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2016年5月に作成された記事

2016年5月28日 (土)

津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』

「大切なものを収める家」としての文学
    ──津島佑子『ジャッカ・ドフニ』集英社

Photo 津島佑子の遺作『ジャッカ・ドフニ』は、和人に犯されて出産したアイヌ女性の子どもの物語であり、日本の前近代史が日本人を形成していく過程で起きたアイヌ迫害という過ちが背景に描かれている。しかしこの小説は日本の近代史がそうしたように、限られた範囲にアイヌの生死を閉じ込めたものではない。これは一人のアイヌ女性の生涯を東アジアの歴史に追った壮大な虚構だ。物語は17世紀初頭を時間的トポスとし、マツマエからツガル~ナガサキを経てマカウ、バタビアへと場を移していく。つまり読者は主人公の少女とともに、北海道から九州を経て中国から更にインドネシアまで広がる旅を経験する。登場人物の中にはイスパニアまでも辿り着く者もあり、閉ざされたイメージのアイヌの可能性を大胆に押し広げて見せた。
 この小説はしかし小説の構造も展開もそう単純ではない。小説は二重構造になっていて、全体としては近世として設定されているが、もう一つの時間である現代は二人称の「あなた」の物語として過去の記憶へ向かって進む。しかしこちらは骨のような神経のような役割を持っていて作者の個人史を思わせながら、その魂の揺らぎはもちろん読者に対する問いかけになっている。津島の作品の特徴とも言えるシングルマザーが「あなた」として語られるが、あなたは息子を失った傷みを抱えながら原発事故から逃れるようにシレトコを旅する。あなたは放射能から逃れるかのようにアイヌモシリを旅し、アイヌやウィルタなどの少数民族への共感を確認している。
 一方、16世紀末アイヌと和人のあいのことして生まれた幼いチカップは軽業師の親方に売られるなどの苦難を経てキリシタンのパードレ(神父)に救われ、隠れキリシタンの一行と同行する。チカップはチカと呼ばれ、兄と慕うジュリアンの想像力によってアイヌとしての自覚を呼び起こしていく。そして美しいアイヌの歌を口ずさむまでになる。
 ジュリアンはマカウでの勉強でパードレになるという目的を持っている。キリシタン一行は激しい迫害から逃れて海を渡る。キリシタンは日本人であっても被迫害マイノリティである。キリシタンに対する普通のニホンジンの憎しみをジュリアンたちは理解できない。理解しないという抵抗が描かれる。一方的に襲いかかってくる暴力の醜さは、屈辱であり人間が崩れ落ちる怖さなのだ。
 一行には子どもの頃チョウセンから連れてこられたペテロがいて、マカウでのチカの助けになる。秀吉の朝鮮出兵の残像がペテロに照射されている。その他にもマカウやバタビアでは混血の人々が多数登場するのが印象的だ。津島佑子の他の小説例えば『ヤマネコドーム』と同じように、単一人種幻想を打ち捨てたハイブリッド感覚が表出される。
 津島文学は男尊女卑的家制度に対する抵抗、単一民族幻想に対する批判を根幹にしている。成長したチカの自由な生き方にはその両方が表れている。届くかどうか分からないジュリアンへの3通の手紙は文学の根源的な形を見せ、途中に挟まれる代筆者の言葉こそ文学評論の譬えなのだろう。この作品自体がジャッカ・ドフニ=大切なものを収める家としての役割を果たしている。これを叙事詩と呼んで差し支えないと信じる。

 筆者はアイヌの文化や文学に関して無知だが、16年前の5月、韓国の都市光州から近い智異山の宿舎の一室で上西晴治の『十勝平野』(筑摩書房)を薦められたことがある。薦めてくれたのは哲学者・住民運動家で北海道大学教員経験のあるH氏だ。『十勝平野』は騙され続け奪われ続けたアイヌ民族の来歴を徳川時代から戦後までに渡って描いた壮大な歴史ドラマであり、アイヌ現代文学の金字塔と言える。また、岡和田晃編『向井豊昭傑作集 飛ぶくしゃみ』(未來社)には「うた詠み」「耳のない独唱」などアイヌをモチーフとした小説が収録されている。参照されたい。

2016年5月11日 (水)

崔実「ジニのパズル」

繊細で壮絶な抵抗
  ──崔実「ジニのパズル」(『群像』6月)第59回群像新人文学賞受賞作

 崔実(チェ・シル)「ジニのパズル」は「当たり前のこと」にされていることに異議を唱える小説だ。主人公のジニはどこにあっても異分子だ。
 ジニはオレゴン州の高校に留学しているが退学しかかっている。学校生活になじめないジニはマギーとだけは親しく話す。マギーはジニのただ一人の友だち。マギーとの会話は筆談だ。おそらくマギーは聾唖者なのだろう。ここに作者の言語との格闘の真摯が窺われる。読み書き話すことは自明ではない、という当たり前の前提を作家は提出している。
 しかしこの小説は岩城ケイ『さよならオレンジ』のような、外国に行った日本人が言語を獲得する過程で人生を再確認するといったドラマではない。なぜならジニは在日朝鮮人なのだ。ジニは東京、ハワイ、オレゴンと漂流するが、日本語を母語とする〈日本生まれの韓国人〉として実存する。母方の祖父は北朝鮮に「帰国」している。小学校までは〈日本学校〉に通っていたが、ある決意をして中学から朝鮮学校に通う。1998年のことだ。長野オリンピックが開催され、サッカーワールドカップフランス大会に日本代表が初参戦した年。新しい歴史教科書を作る会が日本の戦争犯罪を隠蔽した戦前回帰の教科書を作ろうとして、所謂自由主義史観という日本主義的言説がもてはやされていた。北朝鮮のミサイル発射訓練をネタに在日朝鮮人にたいするヘイトや暴言が広まっていた。戦後民主勢力の一翼を担った社会党はとうに壊滅し後継の社会民主党も分裂、民主党が結成された。日本社会の右傾化は目に見えていた。
 街頭では右翼の宣伝カーが「朝鮮人は、出ていけー。朝鮮人は国へ帰れー」とがなり立てている。そんな時代にジニは育ちチマ・チョゴリと呼ばれる民族衣装で通学する朝鮮学校に入学したのだ。「在日韓国人」と言っても朝鮮語は殆ど分からない。まるで異文化の教室にジニは神経を尖らせて、猫が毛を逆立てるように入って行く。朝鮮学校の生徒たちのなかには敵意を剥き出しにする者もいるが親切に接してくれる友もいて、先生もまたジニが学校に溶け込めるように配慮している。クラスの授業をとうぶんのあいだ日本語で進めてもくれる。
 しかし北朝鮮バッシングと在日ヘイトのうねりの中で、ジニは自己の存在に嫌悪を抱き始める。黄英治『前夜』では在日でありながらヘイト団体に加わる共田浩規の重い役回りを、崔実はまだ幼い少女に負わせた。社会の現実はジニが思うより過酷だ。成長とともに少しずつ見えてくる恐怖に立ち向かうにはジニは幼すぎた。壊された魂は朝鮮学校の友人たちや職員に向かわざるを得ない。ジニの生は優しい親切な友の心を傷つけることでしか確認できなかった。こんな残酷な小説が書かれるのは、この日本が腐敗しているからに外ならない。ジニの魂の恢復がアメリカでなされようとする展開に納得しつつ悄然とする。納得の部分は、小説では描かれない背景にもう一つの言語(英語)との闘いが潜んでいる筈だからだ。
 日本人であることが自明であると、何も疑うことのない足枷を我々は塡められている。日本人であるから日本語が喋れると思い込んでいる。しかしインターネット上には理解しがたい「日本語」が溢れている。日本人であることにしがみついて他者ヘイトを繰り返している人々の日本語リテラシーの低さは度し難い。朝鮮学校の生徒・学生たちははっきり意識して朝鮮人になろうとしている。これが民族教育だ。努力せず、せいぜい戦前の大日本帝国への回帰しか念頭にない自称「右翼」は恥を知るべし。
 朝鮮学校を描いた小説は今までにもあった。姜一生『私の学校』(1982年 同時代社)や權載玉『青春教師』(1995年 朝鮮青年社)は繊細で毀れやすいが希望に満ちた民族教育を教師の立場から描いた。金城一紀『GO』(2000年 講談社)の主人公も在日で、朝鮮高校に通う学生たちが登場する。これは映画にもなった。映画では「パッチギ!」が有名だ。どちらもエンターテインメントで面白おかしく在日の青春を表現した。
 しかし、「ジニのパズル」ほど切なく厳しい朝鮮学校の青春を描いた作品があっただろうか。そこには一色に染まらない多様さへの希求がうっすらと見えてくる。単一民族幻想に染まった「島国」での生きがたさは打破されなければならない。魂を揺さぶる繊細な文体の裏側に読者が読み取るべきものは少なくない。

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