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2016年11月 6日 (日)

柴田翔「地蔵千年、花百年」

生と死を巡る小説

69 『されどわれらが日々』の作家柴田翔が30年ぶりの長編「地蔵千年、花百年」を発表したと、東京新聞夕刊の文化面で知り、メジャーとは言えない雑誌『季刊文科』69号(2016年8月発行)を購入した。商業ベースでは厳しそうな雑誌でもネットでは簡単に注文できる点は今日の利点と言えるのかも知れない。
 初めは、東京郊外に暮らす男が昭和の歴史とともに自分の半生を振り返る私小説風のものかと思いながら読み進めたのだが、そこに込められたのは近代史的視点に加え、文化史的、人類学的、且つ広範囲な地域からの照射によって生と死の交差を魂の伝達として表そうという試みだった。無論私小説ではない。背景に政治史がしっかり敷かれているにも拘わらず、嫌みが無く読後感が爽やかだ。
 1975年頃の東京郊外の商店街と小住宅地の風景から始まった小説は、昭和の家族の物語を予測せしめた。しかし敗戦の年に10歳だった男の半生は長閑ではなかった。加見直行は、若き日山間の温泉宿で知り合った〈仮初めの男〉の誘いに乗って、我知らず赤道に近い海辺の小国で幸せな3年を過ごしていた。そこは〈南半球から赤道へ拡がる大陸の北端、わずかに赤道の北側に位置する海辺の国〉だ。実は逃亡中の過激派リーダーである〈仮初めの男〉に替わって現地で貿易を営み、ここでしかほぼ使われない古イタリア語方言を習得慣れ親しむうちに、淡い褐色の肌の女性グレティーナとの幸せな時間を過ごすことになる。しかしある日突然、政治の陥穽に落とされ急遽帰国せざるを得なくなる。日本に帰った直行は日本で貿易事務所を開き若い妻を得て息子を儲ける。
 直行と家族の生活は、昭和が終わりベルリンの壁が崩れるという歴史の変遷の中で商店街とともに変化していく。駅ビルの晴れやかな開業と対照的に商店街にもたらされる小さな事件の連鎖は、馴染みの歯科医師の死に象徴されるような繋ぎ目をいくつも持った。それぞれの戦後を生きた商店街店主たちの変転変遷に続き、妻晃子の若い死を迎える直行の生は〈骨の孤独を誰が癒すのか〉という問題に突き当たる。そしてやがて老いたる直行の生はハイブリッドな孫であるニカへと受け継がれていく。コーカソイド、モンゴロイド、ネグロイドの混血である南米出身の母と、日本人の混血性に自覚的である筈の父を持つニカの表出こそ希望だ。
 加見直行を中心とする登場人物たちの会話は、日本語のほかアメリカ英語、日本式英語そして海辺の町で使われる古イタリア語方言と多様で、その世界も東京郊外の町、海辺の小国、直行の成人した息子夫妻が暮らすアメリカ南端の大学町と広がりながら繋がる。
〈文化も歴史も、死者たちと生者たちの思いの感応がなければ生まれない……。永遠無量の時空の片隅で、死者と生者の思いが重なって、そこから初めて文化や歴史が生まれてくる〉
 この小説では不穏なるもの、光を潰す陰湿なものが殆ど描かれないか、背景に押しやられて、生と死の理想形だけが追求されているようにも読めるが、この小説の美しさは、そうした構成が功を奏したものとも言えようか。若く過激な批評家であれば不満は残るだろうが、読後感として物足りなさはない。生と死を巡る魂の小説と言ったら大仰だろうか。グローバルでありながらも民族的な価値観の表出、あるいは狭隘な場(トポス)を表現しながら人類史に辿り着く表現だ。

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