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2016年6月 6日 (月)

千雲寧『生姜(センガン)』

歴史の傷痕は人間の心に刻み込まれる
千雲寧(チョンウニョン)『生姜(センガン)』 橋下智保訳 新幹社

Photo 韓国ソウル市の再開発事業に伴い、西大門刑務所の向かいに存在する옥바라지골목(okbaraji kolmok)=「差し入れ横町」の解体が進んでいる。
 韓国ソウルの西大門刑務所博物館は、朝鮮独立運動弾圧の象徴としてかつての刑務所をそのまま博物館として遺した場所で、韓国の青少年や日本人旅行者に対する歴史教育の役割を果たしている。しかし西大門刑務所に収監されたのは独立運動家だけではなかった。李承晩─朴正煕─全斗煥と続く反共軍事独裁政権に抵抗する民主化運動に参加した多くもここで苦汁を嘗めさせられた。その多くが拷問によってでっちあげられた「罪状」によってだ。
 「差し入れ横町」は収監された人々を支援する名も知れぬ市井の人民のための旅館などが集まった場所だ。中野重治が詩「その人たち」で表したような運動家を支える庶民の横町だ。独立運動や民主主義のために闘った人々を支える抵抗の痕跡を消し去ろうとするなら、それは蛮行と呼ぶべきだ。(韓国の新聞ハンギョレ掲載の藤井たけし氏のコラムを参照されたい。http://www.hani.co.kr/arti/opinion/editorial/732467.html
 ファシズムを含む全体主義政権下では、多くの抵抗者たちが拷問によって自白を強要された。戦前のプロレタリア作家小林多喜二の拷問死は、アベ政権下の日本では心ある作家の将来を憂えさせる。韓国のファッショ政権による拷問の様子は、自らの経験をルポした徐勝『獄中19年』(岩波新書)には淡々と書かれた。小説では趙廷來『太白山脈』や金石範『過去からの行進』などにも描かれたし、映画「ペパーミントキャンディ」や「大統領の理髪師」などにも拷問シーンが登場する。
 これらの中で拷問者を葛藤する一人の人間として表出したのは、光州事件を背景とした「ペパーミントキャンディ」ぐらいだ。ましてその家族の煩悶を描いた作品など寡聞にして知らない。(『生姜』に触発されて作ったというチョン・ジヨン監督「南営洞1985」は当然拷問による人間破壊が主題となっている。)
 千雲寧の『生姜(センガン)』は、ファッショ政権下で拷問を手段に民主活動家や、何の関係もない市民を「北」のスパイにでっちあげてきた男と、彼を尊敬していた高校を卒業したばかりの娘の物語だ。
 全斗煥政権に反対した者を徹底的に弾圧してきた男「安」も政権の終焉とともに凋落し逃亡しなければならなくなる。男は行き場を失い自宅の屋根裏部屋に隠れる。男の上司も部下も彼を庇う余裕を持っていない。
 娘「ソニ」は意気揚々と大学に通いはじめるが、そこでできた人間関係によって父親に保護されてきたこれまでの生活を見直さざるを得なくなる。やがて自分の父親が社会の嫌われ者で、多くの市民を虐待した犯罪者として追われていると知る。拷問技術者として悪名を轟かせた男と、まだ純情だった娘の従属と反駁の11年が、屋根裏部屋の床板である娘の部屋の天井板一枚を挟んで過ぎて行く。
 大学を中退し人気のポップソングが流れるヘアサロンで働いていたソニは、母が経営していた昔ながらの美容室で客を待つようになる。古い独裁政治の時代と新しい民主主義の時代は板一枚を隔ててせめぎ合っている。ソニは古い時代に従属しながら、そこから逃れようと足掻いているのだ。
 自己保身を正義と信じる安の姿は、ハン・ガンの小説『菜食主義者』の父親を彷彿させる。彼はベトナムでの勇ましい虐殺を誇って家父長としての自己を保っている。あるいは日本人にとっては靖国神社だ。軍国主義の亡霊を祀って心安んじるのは、その時代に死んでいった人々ではなく、軍国主義に従属し続ける人々だ。『生姜』のエピローグ、母親のアカを呪う言葉は、分裂する韓国の保守派のボヤキであり、現代日本においては反動政権に従属して軍国主義復活のオコボレを狙う「保守派市民」の声に聞こえる。
 韓国の民主主義は韓国の人民が幾多の犠牲を払って闘いとったものだが、それでも民主主義を守りぬく継続した抵抗が維持されなければ、差し入れ横町はただ取り壊され、歴史は無かったものとして葬りさらえてしまうだろう。しかし開発行政が反植民地、反独裁の痕跡を塗り潰したとしても、文学には深い傷痕として永遠に残される。

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