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2015年8月30日 (日)

尹在賢『ある独立運動家の祖国』 나남

朝鮮学徒志願兵の抗日闘争

 張俊河の『石枕(トルペゲ)(日本語訳 安宇植訳 サイマル出版会 1976年)に次のくだりがある。

   わたしは『ともしび』に収録された短篇小説がたいへん好きだった。これはいっしょに編集を担当している尹在賢同志の作品だった。日本で同志社大学に学んだころ、文学を志した同志だったから作品のほうも驚くくらいよい出来栄えだった。

 張俊河は解放後の韓国において雑誌『思想界』を発行した出版人として、また朴正煕軍事独裁政権に異を唱える民主主義運動家として知られたが、独裁政権によって逮捕され身体を壊して保釈中に「不慮の事故」で死亡した。『石枕』は張が学徒志願兵として日本軍に入隊し、脱走して金九が率いる大韓民国臨時政府のある重慶を経て祖国を目指す行程を描いている。日本帝国主義時代の抗日運動を描いたノンフィクションとしてあまりにも有名だ。
 『ともしび』というのは、張俊河らが、1944年安徽省臨泉の中国中央軍官学校臨泉分校韓国光復軍班で80名の同志と共に訓練を受けていた頃に発行した手書きの雑誌だ。仙画紙に手書きの貧しい雑誌を2冊作って回覧した。その時張俊河、金俊燁と共に編集に携わったのが尹在賢だった。張俊河が言う短編小説が残っていれば、解放前の1944年に朝鮮語で書かれた小説としては希有なものだ。当時、朝鮮語は禁止され日本語の常用が義務づけられていた。作家たちも日本語で書いたし、でなければペンを折るしかなかった。
Photo 尹在賢は韓国でも最近まで殆ど知られない作家だった。昨年甥である大学教授金賢柱によって編集された『ある独立運動家の祖国』の発行までは、無名な独立運動家で作家だった。この本には生前の尹が遺した3冊の本『我が臨時政府』『死線を彷徨い』『凍土の青春』がまとめられた。『凍土の青春』については以前に紹介した。
 『我が臨時政府』は大韓民国臨時政府の成り立ちと正当性を説いたパンフレットのようなものだ。1945年11月にようやく帰還した著者がただちに執筆し翌年発行した。三・一運動に起因して成立した亡命政府である大韓民国臨時政府と光復軍の歴史と価値について記された。末尾に金九による「臨時政府当面の政策」が掲載されている。
 『死線を彷徨い』は学兵脱出から帰還までの自伝的ルポルタージュ即ち体験記だ。1946年に執筆は完成しているが発行されたのは1948年。金賢柱の解題によると、光復節と大韓民国政府成立に合わせた発行になった。志願とされながら実は強制だった学徒兵の実態と、植民地の学生である作者自身の如何ともしがたい心情が描かれた。尹在賢はソウルの龍山(ヨンサン)第25部隊に入隊し日本兵となり、中国の戦線へ汽車で向かう。山海関で水を汲みに出たときをはじめ、脱走の誘惑と躊躇が繰り返される。同行した学徒兵たちは天津-済南-徐州-貴徳と移動しながら次々と配属され、拓城というところから著者を含む6名が淮陽まで徒歩で進むことになる。
 著者は前線である淮陽に配属されて訓練を受ける。訓練には生きた中国人を銃剣で刺すようなものもあり、日本軍の実態が見られる。著者は友人のキム・チュンジョンとともに、この淮陽の兵舎の下水溝をくぐり、淮陽城の城壁と壕を越えて脱出した。中国人歩哨に日本語で怒鳴って正門を出て行く体験や、逃亡中の渡河場面などは後の日本語小説『凍土の青春』に生かされている。
 無事日本軍から逃げおおせたと思ったら、中国軍に捕獲され縄で縛られ囚人扱いで長い移動が始まる。絶望的状況にうちひしがれる様子は痛々しいが、安徽省臨泉で11名の朝鮮人に出会った喜びは計り知れない。彼らの殆ども学徒兵として徴兵され脱出していた。その臨泉は中国第一戦区の捕虜収容所だったが、朝鮮人兵らは捕虜扱いされなかった。その後も朝鮮人脱出兵は増え30名くらいになった頃、第一戦区幹部訓練団内韓国光復軍班として訓練所に入った。
 ところで、日本人捕虜についての記述も少しだが出てくる。豚小屋のような所に収容され惨めだったようだ。中国軍に捕まった日本軍捕虜に関する史料は少ないのではないだろうか?
 臨泉での体験は張俊河『石枕』の記述と重複するところも多い。しかも『石枕』のほうが詳しい。『石枕』によると中国中央軍軍官候補生たちの訓練が凜々しいものだったのに比べ、光復軍のは銃に手を触れることのない中学の教練のような駆け足・整列などだった。尹はこう書いている。

  夢にまで見た光復軍になれたことはこの上なく嬉しかったが、臨泉で過ごす時間は暇で退屈だった。中国軍官学校正式訓練とは異なり我々には簡単な制式的訓練がすべてだった。時間を有意義に使うために、我々だけで雑誌を作ったらどうだろうかと、私が提案すると数名の同僚が名乗り出た。雑誌のタイトルは「ともしび」と決めて、各自専攻分野の内容を載せ、詩、小説、随筆などを集めて雑誌を発行したのは感激だった。雑誌を作ろうと忙しく働いたので時間はそれなりに流れ、臨泉に到着してすでに4月が過ぎ、11月になった。

 『ともしび』については冒頭の引用で説明した。張俊河は尹在賢の小説を高く評価している。その後、朝鮮人学兵一行は重慶へ向かう。そこには金九率いる大韓民国臨時政府があった。尹在賢は日本軍の兵営を脱出して8ヶ月後、ようやく目的地に到達した。
 ここで彼らは独立戦争への参加を宣言し、熱烈な歓迎会を催された。〈その日その場に集まった眼の色も皮膚の色も異なる世界各国の人々が自由の旗の下、一つにまとまったのだった。〉実際に中国、アメリカ、朝鮮の他にどの国の人が集まったのかは書かれていない。しかし『石枕』によると米英をはじめ連合国側の相当数の人々(軍人だけでなくマスコミや医師なども)が重慶に滞在したことが分かる。
 しかし彼ら光復軍が朝鮮に進軍する前に日本軍は降伏してしまう。ルポ『死線を彷徨い』は戦後最も早く書かれた朝鮮人学徒兵、光復軍、臨時政府などに関わる貴重な証言である。私は大韓民国の成立が必ずしも民族独立を果たしたものとは考えていない。しかし、日本の植民地支配に対して朝鮮民族が何ら抵抗せず、アメリカとソ連によって作られた国家は戦勝国ではない、といった一面的な論調には同意できない。「死線を彷徨い」は朝鮮民族の抵抗の貴重な報告として読むことができる。後に書かれた『石枕』が『死線を彷徨い』を参考にしたであろうことは想像に難くない。
 また、ルポ『死線を彷徨い』は解放後最初期の文学作品としても評価されるべきだろう。尹在賢はこれだけの文学的才能を持ちながら、1948年アメリカに留学、生物学を学び遺伝子学の研究者として成功する。その後は、1979年に日本語小説『凍土の青春』を発行するまで、尹の文学は世に出なかった。

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