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2014年4月15日 (火)

岩城けい『さよなら、オレンジ』筑摩書房

Main言葉を得ることの意味に涙する

  言葉を覚えていくこと、話すこと、読むこと、書くこと、そうした言語習得の意味を、私たちはこれほどまで心に滲ませることはない。
 小説の構成は重層的にできている。一人の主人公はサリマ。彼女は戦火のアフリカから逃れて、英語圏の「大きな島であるらしい」ところに難民として受け入れられた。サリマの夫はある日出て行ったきり帰って来ない。サリマはシングルマザーとして二人の息子を育てるために、スーパーマーケットで肉や魚を捌くかたわら、職業訓練学校で英語を学んでいる。
 職場には同胞がたくさんいたが、学校には一人もいない。金髪のスカンジナビア系の女の子たち、オリーブ色の肌のイタリア人、黒髪だけどハリネズミみたいな直毛のアジアの女など、女ばかりのクラスに週2回通った。英語ができないと、社会生活に困るだけでなく、夫に「女はバカだ」と言われ続けたように、息子たちにもバカにされる。〈この尖った言葉をきれいに捌いてやろう〉そう思ったのだ。
 
サリマは母語の教育も受けていない状態で、第二言語を習得しようという苦労をしなければならなかった。しかし彼女はここで真実の友を得ることになる。
 
そして息子たちの学校のゲストスピーカーとして、次男のクラスで故郷について、拙い英語で話すことになる。

 明日、サリマは紐で綴じた、小さな綴り方にいままでの自分を閉じ込めて息子に贈る。二年ものあいだ生きる手段として習った外国語、今や彼の母語となったこの言葉を聞き、話し、読み、そして綴じるのにどれほど忍耐と努力を求められたことか。あたしはこの言葉で彼に与え、彼のために闘う。

 都会に行ったきり帰らぬ夫に長男を連れて行かれたが、次男はサリマのもとに残った。サリマが言葉と同時に勝ち取ったものは、息子のほかにもいろいろある。職場での立場、友だち、家庭、自尊心などなど。サリマは✕✕で〇〇を手に入れる」という法則に身をゆだねたくない、支配されたくない。
 
小説のもう一つの層は、この小説を書いている「私」(Sayuri Ito)がジョーンズ先生に書いている手紙として表出される。「私」はサリマを主人公とした小説の中では「ハリネズミ」として登場する。「サリマ」は「私」の手紙のなかでは「ナキチ」だ。
 私はナキチと同じクラスで英語を学ぶとはいえ、祖国で大学を卒業していて、夫は大学の教員で応用言語の研究者らしい。乳飲み子を負ぶってクラスで英語を学び、ナキチやイタリア人のパオラらと出会う。やがて私は教室を離れ、大学で学ぶことになるが、託児所に預けていた子どもを事故で亡くしてしまい、自分を責める。そして職業訓練学校の英語教室に戻り、ナキチが勤めるスーパーマーケットの生鮮食料の加工所で働き始める。
 私を慰めるのは、まるで英語の出来なかったナキチや、フラット(狭い集合住宅らしい)の下に住むトラック運転手の言葉だ。私は、ナキチの書いた恐ろしく稚拙な文章に感激し、トラッキーの本の感想に心驚かされる。
 
トラッキーは逮捕歴のある大男で、上半身全体に入れ墨がある。3週に一度帰ってくると、息子が読んでいた児童書を私に読んで貰う。

文字が読めなかったり、牢屋に入ったり、家族に恵まれなかったりと、この社会の物差しの標準に満たない人ですが、一冊の児童文学からどんな書評にも負けないこんな深い哲学を語ることができるのですから。

私は彼を孤独の中に学ぶ人と思っている。
 
読んだり書いたり話したりすることの意味が一つのテーマとなっている。ナキチは生きて息子を守るために英語を学び、彼に故郷を伝えるために英語で書いた。トラッキーは息子の感動を理解するために私に読んで貰った。
 
私は〈拙いながらも書くという出力の行為にすがり、心という土壌に言葉の森を育てることをいつの日にか実現させてみたいです。〉と思っている。
 そのために、〈私の大切な友だちのことを書こう、書かなければならない。〉主人公の名前は、ナキチの戦火で生き別れになった母の名「サリマ」とする。
 第2言語習得の過程で母語に対する無知を知り畏れを抱く、そういった経験は作者だけのものではない普遍的価値だ。作者は日本語(母語)で書くことにおののきながら、英語で書くことで破壊し組み立て直した思考回路によって、自分の言葉で書くことを選んだ。彼女にとって大切な友だちを描くことと、自分の言語で書く自分を同時に描いて見せた。
 
言語習得の困難は同時に人生の困難なのだと分からせられた。

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