨時政府の光復軍に加わった。戦後は雑誌『思想界』を創刊するなど活躍したが登山中に謎の死を遂げる。李承晩、朴正煕と続く軍事政権に批判的だったことと無関係ではないと言われる。
 朝鮮人志願兵の実際をモチーフにした作品として日本語で書かれた作品としては、尹在賢『凍土の青春』麗羅『山河哀号』などがある。麗羅『山河哀号』は戦中から戦後にわたる青年の苦闘そのものが朝鮮の近代史として読者の前に立ちはだかる。これらの作品はほぼ忘れかけられていたが、『凍土の青春』は2014年3月に韓国で翻訳出版されている。『世界文学の構造』などの著書を持つ韓国の評論家ジョ・ヨンイルも『すばる』2月号のインタビューで『凍土の青春』に触れ〈学徒兵はこれまで歴史学からはもちろん、文学界からも疎外視されてきました。〉と言っている。克服すべき対象だったのだと。
 ジョ・ヨンイルは、〈近代文学は戦後文学と同義語なのです。近代国家になる「国民戦争」という共通の経験を通して成立するものなのです。〉と言い、また長編小説を指すとも言う。「国民戦争」という民族統一の経験を持たず、ろくな長編小説もないから韓国には近代文学は成立しなかったと言いたいようだ。長編小説が近代文学の前提であるかどうかは疑義を挟む余地があるがここではさておいても、私たちが李光洙を「朝鮮近代文学の祖」と呼ぶのは間違っているのだろうか? 『林巨正』の洪命憙や韓雪野や李箕永など北朝鮮に行った作家たちをまるっきり無視して良いものだろうか。確かに日本の近代文学史に比べれば李光洙からプロレタリア文学までの期間が極端に短い。だからといって近代文学の規定を、柄谷行人に任せて朝鮮の民族文学に当て嵌めて解釈するのが妥当だろうか。因みに大村益夫は北は中国の朝鮮族自治区から南は済州島までを朝鮮文学の地理的範囲としている。最近在日朝鮮人作家金石範の『火山島』が韓国で翻訳出版されたことが民族文学理解に投じた意味も小さくない。Photo
 さて韓国の作家李炳注(1921-1992)も朝鮮人学徒兵としての経験を持つ一人だった。作者死後25年も経って今年『関釜連絡船』が日本語訳された。『関釜連絡船』の主人公たちも学徒兵として出兵している。物語は、1966年「私」であり「李先生」である語り手に日本留学時代の友人から手紙が届くところから始まる。柳泰林を探して欲しいという。柳泰林がこの小説の実質的主人公と言える。語り手である李先生が反共右翼としての立場を明確にしているのに比して、柳泰林は政治に対して超然としたいという立場ながら、思考の端々に容共的発想を表し、左翼的独立運動家であった呂運享に対する尊敬を隠さない。訳者あとがきによると、『関釜連絡船』は1968年4月から1970年3月まで雑誌『月刊中央』に連載された。朴正煕軍事独裁政権の時代だ。自由に語れない時代の文学作品をどう読み解くかは難しい。独裁政権下での文学に制限があるのは仕方ないとしても、文学を支える精神が阿てはいけない。李炳注『関釜連絡船』はぎりぎりのところではないだろうか、というのが筆者の見解だ。
 小説は「柳泰林の手記」をあいだに挟みながら、朝鮮が日本に植民地支配されていた1930年台から朝鮮戦争が始まる1950年までと現在である1966年を往来する。私や柳の日本でのややデカダンだが知的でもある学生時代の描写のなかにも、常に官憲の目にさらされている朝鮮人としての苦悶が表れる。日本と朝鮮が平行に描かれるが、朝鮮の舞台は主に「C市」として表記される晋州だ。解放後、私や柳泰林はC市高校の教師として左右政治勢力の闘争に巻き込まれ悪戦苦闘し、柳泰林は朝鮮戦争時に消息を失う。
 戦前戦後の混乱の中で朝鮮民族が味わった苦渋のどれほどを、我々は知っているだろうか。しかしその抵抗と苦渋のなかに民族の文学は身悶えしていなかったか。帝国主義戦争を闘った側だけに近代文学は成立したのだろうか。否、植民地支配された側にも近代文学は成立した。ただその成立過程と性格が異なるため朝鮮近代文学には多分に抵抗的要素があり、また見かけ上はいくつにも分断されている。柳泰林や登場人物たちと同様、作者も朝鮮の特権階級出身、日本で知的教養を身に付け日本の軍人とし出兵した学徒兵世代だ。学徒兵世代の知的教養に関して翻訳した橋本智保はこう書いている。

  李炳注にとって日本(語)を媒介に接した近代文学とは、人類普遍の価値を体現するものであり、植民地になった朝鮮の運命や、学徒兵になった自分の運命を、親日・反日という図式を超えたところで説明してくれる根拠になっていると考えられる。
                                         (訳者あとがき)

 金鍾国が『親日文学論』を書き、金允植は『傷痕と克服』を書いた。韓国文学は一旦強制された日本語、帝国主義言語としての日本語を徹底的に批判しなければならなかった。文学に於ける帝国主義の克服は、韓国文学に於いても日本に於ける朝鮮人の文学に於いても必須だった。だから訳者あとがきの当たり前の言説も新鮮なのだ。最近、韓国では学徒兵世代の教養が見直されているようだ。同時に独裁政権時代の文学も見直されなければならない。植民地支配や軍事独裁とせめぎあいながら書かれた文学の再評価の時が来たのかも知れない。

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コメント

やっと、本作を読み始める時間できたので、このブログを読み直して、また気づきましたが、金鍾国『親日文学論』は、林鐘国ですよね。
それと「文学を支える精神が阿てはいけない。」は直してください。
では、また。

黄英治さんのご指摘を受けて一部訂正させて頂きました。

張俊河先生は、朴正煕時代に不審死してますので、訂正された方がいいです。
ただ、張先生はもちろん、李承晩にも反対して闘いました。

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