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2014年11月21日 (金)

武士道

左翼が考える「武士道」

 小沢信男『通り過ぎた人々』(みすず書房)に、こんなことが書かれている。

   じつは新日本文学会は、入ってみたらやや剣道場のおもむきがあった。すきあらばいきなり、お面! と打ちこまれたり、居心地がわるいったらないが、同時にこの板の間では、有段者も新参も対等に向きあうことが、どうやら基本の姿勢とされていた。

 新日本文学会と言えば、人呼んで「左翼文学団体」であった。左翼文学団体を評するに剣道を以て譬えるとは、剣道=右翼、武士道──国家に対する忠節という印象を覆す。小沢信男には具体的イメージがあったようだ。アナキズム詩人寺島珠雄について次のように書いている。

   寺島珠雄の父は剣士だった。警察署の武道主任を多年つとめて、念願の道場を建てた。珠雄も幼年剣士として育った。警察官の子にしては、不孝者の見本みたいな青春だったが。
   あるとき氏から聞いた。親父は山岡鉄舟の流派だった、と。さては剣禅一如の無刀流。寺島珠雄は、無刀流のアナキストであったのか!

 と読んでも無刀流はおろか剣道が分からない。武士道も分からない。考えたことがないのだ。たしか高橋三千綱の『九月の空』が剣道にうちこむ少年の話だったようだが、まったく覚えていない。わが埼玉文学学校代表の野川義秋にも剣道少年ものがあった気がするが失念した。
 映画「武士道シックスティーン」で、主人公の一人磯山香織の愛読書は宮本武蔵『五輪書』だった。香織は勝負にこだわり、もう一人の主人公早苗は剣道を楽しむ。香織になった成海璃子は相当作り上げていて好感が持てたが、(原作と比べると)いかんせんもう一回りごっついと良かった。早苗の北乃きいはぴったりと言えば言えるが、こちらも逞しさが足りなすぎた。第一剣道のシーンが迫力不足だ。
 原作は誉田哲也『武士道シックスティーン』だが、これには続編として『武士道セブンティーン』『武士道エイティーン』がある。映画と原作は若干設定が違う。
 原作に依ると、香織の父親も寺島珠雄の父同様に警察で剣道を教えている。香織は武士道を極めようとしていて、愛読書は『五輪書』と新渡戸稲造『武士道』だ。『五輪書』と『武士道』では内容がまったく違うから、香織は読解に苦しんだろう。(因みにシリーズ最後の『武士道ジェネレーション』は登場人物の設定をメチャクチャにして、アベノミクスとネトウヨ需要に迎合したストーリーになっていて評判悪い。)
 さて、武士道と一口に言っても、時代や立場によって千差万別だ。武士道を語るときに引き合いに出されるいくつかの古典、『甲陽軍鑑』は16世紀後半、『五輪書』は17世紀半ば、『葉隠』江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた。殆ど共通点はなく、前近代の武士道は体系だった思想ではなかった。「武士道」という言葉が一般的になったのは、新渡戸稲造が英語で書いた『Bushido: The Soul of Japan』(1900年)が欧米で話題になり、後に日本語訳が出版されてから以降だろう。
 良く分からないので武士道の解説書として読みやすそうなものを探したら、NHKの山本博文『100分de名著 武士道』が見つかった。kindle版があるので老眼でも読みやすい。
 新渡戸は日本人の倫理感の高さを武士道をモデルとして国際社会に紹介した。なぜ百姓魂でも、町人精神でもなかったのか? 第一に新渡戸自身が武士階級の出身だからだ。第二には、それが支配階級の思想だったからである。(これは私の感想であって『100分de名著』に書かれている訳ではない)新渡戸稲造は、支配階級の支配者ならではの義務を伴った倫理観を武士道に求めた。そしてこの封建社会で芽生えた思想を国民社会の倫理観として欧米に紹介したのだ。
 新渡戸稲造の考えた武士道とは、まずその定義として〈武士が支配階級にある者としての責任を自覚した上で、身につけ守らなければならない教え〉としている。
 また、武士が身につけるべき徳目は以下。
義=卑怯や不正を憎む心性
勇=正しいことのために行為をなすこと
仁=弱者、劣者、敗者に対する思いやり
礼=他人の気持ちを思いやり、社会的地位に敬意を払うこと
信=嘘やごまかしをすることなく、口に出したことは命をかけて守る心構え
名誉=人格の尊厳と価値についての積極的な自覚
忠=目上の者に対する服従と忠実
智=単なる知識ではない叡智
 これらの徳の最上位に「忠」がおかれる。ただし、主君への諂(へつら)いや追従ではなく、時には命を捨てて主君を窘めなければならない。
 また武士は金儲けを卑しんだということが強調されているそうだ。だから経営者を「武士」と呼ぶことはできない。「武士の家計簿」などは武士道とはかけ離れた恥ずべき姿だ。在特会やネトウヨの輩と正反対の精神のありようだ。他者を貶めて金儲けしようという品性下劣な人間と、武士道とはどうやら無関係のようで、なんとなく安心した。
 ところで新渡戸は、武士道は当初はエリートの栄光だったが、やがて国民全体のあこがれとなったと、武士道と大和魂を同一視した。首都を東京に置く近代民族国家の統一精神を武士道とするのは分かるような気もするが、=大和魂には納得いかない。武蔵魂ではいけなかったのは、天皇制との関係だろうが、無理矢理纏めた感は否めない。
 武士道オーケー。切腹はいやだが、武士道を日本精神のありようと右翼の方々が考えるならば、そこには拍手を送りたい。高潔で高邁な美しい心のあり方だ。
 さきの『通り過ぎた人々』でアナキスト詩人秋山清の言葉が引かれている。

  詩をかくというくらいのことを詩人の資格などとはさらさら思わない。詩人とは、われをつらぬいて生きそして死ぬ者、とかたく思い込むようになった。

 武士だね~!! 

                             NHK 山本博文『100分de名著 武士道』
                             小沢信男『通り過ぎた人々』(みすず書房)

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