フォト
無料ブログはココログ

« 2017年1月 | トップページ

2017年2月に作成された記事

2017年2月20日 (月)

死六臣公園を歩く

 

麗羅の『山河哀号』の主人公成文英は死六臣の一人成三問の子孫だという設定だった。私はかつて死六臣が祀られた死六臣公園を訪ねたことがある。前回記事の付録的意味で死六臣公園を訪ねた際の記憶を写真など見ながら辿って見ようと思う。
Dsc00067 死六臣公園はソウル市銅雀区(ドンジャング)鷺梁津(ノリャンジン)にある。地下鉄1号線鷺梁津駅を下りると瞬間生臭ささが漂ってくる。近くにソウル一番の水産市場があるのだ。鷺梁津は漢江の南、国会のある汝矣島(ナジド)を東に出た側に位置する。この辺りは鍾路や明洞などの中心街とは趣を異にして郊外の感すらある。けたたましく車が走り抜けていく幹線道路の両側にはずらっと予備校が並んでいる。Dsc00069
 五・六分も歩くと鬱蒼とした林のようなところが見えてくる。整備された公園入り口の巨大な門柱に銅板に刻まれた「死六臣公園」という文字が見える。舗装されてL字溝まで設えた意外と広い道を上がっていくと、通りの喧噪を木々が塞いでくれる。大きな赤い鳥居状のものの下を通る。これは紅サル門(홍살문)とか、紅箭門(홍전문)とか、たんに紅門(홍문)と言われ、いわば神聖な地への入り口である。陵などの前に建てられている。日本の鳥居の親戚のようなものだろう。もともとこの辺り一帯の堂山として祀られている地域なのだと思われる。山頂の広場に置かれた四阿で笛の練習をしている若い人がいた。夏だったのでポプラからアメリカシロヒトリが墜ちてきた。鵲(カチ)が低空飛行して目の前を過ぎる。近隣の住人や学生の憩いの場となっているらしい。Dsc00071
 街を見下ろそうとすると、目の前を巨大なアパート群が塞ぐ。反対側に出る道の途中から松林の中の小径に足を踏み入れると、ほどなく緑の広場が目の前に開けこんもりまるい墳墓がいくつか見える。墓地の裏側から入ってきたのだ。墳墓は横から見ると正円ではなく、オタマジャクシの尻尾のようなものがついている。緑の墓地は松林で囲まれている。松の木は「トリソル(도리솔)」と言って霊魂が天に昇るときに乗る媒体なのだそうだ。墓地周囲の土手をぐるりと回ると、墳墓の正面にはそれぞれ小さな碑が置かれて姓が刻まれている。「成氏之墓」「柳氏之墓」……と。しかし、数えてみると墓は七つあった。正面から右の端の方に「金氏之墓」というのがあるが、六死臣には金某という人はいない。Dsc00079
 そもそも死六臣とは誰かというと、成三問・朴彭年・河緯地・李塏・兪應孚・柳誠源を言う。彼らは、朝鮮朝第四代の世宗の信任が厚く、病弱な五代文宗からは幼い嗣子(端宗)を良く補弼するよう顧命を受けた者たちだった。ところが、文宗が死に端宗が11歳で即位すると、叔父の首陽大君は勢力を拡大してついに1453年、端宗の後見だった皇甫仁・金宗瑞と実弟の安平大君を粛正して権力を握る。これが世に言う「癸酉靖難」だ。首陽大君は1455年端宗から王位を剥奪し自らが即位した。これが第七代世祖である。Dsc00082_2
 上記の6名はすぐさま端宗の復位を企て、同調者を糾合して機会を待った。彼らは1456年6月明国使臣の歓送の宴において世祖一派を処断しようとしたのだったが、事前に漏洩して挫折する。
 同志の一人であった金綢(김질)らが裏切って世祖に端宗復位陰謀の全貌を密告し、世祖は関連者をすべて捕まえ自ら彼らを問責した。成三問は真っ赤に焼けた鉄で脚を突き刺し、腕を切り落とされる残酷な拷問にも屈せず世祖を「전하(殿下)」と呼ばず「ナリ(나리)」と呼んで、王として対することはなかった。残った人々も真相を自白すれば許すという言葉を拒否して刑罰を受けた。成三問・朴彭年・兪應孚・李塏は灼刑で処刑、河緯地は惨殺され、柳誠源は捕まる前に妻とともに自殺した。
 また、死六臣の家族も男は皆殺害され女は奴碑として連れて行かれた。死六臣以外にも金文起・權自愼ら七十余名が謀反嫌疑で禍を被った。この金文起という人が死六臣墓地に死六臣とともに奉られていた7人目である。公園内に設置された説明文によると、墳墓はもともと朴彭年・成三問・兪應孚・李塏のものがあって、後に河緯地・柳誠源・金文起のものが祀られたという。この金文起を忠臣死六臣に加えるべきかどうかで近年論争があるそうだ。
 死六臣は1691年、粛宗によって官職が復帰され、愍節という賜額が下されたことによって鷺梁津堂山墓所の下に愍節書院を建て神位を奉って祭祀を行うようになった。
 私が訪ねたとき、五六人の老人が書院に続く石畳から上がってきた。みな体格良く、杖をついてよぼよぼ歩いているようには見えるが、どことなく殺気を押し殺したような雰囲気がある。一人は「テジャンニム(隊長)」と呼ばれていたので、退役軍人だろうか。忠臣の墓参りだ。
 墓所から木槿咲く垣根を巡って雨に濡れた石畳を踏み、愍節書院の裏側の小径に降りていった。小門を入ると「義節祠」と額のかかった書院の横にでた。書院の中には木製の位牌のようなものが、これも七つ並んでいる。振り返って石段を降りると庭園には芝生が広がる。六角の石塔は死六臣碑である。これは1955年に建てられたそうだ。Dsc00096
 大きく緑豊かな柿の木を右斜め背後にして不二門から外に出ると、公園の木々の間を白黒の鵲が歩き回っている。不二門も丹青(단청)と呼ばれるカラフル彩色だ。陰陽五行説に基づいて方位や位置など一定の秩序に基づいて五色の原色で彩られている。緑豊かな公園にマッチしている。韓国人の美意識や思想が凝縮されているようですらある。
 入ってきた坂を下っていくと梢の間から下の幹線道路を隔てた向かいに旅館が見える。祭祀のときには賑わったのだろうか。公園の外は喧噪のソウルだ。
 「死六臣」は死後230年以上復位することもなかったのだから歴史的には敗者と呼べる。死六臣が敗者なら世祖と世祖に与した輩は勝者であろうか。世祖が権力を握る過程で、これを助けた功臣たちは、その後も世祖の側近として批判勢力を弾圧し世祖に優遇された。彼らは後に「勲旧派」と呼ばれるようになる。しかし韓国で勲旧派といえば悪役らしい。日本でも流行った韓流ドラマ「大長今」(日本版タイトル「宮廷女官チャングムの誓い」)に出てくる悪役「オギョモ」も勲旧派の末裔である。
 崔碩義氏の『韓国歴史紀行』(影書房)によれば、どうやら嫌われ者勲旧派の代表選手は、韓明澮(ハン・ミョンフェ)だったようだ。この人物は世祖に従って権勢を振るった。風流人を気取って漢江のほとりに別荘を建てて「狎鷗亭」と名付けた。狎鷗亭洞(アックチョンドン)といえば現在韓国では高級なファッションストリートということになっている。死六臣公園のある鷺梁津は水産市場と学習塾の街であり死六臣を祀る堂山のある街である。最先端のファッショナブルシティ狎鷗亭洞とは対照的だ。しかし歴史に敗者と勝者の区別はないかも知れない。麗羅の『山河哀号』のもう一人の準主役である韓哲相は韓明澮の末裔ということになっていた。

2017年2月18日 (土)

麗羅『山河哀号』

「学徒兵世代」の描いた朝鮮民族の傷痕

 大日本帝国はPhoto_2富国強兵のスローガンの下、台湾・朝鮮を植民地とし、1931年からは中国で侵略戦争を展開し偽満州国を建て、1937年からは中国との全面戦争に突入した。1941年からは太平洋まで戦線を広げたが戦争は完全に行き詰まっていた。弾薬不足、食糧不足に加え兵隊が不足し、徴兵が免除されていた学生も戦線へ駆り出されるようになった。1943年10月21日の明治神宮外苑での出陣学徒壮行会の映像は度々TVでも放映されている。しかし朝鮮出身者に対する徴兵は翌年まで始まらない。その代わり特別志願兵制度に志願させられる朝鮮人青年は多かった。『石枕(トルペゲ)』の張俊河(チャン・ジュナ)『凍土の青春』の尹在賢(ユン・ジェヒョン)は特別志願兵制度で学徒出陣し中国で兵営を脱出して朝鮮独立のための光復軍に合流している。
 1924年慶尚南道咸陽郡に生まれ工科学校で学んだ鄭埈汶(チョン・サムン)も、1943年日本陸軍に特別志願兵入隊した。後のミステリー作家麗羅だ。麗羅は『わが屍に石を積め』(1980年)や『桜子は帰ってきたか』(1983年)の作者として知られる。しかし麗羅の原点的作品は『山河哀号』だ。『山河哀号』は1949年に書き始め、1952年に初稿を上げたが出版されたのは1979年集英社だった。(1986年に徳間文庫版が発行されている。)

   祖国と民族が不幸に沈淪していた時代を、私は水に流される泥舟のように生きた。ただただ風向きに逆らうまいと心がけ、ひたすら沈まないことを願っただけだった。
   …略…
   私は、自分が作家になったら、まっ先にその悔恨を書こうと思った。いや、それが書きたいから作家を志望したと言える。

Photo_3
 麗羅は韓国で言う「学徒兵世代」李炳注より3歳下、在日では金泰生や金石範と同世代だ。1943年明治大学講堂で開催された在東京朝鮮人学徒出陣決起大会には麗羅自身も参加しただろうと思われる。この大会に出席した青年たちの行く末は悲惨だ。『山河哀号』の主人公成文英も朝鮮人青年に出陣を強要する大会に主席させられていた。演台には当時朝鮮の最高の知識人と言われた崔南善、李光洙らが立った。彼らの演説は余りにも稚拙な論理で出陣を促すものであるのはもとよりだが、朝鮮民族を辱める内容だった。東京帝大生で朝鮮史を勉強していた成文英は思わず立ち上がり李光洙を批判してしまう。
 波田野節子はその著書『李光洙』(中公新書)で〈志願しなかった留学生は「非国民」の烙印を押されて休退学や除籍になり、あるいは遅まきながら志願に応じて軍隊で悲惨な待遇を受け、あるいは朝鮮総督府に送還され、あるいは日本で労働に従事して監視処分を受けた。〉と書いている。波田野は李光洙の学徒兵志願勧誘について同情的だ。『山河哀号』でも立ち上がった成文英を諫めようとする李光洙が描かれている。しかしこの小説の主人公はあまりにも潔癖だった。結果成文英は逮捕され拷問の末禁固十年の刑を受け秋田刑務所に送られた。
 一方、李光洙の演説に感激した者もいた。出陣決起大会には前列に第一陣に志願した学生たちが日の丸襷を掛けて座っている。その内の一人が北村哲也こと韓哲相だった。徴兵されるよりは志願したほうが待遇が良いだろうと自ら志願した麗羅自身は、この北村に近い立場だったと思われる。出征した北村は京城郊外の特別志願兵訓練所で優秀な成績を送っていたが、所内は支給される筈の糧食が中間搾取されるなど不正がはびこっており、訓練生たちは暴力で押さえつけられていた。北村の同僚のなかには逃亡する者もあった。
 日本の敗戦、朝鮮の解放を迎えようやく帰国できた成文英や、8月14日に形だけの反乱を起こして独立運動家になった韓哲相は政治的野心を大きくするが、アメリカ統治下の南朝鮮で様々な政治勢力の台頭に翻弄される。左右の対立は民族を統一から遠ざける。人々は植民地時代に親日行為をした負い目から激しく反日を旗幟とした政治運動へと導かれていた。一方学究として生きたい成文英は京城帝大に転学し、できるだけ目立たないようにしているが状況が許してくれない。また資産を持つ名家出身の成文英は結婚相手も自由には選べない立場だった。解放後親日派から左翼に転身した若者たちからは嫌悪される立場でもあった。親日とは何か、民族とはどうあるべきものか。歴史にいたぶられる成文英の姿はそういった問いを読者に投げかける。
 小説の背景には実在に人物や事件が配色される。李光洙らの文化人だけでなく、呂運享などの政治運動家も登場し歴史小説的リアリティーを持たせている。個人的には「始原の光」と呼ばれた作家金史良が連座した朝鮮芸術座事件の逸話には心そそられた。あらゆる歴史が丹念に調査され描かれている。主人公成文英の設定が死六臣の一人成三問の隠された子孫ということになっている点も朝鮮の民族性を感じさせる。成三問はあらゆる拷問に耐えて殺された忠君と言われる人物だ。死六臣を扱った李光洙の『端宗哀史』は『山河哀号』中にも紹介されている。近年ではテレビドラマ「王と妃」にも出てくる。
 『山河哀号』は虚構に依って歴史の真実を追った小説であり、民族史に託された作家の精神の痕跡でもあった。

2017年2月 9日 (木)

李炳注『関釜連絡船』のぎりぎり

学徒兵世代の文学再評価を

 第二次世界大戦末期つまり日中15年戦争末期、学徒動員以後も朝鮮人学徒は徴兵されなかった。しかし「志願」させられ大陸へ出兵していった。朝鮮人学徒の強制的出兵志願について、韓国では張俊河の『石枕』などが有名だ。張俊河は兵舎を脱走し重慶へ向かい大韓民国臨時政府の光復軍に加わった。戦後は雑誌『思想界』を創刊するなど活躍したが登山中に謎の死を遂げる。李承晩、朴正煕と続く軍事政権に批判的だったことと無関係ではないと言われる。
 朝鮮人志願兵の実際をモチーフにした作品として日本語で書かれた作品としては、尹在賢『凍土の青春』麗羅『山河哀号』などがある。麗羅『山河哀号』は戦中から戦後にわたる青年の苦闘そのものが朝鮮の近代史として読者の前に立ちはだかる。これらの作品はほぼ忘れかけられていたが、『凍土の青春』は2014年3月に韓国で翻訳出版されている。『世界文学の構造』などの著書を持つ韓国の評論家ジョ・ヨンイルも『すばる』2月号のインタビューで『凍土の青春』に触れ〈学徒兵はこれまで歴史学からはもちろん、文学界からも疎外視されてきました。〉と言っている。克服すべき対象だったのだと。
 ジョ・ヨンイルは、〈近代文学は戦後文学と同義語なのです。近代国家になる「国民戦争」という共通の経験を通して成立するものなのです。〉と言い、また長編小説を指すとも言う。「国民戦争」という民族統一の経験を持たず、ろくな長編小説もないから韓国には近代文学は成立しなかったと言いたいようだ。長編小説が近代文学の前提であるかどうかは疑義を挟む余地があるがここではさておいても、私たちが李光洙を「朝鮮近代文学の祖」と呼ぶのは間違っているのだろうか? 『林巨正』の洪命憙や韓雪野や李箕永など北朝鮮に行った作家たちをまるっきり無視して良いものだろうか。確かに日本の近代文学史に比べれば李光洙からプロレタリア文学までの期間が極端に短い。だからといって近代文学の規定を、柄谷行人に任せて朝鮮の民族文学に当て嵌めて解釈するのが妥当だろうか。因みに大村益夫は北は中国の朝鮮族自治区から南は済州島までを朝鮮文学の地理的範囲としている。最近在日朝鮮人作家金石範の『火山島』が韓国で翻訳出版されたことが民族文学理解に投じた意味も小さくない。Photo
 さて韓国の作家李炳注(1921-1992)も朝鮮人学徒兵としての経験を持つ一人だった。作者死後25年も経って今年『関釜連絡船』が日本語訳された。『関釜連絡船』の主人公たちも学徒兵として出兵している。物語は、1966年「私」であり「李先生」である語り手に日本留学時代の友人から手紙が届くところから始まる。柳泰林を探して欲しいという。柳泰林がこの小説の実質的主人公と言える。語り手である李先生が反共右翼としての立場を明確にしているのに比して、柳泰林は政治に対して超然としたいという立場ながら、思考の端々に容共的発想を表し、左翼的独立運動家であった呂運享に対する尊敬を隠さない。訳者あとがきによると、『関釜連絡船』は1968年4月から1970年3月まで雑誌『月刊中央』に連載された。朴正煕軍事独裁政権の時代だ。自由に語れない時代の文学作品をどう読み解くかは難しい。独裁政権下での文学に制限はあるのは仕方ないとしても、文学を支える精神が阿てはいけない。李炳注『関釜連絡船』はぎりぎりのところではないだろうか、というのが筆者の見解だ。
 小説は「柳泰林の手記」をあいだに挟みながら、朝鮮が日本に植民地支配されていた1930年台から朝鮮戦争が始まる1950年までと現在である1966年を往来する。私や柳の日本でのややデカダンだが知的でもある学生時代の描写のなかにも、常に官憲の目にさらされている朝鮮人としての苦悶が表れる。日本と朝鮮が平行に描かれるが、朝鮮の舞台は主に「C市」として表記される晋州だ。解放後、私や柳泰林はC市高校の教師として左右政治勢力の闘争に巻き込まれ悪戦苦闘し、柳泰林は朝鮮戦争時に消息を失う。
 戦前戦後の混乱の中で朝鮮民族が味わった苦渋のどれほどを、我々は知っているだろうか。しかしその抵抗と苦渋のなかに民族の文学は身悶えしていなかったか。帝国主義戦争を闘った側だけに近代文学を成立したのだろうか。否、植民地支配された側にも近代文学は成立した。ただその成立過程と性格が異なるため朝鮮近代文学には多分に抵抗的要素があり、また見かけ上はいくつにも分断されている。柳泰林や登場人物たちと同様、作者も朝鮮の特権階級出身、日本で知的教養を身に付け日本の軍人とし出兵した学徒兵世代だ。学徒兵世代の知的教養に関して翻訳した橋本智保はこう書いている。

  李炳注にとって日本(語)を媒介に接した近代文学とは、人類普遍の価値を体現するものであり、植民地になった朝鮮の運命や、学徒兵になった自分の運命を、親日・反日という図式を超えたところで説明してくれる根拠になっていると考えられる。
                                   (訳者あとがき)

 金鍾国が『親日文学論』を書き、金允植は『傷痕と克服』を書いた。韓国文学は一旦強制された日本語、帝国主義言語としての日本語を徹底的に批判しなければならなかった。文学に於ける帝国主義の克服は、韓国文学に於いても日本に於ける朝鮮人の文学に於いても必須だった。だから訳者あとがきの当たり前の言説も新鮮なのだ。最近、韓国では学徒兵世代の教養が見直されているようだ。同時に独裁政権時代の文学も見直されなければならない。植民地支配や軍事独裁とせめぎあいながら書かれた文学の再評価の時が来たのかも知れない。

« 2017年1月 | トップページ