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2012年9月18日 (火)

【書評】三浦しをん『神去なあなあ日常』

すごく面白いけどちょっと……

三浦しをん『神去(かむさり)なあなあ日常』

故針生一郎が埼玉文学学校の講義で三浦しをんの『神去なあなあ日常』を紹介してから数年経った。小説発行の20095月から、針生さんが亡くなった2010年5月までの間のはずだ。なかなか針生一郎が小説を「面白い」と言って紹介することはないような気がするので気に掛けていたが、その間読む機会がなかった。文庫になったと新聞広告に載っていたので早速購入した。

 抱腹絶倒。なるほど大衆小説というのはこういうものか? 主人公は横浜在住で、高校卒業後もフリーターを決め込むつもりでいた平野勇気くん。担任教師と親にはめられて三重県の山奥で林業修行をすることになる。物語は、勇気が誰にも見せる気はないが読者がいるふうを装ってパソコンに打ち込んでいるという設定で進んでいく。この主人公は人生に目標なんて持っていないが、少しばかり文学心を持っていて、人には見せられない「俺詩集」なるものを書いていた。その弱みを母親に握られたのがきっかけでケイタイの電波も届かない山奥に放り出されることになった。Photo

この小説の面白さは何と言っても「林業」。自然と調和しながら木を育てる職業の魅力が満載という点が第一だ。職業・職場小説というのは数多いが、厳しいながらも輝いている職業や職場を描いたとなると、芸能スポーツ以外では珍しい。

第二に、フリーター志望(?)の都会の若者がだんだん山の魅力にはまっていき、逞しく成長していく様子が爽やかなこと。主人公と共に読者も林業の魅力にとりつかれること間違いなし。

それに野生のように強靱なヨキや、村の長老で殆ど歩かない繁ばあちゃん、勇気が恋することになる直紀さん(男のような名前だが女)などの典型化された登場人物がマンガチックなところ。ヨキの飼い犬のノコ(女のような名だが雄)も重要な役割を果たしている。山火事のあと役に立てなかったノコが自信を失ってしまい、心配した人間たちが一芝居打つところなんか泣ける。イヌも仕事仲間の一員として認定されている感満載だ。

圧巻はオオヤマヅミ祭の木落し。山の神と村人との命をはった駆け引きといえようか。これは小説を読むべし。略して言えば、自然信仰を慣習として受け入れている村人の中に、横浜っ子の勇気が完全に受け入れられる儀式とも読めようか。

勇気は最初女の子がたくさんいる横浜に帰りたい気持ちが一杯だったのだが、ヨソモノ扱いから徐々に村人たちにも認められる存在になり、一年後にはこの村で生きる気持ちになっている。「仕事」や職場を扱った文学ってのは、その職場が魅力的だったとしても、仕事自体の魅力を描く例は少ない。

現代社会においては「働くこと」と「生きること」は対立する。否、働かなければ生きていけないのに、働くことは生きることを迫害して来る、表裏一体の関係なのだ。

たとえば、昨年末文學界新人賞をとった2作品の主人公はそれぞれサラリーマンだった。馳平啓樹「きんのじ」の主人公は、エンジン工場にやっと就職したが、業績悪化で総務からラインに回される。なれない仕事をつまらなく遂行していく主人公の姿は、勇気くんとは真逆である。結局会社は倒産していく。長期不況の現代を表象した作品とも言える。金融資本主義が醜く腐臭を漂わせて瓦解していく現代を巧みに描いているのだ。鈴木善徳「髪魚」に至っては、サラリーマンの虚しさを、大雨で氾濫した川辺で拾った老人の人魚に反映させて見せるほどに抽象化していた。

職場を書いた小説で好感が持てたのは、2006芥川賞受賞作品伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』(「文藝春秋」06.8)だった。自販機の詰め替えをやっているバイトの三十男佐藤と年上のベテランドライバーである女性水城が、詰め替えに回りながらやりとりする会話とバイト男の回想が筋だ。佐藤は映画の脚本家を夢みていたので、自販機の詰め替えは選んだ仕事ではない。挫折の果ての姿だ。『神去なあなあ日常』の勇気くんがフリーターになっていたらどうだったろ。生活かかってくれば深刻になるのだろう。

 三浦しをんに比較するなら、やはり津村記久子か。津村記久子作品の登場人物はよく働いている。『ポトスライムの舟』『十二月の窓辺』『君は永遠にそいつらより若い』『アレグリアとは仕事はできない』などの主人公たちは正社員、アルバイトの別はあるにしてもそれぞれ皆会社勤めしていて、働いているが故の矛盾を抱えている。そしてその矛盾に対して真っ正面から抵抗しようという姿勢を見せる。津村の作品には社会に対する批判精神が通底しているのだ。

 そう考えてみると、『神去なあなあ日常』には批判精神が足りないのではないかと、疑問符が浮かんでくる。

村人たちは、自分たちこそ自然と融和して生きていると信じているように思われるが、小説のなかでも語られているように、日本の山で人間の手が入っていない場所なんかない。つまり、彼らの「自然」や「信仰」は極論すると人工的なものだ。「林業」なんて明治以来の殖産興業が生み出した、古い資本主義の産業形体に過ぎない。高校を卒業したばかりで、まだ自分の足で立っていない勇気くんにそんなことを言っても無駄だから止める。ここでは、空虚な金融資本主義の価値観と対峙する、自然信仰に基づいた山村で働き生きる素晴らしさを感じさせる面白い小説と結論しておこう。

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コメント

先日は急の所要があって、文学学校の講座に行けず、失礼しました。
考えてみると、この類の小説ずっとを読んでいないことに思いあたりました。

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