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2016年7月 1日 (金)

キム・ヨンス『ワンダーボーイ』CUON

苦しみさえ伝えられない
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 『ワンダーボーイ』と聞いて、韓国の女性ボーカルグループ「ワンダーガールズ」や、はたまたカン・ドンウォンとコ・スが闘った映画「超能力者」を思い浮かべた人はいなかっただろうか?
 まったく違った。この小説の主人公は人の悲しみ苦しみを理解してしまう。人の心に同調し、人の思いを読んでしまう。そして自分の悲しみを他人に反映させ涙をうつす。父を失う交通事故に遭遇してから、少年は彼を取り巻く環境と正反対の能力を得てしまったのである。その時代は拷問で反政府活動家たちを葬り去る社会だ。少年キム・ジョンフンは人の心を読む能力のために、取調室で拷問を受けている男の心を読まされた。
 韓国の女性作家千雲寧も小説『生姜(センガン)』で拷問社会を描いた。しかしそこに描かれたのは韓国民主化後1988年から1999年まで、ファッショ政権の残滓たる拷問技術者とその娘の11年間だ。キム・ヨンス『ワンダーボーイ』が描いた時間は1980年から1987年まで、拷問の時代まっただ中だ。光州民衆抗争を鎮圧し権力を握った全斗煥から盧泰愚と続く軍事ファッショ政権によって自由な意思表示が禁止された時代、反政府的言動をすれば北朝鮮のスパイと断じられ、拷問によって口を割らされる(捏造される)時代だ。そして1987年の6月民衆抗争によって韓国社会が民主主義を勝ち取る端緒についた年までの7年間、孤児となった少年の成長の記録は韓国社会の希望への変遷史でもある。因みに翻訳者は著者のあとがきを〈時代背景にとらわれずに読んでいただきたい〉と解釈したようだが、時代を変えたら別の作品になっていただろう。
 1980年台を振り返って見ると、国は違ってもぼくもそれなりに走り抜けていた。李恢成や張赫宙について書き、山代巴や在日朝鮮人文学の読書会に参加し、朝鮮語の学習グループにもいた。1982年、83年、85年に韓国を旅し、作家李東哲や映画監督李長鎬に会った。10年に渡る文学同人雑誌を始め、地元の住民運動にも参加した。あの頃の若いぼくにワンダーボーイ=キム・ジョンフンのような共感と同調の能力があったなら、その後の10年に別の形の個人史が築けたかも知れない。
 閑話休題
 小説は主人公への問いなのか読者への謎なのか不明のまま質問していく。誠実な読者は立ち止まり頭を悩ませながら読み進めなければならない。ひ弱な主人公の超然に読者は身をひきながらも共感するのだろう。
〈あの子は人の苦しみをすべて理解して、それをそのまま人に伝えられる能力がある〉
 ジョンフンは男装の麗人カントたちの助けを借りて、父や生まれてすぐ死んだと聞かされていた母の実像を知っていく。背景に朝鮮の分断という民族的課題も見え隠れする。カントであるヒソンも時代の犠牲者であり、大きな傷みを抱えて生きている。ジョンフンの人の心を読む超能力は失われていたが、ジョンフンが獲得していった真理は小さくはない。ジョンフンは、自分の時間と他人の時間の流れがそれぞれ違うことを知っていたし、わかり合えないとしても、独りでは決して自由になれない、ということももう理解していた。
 人間はどんな大きな苦しみを持っていても、それをそのまま人に伝えることはできない。苦しみさへ伝わらないのだ。言葉など伝わるわけもない。心に思った表層の言葉を「超能力」で読めたとしてもその奥深く沈んだ真実の言葉の理解にはほど遠い。われわれは伝わらない言葉を必死になって伝えようと努力する。発した本人さえ充分に分かっていない言葉を表現しようとする、その努力が文学なのかも知れない。まあそう考えれば一寸ヘボい日本語訳も一興に思えなくも無いかな。
 김연수キム・ヨンスは韓国では人気作家だ。こうした質の高い文学作品が大衆的に評価されるところに韓国社会の知的センスの高さが窺える。本作が単著翻訳としては2冊目、もう一冊『世界の果て、彼女』(CUON)がある。なお愚銀のブログでは『波が海の業ならば』についても紹介している。これも翻訳出版が待たれる。

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