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2014年3月 5日 (水)

小山田浩子『穴』 kindle版 

見えない風景に導く獣

 

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小山田浩子の芥川賞受賞作「穴」の風景描写はよく出来ている。「工場」など一定の評価を受けたそのほかの作品と比べると際立っている。主人公の感性の表現を、「工場」のように独白で進行するのではなく、心象風景の描写で辿っているからだ。
 若い主婦松浦あさひは夫の転勤にともなって、仕事を辞め、夫の実家に隣接する実家の持ち家に引っ越してきた。〈引っ越し当日は大雨だった。〉
 隣に棲むのは姑・舅・義祖父の三人で、社交的な姑は勤めにでている。舅は殆ど家にいないので、あさひと顔を合わせる機会は少ない。義祖父は毎日庭に水をやっている。
 あさひは事なかれ主義とまではいかないまでも、事を荒立てることを嫌う気質で、姑から預かった振り込み代金が足りなくっても黙っている。夫の実家の持ち家なので家賃がただだということもある。家賃がなくなったことと、毎日深夜まで働く夫の給与が増えたことを考慮すると、いままで働いてきた非正規の安い給与の意味が空しく感じられる。
 姑の用事でコンビニに向かうあさひ。〈樹木は静止していたし、どの家の窓も閉め切られていた。路上に歩く人はおろか犬も猫も、飛ぶ雀、カラス一匹もいなかった。〉炎天下、蝉のうるさい川沿いの遊歩道を行くと、視線の先に黒い獣が歩いていた。
 この小説には見ようとしなければ見えないものがたくさん出てくる。例えば、謎の黒い獣がそうであり、あさひはその巣であるらしい穴に落ちてしまう。また、実家の別棟に棲む夫の兄を名乗る男のことを、夫や姑たちの口から聞いたことがない。夫の兄を「先生」と慕う河原で遊ぶ子どもたちの姿も、実のところ曖昧な存在だ。
 主人公は謎の獣の後をつけて行くうちに、これらの異次元かも知れない世界に入っていく。しかし、どっちが表でどっちが裏かは分からない。真実の社会は隠されているのかも知れない。なぜなら、義兄の存在や、雨の日でも庭に水をまく義祖父の姿。明るく元気でてきぱき働く姑も、あさひから見れば異常な点がままある。これらは表側からしか見なければ、(例えば夫には)分からない。実存はいつも目隠しされているのだ。
 謎の動物は「工場」にも登場する。工場と言っても町工場のイメージではない。敷地の中に大河が横たわり、バスが走り、住宅街やスーパー、レストラン、郵便局、美術館まである。また山も森も広がり神社もある大きな都市なのだ。冒頭で印刷課が出てくるので印刷会社と思いきや、どうやら社内印刷物を製作している、全体からするとほんの一部であるようだ。印刷課分室にはシュレッダーが14台も並んでいて、エプロンをした数名の従業員が就業時間中ヤレ紙を粉砕し続けている。文書校正の部署もある。印刷部門の規模だけでも巨大だ。
 この工場に出没する動物はまず、「工場ウ」。ウミウでもカワウでもない、工場だけに生息するウだ。遠くへ飛ぶことはない。洗濯機とかげはクリーニング工場という狭い限られた空間を分け合って、激しい生存競争のなか、運のいい子供だけが生き抜き子孫を残す。森に棲む巨大なヌートリアだけは実在の帰化動物だ。
 これらの動物はどうやら工場で働く人々の運命のようでもあり、真実の姿のようでもある。この小説は複数の登場人物たちの視点で描かれる。大学の研究室から工場への就職が紹介され、屋上緑化と苔の研究を課せられる男。シュレッダー操作を仕事とする女性。校正の仕事を与えられた男等。彼らは一様に一種の不安を抱えながらも、〈とりあえず毎日働く場が与えられたことにはほっと〉していた。
 最後の部分で、中年の女性社員に羽交い締めにされて連れて行かれる工場ウの姿に、アフラックのCMに出てくるブラックスワンが重なって見えたが、疑問符を投げかけるCMのブラックスワンと反対に、工業ウは文句なく働き捨てられていく哀れさの表象のように見えてしまう。
 〈労働に対して消極的な私が曲がりなりにも賃金を得ている〉状況は「いこぼれの虫」にも現れている。この小説では、ある優良企業のオフィスに勤務する人々の内面の声を集めている。仕事に異常に積極的な女性課長や、彼女を尊敬しているOLなども出てくるが、彼女らの声は語るほどに空虚だ。一方正社員でありながらどうやら精神と肉体のバランスを欠いた女性の方がリアルな存在感を持っている。
 小山田浩子の小説には、パートや派遣などに非正規雇用形態で働く労働者が度々登場する。こういったことも現実社会を反映しているのだろう。

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