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2016年10月 5日 (水)

パク・ミンギュ『亡き王女のためのパヴァーヌ』

愛には想像力が必要かも知れない

Photo 第1回日本翻訳大賞大賞を受賞して少し話題になった『カステラ』の作者パク・ミンギュの長編『亡き王女のためのパヴァーヌ』は、1985年の韓国ソウルが主な舞台になっている。そして意表を突く恋愛小説だ。
 1985年、韓国はどんな社会だったか。一口で言えば「民主化の時代」だ。全斗煥が第五共和国を率いた軍事独裁国家に対して学生運動などの民主化運動が復興していた。労働運動も台頭した。申京淑『離れ部屋』にも描かれた九老工団のストライキは有名だ。もう一面では88年のオリンピックに向けてインフラ整備が進んでいた。
 1985年、ぼくは何をしていたか? 無論20歳ではなかったが彼女はいた。「良い大学」出ていて、多分綺麗な方だった。李良枝、金鶴泳、金石範、桐山襲、山代巴、黄晳暎などを読んでいた。「鯨取り」などの韓国映画を観た。大宮で在日朝鮮人文学を読む会に参加していた。韓国にも行った。ソウル―光州―木浦―伽倻山―河回とまわった。金準泰の詩など韓国文学の原文読解にも挑んでいた。ぼくの中での第一次韓国ブーム期だったと言っていい。
 『亡き王女のためのパヴァーヌ』という小説は、もしかするとこうした時代設定を無効にするものかも知れないと訝る気持ちが少し蟠る。
 学歴社会の韓国で女子商業高校出身だというだけで目の前に大きな壁を置かれたような状況だってことは、映画「子猫をお願い」を観ても分かる。この小説は日本以上に見た目を重視する差別社会において、商業高校出で「ブス」というレッテルを貼られた女性を巡る恋愛の物語だ。まだ携帯電話もなく家の電話で互いの所在を確認しなければならなかった時代だ。これは日本でも同じ。今ならすれ違わないで繋がる思いが、空中で交差して交わらずに落ちる。地下鉄も整備されていないソウルではバスを何回も乗り換えて会いに行く。〈中風の父親と幼い弟、行商に出る母……描写するまでもなく世の中の過酷さが光を放っていた。〉チェ・ジウ主演のドラマのように貧しいけれど美人で頭の良いヒロインという設定が韓国ドラマの王道だろう。正直、容姿のために生きていくのが大変なんだ、あの子は弱者なんだと断言される(しかもシンパシーから)ほどのヒロインなんて想像がつかなかった。
 〈人間は果たして失敗作なんだろうか、人間は果たして……成功作だろうか?〉〈失敗作か成功作かという以前に、ただ「作品」としてだけでも価値があるのではないか、〉という主人公の煩悶は読者の煩悶でもある。1985年、開発独裁が末期に近づいている年、オリンピックを3年後に控えて益々豊かさを社会が追究していた時代。彼と彼女とヨハン先輩の3人はそれぞれ傷を持ち闇を抱えて、お互いを必要としていた。
 パク・ミンギュの小説は意表を突く改行で驚かせる。既成の概念に囚われることをよしとしないのだろう。我々を覆い尽くす社会の常識、資本主義の足枷を一旦すべて取り外せないものかと足掻いた文体だ。〈二十歳の男なんてAMラジオみたいなものだ…どんなにチャンネルを回しても、女という電波をとらえられない。〉しかし、こんな斬新に見える比喩も金融資本主義の枠の中に収まっているということを作者は知っている。
 想像力を持たない者は人を貶(おとし)め辱め見下す。資本の論理に従って豊かさを奪い合う。パク・ミンギュが「自分だけの想像力」を持っているかどうかは分からない。しかし「自分だけの想像力」を持とうとしていることは確かなようだ。

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